WeRead Powered by ReaderPub
腕くらべ cover

腕くらべ

Chapter 25: 二十一 とりこみ
Open in WeRead

Explore more books like this:

About This Book

A man attending the theater unexpectedly meets a woman he had known years earlier as a young performer, and the encounter triggers a flood of memories about earlier amusements and shifting affections. The narrative traces their brief reunion amid a network of patrons, hostesses, and entertainers in urban pleasure quarters. Through episodic scenes in corridors, tea rooms, and small establishments, the story considers nostalgia, social maneuvering, and the transactional mix of fondness and convenience in adult relationships. The prose contrasts youthful innocence with later worldly calculation while quietly observing manners, money, and routine intimacy in city life.

二十一 とりこみ

 尾花家の姐さん十吉は既に今年の春輕くはあつたが腦溢血で出先の茶屋で倒れた事があつた。 それ以來好きな酒もぱつたり止め煙草も成りたけ吸はないやうにしてゐたのであるが、今日しも午後ひるすぎ二時といふお座敷に間に合ふやう髮を結つて歸つて來るといきなり電話口でばつたり倒れたなり人事不省、たゞ大きないびきをかくばかりとなつた。

 内箱のお定は丁度出先の茶屋待合へと勘定取に出步いてゐる最中、お酌二人は稽古に、花助はお參りに行つた後なので、家にゐたのは御飯焚のお重と駒代だけ、駒代も今日は新富座が千秋樂なので、そろ〳〵湯にでも行つて來やうかと鏡臺から鬘揚げを取出さうとした處へ、御飯焚が「誰か來て下さいよ」と大聲に呼び騷ぐのにびつくりして駈降るとこの始末。 駒代はうろ〳〵してゐるお重をば錢湯へ走らして吳山を迎ひにやり、醫者へ電話を掛け、倒れた十吉をば居間へ連れて行きたいにも一人ではどうする事も出來ないので、奧から搔卷かいまきを取出して介抱してゐる中吳山とお重が息せき歸つて來たので三人してやつと一先奧の居間へ寢かしつけた。 間もなく醫者が來ての診斷。 今日一晩經過を見なければ何とも返事が出來ない。 今のところ、なまじ病院なぞへ身體を動かしてはいけない。 唯靜にぢつと寢かして置くより仕樣がないと手當の次第を吳山に言含めて歸る。 やがて看護婦も來る。 出てゐた家のものも追々歸つて來て看病の手順もどうやら揃ひ、ほつと息をつく間もなく、今度はそれからそれと聞きつたへて見舞に來る藝者、藝者家の亭主、待合のおかみ、幇間、箱屋の面々、格子戶の開閉あけたて絕ゆる間なく、電話は鳴りづめの有樣、これでは大抵丈夫な人間も病氣になる程の混雜。 内箱は電話の取次にめしを食ふ暇もなく、駒代と花助は表の店口で見舞の人逹への應接にこれも煙草吸ふ暇もない程であつたが、いつか家中の電燈にあかりのつきめる頃になつて、見舞の人の出入は稍靜になつた。

「駒ちやん。 今の中に何かさう云つてお腹をこしらへて置かうよ。 お前さん、何がいゝ。 」

「さうねえ。 今日は朝からまだ何にも食べなかつたんだよ。 何だかなんにもたべたくなくなつちまつたわ。 」

「洋食にしよう、世話がないから。 」と立掛けた途端に電話が鳴り出した。 花助は進寄つてハイ〳〵と何か受答うけこたへをしてゐたが、「鳥渡待つて下さい————駒ちやん、宜春さんのおかみさんよ。 新富座からですつて。 」

 駒代は電話口へ出て、「あら、さうですか、何とも申譯がありません。 實はね、おかみさん、家にちつと取込みがあつて——ねえさんが病氣なのよ。 それで今まで電話を掛ける暇もないんでせう。 ほんとに申譯がないわ。 」それから何やらひそ〳〵と暫く話をして、左樣ならと電話を切つた。

「駒ちやん、今日は新富のらくだつたねえ。 私やすつかり忘れてゐたよ。 お前さん、行かなくつちや惡いだらう。 」

「今、わたしもうことわつてやつたわ。 何ぼ何でも今日は出られないもの。 」

なに、かまうものかね。 素人家しもたやぢやあるまいし、お座敷がかゝれば出て行くのが商賣ぢやないか。 鳥渡行つておゐでよ。 今夜こんや私は丁度、どこも受けてゐないんだから。 御見舞に來る人の挨拶なら私がこゝでしてゐるからさ。 構はないよ。 姐さんも大分靜におさまつたらしいし、今の中ほんとに鳥渡ちよいと顏だけ出しておいでよ。 」

「今日はまだお湯にも行かないし、髮もこんなだし……。 」と駒代はまだそれ程に亂れてもゐない銀杏返の眞中を指で摘んで、わざとこはすやうに手荒く搖動ゆりうごかし、じれつたさうに頭を振つて、「せんうちたやうなら、それアどんな無理をしても行かなくつちや惡いけれど、何しろさきさきだもの張合がありやしないわ、なまじツか顏を出していやな事を見たり口惜しい事を聞いたりするよりか、私や一層もう何處どこへも行かないでゐる方がいゝわ。 」

「お前さんはそれだからいけないんだよ。 そんな氣の弱い事を云つてゐるから、いゝ氣になつて勝手なまねをするんだよ。 私なら人の前だらうが何だらうが構やしない、どし〳〵つらの皮を引ンいてやるから……。 」

「いくら何をしたつて、心變りがしちまつたものは仕樣がありやしないわ。 私アもう、つく〴〵懲りたわ。 」と駒代はきつと思詰めたらしい調子で、「花ちやん、私アにいさんがいよ〳〵さうとまれば、何ぼ何でも氣まりがわるくつて人樣にだつて顏向けが出來ないから、もう此の土地にや居ないつもりよ。 」

「まアこの人は、物事を惡い方にばつかり考へるんだよ。 男つてものは新色が出來ると其の當座は誰しも夢中になつて逆上のぼせるものだとさ。 だけれども元木にまさる裏木はないやね、ぢつと辛棒さへしてゐればいつか實意が通るからさ。 まア何の彼のと云つてゐないで、早く鳥渡顏を出しておゐでよ。 惡い事は云はないから……。 」

 駒代は行くの行かないのと口では云ふものゝ矢張行かない中はどうも氣がすまないので、花助にかう云はれて見ると今まで我慢して居たゞけに猶更矢も楯もたまらぬやうな氣がしだして、

「それぢやわたし鳥渡行つて來やうか知ら。 姐さんは大丈夫だらうね。 」

「用があれば私がすぐ電話を掛けるよ。 」

「花ちやん、ほんとうにすまないわね。 」

 駒代はそつと勝手へ行つて自分から癖直しの湯を取り靜に二階へ上つて鏡に向つたが、今日に限つていつも騷しくて仕樣のない程な二階に人氣のない淋しさ、煌々とつけぱなしになつた電燈のわが向ふ鏡の面に輝くのも氣のせいか薄氣味が惡い。 いつもなら箱屋に着せて貰ふ着物も簞笥から一人で取出し何も彼も一人でする身仕度、帶のしまりやら衣紋のつくりやう何となく心持が惡いながら、駒代は人氣のない二階の寂しさに少しも早くと逃げるがやうに立掛ける。 その足元にばたりと落ちた長いもの、はつと思はず後じさりして能く見れば、赤銅しやくどういろ細具ざいくの糸車の金具をつけた自分の帶留であつた。 これはそも〳〵にいさんと馴れそめた當初、宜春を出て散步ながら家の角までにいさんに送られて歸つて來る道すがら通りかゝる竹川町の小間物屋濱松屋の格子戶口、兄さんはがらりと明けて内へ這入り、いろ〳〵珍しい袋物や金具を見せて貰つた折、糸車の金具が目につき駒代は嬉しい一糸の名に緣があるからと早速それを買取ると、兄さんは駒代にちなむ春駒の金具をさがし出した。 濱松屋といふのは兄さんの家へは先代の時分から出入する小間物屋で、成田屋音羽屋高島屋立花屋をはじめ名高い藝人衆の腰のもの懷中のものはこゝでなければ成らぬ樣になつて居るとやら。

 駒代は足元に落ちた大事な糸車の帶留を取上げ締め直さうとしてよくよく見るといつどうしたものか裏座の具合が惡くなつてゐて、〆めてもすぐにはづれてしまふ。 何かとつまらぬ事が氣にかゝる矢先、駒代は云ふに云はれぬ淋しいいやな氣がしたが、どうする事も成らぬので、以前から持古した眞珠の帶留にしめ替へて、梯子段踏む足音も忍び〳〵悄然しよんぼりと出て行つた。

 やがて向うへ行きつくと駒代はすぐに今日ほど間の惡い厭な日はない、矢張やつぱりあれが爭はれぬ前兆であつたと獨りで思詰めてしまつた。 まづ茶屋の店口へ車を乗りつけても時刻ちがひの事とて誰も出迎へるものがない。 仕方がないのでだまつてうへへあがり暫く待つてゐるとやつとの事で知つた顏の女中が急しさうに二階から下りて來たので、案内してくれといふと先程宜春のおかみさんがお歸りの時もう後からは誰も來ないからと云ふので、場所はたつた今よん處ない外のお客へ廻してしまつたとの事、女將おかみが出て來てひたあやまりに謝罪あやまり、やがて別の穴をさがして其處へ駒代を案内したが、それは新高のしかもずつと末の方なので、とても氣まりが惡くつて駒代は一人ぽつねんと坐つては居られないやうな氣がしたのでその儘廊下の通口に佇立たゝずみそつと場内じやうないをのぞくとすぐ目についたのは東の鶉の中程に色敵の君龍が赤い手柄の大丸髷、並んで湊家の力次と久津輪の女將。 それから瀨川の繼母お半までが一しよになつてゐて、何やら睦じ氣に話をしてゐる樣子。 駒代は君龍が已に繼母のお半までをあのやうに抱込んでしまつたのかと氣がつくと、實に何とも云へない程情ない心持になつた。 駒代の目にはお半と君龍の話合つてゐる樣子が既に仲のよい嫁姑であると云ふやうに見え、自分はいつか知らぬ間に赤の他人にされてしまつたやうな氣がしたのであつた。 悲しいのも口惜しいのも既に通り越してしまつたものか淚さへ出ず、唯大勢知つた人に顏を見られるのが耻しく辛い氣がして、駒代は丁度幕の明いてゐる舞臺の狂言は何であつたか其樣そんなことにはもう氣がつかず、夢中に芝居を出て一目散に家へ歸り、二階へ上るが否や鏡臺の前へ突伏つツぷした。

二十二 何やかや

 尾花家の十吉は倒れてから三日目の曉方とう〳〵あの世の人になつた。 菩提所なる四谷鮫ケ橋の○○寺といふへ葬り初七日の法事もすまし香奠返の袱紗饅頭もくばり終つて萬事の後片附もやう〳〵濟んだかと思ふと、今度は忽ちさし迫る年の暮。 商賣の事は幸物馴れた箱屋がゐるとは云へど、何しろ姊さんがなくなつてしまつた後、吳山老人一人ひとりではかゝへの藝者半玉に着せる春の仕度もどういふ風にしてよいやら、萬事途法に暮れるのみなので、吳山は既に初七日の夜懇意な人逹の寄合つたのを幸ひ、此の先男の手一つではどうにもならぬから、藝者家は此の儘望むものに讓るか賣るかして、自分はどこかの二階でも借りもう一度高座をつとめて、この先長からう筈もない餘命を送らうと、それとなく決心の程を漏したのであつた。

 出先の茶屋々々へ歲暮の進物は箱屋のお定が昨夜殆ど寢ずに始末をつけ、今日は午前の中にまづ重な處へ配つて步いた。 吳山は每日のやうに用簞笥や文庫の中の書付を調べるのに忙しい折から、冬の日ながらも額に汗をかきつゝ歸つて來たお定の樣子。

「いろ〳〵御苦勞だつたな。 」と吳山は枠の太い眞鍮の老眼鏡をはづして、「大抵にして休むがいゝぜ、あんまり身體からだをつかひ過ぎて、こゝでお前に寢られでもしやうものなら、それこそ法がつかねえからな。 時にお定、手がすいてゐるなら鳥渡此方へ這入はいつてくれ。 まだいろ〳〵と聞いて置きたい事があるんだ。 」

「なんで御在ます、私で分ります事なら。 」

「實は藝者衆の始末だがな……二階ぢやアもう大槪の事は知つてゐるだらうな。 まだ改めて咄しはしねえのだが、てんでに何か相談でもしてゐる樣子か。 」

「花助さんは旦那からお話があれば何處か外の家へ住替へやうと云つてゐましたつけ。 」

「さうか。 菊千代は好鹽梅に去年身受になつたし、今のところは花助と駒代と二人、後は小さいのだから此アどうにでもなるだらう。 」

「駒代さんは何ですか田舎へ行きたいつて云つてるさうです。 」

「なに、田舎へ行きたいつて。 氣でもちがつたんぢやねえか。 乃公おらアいよいよ駒代が濱村屋の家へ乗込むと云ふ事に咄がきまれば、これアこゝだけの話だが……此の際の事だ。 丁度いゝから證文位はきれいに卷いてやらうかと思つてゐるんだ。 」

「あら旦那、もうそんな景氣のいゝ話ぢやありませんよ。 もうとつくに駄目なんですよ。 」

「へえ、さうかい。 切れたのかい。 乃公おらア事によつたら及ばずながら仕度もしてやりていと思つてゐたんだが、もう緣が切れちまつたのか。 」

「そのへんのとこはよく分りませんが、兎に角おかみさんにや到底とても六ケ敷さうですね。 」

「さうかい。 これだから、萬事年を取つちや不可いけねえや。 色ツぽい話と來たらちつとも樣子がわからねえ。 」

「濱村屋さんのおかみさんには、何ですか、來春早々以前湊屋で君龍さんと云つた人がなるんだつて、彼方でも此方でも大變な評判です。 」

「ふうむ。 さうか。 それで此の土地にや居られねえから田舎へ行かうと云ふんだな。 可哀さうに。 然し駒代もあんまり意氣地がなさ過るぢやねえか。 何か文句の一つも言つてやりやアいゝに。 」

「私もよくは知りませんが、花助さんの話じや一時はハタで心配する程大變な騷だつたさうですよ。 私も若しや萬一の事でもあつてはと内々心配してゐたんですが、丁度姐ねえさんの御病氣やら御葬式やらで、それが爲め却つて駒代さんも氣がまぎれたと見えて今ぢやどうやら御自分でも締めをつけて御居でなさるやうですよ。 」

さきの女ツて云ふのは別嬪かい。 」

せんの君龍さんなら知つてますけれど其れほど別嬪でもありませんね。 然し大柄で身長せいも高いし、ぱつと目につく方ですよ。 それにね旦那、容色きりやうよりか何でも大變な持參金付なんだつて云ふ話ですよ。 それで濱村屋さんもすつかり氣が變つてしまつたんだといふ事です。 」

「ふうむ。 さうか。 金に目がくれたのか。 そんな野郞なら此方こつちから止す方がいゝ。 然しさぞがつかりしたらう。 かわいさうに。 」

「旦那がさう仰有つてたと云つて聞かせたら駒代さんもどんなに嬉しいと思ふか知れやしません。 」と云ふ折から電話の音に箱屋のお定は坐を立ち出入口の襖を閉めると、六疊の居間は日の短い盛りのころとてさき程午飯をすましたばかりなのに早や薄暗く、佛壇の燈明が金箔の新しい位牌へぴか〳〵映るのが忽ち目に立つ。 吳山は腰をさすりながら立上つて電氣をひねつたついで、消え殘つた線香に火をつけ、再び抽斗の調べものに取掛かつた。

「うむ、これア駒代の證文だ。 」と吳山は公正證書に添へた戶籍謄本を眺め眞佐木コマ、明治二十——年——月——日生、父亡、母亡と讀みながら、「兩親とも居ないのだな。 」

 駒代は丁度小學校へ行きかけた頃母親に死別れてその後に來た繼母が邪見であつたとかと云ふので里方の祖母の方へ引取られ其處で成長する中左官であつた實の父も死んでしまひ祖母も駒代が秋田へ片付いてゐる中に死んでしまつたので、今は兄弟も何もない全くの身一ツである。

 吳山は此れまで藝者家の事一切は十吉のなすまゝにして、たまさか相談される事があつても、女の商賣に男が口を出しても仕樣がねえ、女の事は女同志で收めるがいゝと云つて深く立入つた事がないので抱の證文なぞ手に取つて見るのも全く今が始めて、駒代の寂しい身上を知つたのも從つて亦今日が始めてゞある。 吳山は女房の十吉が今度はもうとても助かるまいと思はれた時であつた。 かの家出した忰瀧次郞の事を思出して、母が呼吸ある中、もうくちはきけないものゝせめて一目逢はしてやりたいものと、耻を忍んで見番の男に事情を打明け再び其の在家を尋ねさせたが、すると瀧次郞は公園六區の白首とこの春以來警察がやかましいので商賣が思はしくないところから神戶の方へ行つたなり行衞が知れないとの事、頑固一點張の氣丈な吳山もそれやこれやの事から、流石に老後の身の果敢なさ、世のあじきなさを一時に感じ出した矢先、偶然、駒代の身の上を知つて見ると、これもこの世に唯一人、身寄りも何もないと云ふ處から、吳山は自然おのづと深い同情を寄せずには居られなくなつたのである。

 その日も暮れて、電線を吹鳴す木枯の響俄にすさまじく往來する車の鈴の音いかにも師走らしく耳立つ折から、吳山は二階の藝者半玉それぞれお座敷へ出てしまつた後、駒代一人氣分がわるいとて引込んでゐるのを幸、そつと居間の六疊へ呼寄せた。

「どうした、風邪でも引いたのか。 」

「たいした事はないんですけれど、唯鼻のしんが痛くてしやうがありません。 」と云ふ聲も鼻にかゝり顏色もすぐれず、悄然しよんぼりと坐つて俯向いてゐる姿。 吳山は佛壇の下なるケンドンの襖に崩れた潰し島田の後れ毛さへありあり映る影法師、いかにも淋し氣なるを見遣りながら、

「氣は病と云ふ位だから元氣を出さなくつちやいけねえぜ。 時に外の事でもねえが、お前、田舎へ行きたいと云つてるさうぢや無いか。 おらア別に意見をするんぢやねえが、餘り後先見ずの不量見は出さねえがいゝぜ。 おらア實はもう何も彼も知つてゐるんだ。 濱村屋の太夫の事もすつかり知つてゐるよ。 お前が云かはした男を取られて世間へ顏出しが出來ねえから、それで旅へ出て稼がうと云ふ思はくも能くわかつてゐるんだ。 そこで物は相談だ。 お前の顏が立ちさへすれア何もすき好んで田舎へ行かずともいゝんだらう。 」

 駒代はうつ向いたまゝ唯ハイ〳〵と頷付うなづくばかり、吳山はいつか人情物の講釋をやるやうな調子になるとも心付かず、

「實は今始めて證文を見て知つた事だが、お前は親も兄弟も何もねえ女の身一人ぢやねえか。 何ぼ意地だからといつて、何處を見ても知つた人のねえ田舎へ行つたつて心細いばかりで好い芽は吹くめえぜ。 それよりか此の土地でこゝの處暫くつらいところを辛棒したらどうだい。 實はもうお前逹も内々樣子は知つてるだらうが、乃公も十吉に逝かれちまつて男一人ぢやとても此の商賣は出來ねえし又家の忰にやアよし行衞が分つたところで矢張男ぢや仕樣がねえから、誰か相應な望手があらばこのまゝ家の株をそつくり讓つてやりたいと決心した譯さ。 元より今さし當つて纏つた金がいると云ふ譯ぢやねえ、乃公一人は何處へ行かうがこの舌一枚で食つて行ける身だから、どうだい、お前一ツ奮發してこの尾花家の姐さんになつて、土地のものにそれ見ろと云ふやうに一ツ立派にやつて見る氣はないか。 どうだ。 」

 あんまり思掛けない吳山の言葉に駒代は兎角の返事の出來やうもない。 吳山は氣短な老人の癖。 駒代が別にいやとも云はぬ樣子を見るともう何も彼も獨りできめてしまつて、

「藝者家に年寄のゐるのは色消しでいけねえから、乃公はどこか近所へ引移すとしやう。 なア、駒代。 その代、このうちは借家ぢやねえ、これでも十年前に乃公が建て直したんだ。 地面が十坪で地代が五圓だから、乃公アお前から店の看板ぐるみ家賃をいくらでも都合のいゝだけ貰ふ事にしやうや。 それで、花助初め今の抱や箱屋にも改めて話をした上で、萬一面白く行かなさうだつたら、わきへ住替へさしてもいゝ。 そして新規蒔直しに新しいを抱えて、お前のいゝやうに商賣をするがよからう。 さうなれば乃公もどんなに氣樂だか知れやしねえ。 その中お前もみつしり商賣に身が入つて金庫の一ツも出來るやうだつたら、その時乃公に尾花家の看板代なり何なり好きなものを拂ひなさい。 なア、駒代、一先づ相談はさう云ふ事にきめて置かうぢやねえか。 」

「旦那、それぢや何ぼ何でも、あんまりお話がよすぎて、私一存では到底御返事が出來ません。 」

「だから、何も彼も乃公がちやんと筋を立てゝやるんだわな。 兎に角話さへきまれば乃公も安心して肩が拔ける。 濟まねえが、お前、後で鳥渡按摩さんに電話をかけといてくれ。 乃公おらア今の中一風呂浴びて來らア。 」

 吳山は呆れた顏の駒代を打捨うつちやつて古手拭片手にぷいと湯へ行つてしまつた。

 駒代は電話をかけてから、火鉢に炭でもついで置いて上げやうものと靜に佛壇の前に坐つたが、すると突然嬉しいのやら悲しいのやら一胸が一ぱいになつて來て暫し兩袖に顏を掩ひかくした。

腕くらべ終


大正七年二月十一日印刷
定價金壹圓貳拾錢
大正七年二月十四日發行
          著作者   荷風小史
          東京市牛込區余丁町七十五番地
  發行者   永井壯吉
東京市牛込區余丁町七十五番地
永井方
發行所   十里香館
東京市芝區愛宕町三丁目二番地
    印刷者   植田庄助
          東京市芝區愛宕町三丁目二番地
          印刷所   東洋印刷株式會社
發賣所 東京市京橋區出雲町一番地
電話 新橋 一九九一番
新橋堂 振替貯金二○○番

Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)

誤植と思われる箇所は日本現代文學全集13 永井荷風集(講談社 昭和44年)を参照した上で訂正した。

原文 なかつのである。 (p.4)

訂正 なかつたのである。

原文 寄付かないもの(p. 6)

訂正 寄付かないのも

原文 直打ねうち(p.9)

訂正 値打ねうち

原文 御詮義(p.12)

訂正 御詮議

原文 這入つくる(p.13)

訂正 這入つてくる

原文 必要はない(p.21)

訂正 必要はない。

原文 なつたのよ(p.23)

訂正 なつたのよ。

原文 つけなければと。 (p. 28)

訂正 つけなければと、

原文 見える(p.44)

訂正 見える。

原文 出來てしまつ後(p.47)

訂正 出來てしまつた後

原文 ありやしない。 。 (p.49)

訂正 ありやしない……。

原文 一、時は(p.49)

訂正 一時は

原文 のみらず(p.50)

訂正 のみならず

原文 面白しさ(p.53)

訂正 面白さ

原文 なしをはふせて(p.53)

訂正 なしふせて

原文 お云ひだらうわたしア(p.73)

訂正 お云ひだろう。 わたしア

原文 居らつしやるなんだよ(p.79)

訂正 居らつしやるんだよ

原文 打捨うちツやつといて(p.87)

訂正 打捨うツちやつといて

原文 金が、出來ると(p.93)

訂正 金が出來ると

原文 これたけ(p.101)

訂正 これだけ

原文 ニヤ〳〵してゐるばかり來れば(p.117)

訂正 ニヤ〳〵してゐるばかり。 來れば

原文 鶺鴿(p.123)

訂正 鶺鴒

原文 倒れかゝた(pp.128-9)

訂正 倒れかゝつた

原文 片つけ(p.132)

訂正 片づけ

原文 あなたなんぞか(p.134)

訂正 あなたなんぞが

原文 南巢を家(p.144)

訂正 南巢の家

原文 書かず。 (p.149)

訂正 書かず、

原文 身だしみ(p.161)

訂正 身だしなみ

原文 柔らな(p.161)

訂正 柔らかな

原文 半年ばかりの事瀧次郞は(p.163)

訂正 半年ばかりの事、瀧次郞は

原文 極りもしい中(p.182)

訂正 極りもしない中

原文 二十四孝これは(p.186)

訂正 二十四孝。 これは

原文 意恨(p.188)

訂正 遺恨

原文 寄りかゝつ來さう(p.203)

訂正 寄りかゝつて來さう

原文 ちよと(p.218)

訂正 ちよつと

原文 丁度。 どこも(p.223)

訂正 丁度、どこも

原文 厭な日はない矢張(p.227)

訂正 厭な日はない、矢張

原文 ものがない仕方(p.227)

訂正 ものがない。 仕方

原文 取ちつや(p.231)

訂正 取つちや

原文 別賓(p.232)

訂正 別嬪

原文 しやうやそれで(p.237)

訂正 しやうや。 それで