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雲形紋章

Chapter 19: 第十六章
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About This Book

A young architect is dispatched to oversee urgent repairs on a rain-soaked, historic cathedral and encounters a community divided by clashing priorities: an assertive patron and his firm, proud clergy, local gentry, and practical craftsmen. As he inspects roofs, towers, and waterlogged floors, concerns about structural safety, limited funds, and sanitary conditions emerge. Close attention to architectural detail and heraldic motifs brings buried histories and local rivalries to light, so that the conservation project becomes a means to explore questions of stewardship, tradition, and the sometimes uneasy relationship between antiquarian zeal and everyday community needs.

 そこまで考えて、建築家は蜘蛛の巣を振り払うように愚かしい考えを頭から振り払った。くるりとむきを変えながら、誰がそんなことをしようと考えるものかと思った。故人はマーチンの書類が持ち去られないよう、誰を警戒しろと言ったのだろう。あの不吉な爵位を自分のものだと主張する、自分の知らない誰かがいるのだろうか。それとも——。ウエストレイは幾度となく心に浮かんだその考えを、悪意に満ちた根拠のない疑惑だと、断固としてしりぞけた。

 手がかりがあるとしたらあの書類の中に違いない。彼は与えられた指示を守り、書類を自室に持ちこんだ。ミス・ジョウリフにはメモを見せなかった。そんなことをすれば彼女の動揺を深めるだけだ。今でも強すぎるほどの衝撃を受けているというのに。彼はただミスタ・シャーノールの遺志で彼女の兄の書類を自分が一時的に預かるとのみ伝えた。彼女は書類に触らないよう懇願した。

 「ミスタ・ウエストレイ」と彼女は言った。「あんなもの放っておいてください。関わり合いになるのは止めましょう。わたし、ミスタ・シャーノールにも手を付けて欲しくなかったんです、あんなものには。おかげでこんなことになってしまって。もしかしたら天罰なのかも知れませんわ」——彼女は声を潜めて「天罰」と言った。中世の人間のように天は報復的で怒りっぽいと信じこみ、インクスタンドをひっくり返すことから下宿人の死まで、何か不運があれば、そこにそのしるしを読み取ったのだ。「天罰なのかも知れませんわ。首を突っこまなければ今でも生きていらっしゃったんじゃないかしら。マーチンの望んでいたことがすべて本当だと判ったとしても、それがわたしたちにとって何の役に立つでしょう。兄ったら、いつも自分はいつか『御前様』と呼ばれるようになると言っていました。兄が亡くなった今、アナスタシアしか残っていません。でも彼女はきっと『お嬢様』なんて呼ばれたくないと思います。ねえ、あなた、そんな権利があったとしても『お嬢様』なんて嫌よねえ」

 アナスタシアは本から顔を上げて、止めてよというように笑みを見せたが、建築家が彼女にじっと視線をむけており、彼女の笑みに呼応するように笑みを浮かべるのを見たとき、それはいらだちの中に消えた。かすかに赤面し、若い男のまなざしが示す、彼女の一挙一動に対する関心が訳もなく腹立たしく思われ、急にまた本へと視線を戻した。わたしの問題なのに、何の権利があって心配そうな顔をしたりするのかしら。自分が本物の貴族だったら、昔レディ・クララがしたように、その高貴な生まれで彼を殺してやりたいくらい(註 テニソンの詩から)。彼女の面前でウエストレイがこのような関心のある目つき、関心を引こうとする目つきをすることに気づいたのは、つい最近のことだった。まさかわたしに恋している?そう思った瞬間、彼女の目に別の人の姿が浮かんだ。威圧的で、厳しく、不吉な感じさえするが、しかし圧倒的な強さを持ち、目の前で彼女のことばに耳を傾けている若者の、気の抜けたお愛想など色あせさせ、かき消してしまうような男の姿が。

 ミスタ・ウエストレイがわたしに気があるだなんて。そんなこと、あり得ないわ。とはいうものの、目で彼女を追ったり、彼女に話しかけるときの、蜜のしたたり落ちそうな態度は、この可能性を強く主張した。彼女は最近何度かやったように、急いで二人の関係を点検した。わたしが悪いのかしら。好意と勘違いされるようなこと、あるいは感謝と取られかねないようなことすらしたことがあるだろうか。当たり前の親切や優しさがすっかり意味をねじ曲げられるなんてことがあるのだろうか。彼女はこの心の取り調べにおいて堂々と無罪を勝ち取り、その人品に一点の汚点もつけられることなく法廷をあとにした。気を持たせるような振る舞いはどんなに些細なものも何一つしていない。失礼なのは覚悟の上で、ああいう色目にははじめからきっぱりした態度を取らなければならない。不作法とまでは言わないが、彼女の行為にむける熱心な関心や、同情的な目つきが、不愉快この上ないことを教えてやらなければならない。もう二度と彼のほうなんか見るものか。彼の前ではいつもじっと目を伏せていよう。この賢明な決意を固めたとき、彼女は何気なく目を上げ、辛抱強い彼の視線がまたもや彼女にじっと注がれていることを知った。

 「そこまでおっしゃることはないでしょう、ミス・ジョウリフ」と建築家は言った。「ミス・アナスタシアが爵位を受け継いだらみんな喜びますよ。それに」と彼は優しい声で言い添えた。「彼女くらい爵位の似合う人はいないと思います」

 彼は堅苦しく「ミス」をつけるのを止め、単に「アナスタシア」と呼びたかった。数ヶ月前ならごく自然に、何も考えずそうできたかも知れないが、しかし彼女の態度の中にある何かが、最近彼にこの楽しみを控えさせていた。

 そのとき貴婦人になるかも知れない娘は立ち上がって部屋を出た。

 「ちょっとパンを見てくるわ」と彼女は言った。「もう焼けたんじゃないかしら」

 ミス・ジョウリフの心配をようやく鎮め、ウエストレイは書類を保管することになった。一つには書類を調べなければ故人の遺志に甚だしく背くことになる——ミス・ジョウリフが属する人々のあいだでは故人の遺志は何よりも神聖と見なされていた——からであり、また一つには「占有は九分の強み」で建築家はすでに書類を自分の部屋に持ちこみ、鍵をかけてしまいこんでいたからである。しかしすぐにそれらに注意をむけるわけにはいかなかった。というのは人生の一大転機が近づいていたからで、ともすると他のことなど考える余裕がなかったのである。

 彼はしばらく前からアナスタシア・ジョウリフに心を寄せていた。はじめてこの感情に気づいたときは、懸命になってそれを圧し殺そうとし、最初の内はその努力がある程度の成功を収めていた。ジョウリフ家と縁つづきになるなど自分の威厳をおとしめるものだと心の底から考えていたのである。両者の社会的地位の差は、敵対的な批判を引き起こさないまでも、十分に耳目を集めるだろうと思った。建築家は下宿の女主人の姪を嫁に選ぶという、不可解なまでに身分違いの結婚をしたと必ず噂されるだろう。それは紛れもなく社会的自殺行為だ。亡くなった父はメソジスト派の牧師で、まだ存命の母はこの気高い聖務に深い尊敬を抱き、子供の頃からウエストレイの心にその生まれの特権と責任を刻みこんできたのだ。このような反対理由の他にも、年若くして結婚すると必要以上に家庭の労苦に煩わされ、出世の妨げになるという問題もあった。これらはバランスの取れた心には熟慮すべき重要な問題である。幸いなことにウエストレイはひたすら意志の強さと理性の力であらゆる危険な心情をほどなく完全に消し去ることができた。

 この幸せな、冷静な状況は長くはつづかなかった。恋心はただくすぶっていただけで、消えてはいなかったのだ。しかし風を送り、新たな炎を吹き上げさせたのは、アナスタシアの美しさと長所に絶えず思いを致していたからというより、まったく外的な影響力のせいだった。この外的な要素とはベルヴュー・ロッジの狭い人間関係の中にブランダマー卿が闖入してきたことである。ウエストレイはこの頃、ブランダマー卿の訪問の真意に疑いを抱くようになり、聖堂や修復やウエストレイ自身を表むきの理由に使ってベルヴュー・ロッジに一時的に入りこみ、何か他の計画を遂行しようとしているのではないかと、密かに考えていた。建築家と気前のいい資金提供者が今も交わす長い会話や、図面の検討や、細部の議論は、どことなく昔のような楽しさがなかった。ウエストレイは必死になって自分の疑惑にいわれのないことを納得しようとした。ブランダマー卿が修復費用として大金を寄付し、あるいは寄付を約束したという事実は、単に聖堂が彼にとっての一番の関心事であるということを示すにすぎないと、繰り返し自分にむかって指摘し、主張してきた。いくら裕福だといっても、ベルヴュー・ロッジに入りこむために何千ポンドも使うということは考えられない。さらにブランダマー卿がアナスタシアと結婚するということも考えられない——そんな取り合わせの身分差は自分の場合よりもさらに大きいとウエストレイは考えた。それでもブランダマー卿はしばしばアナスタシアのことを考えていると、彼は信じていた。なるほどウエストレイがいるとき、フォーディングの館の主ははっきりと気のある素振りを見せたことがない。たまたま彼女が座に加わったときも、特にアナスタシアに注目したり、彼女にばかり話しかけたりはしなかった。ときには彼女から顔を背け、わざと存在を無視するようなふうさえあった。

 しかしウエストレイはそこに真実が隠されていると感じた。

 誰かに強い好意を持つ者は、そのまわりにかすかな愛を発散させる。表情は注意深く監視され、ことばは本心を悟られないよう選ばれているかも知れないが、しかし溢れ出す愛の気配は濃密で、嫉妬に研ぎ澄まされた感覚にはその正体を見抜かれてしまうのである。

 ときどき建築家は自分が誤っていると思いこもうとした。疑い深い自分の性格を、心の狭さを咎めようとした。ところがそう思ったとたんに小さな出来事、まったく不可解な小事件が起き、冷静な判断を粉々にし、言うに言われぬ嫉妬にかられるのだった。たとえば彼はブランダマー卿が会見の時間にいつも土曜日を選ぶことを思い出す。ブランダマー卿の説明だと、平日は忙しいからということだが、しかし卿は土曜日が半ドンの小学生ではないのだ。いったいどんな仕事をしていたら平日はずっと忙しく、土曜日は時間が空くのだろう。それだけでも十分不思議だが、ミス・ユーフィミア・ジョウリフがその日の午後、決まってドルカス会に出ているという事実、さらにブランダマー卿とウエストレイのあいだに、会見の約束の時間に関して説明のつかない誤解があったという事実、つまり建築家が五時に帰宅すると一度ならずブランダマー卿が会う時間を四時と思いこんで、既に一時間もベルヴュー・ロッジで彼を待っていたという事実を考え合わせると、不思議さの度合いはいちだんと深まるのである。

 気の毒なミスタ・シャーノールも死ぬ二週間ほど前、そんなことをウエストレイにほのめかしていたから、やはり何かが起きていると勘づいていたに違いない。ウエストレイはブランダマー卿の気持ちがよく分からなかった。明白な目的を持ってアナスタシアの興味を惹こうとしているようだが、それでいて愛情を外にあらわさない。きっと結婚が目的ではないのだろう。しかし結婚でないなら何なのだ?普通の場合、答は簡単である。しかしウエストレイはそう考えることをためらった。莫大な富と高い地位を持つこの厳格な男、世界を放浪し、さまざまな人間と風俗を知るこの男が野卑な誘惑に屈するとは考えがたかった。だがウエストレイは次第にその考え方に傾き、アナスタシアを思う気持ちは、あらゆる下劣な目論見から彼女を騎士のように守ろうとする気高い決意に高められた。

 人間の最も深い愛がさらに深まる、などということがあるだろうか。あるとすれば、それは必ずや、自分が相手を愛するのみならず、守護する者でもあると気づくことによってである。自分は純潔を救おうとしているのだ——みずからの力で。どれほど謙虚な者も、このような思いはその心を高揚させる。実際、それは建築家の血管を満たす動きの鈍い薄い血を燃え立たせたのだった。

 彼はある晩、長い一日の仕事に疲れて聖堂から帰り、暖炉のそばでうとうとしながら中央塔の亀裂のことや、オルガンのある張り出しで起きた悲劇、そしてアナスタシアのことを次々と考えるともなく考えていた。すると年上のほうのミス・ジョウリフが部屋に入ってきた。

 「あらまあ、旦那様」と彼女は言った。「お帰りだったとは知りませんでした!火が燃えているか見に来ただけなんですよ。お茶になさいますか。今晩は特に何か用意しましょうか。とてもお疲れのようなんですもの。きっと根を詰めすぎているんですよ。梯子や足場の上を動き回るのは大変なんでしょうね。わたしみたいな者が意見するのもなんですが、旦那様、休暇をお取りになるべきですわ。ここに下宿するようになってから一日も休んだことがないじゃありませんか」

 「ミス・ジョウリフ、近々ご忠告通りにさせていただくかも知れませんよ。そのうち休暇を取るかも知れません」

 その答には異様な重々しさがあった。自分には極めて重要と考えられる問題について密かに思いを巡らしているとき、他人からどうでもいいような質問をされると、人はよく答えに異様な重々しさをこめることがある。わたしが死と愛について考察していることなど、この平凡な女に分るはずがない。優しく接し、邪魔したことを許してやらなければ。そうだ、運命は確かにわたしに休暇を取らせるかも知れない。彼はほとんどアナスタシアにプロポーズする腹を決めていた。即座に受け入れられることは疑いの余地がないが、しかしその場しのぎがあってはならないし、優柔不断は我慢できないし、愛情をもてあそぶ真似はお断りだった。完全に、無条件に、即刻受け入れるか、さもなければ結婚の申しこみを撤回するか、いずれかだ。後者の場合、そして拒絶というまったくあり得ない事態が起きた場合は、直ちにベルヴュー・ロッジを出る。

 「ええ、その通りですよ。近々休暇を取らなければならないかも知れません」

 己を抑えた返事の仕方が彼の口調に静かな威厳を与えた。ミス・ジョウリフはそのことばとともにふと漏れたため息を聞き逃さなかった。彼女にはこの話し方が謎めいて不吉に聞こえた。ひどく漠然とした言い回しには不気味な秘密めいたところがあった。休暇を取ら「なければならない」かも知れない。どういう意味なのだろう。この若者は友人のミスタ・シャーノールを失いすっかり気落ちしてしまったのだろうか。それとも人知れず恐るべき疾患の種を抱えているのか。休暇を取ら「なければならない」かも知れない。この人が言うのはただの休暇じゃないわ——もっと深刻なことを意味している。思い詰めた悲しそうな様子は、かなり長い不在を意味するとしか思えない。もしかしたらカランを離れるつもりなのだろうか。

 彼がいなくなることは、ミス・ジョウリフにとって物質的な観点から大問題だった。彼は最後の頼みの綱、ベルヴュー・ロッジが破産へと漂い出すのを食い止める最後の錨だった。ミスタ・シャーノールが亡くなり、彼とともにこの家の維持費として彼が払っていたなけなしの金もなくなった。それにカランでは下宿人はごくまれにしか見つからない。ミス・ジョウリフはこうしたことを思い出してもよかったのだが、そうはしなかった。彼女の心をよぎった唯一の思いは、もしもミスタ・ウエストレイが出て行ったら、彼女はまた一人友人を失う、ということだった。物質的な観点からこの問題をとらえようとはせず、彼女は彼を友達とのみ考えていたのだ。金を生む機械ではなく、あらゆる宝物の中で最も貴重なもの——最後の友人とのみ見なしていたのだ。

 「しばらくここを出るかも知れません」と彼はまた言った。同じ不吉な重々しさをこめて。

 「そうならないことを願っていますわ」と彼女は口をはさんだ。まるで強くそう願うことで迫り来る災いを回避しようとするかのように——「そうならないことを願っていますわ。あなたがいなくなったらとても寂しくなりますもの、ミスタ・ウエストレイ。ミスタ・シャーノールもいなくなってしまったことですし。家の中に男の方がいなくなったら、わたしたち、どうしましょう。一晩でもいらっしゃらないと、心細くてたまりませんわ。わたしは年寄りですから、どうだっていいのですけど、アナスタシアはあの恐ろしい事故があってから夜中にとても神経質になっているんです」

 ウエストレイの顔はアナスタシアの名前を聞いて明るくなった。そう、彼の愛情はよほど深いに違いない、彼女の名前が出ただけでこんなふうに悦ぶのだから。そうか、彼女は僕を頼っているのか。僕のことを守護者と思っているのだ。太くもない二の腕の筋肉が外套の袖の下ではち切れんばかりに盛り上がった。この二本の腕が愛する人をあらゆる悪から守るのだ。ペルセウス、サー・ギャラハド、コフェチュア王の姿が目の前をよぎった。彼はもう少しでミス・ユーフィミアに大声でこう言いそうになった。「ご心配には及びません。わたしはあなたの姪御さんを愛しています。わたしは身を屈め、彼女をわたしの王座につけてさしあげます。彼女に触れようとする者は、まずわたしを倒さなければならないでしょう」と。しかし躊躇する良識が彼の袖を引っ張った。この重大な一歩を踏み出す前に母親と相談しなければならない。

 理性が彼を押しとどめたのは幸いだった。そんなことを宣言すればミス・ジョウリフは卒倒したであろうから。実は彼女は彼の顔から翳りが消えたのを見て、自分のおしゃべりが気晴らしになったのだと喜んでいたのである。しばらくおしゃべりの相手をしてあげれば元気になるだろう。彼女は他に面白い話題はないかと頭の中を探った。そうだわ、もちろん話題はあるわ。

 「今日の午後、ブランダマー卿がいらっしゃったんですよ。他の人と同じように何気なくお出でになって、とても親切丁寧にわたしに面会をお求めになりましたの。ミスタ・シャーノールが亡くなって、わたしたち二人がひどいショックを受けているんじゃないかとご心配になったんです。ええ、そりゃ、大変な精神的打撃でしたわ。あの方はとっても思いやりがあって、一時間近く——時計を見たら四十七分だったんですけど——いらっしゃって、家族の一員みたいに台所で一緒にお茶をお飲みになったんです。こんなふうに親しくしていただけるなんて、思ってもいませんでしたわ。お帰りになるときは、ご丁寧にあなたに伝言を残していったんですよ、旦那様。家にいらっしゃらなかったのは残念ですが、また近いうちにお寄りしたいと思います、ですって」

 ウエストレイの顔に翳りが戻った。小説の主人公なら夜のように暗い顔つきになったというところだが、実際はぶすっとふくれ面をしたにすぎない。

 「今晩ロンドンに行きます」ミス・ジョウリフのことばに応えることなく、彼はこわばった口調で言った。「明日は戻らないでしょう。数日間出かけることになるかも知れません。いつ戻るかは手紙でお知らせします」

 ミス・ジョウリフは電気に打たれたようにびくっとした。

 「ロンドンに、今晩」と彼女は言った——「これからですか」

 「そうです」ウエストレイは口にこそ出さないものの、話はこれで終わりだということをおのずと示すような素っ気なさで言った。「さて、一人にしてくれませんか。出かける前に書かなければならない手紙が何通かあるんです」

 そういうわけでミス・ユーフィミアは階段を上り、建築家の仮定では自分の強靱な腕に寄りかかっているはずの乙女に、この奇妙なニュースを伝えた。

 「どう思う、アナスタシア」と彼女は言った。「ミスタ・ウエストレイは今晩ロンドンに発つそうよ。数日間戻らないかも知れないんですって」

 「そう」姪はそう答えただけだった。しかしそこには、建築家が聞いたらその愛情を沸点から血温にまで引き下げたかもしれないくらいの気怠さと無関心がこもっていた。

 ウエストレイは女主人が出て行ったあと、しばらくむっつりと椅子に座っていた。生まれてはじめて煙草が吸いたいと思った。パイプを口にくわえ、シャーノールが不機嫌なときにやっていたように、煙を吸いこんだり吐き出したりできたらいいのにと思った。落ち着きなく心があれこれ考えているあいだ、身体も落ち着きなく何かをしていたかった。けむる想念に炎を上げさせたのは、まさにその日の午後もあったという、ブランダマー卿の来訪だった。ウエストレイの知るかぎり、おもてだった用むきもないのにベルヴュー・ロッジにやって来たのはこれがはじめてだった。ありとあらゆる困難にもかかわらず、信じたいと思うことを信じようとする痛々しい努力。折り合いのつかないものに折り合いをつけ、そうすることでなんとか幽霊を追い払い、受け入れがたい疑惑を鎮めることができはしまいかという盲目的で、よろめきかけた、頼りない希望。そうした努力をし、希望を持って、建築家はブランダマー卿がしげしげとベルヴュー・ロッジを訪れる理由を、修復工事の進捗状況を把握し、彼が惜しみなく供出している資金の用途を確認するためだと、これまでずっと信じこもうとしてきた。ウエストレイとしては、ブランダマー卿の動機にうしろめたいところは少しもないと思いたかった。才能豊かな若き専門家との交際、そのことに当然ながら魅力を感じているに違いないと思っていたのだ。聡明な建築家と建築について語り合ったり、四方山話をすることは(ウエストレイは一つの話題ばかり不要にくどくど話すことを避けた)田舎で単調な独身生活を送っているブランダマー卿にはいいうさ晴らしになるに違いない。そう考えていたウエストレイにとって、卿のベルヴュー・ロッジ訪問は仕事の次に重要な、いや、ときには仕事以上に重要なことだった。

 最近、さまざまな事情のせいで、この動機の妥当性に対して異論が首をもたげはじめたけれども、ウエストレイは心の中でそれを認めようとはしなかった。不安を感じたとしても、そんな不安は事実無根と絶えず自分に言い聞かせた。しかし今、迷いは消えた。ブランダマー卿はいわば自分のためにベルヴュー・ロッジを訪れたのだ。ウエストレイに会うという口実をきっぱりと捨てたのだ。彼はミス・ジョウリフとお茶を飲み、台所で一時間を過ごした、ミス・ジョウリフと——アナスタシアも交えて。それが意味することは一つしかない。ウエストレイは決心した。

 せいぜい控えめな望ましさしか持たなかったものが、競争者があらわれたことにより、とびきり価値のあるものに変わった。嫉妬が愛を活性化し、義務と良心が仕掛けられた罠から彼女を救えと言い張った。大いなる犠牲が払われなければならない。彼、ウエストレイは自分より身分の低い娘を娶らなければならないのだ。しかしその前に事情を母親に打ち明けておこうと思った。もっともペルセウスがアンドロメダの鎖を断ち切る前にそんな相談を持ちかけたという記録はないのだけれども。

 それまで一刻の猶予もならない。今晩さっそく発つことにしよう。ロンドン行きの最終列車はもう出たけれど、カラン街道駅まで歩けば、夜行の郵便列車に間に合うはずだ。歩くのは好きだし荷物はいらない。母親の家に使えるものがあったのだ。決断を下したのは七時、その一時間後に彼はカランの町の最後の家を後にして夜の徒歩旅行に乗り出していた。

 カラウナ(カリスベリ)からその港クルルヌム(カラン)に至る街道はローマ人によって敷かれた。それは今日でも近代的道路に沿って、この二つの場所をへだてる十六マイルあまりの距離をほぼ直線状に延びている。その中間あたりでグレートサザン鉄道の幹線が街道と直角に交わり、ここにカラン街道駅があった。最初の半分の道のりはマロリー・ヒースと呼ばれる平坦な砂地を通る。わずかに広がる緑の芝生が街道際に迫っているが、その他は西を見ても東を見ても北を見ても果てしなく荒れ地がつづき、ところどころにハリエニシダやシダ、あるいは風に吹かれてやせ細った松や赤松が枝を絡ませ小さな木立を作っているだけだった。暗黄色の砂地の道は夜になるとたどりにくく、道端には旅人の目印となるように間隔を置いて標柱が立てられていた。標柱は星のない夜空を背景にしたときは白く浮き出し、たまに荒れ地を銀の毛布で覆う雪を背景にしたときは黒く見えた。

 晴れた夜なら旅人は古い港町から一マイルも離れた頃、遠くにカラン街道駅の灯火を見ることができる。それは彼方の闇に浮かぶ細い一筋の光のようで、はじめは連続した線に見えるが、まっすぐな道をさらに進んでしばらくすると一つ一つのランプが別々に見えてくる。多くの疲れた旅人が遠くのほうで少しも変化しないこのランプを見て、その動きのなさにいらいらした。苔むした表に昔の数字でハイド・パーク・コーナーまでの距離を刻んだ里程標を幾つも通り過ぎたのに、ランプは少しも近づいてこないように見えるのだ。ただ次第に大きくなる列車の音だけが目標に近づいていることを教えてくれる。急行の突進する音が鈍い地響きからだんだんと耳を聾する騒音に変わっていくのである。すがすがしい冬の日は、列車は真白い綿をたなびかせ、夜中に竈の口を開けて雲に煌々たる輝きを放つときは火焔の蛇を従えた。しかし真夏のけだるい暑さの中では太陽が蒸気を干上がらせ、列車はひたすら疾走した。いったい何がそれを動かしているのか、示すものがないだけにいっそうすばらしい勢いがあった。

 ウエストレイはこうしたものを何一つ目にしなかった。柔らかい白い霧があらゆるものを蔽っていたのだ。ほんの一分前まではすべてが静止していたのだが、それ自身の内なる力に突き動かされるように、霧は優雅に渦を巻きながら漂ってきた。服の表面にごく細かな粉のような水滴が幕を張り、指で触れると流れて重い粒になった。口髭、髪の毛、睫毛からもしずくが垂れた。前が見えなくなり、彼は息を詰めた。ミスタ・シャーノールが天に召された晩と同じく、それは海から渦を巻いてやって来た。ウエストレイは遠くの海峡でうなる霧笛の音を聞いた。カランの方を振り返り、ぼうっとした光が緑や赤に変わるのを見て、沖合の船が沿岸水先案内人に合図を送っていることが分かった。ゆっくりたゆまず歩きつづけ、ときどき芝地に踏みこんだときは、立ち止まって街道のほうに戻った。白い標柱の一つが正しい方向に進んでいることを確認してくれたときはほっとした。視界を奪う霧は奇妙に彼を孤立させた。彼は自然から切り離されていた。自然など何も見えなかったからである。彼は人間から切り離されていた。兵士の一団に囲まれていたとしても、それすら見えなかったからである。このように外からの刺激がなくなると、心はそれ自身に投げ返され、彼は内省へといざなわれた。彼は、これが百回目であったが、自分の立場を慎重に検討し、今まさに踏み出そうとしている重大な一歩が心の安らぎのために必要であるのか、正しいのか、賢明であるのか、考えはじめた。

 結婚の申しこみはどんなに決断力のある人間をも躊躇させるだろうし、ウエストレイは決断力のあるほうではなかった。彼は頭がよく、想像力があり、頑固で、極端に几帳面だった。しかし経験を積むことによって身につくおおらかな人生観や、困難な状況で即座に決断を下し、また一度決断したらそれをやり抜く精神力と不屈の意志に欠けていた。そのため例の理性というやつが彼の決意に揺さぶりをかけ、六回ほども道の真中で足を止め、目的を断念してカランに帰ることを考えたのである。しかし六回とも彼は歩きつづけた。ゆっくりした足取りでじっと考えこみながら。これは正しい行動だろうか。僕は正しいことをしているのだろうか。霧はいっそう深くなり、ほとんど息ができないくらいだった。目の前に腕を伸ばしても、手を見ることができなかった。僕は正しいのだろうか。物事には正しいことと間違ったことが存在するのだろうか。実在するものなどあるのだろうか。一切は主観的——つまり自分の頭が作り出したものではないのか。僕は存在するのだろうか。僕は僕なのか。僕は肉体の中にあるのか、それとも外にあるのか。そのとき激しい動揺、闇と霧の恐怖が彼を襲った。両腕を伸ばし霧の中をまさぐる姿は、まるで誰かか何かをつかんでみずからの正体を確かめようとしているかのようだった。ついに彼は自制心を失い、くるりとむきを変えるとカランに戻りはじめた。

 それはほんの一瞬のことだった。すぐに理性がその支配力を回復しはじめたのである。立ち止まって道端のヒースの上に腰を下ろした。どの枝も濡れてしずくがしたたっていたが、頓着せずに考えを集中した。心臓は悪夢から目覚めたばかりのときのように激しく動悸を打っていた。誰にも見られていなかったとはいえ、自分の弱さと精神的な混乱を今は恥じていた。いったいどうしたというのだ。なんという半狂乱ぶりだろう。数分後には再び方向転換し、しっかりきびきびした足取りで駅にむかって歩き出した。これは自分を取り戻したということの、彼にとっては満足すべき証拠であった。

 そのあとは旅が終わるまで正しいだの間違っているだの、賢明だの無分別だのといった途方に暮れる問題を避け、自分がしようとしていることの正しさ、賢明さは自明であるとし、もっと物質的で家庭的な諸問題について忙しく思案を巡らせた。収入がいくらあればアナスタシアと家を維持していけるのかとその額を計算し、心の中で手持ちの資金を最大限に活用して、この見積額に近づけては楽しんだ。他の人が似たような状況に置かれたら、恐らく結婚の申しこみが受け入れられる見こみについてあれこれ考えるだろうが、ウエストレイはこの点に関しては疑問すら抱かなかった。求婚すればアナスタシアは受け入れるものと決めつけていたのである。彼女だってこの結婚が物質的な点においても、名門一族と縁つづきになるという点においても、得であることが分からないはずはない。彼は独りよがりな考え方しかしていなかった。彼のほうでアナスタシアが好きになり、結婚を申しこんでもいいと思いさえすれば、あとは彼女は彼を受け入れる一手と思いこんでいた。

 確かに彼女がはっきりと好意を示した例はとっさにはあまり頭に浮かんでこないのだが、彼のことを憎からず思っていることは分かっていた。慎み深いがゆえに、普通なら報われる望みのない感情をあらわすことに消極的になっているに違いない。しかし控えめな、さりげないものではあったが、好ましい結果を保証するに足る十分な誘いを受けたことは間違いないのだ。彼は一緒にいるとき何度も何度も彼女と目が合ったことを思い出した。きっと僕の目に宿る優しさを読み取ってくれたのだろう。そして視線を返すことで、真の慎み深さが許しうる最大限の誘いをかけたのだ。その返事はなんと上品で、なんとかぎりなく優雅だったろう。まるでこっそりとのぞき見るみたいに僕のほうに目をむけ、僕の情熱的なまなざしにはっとなって恥ずかしそうに目を伏せることがどれほどあったことか。夢想にふけりながら彼は、ここ数週間のあいだ、彼女と同じ部屋にいるときはほとんど片時も彼女から目を離さなかった事実を考慮しなかった。これでときどき目が合わなかったとしたらそのほうが可笑しいというべきだろう。じっと見つめられると、ふとその視線のほうを振りむいてしまうという例の衝動に彼女はたまに従わざるを得なかったのだから。あの目は間違いなく僕を誘っていた、と彼は考えた。それにもらい物なんですと、何気なく言ってスズランの花束を渡したときは嬉しそうに受け取ってくれた。本当は彼女のためにカリスベリで特別に買ってきたのだけれど。しかしこれも彼女にとっては断りがたかったのだと考えるべきである。大体断ることなどできるだろうか。そんな状況で礼とともにスズランを受け取らない娘がいるだろうか。断ればお高くとまっていると思われるだろう。断ることで、親切からしてくれた行為に誤った、妙な意味合いを与えてしまうかも知れない。うん、スズランをあげたとき、彼女は僕を誘っていた。期待と違って胸に花を挿してくれなかったけれど、あれはきっと好意をはっきり示しすぎることを恐れたんだ。たちの悪い風邪にかかって、何日か家に閉じこもっていたとき、彼女が彼に示した関心には特に注目すべきものがあった。そして今晩、僕が一晩でもいなくなると彼女は寂しがると言っていたではないか。霧に隠れて見えなかったが、彼はそう考えてにんまりしたのだった。自分が家にいるかいないかで、美しい乙女の心の平安と身の安全が左右されるとしたら、男には悦にいる権利がいくばくかあるというものではないか。ミス・ジョウリフは、僕、ウエストレイがいないとき、アナスタシアは不安になると言った。アナスタシアが叔母にそのことを話して欲しいと、それとなくほのめかしたということも大いにあり得る。彼はまた霧の中でにんまりした。申しこみが拒絶される心配なんかこれっぽっちもありはしない。

 こんな具合に心安まる思いに深くひたっていたため、彼はまわりの物や状況にはまったく注意をむけずにひたすら歩きつづけていたのだが、ふと気がつくと霧にかすんだ駅の灯火が見え、目的地に到着したことを知った。自分の懸念と変節のせいで道中ずいぶん遅れてしまい、今は真夜中すぎ、列車はもうすぐ到着するはずだった。プラットフォームにも狭い待合室にも他の旅行者の姿はなく、待合室の中では、火屋ほやの黒ずんだパラフィン・ランプが弱々しく霧と戦っていた。活気のある部屋とはいえなかった。彼は壁の掲示物やらテーブルの上の黴臭い水の瓶を眺めていたが、駅長と切符係と赤帽を兼ねた駅員が眠そうに入ってきて、人間の世界に呼び戻されたときは救われたような気がした。

 「ロンドン行きの列車を待ってるんですか、旦那」彼は驚いたように尋ねた。それはカラン街道駅から夜行郵便列車に乗る人がほとんどいないことを示していた。「あと数分で着きますよ。切符はお持ちですか」

 彼らは一緒に切符売り場に行った。駅長は彼に何等車を利用するかも訊かずに三等車券を手渡した。

 「ああ、ありがとう」とウエストレイは言った。「でも今晩は一等車で行くよ。客室一つを自分専用にしたいな。他の客が出入りして邪魔されたくないんだ」

 「畏まりました、旦那」駅長は一等車の客にふさわしい、はるかに尊敬のこもった声で言った——「畏まりました、旦那。それじゃさっきの券はお返し願えますか。新しいのを手書きしますので——一等の切符は用意していないんですよ。この駅で一等を使う人はめったにいませんので」

 「そうだろうね」とウエストレイは言った。

 「妙なことがあるものですなあ」駅長はペンを使っているとき言った。「一月前にも同じ列車に乗るっていう人がいて、切符を書きましたよ。この駅が開通して以来それまで、一枚も売ったことはなかったんですがね」

 「ほう」ウエストレイは相手のことばにろくに注意を払わなかった。頭の中で一等車に乗ることの是非を新たに議論していたからである。現在彼が直面する人生の大事に当たって、精神がこの難しい状況にできるかぎり集中できるよう、肉体の疲労は避けなければならず、それゆえこの余計な出費は正当化しうると、ちょうどそんな判断に達したとき、駅長は次のように話をつづけた。

 「ええ、一月も前じゃないですなあ、お客さんに書いたように、ブランダマー卿に切符を書いたのは。もしかしてブランダマー卿とお知り合いですか」彼は思いきってそう付け加えた。その声には、同じ一等車を使うからといって、必ずしもあのような偉い人と知り合いということにはならないでしょうがね、という含みがこめられていた。ブランダマー卿の名前はウエストレイの弛緩しきった注意力に電気のようなショックを与えた。

 「もちろんだよ」と彼は言った。「ブランダマー卿とは知り合いだよ」

 「おや、そうなんですか、旦那」——彼の敬意は対位法で許されるどんな跳躍進行よりももっと大きな跳躍を遂げた。「ええ、お客さんと同じ列車に乗るというので御前様に切符を書いて差し上げたんですよ。あれから一月も経っちゃいません。ありゃあ、ちょうどカランのオルガン弾きが亡くなった晩でした」

 「そうなんですか」と無関心を装うウエストレイが言った。「ブランダマー卿はどこから来たんだい」

 「それが分からないんですよ」と駅長は答えた——「さっぱり分からないんで、旦那」と無教育な人や愚鈍な人がよくやるように、いたずらに強調を加えて繰り返した。

 「馬車に乗っていたかい」

 「いいえ、お客さんもそうじゃないかと思いますが、歩いて駅にお出でになったんです。ちょいと失礼しますよ、旦那」彼は話を中断した。「来ましたよ」

 遠くから列車の近づく音が響いてきた。ちょうどそのとき、プラットフォームの端にある踏切がまるで幽霊の手によって開けられたかのように静かに動き、その赤いランタンがカラン街道を遮った。

 誰も降りず、ウエストレイ以外は誰も乗りこまなかった。霧の中で郵便袋が交換され、駅長兼切符係兼赤帽がランプを振ると、列車は煙をあげて走り去った。ウエストレイは洞窟のような車内にいて、布の座席は棺桶の内部のように冷たく湿っていた。外套の襟を立て、ナポレオンのように腕を組み、隅に寄りかかって考えた。おかしい——ひどくおかしい。ブランダマー卿はシャーノールの事故があった晩、早めに帰ったものと思っていた。ブランダマー卿はベルヴュー・ロッジを去るとき、午後の汽車に乗ると言っていた。ところが卿は真夜中に、ここカラン街道駅にあらわれた。カランから来たのでなければどこから来たのだろう。フォーディングから来たはずはない。フォーディングからなら、リチェット駅で汽車に乗ったはずだから。妙だぞ、と彼はそう思いながら眠りに落ちた。

第十六章

 それから一日か二日経って、ミス・ジョウリフはアナスタシアにこう尋ねた。

 「今朝、ミスタ・ウエストレイから手紙を受け取ったわよね、あなた。お帰りのこと、何か言っていた?いつ帰るかって」

 「いいえ、叔母さん、お帰りのことは何も。仕事の話がちょっと書いてあるだけ」

 「あら、そう。それだけなの」姪の打ち解けない態度に少々傷ついた彼女は冷たくそう言った。

 ミス・ジョウリフとしては、アナスタシアの考えることなどお見通しなのだから、隠し事をしてもむだよと言ってやりたいところだった。それに対してアナスタシアは、叔母さんは何でも知っているわ、いくつかの小さな秘密を除いてね、と答えていただろう。事実、一方が他方を知っていると言っても、恐らく老人が若者を知るようにしか知らなかったのである。「心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」(註 ミルトン「失楽園」から)この世の慰めの中で、このことが、つまり心というものはそれ自身一つの独自の世界であるということが最大の慰めである。心はどんな侵入者をもくい止める鉄壁の要塞、追われる者には昼も夜も開かれた聖域、夏の日照りのときでさえ木陰が元気を回復させる花園なのだ。幾人かの信頼する友人にはその迷路の道筋を教えるが、絹の糸玉一つでは短すぎて、自分以外の人がそこを通り抜けることは不可能である。陽光あふれる山頂があれば、汚れなき緑の芝地があり、花の匂いもかぐわしい小径、じめじめした絶望の土牢、あるいは罪の意識がこだまする、夜のように真暗な洞窟もある。ここを歩くときは一人だけ、決して手を引いて他人を連れて来ることはない。

 ミス・ユーフィミア・ジョウリフはウエストレイの手紙を完全に無視して、もうそのことに触れようとは思わなかったのだが、しかし女にとって好奇心は誇りよりも強い。好奇心が彼女に手紙の話をもう一度持ち出させた。

 「教えてくれてありがとう。わたしに言付けがあったら言ってちょうだい」

 「なかったと思うわ」とアナスタシア。「そのうち持ってきて全部見せてあげる」そう言って手紙を取りに行くかのように部屋を出たのだが、実はその場をごまかそうとしたに過ぎなかった。ポケットの中ではウエストレイの手紙が取り出されるのを今か今かと待っていて、彼女はずっとその存在を意識していたからである。しかし彼女は返事を投函するまでそれを叔母に見せたくなかった。また部屋を出てしまえば、忘れてくれやしないかとも思っていた。ミス・ジョウリフは出て行こうとする姪に自分の立場をわきまえさせようと別れ際の一言を発した。

 「わたしだったらミスタ・ウエストレイに手紙を書くよう水をむけたりしないわ。仕事の話しなら、あなたよりわたしに書いてよこすのが筋じゃないかしら」しかしアナスタシアは聞こえないふりをしてそのまま行ってしまった。

 彼女はかつてはミスタ・シャーノールの住まいだった、今では気が滅入るくらいがらんとした寂しい部屋へ行き、筆記用具を見つけると、ウエストレイへの返事を書こうとして椅子に腰かけた。ウエストレイの手紙の内容はすべて頭に入っていて、ほとんどそらんじることができるくらいだったが、それでも机の上に広げて、難解きわまりない暗号ででもあるかのように何度も何度も読み返した。

 「最愛なるアナスタシア」と手紙は始まっていたが、彼女は「最愛なる」という最初のことばを見て怒りを覚えた。いったいどんな権利があってわたしのことを「最愛なる」などと呼ぶのだろう。彼女はふと知り合った人に誰彼かまわず最上級を浴びせかけることをしない、不可解な女性の一人だった。今どきの基準から見ると、確かに冷淡、少なくとも想像力に乏しいと言えるに違いない。数少ない文通相手の中に「最愛の」と呼びかける人がいないのだから。叔母にだってそんなことばは使わない。ごくまれに家を離れてミス・ジョウリフに手紙を書くときは、「親愛なるユーフィミア叔母様」と呼びかけるのだ。

 不思議なことにこの「最愛なる」という同じことばがウエストレイをもひどく考えこませ、悩ませたのだった。「最愛なるアナスタシア」と呼びかけるべきだろうか、それとも「親愛なるミス・ジョウリフ」がいいだろうか。最初のは馴れ馴れしすぎるし、二つ目はよそよそしすぎる。このこと、および他の細々した点についても母親と協議し、とうとう「最愛の」でいくことになった。そう呼びかけても、せいぜい「先回りしすぎ」と批判されるくらいのものでしかないだろう、と思われた。この呼びかけはアナスタシアが結婚の申しこみを受け入れしだい、さっそく正当化されるはずだったからだ。

 「最愛なるアナスタシア——こう呼ぶのはあなたが今もこれからも、わたしにとって最愛の人であるからです——これから言おうとすることは、あなたの心もわたしの心と同じように望んでいることでしょう。そして重要な一歩を踏み出さなければならない今、あなたの優しさがわたしを支えてくれるであろうことを確信しています」

 誰も見ていなかったけれど、アナスタシアはあきれたように頭を振った。ウエストレイのことばには必要以上に運命的な響き、苦しい自分の立場に同情を求めているようなところがあり、耐え難いほど不愉快だった。

 「あなたと知り合ってから一年が経ちました。今やわたしの幸せはあなたを中心に回っています。あなたもわたしと知り合ってから一年が経ちました。わたしはあなたの目が送っていたメッセージを正しく読み取ったと思います。

 今宵わたしは町いちばんの幸せ者か

 町いちばんのみじめな男

 神よ お示しあれ あのハシバミのような茶色の目が訴えるもの

 それをわたしが正しく読み取ったことを」

 アナスタシアは腹を立てながらも思わず笑ってしまった。ただ微笑を浮かべたのではなく、声に出して、一人静かに笑ったのである。男がよくやる含み笑いというやつだ。わたしの目はハシバミのような茶色どころか、茶色ですらない。でもタウンと韻を合わせるために茶色ブラウンを使ったのね。それにどうせこの詩はどこかから引っ張ってきたものだわ。特にわたしのことを書いたわけじゃない。彼女はもう一度読み返した。「あなたと知り合ってから一年が経ちました。あなたもわたしと知り合ってから一年が経ちました」。ウエストレイは詩的な繰り返しがロマンチックな雰囲気を醸し出すと考え、文に釣り合いを持たせたのだった。しかしアナスタシアには陳腐な文句の反復としか思えなかった。彼が彼女と知り合って一年が経ったなら、彼女も彼と知り合って一年が経ったことになる。女性の心にとって前提から導き出される結論はそこで終わりだ。

 「わたしはあなたのメッセージを正しく受け取ったでしょうか、最愛の人よ。あなたの心はわたしのものでしょうか」

 メッセージですって?いったい何のメッセージのことかしら。わたしがあの人なんかにどんなメッセージを目で伝えようとしたと思ってるのかしら。この何週間か、あの人は絶えずわたしをじろじろ見ていた。ときどき視線がかち合ったとしたら、それは避けられなかったという、ただそれのことだ。もっともたまにはわざと見つめ返すことがあった。恋に落ちた男の間抜け面を見るのが面白かったのだ。

 「どうぞそうだと言ってください。あなたの心はわたしのものだと」

(この懇願は批評を差しはさむことさえ憚られるような非常識に思えた)

 「わたしはあなたの現状を心配しながら見守っています。あなたが何も知らない危険に、今、この瞬間もさらされているのではないかとときどき危ぶむのです。また不幸や死があなたの叔母さんを襲った場合、どれほど先の読み解き得ない未来が訪れるか、不安になることもあるのです。わたしに未来という謎を読む手伝いをさせてください。あなたの盾となり、未来の支えとなることを許してください。わたしの妻になり、わたしにあなたの庇護者となる権利を与えてください。もうしばらく仕事でロンドンに滞在しなければなりません。しかしあなたのお返事をこちらで首を長くしてお待ちしています。いえ、こう言ってよければ、希望を抱きつつお待ちしています。

あなたをひたむきに深く愛する

エドワード・ウエストレイ」

 彼女はゆっくりと手紙をたたんで封筒の中に戻した。どれほどウエストレイが自分の目的を挫折させる手段を探し回ったとしても、この最後の段落くらいその目論見にかなったものは見いだせなかっただろう。それは男を拒むときにつきものの相手を思いやる気持ち、不快なものをできるだけ不快でなくしてやろうとする気持ちをほとんど奪ってしまった。彼の独善的な口調は腹にすえかねた。こっちが彼の言うことを聞くか聞かないか、それさえ分からぬうちから忠告してくるとはいったいどういうことか。彼女が今もさらされている危険とは何なのか。ミスタ・ウエストレイが彼女の盾となって守ると言っている危険とは。一応疑問を呈してみたものの、答は最初から分かっていた。彼女も最近心の中でそのことを何度も考えていたので、ウエストレイが言外にほのめかすことなど苦もなく理解できたのだ。嫉妬深い男がいるとすれば、それは嫉妬深い女より軽蔑されるべきもの。男のよりすぐれた力とは心の広さと寛大な態度にある。こういうものがないとき、その欠点は女の場合よりも目立つのである。アナスタシアはウエストレイが謎めいたことを言うのは嫉妬のせいだと考えた。しかし彼女は苦心惨憺書かれた手紙を滑稽だと思う強さを持つと同時に、からかいの対象とはいえ、男の興味をかき立てたことに女としての悦びを感じるという弱さも持っていた。

 彼女はもう一度、一緒に謎を、それも読み解き得ない謎を読み解きましょうという誘いを見て笑った。彼女の将来に備えたいなどと言っているが、その熱心な願いに含まれる恩着せがましい態度は、彼女自身、将来に備えてしっかりした考えを持っていただけにいっそう嫌らしく思えた。自分が家を離れないのはただ叔母を愛しているからだ、と彼女は何度も自分に言い聞かせていた。ミス・ジョウリフに「何か」があったら、彼女はすぐ自分で生計を立てるつもりだった。そうした際に役立ちそうな自分のたしなみを彼女はしばしば数え上げた。彼女は優れた学校で——やや一貫性に欠け、途中で中断したとはいうものの——教育を受けている。本をむさぼるように読み、イギリス文学、とりわけ小説の大家については深い知識を持っている。ピアノとバイオリンの腕前はまあまあ。もっともミスタ・シャーノールは彼女の自己評価に条件をつけただろうけど。油絵や水彩画を描かせると悠然とした筆致があって、父親はそれを母親から受け継いだに違いない——花と毛虫の大作を描いた、あのソフィア・ジョウリから受け継いだに違いないと言った。また、生気溢れる彼女の似顔絵は学校の友達を大いに湧かしたものだ。自分の服は自分で作り、デザインや仕立ての趣味のよさには自信があった。腕をふるう機会さえ与えられれば、ぬきんでた実力を示すことができるはずだ。彼女は自分が子供好きで、子供をしつける才能が生まれつき備わっていると信じていた。もっともカランで子供の面倒を見たことなど一度もなかったけれども。自分にはこうした能力、といっても彼女だけでなく他の人も持っているに違いない能力なのだが、これをもってすれば家庭教師のいい口を探すのはきっと簡単だろう、あとはそういう人生を歩む決意をするだけのこと。彼女はときどき運命をなじりたくなった。運命のおかげで世界は今、こうした恩恵を享受できずにいるのだから。

 しかし心の奥底では教育に人生を捧げることが本当に正しいかどうか疑問を感じていた。というのは自分の天命はもっと崇高な使命を果たすことではないか、口を使って教えるのではなく、ペンを使って教えることではないか、と思っていたのである。どの兵士も背嚢のなかに元帥杖を入れているように、どの十代の女の子も、大型衣装箪笥の奥には一流作家の衣冠束帯、そしてその地位を示す正式な記章が隠されていることを知っている。それを取り出し外気にさらさなければ、冠は使われないまま光を失い、怠惰という衣蛾に汚されることもあるだろう。しかしともかく正装一揃いはしまってあって、いつかそれに身を包み、驚き愕然とする世間の前に颯爽と登場するかも知れないのだ。ジェイン・オースチンとマリア・エッジワースは聳え立つ城のステンドグラスにその光輪を輝かすヒロインたちである。シャーロット・ブロンテもベルヴュー・ロッジと同じくらい鄙びたところで傑作をものしたのだ。アナスタシア・ジョウリフはいつの日か静かなカランの望楼から画期的な小説が勝利の行進をする様を遠く望み見たいものだと思っていた。

 もちろんその本はペンネームで出版されなければならない。一人前の物書きになるまでは本名を使う気はなかった。筆名の選択はこの冒険にむけて彼女が踏み出した唯一明確な一歩だった。時代背景はまだ決まっていない。大きな銀の壺や脚の細いテーブルがあり、胸の高さでドレスを絞っている十八世紀にしようかと思うこともあれば、男爵たちが血まみれの戦闘のあと、全身鎧をまとったまま川を泳ぐバラ戦争のさなかにしようかと思ったり、あるいはヴァンダイクが弓形の眉やほっそりした手を描き、死の影があらゆるものを蔽っていた清教徒革命の頃にしようかとも思った。

 彼女の空想がいちばんよく赴く先は清教徒革命の時代で、鏡の前に座りながら自分の顔はヴァンダイク風ではないかと考えることがときどきあった。確かにそうだった。たとえ鏡が曇っていて、映りが悪く、古びていたとしても、たとえそこに映しだされるドレスが紫紺や琥珀のヴェルベットでないとしても、彼女にはどことなく主君とともに没落した王党派の娘を思わせる雰囲気があった。王室付きの肖像画家なら、この若くて愛らしい瓜実顔と小ぶりな口を喜んで絵にしただろうし、眉とまぶたの間隔も彼の好みだと感じただろう。

 筋立てはまだぼんやりしていたが、登場人物たちは鎧や小枝模様の衣装を纏い、いつも彼女とともにあった。心はそれ自身一つの独自の世界、彼女は自分が造り出した小さな宮廷を持ち歩き、そこでは恐るべき悲劇が繰り広げられ、勇敢な行為があり、情熱的な若い愛が苦悩のあまり涙をこぼし、そしてたかが十八歳の小娘が比類ない決意と大胆さと美と天才と肉体の力を持っていつも事態を正し、最後に平和をもたらすのだ。

 これだけの才能があるのだから、アナスタシアには未来が暗鬱なものとは見えなかったし、ミスタ・ウエストレイが考えるほど、その謎が解き難いとは思わなかった。彼女の将来に希望を与えようとするいかなる試みに対しても、彼女は未熟な人間の持つありったけの自信をこめて憤慨しただろう。実際ウエストレイの申し出は、彼女が寄る辺ない立場にあることをほのめかしたり、申し出を受け入れれば幸福になれるとか、いかにも低姿勢でお願いしているのだ、ということをやたら強調しているため、なおのことはらわたが煮えくりかえるのだった。

 女性の中には結婚こそ人生の第一義と、常にそのことを中心に考え、条件のよい結婚、それがだめならそれなりの結婚を主要な目的とする人がいる。また結婚を偶然的なものと見なし、熱心に望みもしなければ避けることもせず、状況の善し悪しに従って受け入れたり拒んだりする人もいる。さらにまた、すでに若いときから結婚という考えを決然と捨て、心の中でこの問題を議論することさえみずからに禁ずる人もいる。男が結婚しないと言明しても、経験の示すところ、この決心はしばしば考え直されるものだ。しかし結婚しない女は違う。彼らはたいてい未婚のままである。なぜなら男というものは愛情問題に関してはへっぴり腰で、すげない態度を見せられると追いかけるのを止めてしまうからである。こうした女性もみずからの裁定を考え直したいと思うことがあるのかもしれないが、気がつくとすでに悔やんでもどうにもならない年齢に達しているのだ。しかし大体においてそうした事柄に対する女性の決心は男性のそれよりも堅固である。それというのも、女性にとっての結婚は男性の場合とは比較にならぬくらい重要な問題だからだ。

 アナスタシアが属していたのは無関心派だった。立場の変化を求めもしなかったが、避けもしなかった。ただ結婚を偶然と見なし、それが身に降りかかれば前途に大きな変化があるかも知れないと思っていた。そうなればもちろん教育者としての人生は不可能になる。文学活動だって、妻や母としての仕事があるから、ある程度の束縛を受けるだろう(結婚するにしろ、しないにしろ、彼女は作家としての使命を全うするつもりでいた)。しかし結婚を困難からの逃避であるとか、生活という取るに足りない問題の解決方法であるなどとは決して考えたくなかった。

 彼女はもう一度ウエストレイの手紙を始めから終わりまで読み返したが、ますます退屈なものに思えてきた。この手紙は書き手の性格を表している。いつも夢のない男だと思っていたけど、今は耐えきれないくらい散文的で、うぬぼれていて、けちくさく、功利主義者に見える。妻になってくれですって!保母兼家庭教師として一生を過ごす方がましよ!あんな人が相談相手で伴侶だったら小説なんて書けるものですか。あの人はわたしに几帳面さを求めてくるわ。卵は新鮮なものをそろえろ、ふとんはよく日干ししろ、って。こんな具合に頭の中で自分を妻にしようとするこの企てに理詰めの非難を重ねた結果、ついに彼の申し出は忌むべき犯罪になってしまった。素っ気なく、無愛想に、いいえ、乱暴に返事を書いてやったって、当然の報いだわ。こんな愚劣な結婚の申しこみでわたしにばかばかしい思いをさせたんだもの。そういうわけで彼女はきっぱり決意を固めて筆箱を開けたのである。

 それは擬革に覆われた小さな木箱で、蓋にはフランス語で「文箱」という金文字が押されていた。大して価値があるとは思っていなかったが、父親からの贈り物という意味で彼女には大切なものだった。実を言えば父親がくれた唯一の贈り物なのだ。トランペットで一大ファンファーレを奏でながら彼女をカリスベリのミセス・ハワードの学校へ送り出すとき、いつになく太っ腹な気分になった父親が、少なくとも半クラウンは奮発して買ったものだ。彼女は父親のことばをそっくり覚えている。「これを持っていきな」と彼は言った。「これから一流の学校に行くんだ。持ち物もそれにふさわしいものでなくっちゃな」そう言って筆箱をくれたのだった。足りないものは山ほどあったが、それで我慢しなければならなかった。アナスタシアはそれが新品のヘアブラシかハンカチ一ダースか、まともな一足の靴であったらよかったのにと嘆いた。

 それでも筆箱は役に立った。それ以来手紙はすべてそれで書いてきたのである。しかも彼女の持ち物の中では唯一鍵のかかる入れ物だったので、彼女は女の子らしい宝物を入れる、ささやかな宝石箱にしていた。びっしり中身が詰まっていたので、開けるとそれらがあふれ出てきた。ロマンスを添えた手紙もあれば、楽しかったけれどあまりにも短すぎたカリスベリでの学校生活の思い出の品もあった。学期末の素敵なダンスパーティーで踊る相手の名前を乱雑に書きこんだプログラム。パーティーには他の女生徒の兄弟が厳選されて招待されていたのだ。そしてその歴史的な機会に胸につけた、誰かのくれたバラの押し花。他にも同じように貴重な記念品が詰まっていたが、どういうわけかそれらは以前ほどロマンチックだとも大事だとも思えず、今はたわいもないものをと苦笑したいくらいだった。その時小さな紙片がひらひらと机から床に落ちた。彼女は屈んで宝冠の絵と「フォーディング」の字を黒く印した封筒の垂れ蓋を拾い上げた。ある日ウエストレイのゴミ箱を空けようとして見つけたものだ。ごく単純な図案でしかなかったが、彼女に思考の糧を与えたに違いない。筆箱にしまいこみ、ウエストレイの手紙を書くまで少なくとも十分は目の前の机の上に置かれていたからである。

 返事を書くのはなんら難しいことではなかった。ただ、しばらく思い出に浸っていたせいで、いらだちは収まり、敵意は和らいでいた。返事は無愛想でも乱暴でもなく、独創的と言うよりありきたりで、しかも結局こういう場合によく使われる常套句を用いることにした。何しろはじめて男が求婚し、はじめて女が断るのだ。彼女は自分に優しい関心を寄せてくれたことをミスタ・ウエストレイに謝し、自分に対して示してくれた気遣いを十分に理解していると書いた。残念ながら——誠に残念ながら——ご希望に添うことはできません。こんなふうに書くと思いやりがないと思われるかも知れませんが、わざと思いやりのないことばを書いているわけではないのです。はなはだ申し上げにくいことではあるけれど、ご希望には「決して」添うことができないと偽らずに言うことが本当の思いやりであると考えるのです。彼女はしばらく手を休めてこの最後の文の含むところを検討していたが、書き直す必要はないと判断した。求婚者の情熱が再燃することがないよう、彼女の決定が最終的なものであることを示したかった。ミスタ・ウエストレイに対する強い敬意はこれからも少しも変わりませんし、今回のことで二人の友情にひびが入るようなことは決してないと信じています。今までと同じようにお付き合いがつづくことを希望しつつ筆を擱きます。

 書き終わって安堵のため息をつき、慎重に読み返しながら適当な箇所にコンマやセミコロンやコロンを付け加えた。句読点を厳守することは楽しかった。文学的な文体を志し、ペンで生計を立てようとする者なら当たり前の配慮であると彼女は思った。結婚の申しこみに自分で返事を書いたのはこれがはじめてだったけれど、似たような境遇に陥ったヒロインのために手紙を書いてやったことがあったので、まんざらこの手の経験がないわけでもないのだ。同時に彼女の書き方はミス・ユーフィミアの蔵書の一冊、ぼろぼろの子牛革で装丁された「若者のための手紙大全、および人生の様々な場面における返事の書き方指南」にいつの間にか影響されていたかも知れない。

 手紙にしっかり封をし、投函し、そこではじめて叔母に何があったかを報告した。「ミスタ・ウエストレイの手紙よ」と彼女は言った。「お読みになりたければどうぞ」と、男が己の運命を託した白い一片の紙きれをミス・ジョウリフに手渡した。

 ミス・ジョウリフはさりげなく受け取ろうとしたがうまくいかなかった。結婚の申しこみというものは独特な雰囲気を発散していて、どれほどぼんやりした人にもその重要性が分ってしまうものである。彼女は読むのが遅く、眼鏡を拭いてかけ直し、椅子に腰かけてから、目の前のものをじっくり焦らず検分していこうとした。

 しかし最初に判読した「最愛」という文字に平静を奪われ、いつもにも似ない大急ぎで手紙を読み進んだ。読みながら口を丸くすぼめ、ときどき気持ちを吐き出すように「まあ」とか「まあ、アナスタシア」とか「まあ、あなた」と、ため息をついた。

 アナスタシアは傍らに立って、そらでも言える文面を追いながら、ページをめくる人より十倍も速く読める人のようにいらいらしていた。

 ミス・ジョウリフの心は相矛盾する感情で一杯だった。姪の前に開けた、より確かな未来の展望を喜ぶとともに、なぜもっと早くに打ち明けてくれなかったのかと気分を害したのだ。アナスタシアは彼に求婚されることをきっと知っていたに違いない。目と鼻の先で行われていた求愛活動を見逃すとはうかつだった。そして結婚が、自分の子供のような相手と別れることを意味することに思い当たり当惑した。

 長い老い先を一人で歩いていくのはなんと憂鬱なことだろう!「緩慢な暗闇の時間が始まる」(註 クリスチナ・ロセッティの詩から)とき、頼りにするつもりでいた愛しい腕を奪われるのはどんなにつらいことだろう!しかしそれは自分勝手な考え方だと頭の中から追い払い、そんなことを考えた後悔の気持ちから、しわが寄り、酷使されて肌の荒れた手をそっとアナスタシアの手の中に忍びこませた。

 「あなた」と彼女は言った。「いい運に恵まれてわたしもとても嬉しいわ。よかったじゃないの」アナスタシアが結婚の申しこみを受け、ともかくも一安心という気持ちが不安を沈黙させたのだった。

 諾否を求める結婚の申しこみは、よいものであれ、悪いものであれ、どうでもいいものであれ、受け手にある種の自己満足を与える。軽くあしらってもいいし、不興をかこってもいいし、アナスタシアのように腹を立ててもいい。しかしその心の奥底には、一人の男の完全な賞賛を勝ち取ったといううぬぼれが潜んでいるものだ。たとえ相手が絶対に結婚したくないような男であっても、馬鹿であっても、けちであっても、悪党であっても、とにかく男であって、彼女は彼を虜にしたのだ。彼女の親族も同じようにご満悦である。申しこみが受諾されるなら、それまではたぶん先行き不確かだった者に未来が開かれることになる。拒絶した場合は、金の力に屈しなかったとか、不釣り合いな相手と運命を結びあわせなかったとか言って、血族の女の優れた判断、しっかりした分別を祝うのである。