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雲形紋章

Chapter 2: ジョン・ミード・フォークナー
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About This Book

A young architect is dispatched to oversee urgent repairs on a rain-soaked, historic cathedral and encounters a community divided by clashing priorities: an assertive patron and his firm, proud clergy, local gentry, and practical craftsmen. As he inspects roofs, towers, and waterlogged floors, concerns about structural safety, limited funds, and sanitary conditions emerge. Close attention to architectural detail and heraldic motifs brings buried histories and local rivalries to light, so that the conservation project becomes a means to explore questions of stewardship, tradition, and the sometimes uneasy relationship between antiquarian zeal and everyday community needs.

The Project Gutenberg eBook of 雲形紋章

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Title: 雲形紋章

Author: John Meade Falkner

Translator: Kiyotoshi Hayashi

Release date: January 20, 2011 [eBook #35018]
Most recently updated: March 3, 2021

Language: Japanese

Credits: Produced by Kiyotoshi Hayashi

*** START OF THE PROJECT GUTENBERG EBOOK 雲形紋章 ***

Title: 雲形紋章(Kumogata monshou)

Author: John Meade Falkner

Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi)

Character set encoding: UTF-8

雲形紋章

ジョン・ミード・フォークナー

プロローグ

 鉄道駅舎、教育施設、教会堂を建造し、著述家にして古美術商、さらにファークワー・アンド・ファークワー商会の共同経営者であるジョージ・ファークワー准男爵は、自分のことばに重みを持たせようと、事務室の椅子にそり返り、くるりと横をむいた。彼の前にはカラン大聖堂の修復工事に監督として送られる部下が立っていた。

 「それじゃ、行ってきたまえ、ウエストレイ。充分気をつけるんだよ。きみが取り組むのは重要な仕事だということを忘れるな。教会もあそこまで大きくなるとさすがに『その光り、升の下に隠るることなし』(註 マタイ伝から)だ。この国家遺産保存協会とやらは、うちの会社をだしにして自分たちの存在を宣伝しようとしているらしい。アンブリ(聖器棚)とアバクス(頂板)の違いもわからぬ無知蒙昧の輩、ペテン師ども、流行を追うだけのど素人が。あの連中はきっとわれわれの仕事にけちをつけてくる。出来映えがよかろうが、悪かろうが、並だろうが、彼らにとっては同じなんだよ。とにかくけちをつけようと身構えているんだ」

 その声は専門家としての強い軽蔑に満ちていたが、気を静めると、仕事の話に戻った。

 「南袖廊の屋根と聖歌隊席の穹窿天井には細心の注意が必要だ。中央塔にも以前から問題があって、交差部のかなめの基柱は補強工事をしたいのだが、何しろ費用が出ない。中央塔のことは黙っていることにした。なだめるすべもないのに、いたずらに疑いを抱かせるのは意味がないからな。今やってくれといわれているのは取るに足りない作業だが、それだけでもどうやって予算のやりくりをしたらいいのやら。資金繰りのめどがついたら塔に手をつけよう。しかし袖廊と聖歌隊席の穹窿天井は急を要する。鐘は心配しないでいい。鐘枠にがたがきていて、もう何年も鳴らされていないんだ。

 精一杯できるかぎりのことをしたまえ。金銭的にはあまり恵まれたお勤めとは言えないが、最善をつくすことだ。会社に利益なんか一銭もありはしない。しかしあの聖堂は有名だから、いい加減な仕事はできないよ。主任司祭には手紙を書いておいた。愚劣な男で、カラン大聖堂の管理には、貴婦人の小間使いなみにむいていないのだが、とにかく彼にはきみが明日到着すること、もしも先方がきみに会いたいと言うなら、午後聖堂に顔を出すということを伝えてある。浅はかなやつだが、あそこの法定管理者だし、修復費用調達にあずかってなかなか力があったからね。やむを得んが我慢しよう」

第一章

 英国陸地測量部制作の地図ではカラン・ウォーフ、地元の人には単にカランと呼ばれている場所は、今でこそ海岸線から二マイルほど内陸部にあるが、かつてはもっと海寄りで、無敵艦隊との戦いに六隻の船を送り、その一世紀後にはオランダの攻撃を迎え撃つため四隻の船を送り出した由緒ある港として歴史に輝かしい名を残している。ところがやがてカル川の河口域は沈泥でふさがって港口には砂州ができ、海上貿易の船は他に港を探さざるを得なくなった。その後、カル川の流れはやせ細り、それまでのようにあちらこちらへ縦横に伸びるかわりに身を縮めておとなしい河川に変貌し、しかも河川としても決して大きいほうの部類ではなかった。市民たちは港で生計が立てられないことを見て取ると、塩沢を埋め立てることでなにがしかの代償が得られるかも知れないと考え、海水を防ぐために石の堤防を築き、その真ん中にカル川の流れを海に放出する水路を造った。こうしてカラン・フラットと呼ばれる低地の牧草地ができあがり、自由市民はここで羊を放牧する権利を持ち、海峡のむこう、フランスのプレサレ羊にも負けない美味なマトンを生産するようになった。しかし海は無抵抗にその権利を明け渡したわけではない。南東風や大潮と共に波はときどき堤防を乗り越え、またときにはカル川がお行儀よく振る舞うことを忘れ、内陸部に大雨があったあとなど、昔日のごとく、あらゆる拘束を断ち切って暴れた。そんなとき、上の階の窓からカランの町を眺めた人々は、誰もがこの小さな場所が再び海岸線の方に移動したのではないかと考えた。牧草地は水浸しで、堤防は内陸の湖とそのむこうの海との境界線として、目につくほど幅が広くなかったのである。

 グレート・サザン鉄道の幹線はこの見捨てられた港の北七マイルのところを走っていて、外部との交通は長年、運送屋の二輪馬車が町と鄙びたカラン街道駅とを往復することで保たれていた。しかしやがてこの古い自治都市から選出された議員、有能で広く信望を集めていたサー・ジョゼフ・カルーがカラン自治体代表団を正式に組織して、交通の便をいっそう改善する必要ありと鉄道会社を説得し、支線が敷設されることになった。ただしその利便性は過去の運送屋と比べてほとんどかわりばえのしないお粗末なものだった。

 聖堂の修復工事がファークワー・アンド・ファークワー商会に委託された当時、鉄道の物珍しさはまだ消えておらず、汽車が到着するとカランの町をぶらつく人が毎日儀式のように集まってきた。しかしウエストレイがやってきた午後は雨が激しく降り、見物人は一人もなかった。彼はロンドンからカラン街道駅まで三等車券を買って旅費を節約し、乗換駅からカランまでは一等車券を買って会社の威厳を保とうとした。だがそんな用心は取り越し苦労に終わった。数名の年老いた駅員が養老院に送られるようにカラン駅に配属されているだけで、他に彼の到着を目撃するものはまったくなかったのである。

 彼はブランダマー・アームズという家族むけ、および商人むけのホテルが、汽車の到着に合わせて乗合馬車を運行していることを知り喜んだ。聖堂のちょうど入り口前で降ろしてくれるというから、なおのこと好都合とこの乗り物を利用することにした。彼はささやかな荷物を中に運びこむと——乗客は彼一人だったから余裕はたっぷりあった——床を覆う藁に足を突っこみ、十分間というもの、砂利道を走る馬車でなければ味わえないがたがたという振動に耐えていた。

 ウエストレイはカラン大聖堂の見取り図をすべて完全に頭に入れていたものの、実物はまだ見たことがなかった。乗合馬車がけたたましい音を立てて市場の中に駆けこみ、四角い広場の南側全面を覆いつくすように聳え立つ聖セパルカ大聖堂をはじめて見たとき、彼は感嘆の声を抑えることができなかった。篠つく雨が通りから歩行者を追い払い、降ろした緑のブラインド越しに乗合馬車の通過をのぞき見る幾人かのピーピング・トムをのぞけば、市場はまるでレディ・ゴダイヴァの行進を待っているかのように少しも人気がなかった。

 沛然と降る雨、屋根の上に砕け散り霧のように広がるしぶき、地面から立ち昇る水蒸気、それらがあらゆるものに目に見えない、けれどもそれと分かるヴェールを被せ、舞台に用いられる紗幕のように輪郭をぼやけさせた。それを通して浮かび上がる大聖堂は、ウエストレイが想像の中で思い描いたどんな姿よりも遥かに神秘的で荘厳だった。馬車はすぐに鉄の門の前に停まった。そこから境内を抜けて北側ポーチまで板石敷きの小道がついていた。

 御者がドアを開けた。

 「ここが聖堂です」と彼は言わずもがなのことを言った。「ここで降りるんでしたら、荷物はホテルにお届けしておきます」

 ウエストレイは帽子を深くかぶると、外套の襟を立て、入り口めがけて雨の中に飛び出した。小道に敷かれた墓石のくぼみに深い水たまりができていて、急いでいた彼はポーチに着くまでに服に水を撥ね散らかしてしまった。巨大な扉口にくぐり戸があり、彼はそこにかかる革のとばりを横に押しやって聖堂の中に入った。

 まだ四時ではなかったが、空は雲に閉ざされ、建物の中はすでに薄暗くなっていた。聖歌隊席で話をしていたひとかたまりの男たちが入り口の音に振り返り、建築家にむかって進んできた。領袖格は中年を過ぎた聖職者で、ストックタイを首に巻き、若い建築家のほうに歩み寄ると挨拶をした。

 「サー・ジョージ・ファークワーの助手の方ですな。いや、助手のお一人と言い直すべきでしょうね。サー・ジョージは多彩なお仕事をこなすのに、きっとあなた以外にも助手をお使いでしょうから」

 ウエストレイは同意を示すように頷き、聖職者は話しつづけた。「自己紹介しますと、わたしは参事会員パーキンと申します。わたしのことはきっとサー・ジョージからお聞きでしょうが、この聖堂の主任司祭として格別のお付き合いをいただいております。あるときなどサー・ジョージはわたしの家にお泊まりになりましてな。若い方があのように有能な建築家のもとで修業できるというのはまことに誇りに思うべきことですよ。あとで今回の修復工事についてサー・ジョージがお考えになっていることを大まかに、ごく手短に説明しますが、その前に尊敬すべき教区民にしてわたしの——友人である方々を紹介しましょう」その口調には、どこから見ても格下なのに、そんな相手を友人扱いするのは、自分を貶めすぎではないかという疑問がいくらかこめられていた。

 「こちらはミスタ・シャーノール。オルガン奏者で、わたしの指示のもと、礼拝の音楽を演奏しています。こちらはドクタ・エニファー。地元の優秀なお医者さんです。そしてこちらのミスタ・ジョウリフは商売をなさっているんですが、手の空いたときに教区委員として聖堂管理のお手伝いをしていただいています」

 医者とオルガン奏者は紹介を受けて、頷くような、肩をすくめるような仕草をした。それは主任司祭のうぬぼれて尊大ぶった態度に対する侮蔑をあらわし、万が一にも彼らがミスタ・ウエストレイと友達になることがあったとしても、それは決して参事会員パーキンの紹介のおかげではないだろうということを暗に示していた。それとは逆にミスタ・ジョウリフは、自分が主任司祭の友人に数え入れられたことの重みを充分に認識したらしく、恭しく一揖しながら丁寧に「何かあればわたしにおっしゃってください」と言い、謙虚に振る舞うすべをわきまえていて、これから世に出ようとしている若い建築家にいつでも惜しみなく保護の手を差し伸べる用意のあることを明らかにした。

 こうした主役たちの他にもその場には教会事務員と、通りから聖堂にぶらりと入ってきた数名の通行人役がいた。彼らは雨はしのげるし、午後のひとときを無料で楽しく過ごせそうだとご機嫌だった。

 「こちらでお会いすることをお望みじゃないかと思ったのですよ」と主任司祭が言った。「さっそくこの建物のひときわ目につく特徴をご指摘して差し上げることができますからな。サー・ジョージ・ファークワーは、この前お出でになった折、わたしの説明を明快だと言ってにこにこしながら褒めてくださいましたよ」

 すぐに逃れる道はなさそうだったので、ウエストレイは観念し、少人数の一団は濡れた外套や傘の匂いとあいまって独特の雰囲気を醸し出している身廊を歩き出した。教会の空気はひんやりと冷たく、濡れそぼった敷物の匂いがウエストレイの注意を屋根の雨漏りと床のあちこちにできた水たまりにむけさせた。

 「身廊がいちばん古いのです」とこの雄弁な案内人は言った。「ウォルター・ル・ベックによって千百三十五年に建てられました」

 「われわれのお友達はこの仕事を任せるには若すぎて経験不足じゃないかと、どうも不安でならないのだがね。あなたはどう思う」彼は脇をむいてすばやく医者に尋ねた。

 「ああ、あなたが手取り足取り多少指導なされば大丈夫だと思いますよ」医者はそう答えながら眉毛をつり上げて見せてオルガン奏者をにやりとさせた。

 「さよう、ここはすべてル・ベックが建てたのです」主任司祭はウエストレイのほうにむき直りながらつづけた。「崇高だと思いませんか、ノルマン様式の簡素さは。身廊のアーケードは吟味するに値しますぞ。それに交差部のこの素晴らしいアーチを見てください。もちろんノルマン様式ですが、なんと軽々としていることか。それでいて岩のように頑丈で、後代に架構された塔の莫大な重量をしっかり支えている。素晴らしい。実に見事だ」

 ウエストレイは上司が塔に不安を抱いていたことを思い出してランタンを見上げた。すると北側には以前、亀裂に煉瓦を詰めこんだ跡が筋のようについており、南側にはランタンの窓枠の下から細いぎざぎざの割れ目が稲妻を刻印したかのように走っているのが見えた。彼は「アーチは決して眠らない」という古い建築の諺を思い出した。四つの大きな美しい半円形を見上げていると、それらがこう言っているように思われた。

 「アーチは決して眠らない。決して。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」

 「素晴らしい。実に見事だ!」主任司祭はつぶやきつづけた。「大胆なことをやる連中ですな、ノルマンの建築者たちは」

 「ええ、そうですね」とウエストレイは応ぜざるを得なかった。「しかしこの塔がアーチの上に積み上げられるとは思っていなかったでしょう」

 「なに、アーチが不安定だってことかね」オルガン奏者が口をはさんだ。「実はわたしもそんな気がしていたんだよ、何度も」

 「さあ、それはどうでしょうか。われわれが生きているあいだは持ちこたえると思いますよ」ウエストレイはさりげなく、安心させるように言った。塔に関してはいらぬ波風を立てるなと特に注意されていたことを思い出したのだ。しかし頭の上を見ると、天に登ろうとしたギリシア神話の巨人たちではないけれど、ペーリオン山にオッサ山を積み重ねたような気がしてならず、交差部の巨大なアーチに対する不信感は拭いようもなかった。

 「そんなことはありませんよ、あなた」主任司祭はこのとんでもない誤解に寛大な笑みを浮かべて言った。「このアーチなら心配には及びません。ここではじめてお会いしたときにサー・ジョージがこうおっしゃったんですよ。『主任司祭さん、カランには四十年お住まいとのことですが、塔が動いたような形跡はありませんでしたか』わたしはこう言い返したんです。『サー・ジョージ、費用の支払いを塔が倒れるまで待っていただけますかな?』はっ、はっ、はっ!冗談がお分かりになったようで、それ以後塔の話は出たことがありません。サー・ジョージはきっとあなたに周到な指示をお与えになったのでしょうな。さて、サー・ジョージに聖堂の中を直々に案内して差し上げた栄誉に免じて、どうか南袖廊のほうへお進みいただけませんか。サー・ジョージがどこよりも緊急に修復すべきとお考えになったところをご覧にいれましょう」

 彼らは袖廊に移動した。その途中で医者がウエストレイを引き留め話しかけてきた。

 「死ぬほどうんざりすると思うよ、あいつの無知とうぬぼれには。あいつの話など聞き流しておけばいい。ただきみには機会がありしだいさっそく頼んでおきたいと思っていたことがあるんだ。修復工事がどう行われるのか、費用がどれだけ限られているのか知らないが、ともかく床だけは衛生的にしてくれないか。この石をほじくり返して、その下に一フィートか二フィート、セメントを流しこんでくれ。死者が生者に毒を吹きかけるのを放っておくことくらいひどい話もないだろう?この床のすぐ下には何百という墓があるに違いない。それにまわりの水たまりを見てくれ。非衛生きわまりないじゃないか」

 彼らは南袖廊にいて、主任司祭がちょうど屋根の破損を指さしたところだった。それは実際、示されるまでもない有様だった。

 「ここはブランダマー側廊とも呼ばれています。長年ここに埋葬されてきた貴族の一族の名を取りましてね」

 「彼らの地下納骨所はきっと恐ろしく非衛生的な状態ですよ」医者が口をはさんだ。

 「ブランダマー家は聖堂全体の修復を引き受けるべきだよ」オルガン奏者が苦々しく言った。「まともな心ある人間ならそうするだろう。彼らはクロイソス王のように金持ちで、一ポンドをなくしても、普通の人が一ペニーをなくしたときより惜しいとは思わない連中だ。衛生うんぬんという話なんかどうでもいいさ。今のままだって充分用は足りる。床を掘り返したって、黴菌が出てくるだけだ。建物には手をつけなくてもいい。屋根の雨漏りを直して、オルガンに百ポンドが二百ポンド、金をつぎこんで欲しい。それがわれわれの望んでいることだ。ブランダマー家がけちのしわんぼうでなければ、それくらいやってくれてもよさそうなものだが」

 「失礼だがね、ミスタ・シャーノール」と主任司祭が言った。「世襲貴族というのは大切な制度だから、そういう方々の批判はごく慎重にしなければならないと思うね。でも同時に」彼は弁明するようにウエストレイのほうを振りむいて言った。「友人の意見には一抹の真実があるかも知れません。ブランダマー卿が気前よく修復費用を出してくれはしないかと期待していたのですが、今までのところ音沙汰なしです。もっともお返事が遅れているのはずっと外国にいらっしゃるせいだと思いますがね。卿は昨年おじい様から地位をお継ぎになりました。お亡くなりになった先代はこの聖堂にあまり関心をお持ちではありませんでしたし、実はいろいろな面でひどく変わった性格の持ち主でした。しかしこんなことを蒸し返しても仕方がありませんな。ご老体はお亡くなりになったのですから、お若い御当主からよい知らせがあることを祈るしかありません」

 「若くはないですよ」と医者が言った。「まあ、八十五で死んだおじいさんに比べれば若いでしょうが、少なくとも四十にはなっているはずですから」

 「まさか。いや、そうなのかな。彼のご両親が亡くなったのはわたしがカランに赴任した最初の年のことでした。覚えているかね、ミスタ・シャーノール——コリサンド号がパリオン湾で転覆したときのことを」

 「ああ、よく覚えてますわい」と教会事務員が割りこんできた。「結婚なすったときのことも。わしらが鐘を鳴らしておったら石工の爺さんのパーミターが聖堂に飛びこんできて『おまえら、やめんか。鐘を打つな。この古い塔が倒れるぞ。ぐらぐら揺れて、ひび割れたところから埃が雨のように降っている』と言うんでさ。それで聖堂を出ました。中止になったのは好都合でしたがね。なんたってロンドン・ロードの牧草地では飲めや歌えやの祝宴が開かれとって、わしらも行きたくてしょうがなかったですから。今度お告げの日(註 処女マリアの受胎告知を祝う三月二十五日)が来りゃ、あれから四十二年経つことになります。感心しねえって頭を振るやつもいましたよ。ピールを中断するのは命や幸せの中断につながるってね。でも、しょうがねえじゃねえですか」

 「その後、塔の補強をしたのですか」とウエストレイが訊いた。「今もピールを鳴らすと異常な動きがありますか」

 「とんでもねえ、旦那。あの前も三十年間鳴らされねえままだったんで。あのときだって鳴らすつもりはなかったんだが、トム・リーチが『鐘紐があるじゃねえか。いっちょう鳴らしてやろうぜ。三十年鳴っていねえんだ。最後に鳴ったのがいつかも思い出せねえ。そのとき弱っていたとしても、たっぷり時間があったからもう回復しているさ。ピールを鳴らしたやつには半クラウン出すぜ』って言うものでね。それでパーミターの爺さんに止められるまで鳴らしたってわけで。それからというものあの鐘は一度も鳴らされちゃおりません。間違いないですよ。あそこに紐がありますがね」そう言って彼ははるか頭上のランタンから垂れ下がり、壁にくくりつけられている鐘紐を指さした。「ありゃあ、礼拝用の鐘を鳴らすためのものですが、それだって大きい鐘じゃねえですからな」

 「サー・ジョージはそういうことをみんな知っていたんですか」ウエストレイは主任司祭に訊いた。

 「いいえ、ご存じじゃなかったでしょう」主任司祭は幾分いらいらした口調で言った。「お話しなければならないほど重要なことではありませんし、こちらにいるあいだはもっと緊急な問題に時間を取られていらっしゃいましたから。今の昔話など、わたし自身もはじめて聞きましたよ。鐘を鳴らしていないのは事実ですが、それは揺れを支える鐘枠が弱っているようだからで、塔自体とは何の関係もありません。わたしの言うことのほうが間違いありませんよ。サー・ジョージがお尋ねになったとき、申しあげたのです。『サー・ジョージ、わたしはここに四十年住んでいますが、この塔が倒れるまでお支払いを延ばしてくださるなら、こんなに嬉しいことはありません』とね。はっ、はっ、はっ!サー・ジョージもこの冗談を聞いて大笑いでしたよ!はっ、はっ、はっ!」

 ウエストレイはピールが中断された話を本社に伝え、自分自身のためにも早期に塔の検査をしようと固く決意して顔を背けた。

 教会事務員は話をしても主任司祭がまともに取り合おうとしないので腹を立てたが、他の人が興味深そうに耳を傾けているのを見て次のようにつづけた。

 「そりゃ、この古い塔が倒れるかどうかなんて、わたしにゃ分かりませんし、この先サー・ジョージがお困りになるような事態も望んじゃいませんや。しかし鐘を途中で止めていいことのあったためしがねえんで。先代のブランダマー卿の場合がそうでした。まずご子息とご子息の奥様をカラン湾でお亡くしになりました。昨日のことのように思い出しますな、わしらは夜通し引っ掛け鉤でお二人を捜したんですが、朝になって潮が差してきたとき、三尋の深さのところに寄り添うように二人の死体を見つけました。それから今度は奥様と仲違いなさり、奥様は二度と口をきこうとしませんでした——ええ、死ぬ日までね。ご夫婦はフォーディングに住んどったんですよ——あそこにでっかい屋敷を構えとりましてね」彼は親指で東のほうをさしながらウエストレイに言った。「二十年間、別々の棟に、まるで自分の家みてえにして住んどったんで。それから孫のミスタ・ファインズと喧嘩なさって、家からも土地からも追い出しておしまいになった。もっともお亡くなりになったときゃ、家も土地もお孫さんに残すしかなかったんですがね。このミスタ・ファインズというのがお若い御当主なんでして。外国を渡り歩いて人生の半分を過ごし、まだお戻りじゃないんですよ。もしかしたら戻らないかも知れませんな。殺されたってことも充分ありえます。さもなきゃ、きっと司祭さんの手紙に返事を書いているでしょうから。そう思いませんか、ミスタ・シャーノール」彼は不意にオルガン奏者のほうを振りむき、片目をつぶって見せた。主任司祭が彼の話を鼻であしらったことへの仕返しのつもりだった。

 「もうよさないか。そんな話はたくさんだ」と主任司祭が言った。「聞き手が嫌がっているじゃないか」

 「彼は口まめな男でしてね」彼はウエストレイの腕を取ると低い声で言った。「しゃべり出すと止まらないのです。サー・ジョージと相談したことは他にもたくさんありまして、われわれがどういう結論に達したのかお話したいのですが、あのおしゃべり男に邪魔されたのが悔やまれますな。視察は明日済ませることにしましょう。今の時期は日暮れが早くて残念です。袖廊の端の窓にはなかなかいい絵ガラスがはめられているんですよ」

 ウエストレイが上を見ると、袖廊の端の大きな窓が鈍く光っていた。光っているといっても聖堂の内部に垂れこめる夕闇に比べれば明るいといった程度である。それは垂直様式の時代に造られた大きなもので、幅は壁一杯に広がり、高さもほぼ床から天井まであった。十一の小さな窓に仕切られ、上部に果てしなく細かい石細工を施したこの巨大な窓は、想像力を揺さぶった。縦仕切りと狭間飾りが外に残っている陽の光を受けて黒く浮かび上がり、建築家は補助アーチや狭間飾りの構造を、見取り図を前にしているかのように、楽々と見て取ることができた。日没は日暮れ時の陰鬱な帳を吹き払う夕陽のきらめきをもたらしはしなかったが、単調な灰色の空はまだ充分に明るく、熟練した目には窓の上部にいろいろな形の古いガラスがびっしり填めこまれているのが見えた。半透明の青や黄や赤が古いパッチワークのキルトのように、彩りよく混じり合っているのだ。窓の下の方、両脇の小窓は着色されておらず、幽霊のように白いままだった。しかし中間部の三つの小窓は十七世紀の鮮やかな茶色と紫色に満たされていた。この豊かな色のあちらこちらにメダイヨンが挿入されていて、どうやらそれぞれ聖書の一場面をあらわしているようだった。それぞれの小窓の上部、茨の下には紋章が描かれている。中間部分の上部が全体の構成の中心をなしていて、どうやら銀色の楯の表面を、海緑色の波形線が何本か横切っている図像が描かれているようだった。ウエストレイは変わった色使いとガラスの透明感に注意を奪われた。すべてものが薄ぼんやりと見える中で、そのガラスだけはまるで内側から光を放射しているようだった。彼はほとんど無意識のうちに、これは誰の紋章なのかと尋ねようとして振り返った。しかし主任司祭はちょっと前から彼のそばを離れ、ややへだたった身廊のほうから癇に障る「はっ、はっ、はっ!」が聞こえてきたので、彼はサー・ジョージ・ファークワーと支払い延期の話がまたもや夕闇の中で新たな犠牲者に語られたのだと確信した。

 しかし建築家の心の内を明らかに見抜いた者がいた。というのは鋭い声がこう言ったからである。

 「それはブランダマー家の紋章だよ。——雲形線が楯を六つに等分割しバーリイ・ネビュリー・オブ・シックス銀色アージェント緑色ヴァートが交互に重なっている」ますます濃くなる夕闇の中、彼のそばに立っていたのはオルガン奏者だった。「こりゃうっかりした。そんな専門用語を使ったってお分かりにならないだろうね。それにわたし自身、紋章なんてこの一つしか知らないんだ。ときどき思うんだよ」彼はため息をついた。「この紋章のことも知らなければよかったってね。あの楯についてはおかしな逸話が幾つかある。たぶんそれ以上に奇妙な話もまだあるんじゃないだろうか。いいにつけ、悪いにつけ、あれはこの聖堂や、この町に何世紀にもわたって刻みこまれてきた。居酒屋にたむろする連中ならみんな『雲形紋章』のことを自分が着ている服みたいにしゃべってくれるよ。カランに一週間もいたら、あんたもあれとはお馴染みになるだろう」

 彼の声には、その場にふさわしくないある種の憂愁と真剣さがこもっていた。ウエストレイは奇妙な感じがしてオルガン奏者をじっと見つめた。しかし暗すぎて相手の顔の表情は読み取れなかった。しかもその瞬間、主任司祭が彼らに加わった。

 「え、何ですか?ああ、そうです、雲形紋章です。雲形ネビュリーというのはラテン語の『ネビュルム』、いや、『ネビュルス』かな、雲を意味する単語から来ていて、あの波打つような帯状の線を指しています。積雲をかたどったものと考えられているんですがね。どうも暗くなりすぎて今晩はこれ以上視察できませんな。しかし明日は一日中ご一緒できますよ。あなたの興味をひきそうなことをたくさんご説明申し上げることができます」

 ウエストレイは暗闇のせいで調査が中断したことを残念に思ってはいなかった。聖堂の空気は刻一刻と冷たくねっとりしてくるし、疲れて腹が減り、しかもひどく寒気がした。彼はできることならさっそく下宿を探し、ホテルの高い宿泊費を払うことは避けたいと思っていた。彼の給料はささやかなものでしかなかったし、ファークワー・アンド・ファークワー社は他の会社と比べて決して部下に気前よく旅費を出すほうではなかったのである。

 彼は適当な下宿部屋はないだろうかと尋ねた。

 「申し訳ない」と主任司祭が言った。「残念ながらわたしの家にお迎えすることができないのですよ。あいにく妻の気分がすぐれないものですからね。わたしはもちろん下宿屋とか下宿屋の経営者なんぞはあまり知らないんですが、しかし、ミスタ・シャーノールが相談にのってくれるでしょう。ミスタ・シャーノールが下宿しているところに空き部屋があるかも知れませんよ。あなたの下宿屋の女主人は尊敬すべきわたしたちの友人ジョウリフさんの親戚だったね、ミスタ・シャーノール。きっと彼女も立派な女性に違いない」

 「失礼ですが、主任司祭」教区委員がはるか高位者にむかって用いることができる、ありったけの憤慨をこめた声で言った。「失礼ですが、親戚なんかじゃありませんよ。名前が同じというだけ、あるいはせいぜいのところ、うんと遠いつながりというだけなんですから。これでもキリスト教的寛容の精神を最大限に発揮して我慢して言っているんですがね、わたしたちの側の親族としてはあんな人がいたって、ちっともうれしくないんで」

 オルガン奏者は主任司祭がウエストレイを同じ下宿に住まわせてはどうかと言ったとき顔をしかめたが、ジョウリフに下宿の女主人をけなされ頭に来た様子だった。

 「あんたの側のどの親族も、わたしの下宿の女主人ほど体裁が悪くはないというなら、大手を振って往来を歩くがいいさ。あんたの売っている豚肉がみんな彼女の貸間くらい上等なら、商売は大繁盛するだろう。さあ、来たまえ」彼はウエストレイの腕を取って言った。「わたしには急に病気になるような連れ合いはない。だからわたしのうちであなたを歓迎してさし上げよう。途中でミスタ・ジョウリフの店に立ち寄って、夕ご飯用にソーセージを一ポンド買っていこうか」

第二章

 扉を開けると建物の中に外気が勢いよく流れこんだ。雨脚はいまだに激しかったが、強く吹き出した風が清々しい潮の香りを含み、聖堂内の息苦しい、朽ち果てた雰囲気とは際だった対照をなした。

 オルガン奏者は深呼吸した。

 「ああ、外に出るとせいせいするな——連中の小うるさい文句から解放されて。もったいぶったろくでなしの主任司祭や、偽善者のジョウリフや、知ったかぶりのお医者様から解放されて!地下納骨所をセメントで固めるなんて、どうして無駄なことに金を使いたがるのだ?病原菌をほじくり返すだけのことじゃないか。おまけにパイプオルガンには一銭も使おうとしない。ファーザー・スミス(註 十七世紀のオルガン制作者)のオルガンには一ペニーも金をかけようとしない。渓流のように清らかで美しい音を出すというのに。まったくひどすぎる!白鍵は痛々しいほどすり減っているし、鍵盤のあいだに溝ができて木肌が見えているんだ。足鍵盤は短すぎてぼろぼろ。いやはや、あのパイプオルガンはわたしにそっくりさ。年老いて、無視され、くたびれきっている。死んだほうがましだよ」彼は半ば独り言のようにしゃべっていたが、ふとウエストレイのほうを振りむいて言った。「不平を並べて悪かったね。あんたもわたしの歳になれば不平を鳴らすようになる。少なくとも、その歳になってわたしくらい貧乏で、ひとりぼっちで、未来に希望がなければ。さあ、こっちだ」

 彼らは暗闇の中に足を踏み出し——とっくに夜の闇が降りていた——水を撥ね散らかしながら、暗い芝生の上を流れる、白い小川のような、輝く板石敷きの道を進んだ。

 「近道しよう。街灯のない小径なんだけど」境内を離れるときオルガン奏者が言った。「そのほうが早く着くし、雨に当たらずにすむ」彼は急に左に曲がって路地に入りこんだが、そこがあまりに狭くて暗いものだから、ウエストレイは彼についていくことができず、闇の中を不安そうに手探りした。小男が戻ってきて彼の腕を取った。

 「先導してあげよう。この道はよく知っているんだ。まっすぐ歩きたまえ。段差はないから」

 家々には人の気配もなければ灯りもついていなかった。曲がり角に街灯がぽつんと一灯、わずかに揺らめく光りを投げかけていたのだが、そこまで来たとき、ようやくウエストレイは窓にガラスがはまっておらず、どの家も空き家であることに気がついた。

 「ここは旧市街さ」オルガン奏者が言った。「もうどの家にも誰も住んじゃいない。時流に流されやすいわれわれは、みんなこの先のほうへ移ってしまった。川から吹いてくる風は湿っぽいし、波止場の風紀はそりゃあ悪いからね」

 彼らは狭い路地を離れ、川沿いに長く延びた波止場らしき場所に出た。右側には使われていない倉庫が四角い正面をむけて、巨大な荷箱のように一列に並んでいる。左側からは係船柱のあいだを流れる川水の音や、岸壁を舐める波の音が聞こえ、東風が川面にさざ波を立てていた。昔の馬車鉄道の線路が今も波止場を貫くように残っていて、二人はつまずかないよう注意して歩きながら、とうとう右側の大倉庫の列が一軒の低い建物によって途切れるところまでやってきた。それは教会か礼拝堂らしく、石の狭間飾りに、縦仕切りで仕切られた窓があり、西の端には鐘塔が建っていた。しかし何よりも目をひいたのは、道路に面した壁面を支える重量感あふれる控え壁だった。煉瓦造りで、地面とそれが支える壁とで三角形を形成している。建物の下には濃い影が落ちていたが、控え壁のあいだのくぼみが他のどこよりも黒々としていた。ウエストレイは同伴者の手が腕を強く握りしめるのを感じた。

 「あきれた臆病者と思われるかも知れんが」とオルガン奏者は言った。「わたしは夜はこの道を通らないんだ。今夜もきみがいなければここには来なかっただろう。子供のときから控え壁のあいだの暗闇が怖くて、今だに恐怖感が克服できない。昔は、あの洞窟みたいな深みに悪魔や鬼がうろついていると思っていたが、今は悪者があの暗がりに隠れていて、道行く人に飛びかかり首を絞めようと待ちかまえているような気がするんだ。寂しい場所だからね、この古い波止場は。夜になると——」彼はことばを切ってウエストレイの腕をつかんだ。「ほら、いちばん端のくぼみに何かいるんじゃないか」

 不意を突かれてウエストレイは思わず身震いし、一瞬、建築家は隅の控え壁の暗がりに男が立っているのを見たような気がした。しかし二三歩近寄ってみると、影を見間違えただけで誰もいないことが分かった。

 「相当神経質になっているようですね」彼はオルガン奏者に言った。「誰もいませんよ。光りと影の具合で錯覚しただけです。これは何の建物なんですか」

 「昔はフランシスコ修道会の寄進礼拝堂だったんだ」とミスタ・シャーノールは答えた。「その後、カランが本格的に港として賑わうようになると、ここで輸入品に物品税をかけていたのさ。今でも保税倉庫と呼ばれているくらいだ。しかしわたしが記憶するかぎりずっと閉まったままだがね。きみは物とか場所が人間の運命と固く結びついている、なんてことを考えるかい。どうもこのおんぼろ礼拝堂はわたしにとって命に関わる場所のような気がする」

 ウエストレイはオルガン奏者の聖堂での振る舞いを思い出し、この人は頭がおかしいのではないのかと思いはじめた。相手はそれを察知して、非難するようにこう言った。

 「とんでもない、わたしは狂ってなんかいないよ——愚かで、間抜けで、ひどく臆病なだけだ」

 彼らはすでに波止場のはずれに達し、明らかに文明の世界に戻ろうとしていた。というのは音楽が聞こえてきたからである。小さなビヤホールから流れてきたのだが、そばを通るとき中から女の歌声が聞こえた。豊かなコントラルトで、オルガン奏者はしばらく足を止めて聞き入った。

 「いい声をしている。歌の勉強をしていたらうまくなっていたのに。どうしてこんなところに来たのだろう」

 ブラインドは下ろされていたが、窓の下には届ききっておらず、彼らは隙間を通して中を覗いた。雨の雫がガラスの外側をしたたり、ガラスの内側は結露していたため、はっきりとは見えなかったが、クレオールの女が部屋の隅の火のそばに座る酔っぱらいたちに歌を歌っていることは分かった。中年の女だったが、甘い歌声で、老人が竪琴で伴奏をしていた。

 どうかわたしを連れてって 愛する人がいる場所へ

 かれらをここに連れてきて それがだめというのなら

 荒れた海のむこうまで

 さまよう気力はとてもない

 「かわいそうに!」とオルガン奏者は言った。「何か不幸に遭って、あんな浅ましい連中に歌を歌う羽目になったのだろう。さあ、行こう」

 右に曲がって数分歩くと大きな通りに出た。二人の目の前に建っていたのは、かつては立派なたたずまいを見せていただろうと思われる家であった。柱に支えられたポーチがあり、その下には半円形の階段が両開きの戸口までつづいている。正面には街灯が立っていて、雨にきれいに洗われて異常なくらい輝かしい光りを放ち、夜でもその家の落魄した姿を浮かび上がらせていた。廃屋というわけではないが、ペンキのはげた窓枠や、何カ所か漆喰のはげたあら塗り仕上げの正面には「栄光は去れり」(註 サムエル記から)の文字が書き記されていた。ポーチの柱は大理石に似せてペンキが塗られていたのだが、化粧漆喰がはげて薄汚れたまだら模様をつくり、そこから煉瓦の芯が覗いていた。

 オルガン奏者がドアを開けると、そこは石床の玄関ホールになっていて、左右に黒ずんだドアがあった。幅の広い石造りの階段が浅い踏み段と鉄の手すりを備え、玄関から二階へと延びている。板石の上にはすり切れたマットがむこう端まで小道をつくり、さらに階段を登るようにつづいていた。

 「ここがわたしの町屋敷さ」とミスタ・シャーノールが言った。「昔は乗り継ぎ用の馬を交換する宿で『神の手』と呼ばれていたんだ。でもその名前は決して口にしちゃいけないよ。今は個人の持ち家となって、ミス・ジョウリフがベルヴュー・ロッジと命名したんだから」

 彼がしゃべっているときドアが開いて一人の娘が玄関ホールに出てきた。歳は十九歳くらい。背が高く、気品のある容姿の持ち主である。赤みがかった茶色の髪は真ん中で分けられ、あふれるようなそれを後ろで緩くまとめていた。整えているとも自然ともいえない一世代前の結い方だった。その顔は少女時代の丸みを帯びた輪郭を保ち、繊細な輝きも失っていなかったが、未熟さの印象を否定する何かを持っていて、彼女の人生が必ずしも苦難と無縁ではなかったことを暗示していた。彼女は身体にぴったりした黒のドレスを着て、淡い色の珊瑚の首飾りをつけていた。

 「こんばんは、ミスタ・シャーノール。濡れてしまいましたわね。大したことなければいいけど」彼女はすばやく探るような視線をウエストレイに投げかけた。

 オルガン奏者は彼女を見て不機嫌そうな顔をし、怒ったようにうなって「叔母さんはどこだね。話があると伝えてくれ」と言い、玄関につながる部屋の一つにウエストレイを引っぱっていった。

 そこは大きな部屋で、片隅にアップライトピアノがあり、大量の本と手書きの楽譜が散らかっていた。中央のテーブルにはお茶の用意がしてあり、火格子の中では火が赤々と燃えている。その両脇には藺草で座部を張った肘掛椅子があった。

 「座りなさい」と彼はウエストレイに言った。「ここがわたしの応接室だ。もうすぐミス・ジョウリフがきみのためにどういう手はずを整えてくれるか分かるだろう」彼は相手をちらと見て、「廊下で会ったのは彼女の姪さ」と付け加えたのだが、何気ない口調を装うとしすぎて意図していたのとは反対の効果を与えてしまった。ウエストレイは、あの若い女を人に見せたくない、何か理由でもあるのだろうかと思った。

 しばらくして女主人があらわれた。六十になるこの女性は背が高くて痩せており、感じのいい、気品すらある顔立ちをしていた。彼女も古くてみすぼらしい黒のドレスを着ていたが、その外見は、痩せているのは生まれつきの体質というより、窮乏と自制が原因らしいことをそれとなく示していた。

 入居の手はずは簡単に整った。問題を提起したのはかえってウエストレイのほうだった。彼はミス・ジョウリフの申し出た家賃が不当に安すぎるのではないかと気になったのである。彼ははっきりそう言うと、家賃を少しだけ割り増しすることを申し出た。それは短い逡巡のあと、ありがたく受け入れられた。

 「貧乏しているくせに良心的すぎるぞ」オルガン奏者は噛みつくように言った。「今からそんなに几帳面じゃあ、修復工事でたんまりもうけたあかつきには、鼻持ちならん人間になっているわい」しかし彼はミス・ジョウリフに対するウエストレイの気遣いを明らかに喜んでいて、温かい口調でこう言い添えた。「一階のわたしの部屋で一緒に食事しよう。きみの部屋はこんな晩は氷室みたいになっている。すぐ降りてくるんだよ。さもないと亀のスープは冷えてしまうし、ほおじろの肉は焼けすぎて炭になってしまう。夜会服を着てくることは免除してあげよう。大礼服を持っているなら話は別だが」

 ウエストレイは喜んで招待を受け、一時間後に彼とオルガン奏者は暖炉をはさんで藺草張りの肘掛椅子に座っていた。ミス・ジョウリフがみずからテーブルを片付け、タンブラーとワイングラスを二つずつ、それに砂糖と水差しを持ってきた。まるでそれらがオルガン奏者の居間にあってしかるべきものだとでもいうように。

 「教区委員のジョウリフには悪いことを言ってしまったな」ミスタ・シャーノールは心ゆくまで食事をしたあとの瞑想的な気分に浸って言った。「あそこのソーセージはなかなかうまい。もっと石炭をくべたまえ、ミスタ・ウエストレイ。九月に火を入れるなんて罪深い贅沢だ。石炭はトンあたり二十五シリングだしね。しかし修復工事の開始ときみの歓迎のために何かお祝いをしなければならない。煙草をパイプに詰めて、わたしに回してくれ」

 「ありがとうございます。でも煙草はやらないので」とウエストレイは言った。実際彼は煙草を吸うようには見えなかった。彼の顔には根っからの禁酒家が持つかすかな冷淡さがあり、煙草を吸うなど自分にとっては犯罪に等しく、自分ほど気高い道徳規準を持たない人にあっては不作法を意味すると語っているかのようだった。

 オルガン奏者はパイプに火をつけ、話をつづけた。

 「ここは風通しのいい家だよ——衛生的でわれらが友人のお医者様も満足なさるだろう。どの窓にもひび割れ、隙間があって、換気には細心の注意を払っている。昔は古い宿屋だったんだよ、このあたりにもっと人がいた頃はね。正面が雨に濡れると今でもペンキを透かして『神の手』という字が読める。この外で市が開かれていたんだ。百年以上前だが、リンゴ売りの女がちょうどこの家のドアの前で青リンゴを客に売っていた。客は金を払ったと言うんだが、女は受け取っていないと言う。それで喧嘩になって、女は嘘をついていないことを証明するため天にむかって呼びかけたのさ。『神様、もしもわたしが客の金に手を触れていたら、どうぞ打ち殺してくだされ』とね。そのことば通り、彼女は絶命して小石の上に倒れた。手には銅貨が二枚握られていたよ。そんなもののために魂を失うとはね。人々は神の正義が示されたことをちゃんと後生に伝えるためには、宿を建てるのがいちばんだと、さっそくそう考えた。それで『神の手』が建てられ、カランが栄えていたときは栄え、カランがうらぶれるのと一緒にうらぶれたのだ。わたしが物心のつく頃からずっと空き家だったのだが、十五年前にミス・ジョウリフが買い取った。彼女がここを高級下宿屋ベルヴュー・ロッジに変え、あのけちんぼ地主のブランダマー老人が修繕費用として寄こしたなけなしの金をつぎこんで正面の『神の手』という文字をペンキで消したのだ。ここはカランに来たアメリカ人の保養施設になるはずだった。旅行案内を見るとピルグリム・ファーザーズの父親が何人かカランに埋葬されているということで、アメリカ人がカラン大聖堂までやって来るらしい。しかしアメリカ人なんて見たことがない。わたしの目につかないところにいるんだろう。子供のときから六十年ここに住んでいるが一ペニーだってアメリカ人がカラン大聖堂に寄付したり、ミス・ジョウリフのために使ってくれたって話は聞いたことがない。連中は誰もベルヴュー・ロッジにやって来ないし、高級下宿屋は高級すぎて下宿人がきみとわたしだけというありさまだ」彼は一息ついてから話をつづけた。「アメリカ人か。感心しないね、アメリカ人というのは。わたしから見るとずいぶん図々しい連中だよ。自分の楽しみのためには大金をつぎこみ、ときには大口の寄付をして格好いいところを見せるが、ちゃんとそのことが喧伝されるということを見越した上でやっているのさ。彼らには温かい心ってものがない。アメリカ人なんて気に入らないね。でもきみ、アメリカ人に知り合いがいるのなら、わたしは金次第でころっと意見を変える人間だからね。誰かわたしのオルガンを直してくれたら、アメリカ人みんなを褒め称えるよ。ついでに送風器として小さいウオーター・エンジンもつけてくれなければいけないよ。カリスベリ大聖堂でオルガンを弾いているシャターは最近ウオーター・エンジンを取りつけてもらってね。カランにも新しい水道ができたんだから、われわれだって使えるはずなんだ」

 ウエストレイは興味がなかったので、話題を戻した。

 「ミス・ジョウリフは生活が苦しいんですか。昔は裕福だった感じですが」

 「苦しいなんてものじゃない。飢え死に寸前だよ。いったいどうやって生計を立てているのやら。助けたいのは山々なんだが、こっちも懐中無一文だし、金があったとしても彼女はプライドが高いから受け取りゃせん」

 彼は部屋の奥のくぼみに据え付けられた棚のところへ行き、ずんぐりした黒い瓶を取り出した。

 「貧乏というのは寒気のする主題テーマだね。変奏ヴァリエーションに入る前に一杯やって暖まろう」

 彼は瓶を友人のほうに押しやった。ウエストレイはつい手を出しかけたが、先頃固く決意した節制の誓いが彼を引き留め、丁寧なことばで誘惑を退けた。

 「困った男だな」とオルガン奏者は言った。「どうしろというのだ。酒は飲まん、煙草も吸わん。そのくせ貧乏について話をしたがる。これは弁護士のマーテレットがくれたブランデーだよ。娘の結婚式にウエディングマーチを演奏したお礼だ。『ウエディングマーチはオルガン奏者ミスタ・ジョン・シャーノールによって華麗に奏せられた』まるでオルガン・ソナタ第四番のごとくにね。こいつはきっと関税を払っていないぞ。物品税を払った酒を六本も人にやるようなやつじゃないからな」

 彼はウエストレイが思っていたよりはるかにたっぷりと酒を注ぎ、相手の驚きに感づくと、たしなめるようにこう言った。「きみが上物を厭がって飲まないから、わたしが二人分の義務を果たさなければならない。教会の窓のてっぺんまで注げ、これが原則だ」彼はさらに注ぎ足して、タンブラーの上半分についている刻み目のいちばん上まで満たしてしまった。しばらく沈黙がつづき、そのあいだ彼は怒ったようにパイプをふかしていたが、タンブラーの酒をしこたまあおると、苦虫は溶けて消え、再び話しはじめた。

 「わたしはかけがいのない生活苦を味わってきたが、ミス・ジョウリフの苦労はもっと深刻だ。それにわたしの場合は運の悪さに感謝すればいいだけだが、彼女の苦労は他人のせいだからね。まずお父さんが死んだ。お父さんはウィドコウムに農場を持っていて、裕福な暮らしをしていると思われていたが、資産を整理すると、債権者に金を払ったらきれいになくなる程度でしかなかった。それでミス・ユーフィミアは家を手放し、カランに来たのだ。こんなやたらとあちこちに張り出した家を選んだのは、賃貸料が年に二十ポンドと安かったからだよ。姪には(さっき見た娘だ)実を与えて自分は皮を食べるといったその日暮らし、いやかつかつの生活をしていた。そうしたら一年前、兄のマーチンが無一文のうえに、身体に麻痺を抱えて戻ってきた。ずぼらな糞ったれさ。おいおい、予言者のうちなるサウル(註 サムエル記から。本章末尾註も参照)を見るみたいな、そんな顔はしないでくれ。あいつはわたしと違って酒を飲まなかったよ。飲んでいればもっとましな人間になっていたかも知れんがね」オルガン奏者はまたずんぐりした瓶に手を伸ばした。「酒を飲んでいたら彼女に迷惑をかけることも減っていただろう。ところがいつも借金してトラブルに巻きこまれ、避難場所に帰るように妹のところへ帰ってくる。彼女に愛されていることを知っていたのだな。彼は頭がよかった。今風にいえば切れる男だった。しかし水みたいに落ち着きがなく、辛抱がきかないのだ。彼は妹にたかるつもりはなかったと思う。たかっていることに気がついてもいなかっただろう。しかしやっていることはそういうことだったのさ。彼は何度も旅に出た。どこに行くのか誰も知らない。もっとも何を探しているのかはよく知っていたがね。あるときは二ヶ月、あるときは二年間いなくなった。そのあいだ、ずっとミス・ジョウリフがアナスタシア——つまり姪——を養い、夏のあいだだけでも下宿人ができたりして、ようやく苦労から抜け出せそうだと思ったら、マーチンが舞い戻り、借金返済のために金をせびったり彼女の貯えを食いつぶすのだ。わたしは何回もその光景を見たし、彼らのことを思って何度も胸を痛めた。しかしわたしに何ができるというのだ?こっちも素寒貧だというのに。一年前、最後に彼が戻ってきたとき、顔に死相が浮かんでいたよ。それを見てわたしは喜び、彼らに心配をかけるのもこれで終わりだと思った。けれどもそれは麻痺だったのだ。それに彼は丈夫な男で、馬鹿のエニファーが彼を殺すのにえらく手間取った。彼が死んだのはほんの二ヶ月前さ。あの世ではもっと幸せに暮らしていることを願って乾杯しよう」

 オルガン奏者は不作法にならない程度に酒をしたたかあおった。

 「そんな陰気な顔はよしてくれ。いつもこんなにひどい訳じゃない。元手がないんでね。マーテレットから毎日ブランデーがもらえるわけでもないし」

 過度の不節制に思わず顔をしかめていたウエストレイは、非難がましい表情を打ち消すと、次のような質問をしてミスタ・シャーノールの舌を再び滑らかにした。

 「ジョウリフは何のために旅に出たんですか」

 「ああ、そいつは長い話だ。またもや雲形紋章さ。教会で話しただろう——銀色と海緑色が彼を狂わせたのだ。自分はジョウリフ家の者ではない、ブランダマー家の一員だ、そしてフォーディングの正当な後継者だ、彼はそう思いこんだのだ。子供のときはカラン・グラマー・スクールに通い、成績は優秀、オックスフォードでは奨学金をもらった。大学ではさらに優秀な成績を収め、世の中に出て出世街道をまっしぐらというときに、この雲形紋章が熱病のように彼をつかまえ、彼の心に取り憑いてしまった。後年、彼の身体をじわじわと侵していった麻痺みたいにね」

 「よく分からないのですが」とウエストレイは言った。「なぜ彼はブランダマー家の人間だと思ったのですか。父親が誰か、知らなかったのですか」

 「彼は十五年前に死んだ小地主、マイケル・ジョウリフの倅として育てられた。だがね、マイケルの結婚相手は自称未亡人で、三歳になる男の連れ子がいたんだな。その子がマーチンなんだ。マイケルは彼を自分の子供として引き取り、彼の頭のよさを自慢にし、大学にやり、遺産をすべて彼に残した。オックスフォードでうぬぼれ出すまで、ジョウリフ家の人間じゃないんだ、などという話はしていなかったのだが、突然この気まぐれな考えに取り憑かれ、残りの人生を父親探しについやしたというわけだ。荒野をさまようこと四十年。あれやこれやの手がかりを見つけ、ついにピスガ山に登り約束の地を眺め見ることができると思ったのだが、しかし彼はその景色を、いや、その蜃気楼だな、それを見るだけで満足しなければならなかった。そして乳と蜜を味わう前に死んでしまったのさ」

 「彼は雲形紋章とどういう関係があったんです?どうしてブランダマー家の一員だと思いこんだのですか」

 「ああ、今はその話はしたくないよ」オルガン奏者は言った。「もしかしたら、わたしはとっくにしゃべりすぎているのかも知れない。わたしが何か言ったなどと、ミス・ジョウリフに悟られないようにしてくれよ。彼女はマイケル・ジョウリフの実の子供だ——唯一の子供だ——しかし彼女は腹違いの兄をとても愛していて、彼のいかれた振る舞いを人にからかわれるのがいやなのさ。もちろんカランの口さがない連中は彼のことでいろいろな噂話をする。その都度、ますます髪が白くなり、狂気じみた表情になって彼が戻ってくると、連中は『雲形じいさん』と彼のことを呼び、ガキどもは道で彼に会うとお辞儀をし『お早うございます、ブランダマー卿』とやるんだ。彼の話はたっぷり聞く機会があるだろう。可哀想な妹にとっちゃあ、耐えられないくらいつらいことなんだよ、兄さんがからかわれ、笑いものにされているのを見るのは。そのあいだも兄貴は妹の貯金を食いつぶしているんだがね。しかしそんなことはみんな終わった。マーチンは雲形紋章なんか誰もつけないところへ行ってしまった」

 「彼の妄想に根拠はなかったのですね」ウエストレイは訊いた。

 「それはわたしより賢い人間に訊きたまえ」オルガン奏者は無関心そうに言った。「主任司祭か、医者か、誰か本当に利口な人にね」

 彼は冷笑的な口調にかえっていたが、そのことばには、頭がおかしいのではないかという、先ほどの疑惑を思い出させる何かがあり、ふとウエストレイは、ジョウリフ家との付き合いが長すぎてミスタ・シャーノール自身にもマーチンの妄想がのりうつったのかも知れないと考えた。

 話し相手はブランデーをさらにつぎ足し、建築家はお休みなさいといとまを告げた。

 ウエストレイの部屋は上の階にあり、彼はさっそく寝室に入った。旅やら午後聖堂の中に長いこと立っていたせいでひどく疲れていたのである。荷物が解かれ、服が丁寧に引き出しに収められているのを見て彼は喜んだ。これは彼がなかなか味わえない贅沢であり、しかも染み一つない白いカーテンとベッドのシーツには溌剌とした暖炉の火影が揺れていた。

 ミス・ジョウリフとアナスタシアは二人で鞄を抱えながら家の最下部から最上部まで大きな石の螺旋階段を登った。ちょっとした力仕事でしばしば息継ぎに立ち止まったり、痛んだ腕を休めるために鞄を下に置いたりした。ようやく上の階まで運び上げ、その革紐が解かれたときにミス・ユーフィミアは姪を部屋から追い出した。

 「いけないわ。片付けはわたしがします。殿方の衣類を整理するなんて、若い娘がすることじゃありません。わたしもそんなことはしたくなかった頃があるけど、今はもうお婆ちゃんだから、あまり関係がないの」

 彼女は話をしながら鏡を見て、キャップからはみ出した白髪を軽くかき上げ、蝶結びにした首飾りのリボンを直して、できるだけすり切れた部分が隠れるようにした。アナスタシア・ジョウリフは部屋を出るとき、年老いた顔のしわがいつもより少なく、しかも華やいだ表情を浮かべていると思い、叔母が結婚しなかったことを不思議に思った。若者は年老いた未婚女性を見ると、彼女が結婚しなかったのは男性から見むきもされなかったからだと考える。六十の衰えた容色の中に十六の美しさを読み取ることは難しい——はるか昔に熱烈な求愛を受け、それが涙によってかき消された記憶が老いの穏やかな表情の下に埋もれ、いまだに忘れ去られず残っているとはなかなか想像できないものだ。

 ミス・ユーフィミアはすべてを注意深く整頓していった。建築家の持ち衣装はごくつつましいものではあったが、彼女にはよくそろっていて高価なもののようにさえ見えた。しかし彼女はウズラが逃げこんだ場所を見定める猟師のような目で、いろいろな穴やらほころびやらボタンがなくなっていることを見いだし、暇な折りにさっそくそれらを繕ってやろうと決心した。一定の歳を過ぎるとまともな女性はすべからく裁縫仕事をしたり、その仕上がりを思い浮かべることにまざまざと貴重な喜びを感じるようになるものだ。

 「お気の毒にねえ」と彼女は独り言を言った。「ずっと着るものの面倒を見る人がいなかったんだわ」そして可哀想だと思うあまり、つい寝室に火を入れるという贅沢なもてなしにはしってしまった。

 上の階の準備が終わると彼女は下に降りてミスタ・ウエストレイの居間がきちんと整理されているか点検した。そこを見回っているとき、下の階からオルガン奏者が建築家に語りかける声が聞こえてきた。その声はひどく低くてしわがれており、彼女の足の裏に響くように思われた。彼女は暖炉の上の飾りに軽くはたきをかけた。それは段々になった置物で、鏡を取り囲むように意味もなく小さな棚やくぼみができていた。金物屋の未亡人ミセス・カイゼルがカランを離れるときに家財道具を売りに出し、そのときのオークションの目玉として出されたものをミス・ジョウリフが買い上げたのだ。

 「これはオーバーマンテルよ」彼女はそれが家に持ってこられたとき、怪訝そうな顔をしていたアナスタシアに言った。「本当は買う気がなかったのだけど、朝からずっと何も買っていなかったし、競売人がわたしを睨むように見るから入札しなければならないような気がしたの。そうしたら他の人はみんな黙っているじゃない。それでここにあるわけ。でもこれがあるとお部屋の体裁がちょっとよくなると思うわ。もしかしたらこれを見て下宿人が来てくれるかも」

 そのあと青いエナメル塗料で鮮やかに色を塗り直し、マーチンがあるとき放浪の旅の土産として持ってきたブルサシルクで花綵はなづなを作って横に飾り、水銀の剥げかかっている箇所が見えないようにした。ミス・ジョウリフは花綵をちょっとだけ前のほうに引っぱり、横のくぼみの一つに置いてある、半世紀前にビーコンヒルの定期市で買ったよい子のお茶碗セットを置き直した。模造の果物を入れたバスケットの、ドーム形のガラス蓋を拭き、暖炉からつきだした防火用ついたてのねじを締め、ステレオスコープの下に敷いたビーズマットのしわを伸ばし、最後に親切そうな顔に満足しきった笑みを浮かべて部屋を見回した。

 一時間後ウエストレイは眠りにつき、ミス・ジョウリフはお祈りを唱えていた。彼女は自分の家にふさわしい、紳士的な下宿人を寄こしてくれた天の配慮に特別な感謝を捧げ、この屋根の下にいるあいだは彼が幸せでありますようにと、心をこめて祈りを捧げた。しかしお祈りはミスタ・シャーノールのピアノの音にさえぎられた。

 「とっても素敵な演奏ね」彼女は蝋燭を消しながら姪に言った。「でも夜遅くに弾くのはやめてほしいわ。お祈りのとき、わたし、そのことをちゃんと強く念じていなかったみたい」

 アナスタシア・ジョウリフは何も言わなかった。彼女はオルガン奏者が古いワルツを乱暴に演奏していたのが悲しかった。しかも演奏の仕方から彼が酔っていることを知っていたのだ。

(註 シャーノールの「予言者のうちなるサウルを見るみたいな、そんな顔」という台詞は「サムエル記」十九章二十~二十四節に言及している。サウルがダビデとサムエルのもとに使者を送るが、何度送っても使者は予言者の仲間入りをしてしまう。サウルは最後にみずから出むくが、彼も予言者の仲間入りをする。シャーノールはマーチンがろくでなしだと言うが、ウエストレイから見れば、奇妙な振る舞いをし、酒をあおるシャーノールもろくでなしの仲間でしかない。シャーノールは不思議なくらい鋭くウエストレイの心を読む)