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雲形紋章

Chapter 8: 第五章
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About This Book

A young architect is dispatched to oversee urgent repairs on a rain-soaked, historic cathedral and encounters a community divided by clashing priorities: an assertive patron and his firm, proud clergy, local gentry, and practical craftsmen. As he inspects roofs, towers, and waterlogged floors, concerns about structural safety, limited funds, and sanitary conditions emerge. Close attention to architectural detail and heraldic motifs brings buried histories and local rivalries to light, so that the conservation project becomes a means to explore questions of stewardship, tradition, and the sometimes uneasy relationship between antiquarian zeal and everyday community needs.

第三章

 「神の手」はこの自治郡の中でもいちばんの高台にあり、ウエストレイの部屋はその三階にあった。居間の窓からは家並とそのむこうのカラン・フラット、海と町をへだてる広大な塩水性の牧草地が見渡せた。前景には赤いかわら屋根が延々と並び、中景には聖セパルカ大聖堂の、高々とかかげられた塔と屋根の大棟おおむねが見え、その偉容はあたりの家を残らずその壁の内に呑みこむのではないかと思わせた。そして遠景には青い海があった。

 夏になると紫色のもやが河口にかかり、湿地から立ちのぼる熱気のきらめきを通して、カル川が銀色にうねって海に流れるさまや、雪のように白い雁の群れや、あちこちに輝く遊覧船を見ることができる。しかし秋になると、ウエストレイがはじめて見たように、繁茂する草はいっそう緑を濃くし、塩水性の牧草地は表面に不規則な粘土色の水路をはわせた。それは満潮時は老人の目尻のしわのように見えるのだが、干潮時はねっとりした土手にはさまれ、虹色の水を底にたたえた小さな溝へと縮こまった。もぐらが柔らかい茶色の壌土でうねり道のような小型の土饅頭を盛り上げるのはこの秋である。そして泥炭採掘場では切り出し人夫がより大きな、より黒々とした泥炭のかたまりを積み上げるのだ。

 かつてはこの風景にもう一つ目をひくものがあった。多くの豪華船、バルト諸国と交易する材木運搬船、茶輸送専門の快速帆船、大型インド貿易船、移民船、こうしたものの帆柱や帆桁が見られ、ときにはカランの冒険家が有する私掠船の傾斜したスパーも見られた。これらはすべてとっくの昔に最後の港にむけて船出しており、今では立派な船と言っても、冬のあいだ、よどんだ入り江に係船されているドクタ・エニファーの帆船センターボードが帆柱を見せているくらいである。しかしそれでもこの風景は充分に印象的であり、「神の手」の上階の窓は、知る人ぞ知る、町でいちばん眺めのいい場所だった。

 大勢の人がこの窓からその風景を望み見た。船長の妻は結局戻ることのなかった夫のバーク船が引き綱で引かれながら川を下っていくのを目で追った。西から早馬で旅してきた新婚夫婦はカランで足を止め、夏のたそがれ時に椅子に座って手を取り合い、白い霧が牧草地の上に立ちのぼり、宵の明星がすみれ色の空に輝かしくかかるまで海のほうを見つめつづけた。カラン義勇農騎兵団を徴募したフロビシャー船長はフランスの先兵があらわれないかと携帯用望遠鏡で見張りをし、最後にマーチン・ジョウリフは安楽椅子に座って、ブランダマー家の全財産を受け継いだら何に使おうと思案を巡らしながらその最後の日々を過ごした。

 ウエストレイは朝食を終えてしばらくのあいだ、開け放った窓の前に立っていた。その日の朝は穏やかな快晴で、秋の大雨の後はしばしばそうなるように、大気に輝くような透明感があった。しかし彼は窓の前の障害物のせいで心から風景を楽しむことができなかった。邪魔なのは羊歯を入れたガラスのケースで、水槽をひっくり返した形のものが質素な木のテーブルの上に載っていたのだ。ウエストレイはじめじめした植物と、ガラスの内側に張り付く露の玉が気にくわず、この羊歯を部屋から取り払うことに決意した。彼はミス・ジョウリフに片づけてもらえるかどうか、尋ねてみようと思い、さらにこの決意は不必要な家具が他にもないだろうかと、彼に検討を促すことになった。

 彼は心のなかで周囲の家具の目録を作った。質のいいマホガニー製の家具が幾つかあった。背板のない椅子や、正面がガラス張りの本棚などがそれで、これらはウィドコウム農場にあった自由農民ヨーマンの家具の生き残りである。マイケル・ジョウリフの他の所有物と一緒にオークションに出されたのだが、カランの人の趣味からは古すぎるとみなされ、入札者がなかったのだ。他方、ビーズマットとか毛糸刺繍マット、綿毛マット、ケースに入った蝋細工の果物、貝殻サルビアのかご、背中に梳毛そもう織物を張った椅子、おもてが梳毛織物のソファ用クッション、白銀葦をいっぱい生けた安物の花瓶二つ、プリズム状の飾りを付けた蝋燭立て二脚、これらはひどくウエストレイの趣味に合わなかった。昔から彼は自分の趣味こそは非の打ち所のない最高の趣味であると信じこんでいた。壁には数葉の写真がかかっていた——ブラック・フォレストの衣装を着た若きマーチン・ジョウリフのカラー写真、ボートチームの色あせた写真、何かの廃墟の前に立つ別のグループの写真。これはカリスベリ博物学同好会がウィドコウム修道院へ見学旅行したときのものである。その他には難破船とか雪崩を描いた、よく見かける油絵や、花瓶いっぱいの花を描いた静物画も一点あった。

 この最後の絵はその大きさといい、稚拙さといい、俗悪でけばけばしい色といい、ウエストレイの気分を滅入らせた。朝食の席につくとその絵が真正面に見え、しばらくは細部の面白さに興をそそられたが、引きつづきこの部屋に住むとなれば目障りでしかなくなるだろうと彼は感じた。白と青に塗られた陶磁の花瓶が、磨き上げられたマホガニーのテーブルの上に置かれ、およそ珍妙な花が生けられた絵である。花瓶が絵の半分を占め、もう半分にはテーブルの上板が意味もなく広がっていた。画家は構成のバランスの悪さに気がついたのだが、そのときはもう明らかに手遅れの段階に達していて、テーブルの上に花を数本ばらまくことで修正を施そうとしたようだった。この花を目指してぶよぶよした緑色の芋虫がテーブルの端、つまり絵の端で身をくねらせていた。

 ウエストレイは熟慮の末、羊歯のケースと花の絵は部屋に置くにはまったくふさわしくないと判断した。できるだけ早い機会にミス・ジョウリフと相談して取り払ってもらおう。他の細々した点は、さほど面倒もなく、少しずつ変えていってもらえるだろうと思ったが、それまでの下宿の経験から、絵をはずすのは、ときに困難で、細心の注意を要する問題であることを知っていた。

 彼は丸めた設計図を開いて必要なものを選び、聖堂に行く準備をした。足場を作るために大工と打ち合わせをしなければならなかった。下宿を出る前に昼食の注文をしておこうと思い、女主人を呼ぶために梳毛糸でできた太い呼び鈴の紐を引いた。しばらく前からバイオリンの音が聞こえていて、呼び鈴の返事を待ちながら耳を澄ませていた彼は、音楽が途切れたり繰り返されたりするのを聞いてオルガン奏者がバイオリンの稽古をつけているのだと思った。最初の呼び出しに応答がなく、二回目の試みも同様に失敗すると、彼はいらいらと立てつづけに何度も紐を引いた。すると音楽が止み、彼は憤慨をこめて鳴らした呼び鈴がきっと音楽家たちの注意を引き、オルガン奏者がミス・ジョウリフを呼びに行ったのだろうと考えた。

 彼はほったらかしにされて癇癪をおこし、ようやくドアにノックの音がしたとき、女主人の怠慢を叱責しようと身構えていた。彼女が部屋に入ってくると、彼は図面から目を離さずにこう切り出した。

 「呼び鈴を聞いて来たときはノックしないでください。それより——」

 彼はことばを失った。というのは目を上げると彼が話しかけていたのは年かさのミス・ジョウリフではなく、姪のアナスタシアだったからである。彼女は昨晩見たときと同じように優雅な姿で、波打つ茶色の髪はその独特の美しさでまたもや彼の注意を引いた。いらだちはたちどころに消え、使用人の役割を貴婦人が演じていることに気づいたとたん、繊細な心が感じて当然の、困惑の気持ちでいっぱいになってしまった。彼はアナスタシア・ジョウリフが貴婦人であることを信じて疑わなかった。彼女を非難するかわりに、奇妙な事態を引き起こしたのは自分の責任であるかのごとく振る舞った。

 彼女は目を伏せて立っていたのだが、彼の咎めるような口調が頬に赤味をもたらし、その赤味が彼を狼狽させはじめ、彼女が次のようにしゃべったときには完全に打ちのめされてしまった。

 「ごめんなさい。お待たせしてしまって。最初、鈴の音が聞こえなかったのです。別なところにいて、手がふさがっていましたから。そのあと叔母が応対に出たと思っていたんです。外出中とは知りませんでした」

 低い、美しい声だったが、そこには恥ずかしさよりも疲れがこもっていた。彼が叱りつけるつもりなら、彼女はそれを甘んじて受ける覚悟だった。ところが今やおろおろと詫びを述べているのはウエストレイのほうだった。ミス・ジョウリフに伝えてもらえませんか、午後一時に昼食を食べに帰ると。料理は何でも構いませんから。うろたえ気味ではあったけれど親切なことばが返ってきて娘はややほっとした様子だった。彼女が部屋を出ていって、ようやくウエストレイはカランがヒメジで有名だと聞いていたことを思い出した。彼は昼食にヒメジを注文するつもりでいたのだ。水しか飲まない禁欲生活をしていたので、その分、食欲を満足させようと食べ物にはうるさかった。しかし魚を忘れてしまったことを後悔はしなかった。悲惨にも賤しい立場に身を落とした若い貴婦人とヒメジの特性及びその調理について議論するなど、崇高を滑稽に転落させる愚かな振る舞いでしかなかった。

 ウエストレイが聖堂に出かけたあと、アナスタシア・ジョウリフはミスタ・シャーノールの部屋に戻った。実はバイオリンを弾いていたのは彼女だったのである。オルガン奏者はピアノの前に座っていらいらと腹立たしげに和音をかき鳴らしていた。

 「どうだったい」彼女が入ってきたとき、振り返りもせず彼は言った。「ご主人様はわがレディに何を要求なさったんだい。家のてっぺんまでおまえさんを駆け上がらせるとは何事かね。あの男の首をねじ切ってやりたいよ。いつものように息が切れて手が震えているじゃないか。もうさっきみたいに演奏することすらできん。それだけじゃない。おやおや」彼は彼女を見て叫んだ。「七面鳥みたいに真赤じゃないか。あの男に愛の告白でもされたのか」

 「ミスタ・シャーノール」彼女はすぐさま言い返した。「そんなことを言うのなら、もう二度とあなたのお部屋には来ません。そんなふうに話をするときのあなたは大嫌い。いつものあなたじゃないわ」

 彼女はバイオリンを取り上げて脇に抱え、アルペッジョを鋭く鳴らした。

 「ほらほら。そう何でもかんでも真面目に受け取らないでくれ。身体の調子が悪くていらいらしているだけだよ。許してくれ。誰もおまえさんに言い寄りはしないことくらい知っているさ、ふさわしい相手があらわれるまでな。わたしはそんな相手があらわれなければいいと思っている、アナスタシア——ずっとあらわれなければいいと思うよ」

 彼女は彼の言い訳を受け入れもしなければ、はねつけもせず、音が低くなっていた弦を締めつけた。

 「どうしたってゆうんだ!」彼女が演奏しようと譜面台に近づいたとき彼は言った。「ラがフラットになっているのが聞き取れないのか。パンケーキみたいにフラットじゃないか(註 「フラット」に「平ら」と「半音低い」の意をかけている)」

 彼女は何もいわずに弦を締め直し、中断された楽章を弾きはじめた。しかし彼女は音楽に集中できずミスを重ねた。

 「いったい何をやっているんだ」オルガン奏者は言った。「五年前に始めたときよりひどいじゃないか。これ以上やっても時間の無駄だよ、おまえさんにとっても、わたしにとっても」

 その瞬間、彼女がいらだたしさのあまり泣いていることに気づき、彼は座ったまま演奏用の腰掛けをくるりと回転させた。

 「アンスティス、本気で言ったんじゃないんだ。乱暴な口をきくつもりはなかったんだ。腕は上がっているよ——本当に。時間の無駄といったが、わたしには他にすることなんてないし、おまえさん以外に教える相手もいない。それに喜んでくれるなら、わたしが昼も夜もおまえさんのために時間を捧げることは知っているだろう。泣かないでくれ。どうして泣くんだい」

 彼女はバイオリンをテーブルに置き、昨日の晩ウエストレイが座った藺草張りの椅子に腰かけると、両手で頭を抱え、わっとばかりに泣き出した。

 「ああ」彼女は啜り泣きの合間に、奇妙な震える声でいった。「ああ、なんてみじめなんでしょう——何もかも情けなくてたまらない。お父さんの借金は残っているし、お葬式のお金も葬儀屋に払っていない。何をするにも先立つものがないわ。可哀想なユーフィミア叔母さんは死ぬほど働いている。叔母さんは家のなかの小物を売らなければならないって言っているのよ。それにせっかく品のいい下宿人、おとなしくて紳士的な人が来てくれたというのに、呼び鈴を鳴らしただけで、あなたは彼のことをののしり、わたしにひどいことを言うんですもの。どうしてあの人に叔母が外出中だと分かるんです?叔母が家にいるときは、呼び鈴が鳴ってもわたしに応対をさせようとしないなんて、どうしてあの人に分かるんです。もちろん、うちに使用人がいると思っているのでしょうね。それにあなたはわたしをとっても悲しい気持ちにさせるわ。昨日の晩は眠れなかった。あなたがお酒を飲んでいることを知っていたから。床に就いたとき、あなたが安っぽい曲を弾いているのが聞こえたわ。酔っているとき以外は大嫌いな曲を。何年も一緒に住んでいて、わたしにずっと優しくしてくれていたのに、今になってこんなことになるなんて。どうかお酒は止めて。わたしたちはみんな充分にみじめなんです、あなたにこれ以上みじめな思いをさせられなくたって」

 彼は腰掛けから立ち上がり、彼女の手を取った。

 「そんなふうに言わないでくれ、アンスティス——どうか。わたしは前にも酒を断ったことがある。またきっぱり止めるよ。あのときは女のせいで酒に手を出し、身を持ち崩した。わたしのような老いぼれが酒をくらって死のうが死ぬまいが、誰も気にしないと思っていたのだ。心配してくれる人がいるのだと分かりさえすれば。おまえさんが心配しているんだと思うことさえできれば」

 「もちろん、わたし、心配しているわ」——彼の手に力がこもるのを感じたとき、彼女はそっと自分の手を引っこめた——「もちろん、わたしたち、心配しているわ——叔母さんもわたしも——叔母さんもこのことを知れば、心配するでしょう。ただ叔母さんはお人好しすぎて分かっていないだけなの。夕食後にあなたがお酒を飲んでいる、あの忌まわしいグラスは見るのもいや。前は全然違ったのに。わたしは家がしんと静まりかえったとき『牧歌』とか『告別ル・アデュ』の演奏を聞くのが大好きだったわ」

 不幸が人間から自然な笑顔を隠してしまうとしたら、それは悲しいことだ。早朝の空模様は期待を裏切らず、空は青く澄み、綿のように白く輝く雲が、島やら大陸の形をなして浮かんでいた。柔らかな温かい西風が吹き、どの庭の茂みでも鳥が秋の訪れを忘れて楽しげにさえずっていた。カランは庭の町であり、人々はそれぞれの葡萄の木の下、無花果いちじくの木の下に安らうことができた(註 列王記Iから)。蜜蜂は巣を飛び出し、いっせいにぶんぶんと陽気な羽音を立てながら、壁の上を濃紫色こむらさきいろに覆う木蔦きづたの実にむらがっていた。聖セパルカ大聖堂の塔は角に小尖塔を備えていたが、その上の古い風見鶏がめっきし直したように光り、千鳥の大群がカラン湿地の上空を旋回しては、不意にむきを変えて銀色のきらめきを放った。オルガン奏者の部屋の開け放った窓からも黄金色の陽が射しこみ、色あせて擦り切れた絨毯の、シャクヤクの模様を照らし出していた。

 しかし部屋の中には二つの哀れな心が息づいていた。一つは不幸に、一つは絶望に沈み、金色の風見鶏も、紫色の木蔦の実も、千鳥も、陽の光も見ず、鳥の声も蜜蜂の羽音も聞いていなかった。

 「うむ、止めるよ」とオルガン奏者は言ったが、その声に先ほどのような力はこもっていなかった。彼がアナスタシア・ジョウリフに近づくと、彼女は立ち上がって笑いながら部屋を出た。

 「お芋の皮むきをしなくてはいけないわ。さもないとあなたのお昼がないんですもの」

 ミスタ・ウエストレイは貧乏にも老齢にも悩まされず、胃の調子もいいし、自分の力と前途のいずれにもこの上ない自信を抱いていたから、その日の美しさを心ゆくまで楽しむことができた。彼はその日の朝、前の晩にオルガン奏者に連れられて歩いた、曲がりくねった裏通りを避け、光の子(註 キリスト教徒のこと)のごとく、大通を歩いて聖堂にむかった。すると町の印象ががらりと変わった。大雨は舗道や車道をきれいに洗っていた。市のある広場に入ったとき、彼は溌剌とした光景や、その場に横溢する静かな賑わいに心を打たれた。

 広場の二辺に並ぶ家々は、建物の上部が舗道に張り出していて、ずんぐりした木の柱に支えられるアーケードを形造っていた。ここにはその所有者が「最高の店舗」と自負する店が並んでいた。カスタンスは雑貨屋、ローズ・アンド・ストーリーは服地屋で、その正面は三軒分の広さを持ち、おまけに角には「仕立て専門」の「部署」まで持っていた。ルーシーは本屋で、カラン・エグザミナー紙を印刷し、最近発生したコレラ根絶のためカランで取られた対策に関するドクタ・エニファーの論文や、さらには参事会員パーキンの説教集をも何冊か出版していた。カルビンは馬具商、ミス・アドカットは玩具店を経営し、プライアは薬剤師と郵便局長を兼任している。広場の三つ目の辺の中心にはブランダマー・アームズが建っていて、淡黄褐色の広い正面を見せ、緑のブランインドが下り、窓の建具はオークの木目模様に塗装されていた。ホテル前の舗道の縁から石の階段がのび、その横に立つ白くて背の高い棒のてっぺんには緑色と銀色の雲形紋章そのものがはためいていた。ブランダマー・アームズの両脇には数軒、当世風の店がかたまっていたが、アーケードがないため、赤い筋の入った茶色い日覆いで満足しなければならなかった。この商店の一つが豚肉を売るミスタ・ジョウリフの店だった。彼は開いた窓からウエストレイに挨拶した。

 「お早うございます。もうお仕事の時間ですか」彼は建築家が丸めて脇に抱えている設計図を指さした。「こんな修復工事に呼ばれるなんて、名誉なことですよ」彼はそう言って陳列台の肉片をもっとおいしそうに見えるよう置き直した。「きっとあなたの努力に神様のお恵みがあるでしょう。わたしもお昼頃、仕事の合間を縫って、聖堂で静かに瞑想するんです。そのときお目にかかったら、できる範囲で何でもお手伝いしますよ。それまではわれわれ二人とも自分の仕事に精を出しましょう」

 彼はソーセージ製造器のハンドルを回しはじめ、ウエストレイは彼の信心深いことばと、それにもまして鼻持ちならない恩着せがましさから逃れることができてほっとした。

第四章

 広場に面したカラン大聖堂の北面はまだ日陰だったが、中に入ると南窓から太陽が射しこみ、建物全体が素晴らしく柔らかな光の洪水に包まれていた。確かにイギリスには聖セパルカより大きな教会はあるし、この聖堂は同じ規模の修道院建築と比べ、屋根が低いために均整がとれていないという欠陥があるが、しかしそれにもかかわらずこれほど真に威厳があり、堂々とした建造物がかつてあったかどうかは疑わしい。

 身廊は千百三十五年、ウオルター・ル・ベックによって起工され、両側に低い、半円アーチのアーケードを備えている。アーチを一つ一つ区切っている円柱には、ダラムやウォルサムやリンディスファーンの聖堂に見られるような紋様の彫刻はなく、またウインチェスター大聖堂の身廊やグロスター大修道院の聖歌隊席に見られるような垂直様式の柱が巻きついてもおらず、ひたすらその無装飾とすさまじい直径によって見る人を圧倒した。その上には暗い洞窟のような奥行きを持つトリフォリウムがあり、さらにその上には小さな、まばらな開口部を持つクリアストーリーがある。これらすべての上にかぶさっているのが石造穹窿で、刳形装飾を施された重たい交差リブがアーチのあいだを横断し、かつ対角線状に伸びていた。

 ウエストレイは扉口のそばに腰を下ろして夢中になって建物を観察し、巨大な石造物を横切る不思議な光りの戯れに見とれた。そのあまり立ち上がって聖堂のなかを歩き出すまでに半時間が経過してしまった。

 がっしりした障壁が聖歌隊席を身廊からへだてていて、一つの聖堂からいわば二つの聖堂を作り出していた。ウエストレイが仕切りのドアを開けたとき、四つの声が語りかけてくるのを聞いた。見上げると塔を支える四つのアーチが頭上にあった。「アーチは決して眠らない」と一つが叫んだ。「彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた」と別の一つがそれにつづいた。「われわれはその重量を分散する」と三つ目が言い、四つ目は古い繰り返し文句に戻った。「アーチは決して眠らない。決して」

 陽の光のなかでアーチをじっと見ていると、その幅といい細さといい、彼の驚きはいっそう深くなり、主任が建物の沈下や南の壁の不吉な割れ目をあれほどまでに軽視することがますます信じられなくなった。

 聖歌隊席は身廊よりも百四十年後に、華麗な初期イギリス様式で造られた。幾つものランセット窓が、手のこんだ雨押さえ刳形によって二つずつ、三つずつにまとめられ、東端では七つの窓が一つにくくられている。ここには黒っぽい灰色のパーベック石でできた無数の柱身があった。柱頭は精巧な仕上がりを見せ、えぐりの深い草葉飾りがあり、羽を広げた天使がヴォールト軸を背負い、その上には尖った屋根がのっていた。

 聖堂のこの部分だけでもカランの宗教的必要を満たすには充分で、堅礼式かミシリア・サンディ(註 在郷軍のメンバーをくじ引きで選ぶ日)のときでもないかぎり、会衆が身廊まであふれることはなかった。聖堂に来た人は誰もがゆったりと座ることができ、快適に礼拝することができた。というのも、千五百三十年、ヴィニコウム修道院長によって造られた天蓋付き聖職者席の前には信者席が長々と列をなして並び、緑色のベーズが張られ、真鍮の釘が打たれ、クッションや膝布団、祈祷書を収める箱が占有者の祈りのために備え付けられていたからである。カランで一角の人物たろうとする者は、誰もが金を払ってこの信者席を一つ借りていた。しかし宗教に対してさほどの贅沢ができない同じくらい多くの人々には樅板作りの別の席が与えられた。もちろんベーズは張られていないし、膝布団もなく、開き戸には番号もついていないけれど、それでもなんら不足はなく、ゆったりと座ることができた。

 建築家が聖歌隊席にはいると、聖職者席を掃除していた事務員は、鷹が獲物をめがけて舞い降りるように彼のほうにむかってきた。ウエストレイは運命を避けようとはせず、それどころかこの老人のおしゃべりから聖堂に関する興味深い事実が得られることを期待していた。なにしろここはこれから何ヶ月ものあいだ彼の仕事場となるのである。しかし事務員は事物についてよりも人間について話したがった。そして会話はしだいにウエストレイが同居することになった家族のことへと移っていった。

 ミスタ・シャーノールが賛嘆すべき沈黙を守ったジョウリフ家の先祖の疑惑は、事務員にとってはそれほど神聖な話題ではなかった。彼はオルガン奏者が踏むを恐れたところへ突進してゆき、ウエストレイもそれを制止すべきだとは感じず、むしろマーチン・ジョウリフとその想像上の主張について話をするよう水をむけたくらいだった。

 「いやはや」と事務員はいった。「わたしが小さい子供の頃でした、マーチンのおっ母さんが兵士と駆け落ちしたのは。でもみんなの噂話はようく覚えとります。ただカランの人間は新しもの好きでね。あのときのことも今となっちゃあ昔語り、わたしと主任司祭をのぞいたら、あの話ができるのは一人もおらんでしょう。農場主のジョウリフさんと結婚したとき、彼女はソフィア・フラネリイと名乗ってました。どこで見つけてきたんだか誰も知りません。彼は親父の代からヴィドコウム農場に住んでいたんですよ、マイケル・ジョウリフは。陽気な男で、いつも黄色いズボンに青いベストを着とりました。それである日、彼は結婚するといってカランに来たんです。ソフィアはブランダマー・アームズで待っとって、二人はこの聖堂で結婚しました。そのとき彼女には三歳になる男の子がおりましてな、自分は未亡人だと言いふらしておったんですが、結婚証明書を見せろといわれても見せることはできないだろうと大勢の連中は考えとりました。しかしたぶん農場主のジョウリフさんは見せろなんて言わなかったんでしょう。さもなきゃ、何もかも承知の上だったんでしょう。すらりとした別嬪さんでしたよ、彼女は。分けへだてなくみんなに声をかけ笑っていたと、親父から何度も聞かされました。それに小金を持っとりましてなあ。三ヶ月おきにロンドンに出むいて家賃を集めるんだと彼女は言っとりました。戻るたびに目を見張るような新品の服を着とるんです。身なりは立派だし、風格みたいなものがただよっとるもんだから、みんなウィドコウムの女王様と呼んどりました。どこから来たのか知りませんが、あの人は寄宿学校を出とって、楽器も弾きこなせるし歌も見事でした。夏の夜なんか、わたしら若いもんはウィドコウムまで歩いていって農場近くの柵に腰かけ、開いた窓から聞こえてくるソフィの歌声を何度も聞きました。ピアノも持っとって、船長と水夫と失恋にまつわる、じんとくるような長い歌をよく歌っていて、みんな泣きそうになりましたよ。歌を歌ってないときは絵を描いてました。女房のやつは彼女が描いた花の絵を持っとりましてね。農場をあきらめんとならんくなったとき、たくさん売りに出されたんですよ。でもミス・ジョウリフはいちばん大きいのを手放そうとはなさらんかった。買いたいって連中は多かったんですが、あれはとっておくことにしたらしく、今でもあの人の手元にありまさあ。看板みたいにばかでかい絵で、そりゃきれいな花で埋めつくされているんですがね」

 「ええ、見ましたよ」ウエストレイが口をはさんだ。「ミス・ジョウリフの下宿のわたしの部屋にあるんです」

 彼は絵のまずさについても、それをはずすつもりでいることも黙っていた。話し手の芸術的感受性を傷つけたくなかったし、案外と面白くなり出した話の腰を折りたくなかったのである。

 「ほら、そうでしょう!」と事務員は言った。「ウィドコウムにあったときは、いちばんいい応接間の、食器棚の上にかかってました。子供のとき見たんですよ。お袋が春の大掃除の手伝いに農場へ行きましてね。『トム、見てごらん』とお袋に言われました。『こんなお花、見たことがあるかい。可愛い毛虫がお花を食べようとしているよ!』ほら、下の隅っこに描かれている緑色の毛虫のことですよ」

 ウエストレイは頷き、事務員は話しつづけた。

 「『ねえ、ミセス・ジョウリフ』ってお袋がソフィアに言いました。『こんなきれいな絵を見たら、他の絵なんて見る気がなくなりますわ』ってね。そしたらソフィアは笑って、お袋は絵を見る目があるって言いました。値打ちがないってけちをつける連中もいるけど、売りに出したらいつだって五十ポンドか百ポンドかそれ以上の値がつくさ。絵の分かる人のところに持っていけばね。そのときは、絵の具をはねちらかしただけじゃねえかといった連中を笑ってやるんだ。そう言って笑っとりました。あの人はいつも笑っていて、いつも明るかった。

 マイケルは元気のいいかみさんが大いに気に入っとって、よく大型二輪馬車でカラン市場に乗りつけて、みんなの注目を集めたり、彼女が途中ですれ違う農夫たちと冗談を交わすのを嬉しそうに聞いとりました。彼女のことはえらく自慢しとりましたが、ある土曜日、ブランダマー・ホテルで、かみさんが産んでくれた可愛い娘のために乾杯してくれと、客の全員に酒をおごったときはもっと得意そうでした。これで子供が二人になったと言いましてな。ソフィアの連れ子を自分のところで実の息子のように育ててたんでさあ。

 それから一年か二年すると、ウィドコウム・ダウンの丘陵で軍事演習のキャンプが張られましてね。あの夏のことは、ようく覚えとります。ひどく暑い夏で、ジョウイ・ガーランドとわたしはメイヨーズ・ミードの洗羊場で泳ぎの練習をしましたから。丘陵にはずらっと白いテントが並び、士官用の食堂テントの前じゃ、夕方ブラスバンドが音楽を演奏するんで。たまに日曜の午後も演奏してました。司祭さんはとんでもねえ迷惑だと大佐に手紙を書きましてね、楽隊のせいで人々が教会に来ない、『民坐して飲食のみくいちて戯る』(註 出エジプト記から)さまは、金の子牛を崇拝するにも等しいと、こう言ったのです。ところが大佐はそんなものに鼻も引っかけやしませんや。で、天気のいい夕方になると、大勢の人が丘陵に出ておりました。娘っ子のなかには、あのクラリネットとバスーンみたいな素敵な音楽は、ウィドコウム大聖堂の階上廊じゃ聞いたことないって、あとで言ってるやつがおりました。

 ソフィアも何度もあそこに出かけてました。最初は旦那の腕につかまって歩いとりましたが、それから他の人と腕を組んで歩くようになりました。ビャクシンの茂みの陰で兵士と腰を下ろしとったという噂もありました。あいつらが移動したのは聖ミカエル祭前夜のことですよ。聖ミカエル祭(註 九月二十九日)の前日にウィドコウム農場で食ったガチョウはさぞかしまずかったでしょうな。というのは兵士がいなくなったとき、ソフィアもいなくなったからなんで。マイケルも農場も子供たちも捨てて、誰にもさよならを言わなかったんです。子供ベッドに寝ている赤ん坊にさえね。軍曹と駆け落ちしたんだって言われてますが、本当のところは分かりゃしません。農場主のジョウリフさんは彼女を捜して、ひょっとしたら居場所を突き止めたのかも知れませんが、そんなことは一言も言いませんでした。彼女はウィドコウムに戻りませんでしたよ」

 「彼女はウィドコウムに戻りませんでしたよ」彼はため息のようなものをつきながら声をひそめてそう言った。長らく忘れていた農場主ジョウリフ一家の崩壊に心を動かされたのだろう。いや、次のようにつづけたところを見ると、自分が被った損害のことしか考えていなかったのかも知れない。「そうそう、あの人は貧乏な人に煙草を一オンス分け与えたり、労働者の小屋にお茶を一ポンド送ったりしとりました。きれいな服を買ったら、お古は人にあげなさるんで。女房のやつは、あいつのおっ母さんがソフィ・ジョウリフからもらった毛皮の襟巻きをいまだに持っとります。他の点はともかく、まあ、気前よく人に金をやる人でしたな。農場で働いている連中の中に、彼女の悪口を言うやつは一人もいませんでした。出て行かれて喜んだ人間は一人もいませんでしたよ。

 かわいそうにマイケルは、口数の多い男じゃねえんですが、はじめのうちひどく取り乱しました。黄色いズボンと青いチョッキは相変わらず着てましたが、仕事する気力がなくなり、市場にもきちんきちんと行くべきところが、足が遠ざかるようになりました。ただ子供たちをいっそうかわいがるようになったようでした——父親を知らねえマーチンと、母親を知らねえ赤ん坊のフェミーですよ。わたしの知るかぎり、ソフィーは子供に会いに戻ってきたことはありませんでした。しかしそれから二十年後にわたしはこの目で彼女を見ましたよ。ビーコン・ヒルの定期市へ馬を売りに行ったときのことでさあ。

 あの日も陰気な日でした。というのはマイケルがはじめて持ち物を売って金を作らにゃならんかった日だったんです。かわいそうに旦那さん、その頃はげっそりやつれてました。以前と違って青いチョッキと黄色いズボンにたるみができて、おまけに服じたいがすっかり色褪せてしまいましてな。

 『トム』と旦那さんが言いました——つまりわたしのことですよ——『この馬どもをビーコン・ヒルに連れて行って、できるだけ高く売ってこい。金がいるんだ』

 『なんですって、お父さん、いちばんいい輓馬ばんばを売るの?』フェミー嬢ちゃんが言いました——そばにいらっしゃったんで——『ホワイト・フェイスとストライク・ア・ライトはいちばんいい輓馬なんだから売らないで!』すると馬が顔をあげるんですよ。お嬢ちゃんに名前を呼ばれたことがちゃあんと分かるんですな。

 『そんなに大騒ぎすることはないよ、おまえ』旦那さんが言いました。『受胎告知(註 三月二十五日)の祭が来たら、また買い戻すから』

 わたしは馬を連れて行きました。旦那さんがなぜ金を必要としたのか、ようく知っとりました。マーチンが借金をしこたま首にぶらさげてオックスフォードから戻ってきたんです。農場の仕事に手も貸さないで、自分はブランダマー家の人間なんだとか、フォーディングの屋敷も土地も本来なら自分のものになるはずなんだと言いふらしとったんでさあ。今調査をしてるとか言って、あちこちをほっつき歩き、時間と金をさんざんつぎこんでましたよ、益体やくたいもない調査とやらに。ありゃあ陰気な日でした。ビーコン・ヒルに行くと、大降りの雨だし、芝生はぐちゃぐちゃでした。馬どもはずぶ濡れで、しょげた顔つきなんですわ。売られることが分かってたんでしょう。そんなこんなで午後になりましたが、どっちの馬にも買い手はつきません。『お気の毒な旦那さんだ』わたしは馬どもに言いましたよ、『このまま帰るにしても、なんて言い訳したらいいのかねえ』って。でもね、馬どもと別れ別れにならんでいいんだと思うと、わたしはうれしかったですよ。

 わたしらは雨の中に突っ立っとりました。農夫や商人はわたしらをちらと見て、なにも言わずに通り過ぎていきました。そのときですよ、誰かがこっちにやってくると思ったら、ソフィア・ジョウリフじゃねえですか。最後に見たときから一歳だって歳なんか取っちゃいないような様子でしたな。あの日の午後、わたしらが目にした中で、朗らかだったものといったら、あの人の顔だけでした。生き生きして陽気なのはちっとも変わっちゃいません。大きなボタンの付いた黄色い雨外套を着て、彼女が通るとみんな振り返ってじろじろ見るんです。彼女といっしょに馬喰ばくろうが歩いてましてね、人々が目を見張るたびに、彼女のほうを誇らしそうに見てました。ちょうどマイケルが馬車で彼女をカラン市場に連れて行ったときと同じように。彼女は馬には目もくれませんでしたが、わたしの顔をまじまじと見ましてね。通り過ぎてから頭をめぐらしてもう一度見るんですよ。それから戻ってきました。

 『おまえさん、トム・ジャナウエイじゃないかい』と彼女は言いました。『ウィドコウム農場で働いていたんじゃないかい』

 『へえ、そうです』とわたしは言いましたが、よそよそしい口調を使ってやりました。旦那さんにあんな仕打ちをしておいて、こんなに陽気なつらしてるなんて腹が立ちましたからな。

 彼女はわたしの不機嫌を無視して尋ねました。『これは誰の馬なの』

 『あなたの旦那さんのですよ、奥さん』わたしは思いきって言ってやりました。鼻っ柱をへし折ってやろうと思って。ところがどうですか、彼女はそんなこと、屁とも思わねえようで『わたしのどの旦那さ』ときました。そしてげらげら笑い出して、横にいる馬喰をつついてました。男のほうは彼女を絞め殺したそうな顔をしてましたがね。彼女はそれも気にかけませんでした。『どうしてマイケルは馬を売りたいんだい』

 わたしは毒気を抜かれちまいましてね。もうやりこめようなんて気はなくなって、ありのままに事情を話したんです。その忌まわしい日一日ずっと突っ立ってたのに、買い手がつかねえってことも。彼女は何も訊きませんでしたが、マーチン坊ちゃんとフェミー嬢ちゃんのことを話したときは、目がきらっと光りましてな。それから急に馬喰のほうを振りむいて言いました。

 『ジョン。こりゃいい馬だよ。安く買って明日また売ろうじゃないか』

 そしたらあの野郎、毒づきやがって、老いぼれの駑馬どばじゃねえか、犬の餌にもなりゃしねえって言うんですよ。

 『ジョン』彼女は落ち着き払って言いました。『レディの前で毒づくなんてマナーがいいとはいえないよ。こりゃいい馬なんだから、買っとくれよ』

 男はまた毒づきましたが、彼女は男のあしらい方をちゃんと心得ているようでした。えらく笑っちゃいなさるが、顔にはおそろしく断固とした表情を浮かべているんで。男はだんだん静かになって、彼女に話をさせるようになりました。

 『この四頭をいくらで売りたいんだい、おまえさん』と彼女は言いました。わたしは八十ポンドと言おうかと思いました。昔のよしみでひょっとしたらそのくらいは出してくれるんじゃねえかと考えてね。でもそれで取引がご破算になっちまうのも怖くて、言い出せないでいたんです。『ほら、答えなさいよ。いくらなの。口がきけないの。おまえさんが値段をつけないなら、あたしがつけるよ。ジョン、百ポンドつけてやりなさいよ』

 男は馬鹿みたいに目を剥きましたが、何も言いませんでした。

 そうしたら彼女がきつく睨み付けて、

 『百ポンドでなきゃだめよ』彼女は低いけれども、きっぱりした声で言いました。で、男が『おい、百ポンド出すぜ』と言いました。ところが、わたしが『売った』という前に、彼女がつづけてこう言ったんですよ。『だめ——この若者はだめだと言ってるわ。顔を見りゃ分かるのよ。それじゃ足りないって思っている。百二十ポンドでどうだって言ってみなさいよ』

 男は魔物に魅入られたみたいに、えらくおとなしく『じゃあ、百二十出そう』と言いました。

 『ああ、そのほうがいいわ』と彼女が言いました。『そのほうがいいって彼は言っているよ』彼女は胸元から小さい革の財布を取り出して、雨が入らねえように雨外套のすその下に隠しながら、二十枚ほど新札を数えて、わたしの手に握らせました。それが入ってたところにはもっとたくさんの札束がありました。財布にお札がびっしり詰まっているのが見えたんでさあ。わたしがそれを見ているのに気づくと、彼女はもう一枚取り出してわたしに寄こすんで。『こりゃおまえさんにやるよ。おまえさんに幸運が訪れますように。それで好い人のために土産でも買ってやるんだね、トム・ジャナウエイ。それから、ソフィ・フラネリイは昔の友達を忘れるような女だなんて言いふらしじゃないよ』

 『奥様、ご親切にありがとうございます』とわたしは言いましたよ。『ご親切にありがとうございます。あとでもったいないことをしたなんてお思いになりませんように。家賃が今もきちんきちんと入ってきなさればいいですなあ』

 彼女は大声で笑って、その点は心配おしでないよと言いました。それから彼女は小僧を呼んで、小僧がホワイト・フェイスとストライク・ア・ライトとジェニーとカトラーを連れて行って、わたしがお休みなさいと言う前に、馬喰もソフィーもみんないなくなっちまいました。彼女は二度とそのあたりにあらわれたことはありません——少なくともわたしは見たことがないですな。ただ噂であのあと二十年ほど生きて、ベリトン競馬のときに溢血をおこして死んだってのは聞きましたがね」

 彼は少しだけ聖歌隊席の奥に進み、掃除をつづけたが、ウエストレイはあとを追って、また話を始めるきっかけを与えた。

 「家に帰ってから何が起きたんです?農場主ジョウリフがなんて言ったのか、まだお話になっていませんよ。それにどうして農場をやめて教会事務員になったのかも」

 老人は額をぬぐった。

 「そのことは話すつもりがなかったんですがなあ」と彼は言った。「思い出すと今でも冷や汗が出ますわい。しかしお聞きになりたいというならお聞かせしましょう。みんながいなくなったとき、わたしはあまりの幸運にほとんど目まいがしましたよ。で、夢じゃないことを確かめるために主の祈りを唱えました。しかし夢じゃありませんでした。それでチョッキの裏地に切れこみを入れ、札束を中に落としたんです。彼女がわたしにくれた一枚を除いて。そいつだけはズボンの時計入れポケットにつっこみました。日が暮れてきて、寒いし濡れてるし、感覚がなくなってきましてな。なにしろ雨の中にずっと立ちっぱなしで、一日じゅう飲み食いしてなかったんですから。

 あそこは吹きっさらしの場所なんですわ、ビーコン・ヒルってのは。あの日は道がぬかるんで、編み上げ靴に水がしみこみ、歩くとがぷがぷ音がしました。雨はひっきりなしに降って、仮小屋の外を照らしはじめたナフサランプにしぶきが飛びこみ、ぱちぱちはぜるんですよ。ある長いテントの外にやたらとぎらぎら輝く灯りがともってまして、中から油で炒めたタマネギの匂いがただよってきて、腹の虫が叫びたてました。『お願いしますよ、ご主人様、お願いしますよ!』ってね。

 『ようし』とわたしは腹の虫に言ってやりました。『ちゃんと満腹にさせてやるからな。おまえをからっぽのままウィドコウムには帰らんぞ』それでテントに入ったんですが、いや、中はあったかいし、明るいし、男は煙草を吹かし、女は笑い、料理の匂いがたまんねえんで。架台の上に板をのっけたテーブルがテントの中に並べられておりましてね。その脇には長いベンチがあって、みんなが食べたり飲んだりしとりました。部屋の一方の端には売り台が横に延びとって、その上で錫の皿が湯気を立てているんでさあ。豚足、ソーセージ、胃袋、ベーコン、牛肉、カリフラワー、キャベツ、玉葱、ブラッドソーセージ、それに干し葡萄入りプディング。お札を小銭に換えるにはちょうどいい機会だと思いました。ポケットの中で木の葉になっちまう妖精の金じゃなくて、本物かどうか確かめることもできるってんでね。それでわたしは近づいて牛肉とジャック・プディング(註 ブラッドソーセージのことか)の皿を注文し、お札を差し出しました。娘さんが——カウンターの後ろにいたのは娘さんでした——それを手に取ってじっと見つめ、それからわたしをじっと見るんですよ。なにせずぶ濡れで泥だらけでしたからな。娘さんはお札を店のおやじのところに持って行って、おやじはそいつを女房に見せました。女房はそれを光りに透かし、みんなで議論を始めました。それから樽に印を付けていた物品税の收税吏に見せたんです。

 近くに座っていた人は何事だろうとじろじろ見るし、こっちは顔が熱くなってきて、お札なんかうっちゃってさっさとウィドコウムに帰りたくなりました。でも收税吏はまともな金だと請け合ってくれたに違いありません。おやじがソブリン金貨四枚と十九シリングを持って戻ってきて、お辞儀しながらこう言いましたから。

 『お客さん、飲み物を持ってきましょうか』

 わたしはどんな酒があるのだろうとまわりを見ました。お札が本物だと分かって、そりゃあ嬉しかったですな。おやじが言いました。

 『ミルク入りラム酒は元気がつきますよ。熱いミルク入りラム酒をお試しくだせえ』

 それでミルク入りラム酒を一パイントもらって、いちばん近くのテーブルにつきました。わたしがとっつかまるのを見ようと待ちかまえていた連中は場所を空けてくれまして、御前様を見るみてえにわたしを見とりました。わたしは牛肉の皿をおかわりし、ミルク入りラム酒をもう一杯飲み、パイプをふかしました。ウィドコウム農場に夜遅く戻っても札びらが二十枚以上あるんだから叱られやしないと思いながらね。

 肉と酒のおかげで人心地がついて、パイプとテントの暖かさで服が乾き、湿った感じがなくなりました。編み上げ靴の中はもうじめじめしちゃおりません。一緒になった連中も愉快だし、育ちのいい商人も何人かそばに座っていました。

 『旦那の健康に乾杯』一人がグラスを上げてわたしに言いました。『心から敬意を表しやすぜ。あの連中、札びらなんて見慣れてねえんで、そいで旦那のお札にちょいとたまげちまったのさ。けど、おりゃあ、旦那を見たとたん、ダチ公に言ったんだ。『おい、あの紳士はおれらのお仲間だぜ。間違いねえ、御大尽様よ』ってね。入ってきた瞬間に立派な紳士ってこたあ分かりやしたぜ』

 そんな具合におだてられちゃいまして、お札一枚でこんなに騒ぐんなら、ポケットいっぱいの札束を持っていることを知ったら何て言うだろうと思いましたよ。しかし何も言いませんでした。ただその気になりゃあ、このテントの半分を買い占めることができるんだと思ってくすっと笑いましたがね。そのあとでわたしは連中に酒をおごり、おごり返され、ひどくいい気分で一晩を過ごしたってわけで——しかもわたしら、親密な仲になって、相手が名誉を重んじる立派な人たちだって分かると、わたしも札束を持っていて、いっしょにお付き合いさせていただく資格がちゃんとあるってところを見せてやったんだから、なおさらいい気分でした。連中は敬意を表してさらに乾杯してくれたんですが、そのうちの一人が、今飲んでる酒はわたしみたいな紳士にふるまうにゃ、ふさわしくないって言って、自分のポケットから小瓶を取り出し、わたしのグラスをいっぱいにしてくれたんですよ。その人の親父がウオータールーの戦いがあった年に買った銘酒なんだそうで。いや、これが強いの何のって、飲んだら目から火が出るようなしろもんでした。でもわたしは平気な顔で飲みましたよ。古酒の味が分からねえなんて思われたくなかったですからな。

 わたしらはテントの中がむっとしてナフサランプの光りが煙草の煙でぼやけちまうまで座っとりました。外はまだ雨が降っとって、屋根を激しくたたく音が聞こえました。屋根の粗布のへこんだところからは水が染みてきてぽたぽたしたたり落ちてきました。酔っぱらったやつらのなかには、声を荒げて言い争う者もありましたな。わたしも声が他人みたいになっちまうし、頭がふらふらしてしゃべることもままならねえありさまで、こりゃあ限界まで飲んだかなと思いました。そうしたら鐘が鳴って、收税吏が『閉店だ』と叫び、売り台のうしろのおやじが『さあ、今日はこれでおしめえですぜ。ぐっすりお休みくだせえよ。女王様万歳、明日も楽しくお会いできますように』それでみんな立ち上がって、外套の襟を耳まで立てて、外に出ました。五人ほどへべれけになっちまって、架台の下の芝生に一晩寝かされましたがね。

 わたしは足もとがふらついたんですが、友達が両側から腕を取って支えてくれました。とっても親切な連中でしてな。わたしは眠いし、外に出ると目まいがしちまいました。わたしがどこに住んでいるか告げると、連中は心配するな、送ってってやる、畑をつっきればウィドコウムまで近道できるって言うんでさあ。出発してからちっと暗いところに入りこみましてね。で、次の瞬間何かに顔をぶん殴られたんですよ。気がついて起きたら、若い雌牛がわたしの臭いを嗅いどりました。真昼間になっとって、わたしは生け垣の根本で、アルムの花に囲まれて寝っ転がっとりました。びしょびしょに濡れて泥まみれですわ。(粘土質の土だったんですな)おまけに頭はまだ少しだけぼうっとしてるし、恥ずかしいかぎりでしたわい。ですが旦那さんのために取引を成立させたことや、チョッキに隠した金のことを思い出して気を取り直しました。で、札束に手を伸ばして、濡れてだめになっていないか確かめようとしたんです。

 ところがそこに札束がねえんで——いや、一枚もねえんですよ。チョッキをひっくり返して裏地を破いて調べたんですがね。わたしが寝ていたところはビーコン・ヒルから半マイルしか離れていませんでした。それでさっそく市のあったところへ引き返したんですが、前の晩の友達は見つからないし、酒屋のテントの親父に訊いても、そんなやつら見たことねえと、こう言うんですわい。わたしは一日中あっちこっちを探し回って、ついにはみんなに笑われちまいました。何しろ前の晩は酒をかっくらって野宿はするし、一銭残らず盗まれたせいで何も食ってねえし、えらく取り乱した様子をしてましたからな。お巡りさんに報告したら記録にゃつけてくれましたが、そのあいだもわたしの顔や、チョッキの下から垂れ下がっている破れた裏地を見つめるんですよ。それを見て、お巡りさんが、こりゃあただの与太話だ、こいつまだ酔いが残ってるな、と思ってることが分かりました。あきらめて家に帰ろうとしたときにはもう暗くなっとりました。

 ビーコン・ヒルからウィドコウムまで近道してもたっぷり七マイルあります。わたしはくたくたに疲れたのと、腹が減ったのと、恥ずかしいのとで、プラウドさんの水車小屋を見下ろす橋の上で半時間ほど足を止めていました。あそこに飛びこんで死んじまおうかなと思いながらね。でもふんぎりがつかねえで、結局ウィドコウムに帰ったんで。みなさん寝ようとするところでしたな。事情を話してるあいだ、農場主のマイケルもマーチン坊ちゃんもフェミー嬢ちゃんも幽霊を見るみたいにわたしを見てましたよ。でも馬を買ったのがソフィー・ジョウリフだということは言いませんでした。マイケルは何も言わず、ただもう呆然としてました。フェミー嬢ちゃんは泣いとりました。しかしマーチン坊ちゃんは、そんなの作り話だ、わたしが金を盗んだんだ、お巡りさんを呼ぶべきだと、こう怒鳴るんで。

 『嘘だ』と坊ちゃんは言いました。『こいつは悪党だ。しかも見え透いた嘘をつく大馬鹿者だよ。誰が信じるものか、どこぞの女が七十ポンドでも高い馬に百二十ポンドも払ったなんて。その人は誰だい。知ってる人かい。そんな人なら市にいた人が大勢覚えているだろうよ。ポケットに札束をいっぱい詰めこんで、馬を倍の値段で買い取る人なんてめったにいないからな』

 買ってくれた人のこたあ、ようく知っておりましたが、農場主のジョウリフさんをこれ以上悲しませたくないと思って、その名前は口にしたくなかったんです。だから何も言わずに黙っとりました。

 そうしたら農場主が言いました。『トム、わたしはおまえを信じるよ。三十年の付き合いだが、おまえが嘘をついたことはなかった。今もおまえを信じている。しかしその女の名前を知っているなら教えてくれないか。知らないとしても、どんななりをしていたか、話してくれ。そうすりゃ誰か見当がつくかも知れん』

 けれども、それでもわたしは黙っとったので、とうとうマーチンがこんなことを言いました。

 『女の名前を白状しろ。本当に馬を買ったなら、名前くらいちゃんと知ってるはずだ。父さん、甘やかしちゃだめですよ、こんな馬鹿の話を信じたりして。お巡りさんを呼ぶぞ。さあ、名前を言え』

 わたしもそんな乱暴な口のきき方にはむかつきましてな。苦しんでいるお父さんは許してくださったというのに。それで言ってやったんです。

 『ええ、名前は知ってまさあ。お聞きになりてえとおっしゃるなら。奥様ですよ』

 『奥様だと?』坊ちゃんは言いました。『どこの奥様だ?』

 『坊ちゃんのお母さんでさあ。男といっしょでしたがね。ここを出ていったときの相手じゃありませんでした。奥様がそいつに馬を買わせたんで』

 マーチン坊ちゃんはもう何も言いませんでした。フェミー嬢ちゃんは泣きつづけとりました。しかし旦那さんの顔はいっそう虚ろになりました。そしてえらく静かな声でこう言いました。

 『もういい。わたしはおまえを信じているし、今回のことは大目に見る。百ポンドなくそうがなくすまいが、今となっちゃあたいした違いはない。これが運命とあきらめるさ。おまえの話した場所でなくさなかったとしても、どこか別の場所でなくしていただろうからな。中に入って風呂を浴び、何か食べたらいい。それから今回は許すが、二度と酒に手を出しちゃいかんぞ』

 『旦那様』とわたしは言いました。『ありがとうございます。ちっとでも金が入りましたら、返せるものはお返しします。酒は神様に誓ってもう飲みません』

 わたしが旦那さんに手を差し出したら、旦那さんは握り返してくれました。泥だらけだったんですがね。

 『気にするな、おまえ。明日は警察にやつらを追いかけてもらおう』

 わたしは約束を守りましたよ、ミスタ——ミスタ——ミスタ——」

 「ウエストレイ」と建築家は教えた。

 「お名前を伺ってなかったんですよ。ほら、主任司祭はわたしを紹介してくれませんでしたからね。わたしは約束を守りました、ミスタ・ウエストレイ。それからはずっと禁酒してるんで。でも旦那さんは警察にやつらの跡を追わせることはなかったんです。というのは次の日の朝早くに卒中を起こして、二週間後にゃお亡くなりになってしまったんです。ウィドコウムには緑の柵をめぐらしたお父さんとお祖父さんの墓があるんですが、その近くに埋めてさし上げましたよ。黄色いズボンと青いチョッキは羊飼いのティモシー・フォードに形見分けしてやったんですが、あいつはそのあと何年も日曜日になるとそれを着とりました。わたしは旦那さんが埋葬された日に農場を離れてカランに来ました。片手間仕事をやっとったんですが、寺男が病気になってからは墓堀の手伝いをしとりました。で、彼が死んだときに代わりの寺男にされたんで。つぎの精霊降臨祭(註 復活祭後の第七日曜日)であれから四十年になりますわい」

 「マーチン・ジョウリフはお父さんが死んだあと、農場の経営を引き継いだのですか?」ウエストレイはしばらく沈黙がつづいたあと尋ねた。

 彼らは話をしながら信者席の列のあいだをぶらぶら歩き、大聖堂を二つに区切る石の障壁を通り抜けた。カラン大聖堂の聖歌隊席は他の部分よりも床が数フィート高くなっており、身廊に降りる階段の上に立つと左右に交差廊が広々とひろがっているのが見えた。北袖廊の端の壁——かつてその外にチャプターハウスと修道院の宿坊が建っていた——には高いところに小さなランセット窓が三つあるだけだった。しかし交差部分の南端には壁がまったくなくて、二つの欄間窓と無限に入り組んだ狭間飾りを持つヴィニコウム修道院長の窓がその全面を占めていた。その結果、奇妙な対照が生み出された。教会の他の部分は、窓が小さいために寂しいくらい光りが抑えられており、北袖廊は建物の中でもっとも薄暗い部分となっているのだが、南袖廊、つまりブランダマー側廊は常に澄みきった陽の光を浴びていたのである。さらに、身廊はノルマン様式で、袖廊と聖歌隊席は初期イギリス様式であるのに、この窓は複雑な構成と、ごてごてと手のこんだ細部を持つ後期垂直様式なのだ。その相違はあまりにも顕著で、建築をまったく知らない素人も思わず注意をむけるくらいだった。まして専門家の目ともなれば、なおさらひきつけられて当然だろう。ウエストレイは一瞬、質問を繰り返しながら階段の上に立ち止まった。

 「マーチンは農場の経営を引き継いだのですか」

 「ああ、引き継ぎましたが、真剣にやらんかったんですな。もっぱらフェミー嬢ちゃんが仕事をなさりました。マーチンの邪魔がなければお父さんよりいい農場主になっとったでしょう。ところがマーチンは彼女が半ペニー稼いぐあいだに一ペニー使っちまい、とうとう何もかも競売に付されちまいました。オックスフォードでうぬぼれて、誰もいさめる人がいなかったんです。紳士にならにゃならねえとさんざん気取りまくって、しまいに『紳士ジョウリフ』とか、もっとあとになっておつむがいかれてきた頃は『雲形じいさん』とか呼ばれとりました。頭が変になったのはあれのせいですよ」そう言って寺男は巨大な窓を指さした。「あの銀色と緑のしわざでさあ」

 ウエストレイが見上げると、窓の中央の仕切り上部に雲形紋章が見えた。まわりをそれよりも濃いガラスに囲まれ、日中の光りの中で見るその輝きは、昨晩、夕闇の中で見たときよりも、いちだんと強い印象を与えた。

第五章

 ためしに一週間住んでみたところウエストレはミス・ジョウリフの下宿の住み心地のよさに満足した。「神の手」は確かに聖堂からやや離れているが、町ではいちばんの高台にあり、建築家は食事にこだわるだけでなく、空気がさわやかで、低地でないことを極端に重視したのだ。家中どこも念入りに掃除されていることもよかったし、ミス・ジョウリフの料理も気に入った。凝ったものを作るのでないかぎり、彼女の料理は長い経験によってある意味で完璧という域に達していた。

 召使いがおらず、ミス・ジョウリフは自分が下宿にいるときは、姪に給仕をさせないことも分かった。このため彼はやや不自由を強いられることになった。もともと性格的に思いやり深い彼は、もう若いとはいえない女主人に無理をさせないよう気を遣ったからである。呼び鈴は鳴らさないようにし、鳴らしたときはしばしば踊り場まで出て、螺旋階段の下のほうにむかって大声で用件を告げ、真暗な石の階段をわざわざ登ってこなくてもいいようにした。このような気遣いはミス・ジョウリフにも伝わり、彼女が彼にこのまま下宿しつづけて欲しいと切に願っている様子をありありと示すと、ウエストレイは虚栄心をくすぐられた。

 自分の好意が充分に感謝されていると見て、彼はある夕方、お茶の時間近くに、女主人を呼んでベルヴュー・ロッジに住みつづける旨を伝えることにした。これからも部屋を借りることをはっきり目に見える形で示すため、彼は自分の趣味に合わない置物や、とりわけ食器棚の上にかかる大きな花の絵をはずすよう要求することに決めていた。

 ミス・ジョウリフは書斎と彼女が呼んでいる部屋に座っていた。これは家の裏手にある小さな部屋で(かつては宿の食品室だった)、彼女はいかなる家計の問題に取り組まなければならないときも、ここに引きこもるのだった。家計の問題はもう何年にもわたって嫌になるほど頻繁に起きていたが、今や兄の長期にわたる病いと死が、この二と二を足して五にしなければならない難儀な戦いに危機的な状況をもたらしていた。彼女は病気という口実のもとに求められるものはどんな贅沢も惜しみなく兄に与え、マーチンもそれをいちいち気にするようなこまかい男ではなかった。寝室の暖房、牛肉スープ、シャンペン、金持ちにとってはどうということのないものながら、貧乏人の献身的な愛にとっては重い負担となってのしかかる千と一つのことどもが、すべて借金として勘定書に記録されていた。こうした出費が家計のなかで突出することは、ミス・ジョウリフにとって、倹約の規則をあまりにも大きく逸脱することであり、贅沢の罪——七つの大罪の先陣をつとめるルクスリア、つまり奢侈の罪——から良心の目をそらすには、事態の緊急性という言い訳がどうしても必要になった。(註 ルクスリアは色欲の罪。作者の勘違いと思われる)

 肉屋のフィルポッツはミス・ジョウリフ用の帳簿にスイートブレッド(註 子羊の膵臓)という記載があるのを見て半ば笑みをもらし、半ばため息をついた。実をいえば、彼はこれに類する幾つもの購入品をわざと記録につけ忘れた。優しい思いやりからこっそりそうしたのだが、にもかかわらず好意の受け手はそのことに気がついていて、まさにそのさりげなさのゆえにこうした人助けはいっそうありがたく感じられるものだ。雑貨屋のカスタンスも痩せ衰えた老婦人にシャンペンを注文されたときは、びくびくしながら応じた。ワインのような高級品に対して請求しなければならない料金を少しでも取り返させてやろうと、お茶や砂糖の注文があったときは、きっちり料金分の量目を入れたうえ、さらにそれをぐっと押しこみ、入れ物からあふれるくらいサービスしてやった。しかしどんなに倹約を心がけても全体としての出費はかさみ、ミス・ジョウリフはそのとき、世界中で珍重されているドゥック・ドゥ・ベントヴォリオの金の薄紙を巻き付けた三本の瓶が、頭上の棚から今も首を突き出しているのを眺めながら、借金の重みをずしりと感じていたのである。ドクタ・エニファーに借りている分のことは考えようともしなかったし、恐らくほかの借金より心配する必要がなかっただろう。医者は、金があるなら払ってくれるだろうし、まったく払えないというなら全額免除してやろう、と腹を決めて、請求書を送ってこなかったからである。

 彼女は医者の配慮に感謝し、彼がいつも犯す、とりわけいまいましい不作法を、まれに見る寛容の心で見逃した。この不作法というのは薬を送る宛先を、そこがいまでも宿屋であるかのように書き記すことだった。ミス・ジョウリフは「神の手」に引っ越す前に、修繕費用として支給されたなけなしの金のほとんどを、正面に書かれた宿屋の名前を塗り消すことに費やした。ところが大雨のあとは、あの大きな黒い文字が天の邪鬼にも皮膜を透かしてじろりとこちらを見、オルガン奏者は「神の手」の裏をかくのは容易じゃないな、などと軽口をたたいた。ミス・ジョウリフはそんな冗談をくだらないし、無礼だと言い、ドアの上の明かり取り窓に「ベルヴュー・ハウス」と金文字を入れることにしたのだった。ところがカランのペンキ屋は「ベルヴュー」を小さく書きすぎ、残りの空間を埋めるために「ハウス」をあまりにも大きく書いたものだから、オルガン奏者はこの不釣り合いを見てまたしても皮肉を言った。ここが「ハウス」であるのは誰でも知っているが、「ベルヴュー」であることは誰も知らないのだから、あれは逆に書くべきだ、と。