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雲形紋章

Chapter 9: 第六章
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About This Book

A young architect is dispatched to oversee urgent repairs on a rain-soaked, historic cathedral and encounters a community divided by clashing priorities: an assertive patron and his firm, proud clergy, local gentry, and practical craftsmen. As he inspects roofs, towers, and waterlogged floors, concerns about structural safety, limited funds, and sanitary conditions emerge. Close attention to architectural detail and heraldic motifs brings buried histories and local rivalries to light, so that the conservation project becomes a means to explore questions of stewardship, tradition, and the sometimes uneasy relationship between antiquarian zeal and everyday community needs.

 その後、ドクタ・エニファーが「手 ミスタ・ジョウリフ」という宛名で薬を送ってきた——「神の手」ですらなく、ただ「手」と書いて。ミス・ジョウリフは陰鬱な広間のテーブルに置かれた薬瓶をさげすむように見、怒りの声が口からもれぬよう息を殺しながら、手早く包みを引き破いた。このように心優しい医者は、日頃の仕事の忙しさに取り紛れ、知らず知らずのうちに心優しい婦人をいらだたせていたのである。そのあげく彼女は書斎に引きこもり、人もし汝の頬をうたば、もう一方の頬をもむけよ、という教えを読んで、ようやく心の平静を取り戻すことができたのだった。

 ミス・ジョウリフは書斎に座ってマーチンの借金をどう返済しようと考えていた。彼の兄はその無秩序で非能率的な人生を通して、おのれの秩序だった能率的な習慣を誇りにしていた。それは几帳面で組織的な請求書のまとめ方にあらわれているにすぎなかったが、しかしその点だけは確かに秀でていたといえる。彼は借金の支払いをしたことがなかった。支払いをしようと思ったことすらなかっただろう。ただ手袋を入れる古い箱の蓋を物差しがわりに使って、請求書を一枚一枚同じ幅に折り、実にこぎれいな字で日付、貸し主の名前、借りた額を記し、それをまとめてゴムバンドで丸くとめていたのである。ミス・ジョウリフは彼の死後、引き出しの中にそんなため息をつきたくなるような束がごっそり溜めこまれているのを知った。彼にはいろいろな商人をひいきにし、広くあまねく借金の木を植え、しだいにそれをウパス(註 毒がとれる木)の森へと育て上げる才能があった。

 ミス・ジョウリフの困難は数日前に届いたある手紙によって一千倍にもいや増された。この手紙は良心にかかわる問題を引き起こした。その書面が目の前の小さなテーブルの上に開かれていた。

 ニュー・ボンド・ストリート百三十九番地

 奥様

 このほどわが社は静物画数点の購入を委託され、つきましては、貴殿がお持ちのはずの花の大作を引き取らせていただけないかと、お伺い申し上げるしだいです。お尋ねさせていただいている作品は故マーチン・ジョウリフ殿エスクワイアが以前ご所蔵になっていたもので、マホガニーのテーブルの上に花かごがあり、左手に毛虫が描かれています。わが社は依頼主の鑑識眼に信頼を置いており、作品がすぐれたものであることを固く信じておりますので、事前の鑑定抜きで五十ポンドをお支払いするつもりです。

 ご都合が付きしだい、お返事をいただければ幸甚です。

あなたの従順なるしもべ

ボーントン・アンド・ラターワース商会

 ミス・ジョウリフがこの手紙を読むのはこれが百回目だった。彼女は「故マーチン・ジョウリフ殿エスクワイアが以前ご所蔵になっていた」という部分をつきることのない喜びとともに繰り返し読んだ。その言い回しには祖先の威厳と貫禄を感じさせる何かがあり、彼女の気持ちを浮き立たせ、周囲に対するみじめな苦々しい思いを和らげた。「故マーチン・ジョウリフ殿エスクワイア」——まるで銀行家の遺言みたい。彼女は再びユーフィミア・ジョウリフになった。夏の日曜日の朝、ウィドコウム大聖堂に座っている夢見がちな少女、小枝模様の新しいモスリン服を自慢し、まわりの壁にいくつも飾られたジョウリフ家の先祖の銘板を誇らしく思う少女に。サウスエイヴォンシャの中産農民ヨーマンには公爵と同じように家系というものがあるのだ。

 はじめのうちこの手紙は苦境を脱するための天佑のように思われたが、あとになると良心のとがめがその脱出路をふさぐようにたちあらわれてきた。「花の大作」——それは彼女の父の自慢だった——恥さらしな妻の作品だったが、自慢のタネだったのだ。彼女がまだ幼い頃、父はよく彼女を両腕に抱きかかえ、輝くテーブルの上板を見せたり、毛虫に手を触れさせたりしたものだ。妻が与えた傷はきっとまだうずいていただろう。なにしろソフィアが彼と子供たちを捨ててからたった一年しか過ぎていなかったのだから。それにもかかわらず彼は妻の才能を自慢し、彼女が戻ってくるという希望を捨ててはいなかったらしい。死んだとき彼は、中年という暗い峡谷の半ばにあったユーフィミアに古い書き物机を残した。その中にはささやかな母の形見がぎっしり詰まっていた——結婚式に着用した手袋、派手なブローチ、けばけばしいイヤリング、その他多くの取るに足りない小物であったけれど、父はそれらを大切に保存していたのだ。その他にもソフィアの細長い木製の絵の具箱と、絵の具を混ぜ合わすための色付き顔料の小瓶と、そしてこの「マホガニーのテーブルの上に花かごがあり、左手に毛虫が描かれて」いる絵を彼女に残した。

 この絵の価値についてはいつも言われていることがあった。父は子供たちに妻の話をほとんどせず、ミス・ユーフィミアは大人になるまでのあいだに、いろいろなほのめかしやごまかし半分の話を切れ切れに聞き、ようやく母の恥について知るようになったのだった。しかしマイケル・ジョウリフはこの絵を妻の傑作とみなしていたと言われ、年老いたミセス・ジャナウエイによると、ソフィアはこの絵には百ポンドの値打ちがあると何度も言っていたそうだ。ミス・ユーフィミア自身もその価値に少しも疑問をさしはさんだことはなかったので、今度の手紙にあるような申し出は彼女にとってなんら驚きではなかった。実のところ、提示された金額は市場価値よりずっと低いと思われたくらいなのである。しかし絵を売ることはどうしてもできなかった。それは神聖な委託物であり、(Jの字を彫りこまれた銀のスプーンをのぞいて)むさ苦しい現在を裕福な過去につなぐ最後の輪だった。それは家の宝であって、手放す気にはとうていなれなかった。

 そのとき呼び鈴が鳴り、彼女は手紙をポケットに滑りこませ、ドレスの前のしわを伸ばすと、ミスタ・ウエストレイの用を聞きに石の階段を登った。建築家はカラン滞在中はここに下宿しつづけたいと彼女に告げ、その知らせがミス・ジョウリフに大きな喜びを与えたのを見て、自分の寛大さに満足した。彼女は大いに安堵して、羊歯やらマットやら貝殻サルビアやら蝋細工の果物を取り除き、彼の望み通り調度品にさまざまな小さな変更を加えることに快く同意した。建築家であるにもかかわらず、ミスタ・ウエストレイはひどく趣味が悪いように思われたが、その優しい態度や彼女の下宿に残りたいという気持ちに免じて可能なかぎりの寛容を彼に示した。それから建築家は花の絵の取りはずしに話を持っていった。彼は遠回しに、絵がこの部屋には大きすぎるのではないか、とか、絶えずカラン大聖堂の見取り図を参照しなければならないので、それを貼る場所があるとうれしい、とか言った。ちょうど沈む太陽の光がまともに絵に当たって、下品なけばけばしさを照らし出し、何としてもこの絵を取りはずそうという彼の決意をさらに固いものにした。しかしミス・ジョウリフの顔に広がる動揺の色は攻めかからんとする勇気をいささか萎えさせた。

 「ほら、この部屋にはちょっと派手すぎて気が散るんですよ。ここは作業場として使うことになるんですからね」

 ミス・ジョウリフは、この下宿人には審美眼がまったく欠けているのだと確信し、次のように答えるとき、驚きと悲しみを隠しきることができなかった。

 「おっしゃる通りにして、便宜をお図りしたいのはやまやまですわ。家柄のよい方に下宿して欲しいといつも思っているんですもの。紳士じゃない方にお貸しして評判を落とすような真似はできません。でもこの絵をはずせ、なんておっしゃらないでください。この家に来てからずっとここにかかっていたのです。わたしの兄、亡くなったマーチン・ジョウリフは」——無意識のうちにポケットの手紙に影響されていた彼女は、あやうくマーチン・ジョウリフ殿エスクワイアと言うところだった——「とても価値のあるものと考えて、死ぬ前、病気に冒されながらも、何時間もここに座ってこれを見つめていたものです。絵をはずせなんておっしゃらないでください。もしかしたらお分かりじゃないかも知れませんが、わたしの母が描いた絵というだけじゃなくて、絵としてみても、とても価値のある芸術作品なんですのよ」

 そのことばには、ごく微かではあれ、下宿人の趣味の悪さを見くだし、その無知を啓発してやろうという調子があり、ウエストレイをいらいらさせた。彼は小馬鹿にしたような口調で言い返した。

 「ああ、もちろん感傷的な理由からそのままにしておきたいというのなら、それ以上は何も言いませんよ。それにわたしがあなたのお母さんの作品を批判するなんてとんでもない話です。しかしですね——」そこまでしゃべって彼は口を閉ざした。老婦人のひどく傷ついた様子を見て、些細なことに腹を立てたことを後悔したのである。

 ミス・ジョウリフは悔しさを呑みこんだ。絵の価値が正しく評価されていないと思ったことは一再ならずあったけれど、面とむかってけなされたのははじめてだった。しかし彼女は絵の価値を保証するものをポケットに持っていたので心を広く持つことができた。

 「この絵はたいへんな値打ちものだと、今までずっと評価を受けてきたんです」と彼女はつづけた。「といってもわたし自身、その美しさのすべてが分かるわけではありません。充分絵の勉強をしませんでしたからね。でも手放す気にさえなれば、高値で引き取ってもらえることは絶対間違いありません」

 ウエストレイは暗に美術に関して無知だと言われてかちんときた。また片意地としか思えない売値の誇張のせいで、絵に対する女主人の、家族的な愛着に同情する気持ちがだいぶそがれてしまった。

 ミス・ジョウリフは彼の心のうちを読み、ポケットから一片の紙切れを取り出した。

 「これはこの絵に五十ポンドを支払うという、ロンドンのとある紳士からの申し入れです。どうぞ読んでください。間違っているのがわたしでないことが分かるでしょうから」

 彼女は業者からの手紙を差し出し、ウエストレイは彼女に調子を合わせるようにそれを受け取った。彼は手紙を注意深く読み、読み進むにつれますますいぶかしく思った。いったいどういうことなのだろう。この申し出は別の絵に対するものだろうか。なにしろボーントン・アンド・ラターワースといえばロンドンの美術商でも有数の業者である。レターヘッドつきの便箋紙や、手紙の全体的な様式から見て、偽物であるとは考えられない。彼は問題の絵に視線を投げかけた。陽の光がまだ当たっていて、今まで以上に醜悪に見えた。が、再びミス・ジョウリフに話しかけたとき、彼の口調は変化していた。

 「この絵のことを言っているんだと思いますか。他に絵はないんでしょうか」

 「ええ、こんなのは他にありません。間違いなくこの絵のことですわ。だって隅に毛虫が描いてあるって書いてありますでしょう」そして彼女はテーブルの上をはうぶくぶくした緑色の虫を指さした。

 「そうですね。でもどうやって彼らはこの絵のことを知ったのだろう」彼は新たな問題の出現に絵を取りはずすことなどすっかり忘れてしまった。

 「たぶん本当にいい作品は業者もよく知っているんじゃないでしょうか。問い合わせがあったのはこれがはじめてじゃないんです。わたしの兄が亡くなった当日にも紳士の方があの絵のことでこちらにいらっしゃったんです。家にいたのは兄だけで、わたしはその方を見てはいないんですが、きっとあれをお買いになりたかったんでしょうね。でも兄は売ろうとしなかったのです」

 「これは悪くない取引だと思いますよ」ウエストレイは言った。「断るなら、よく考えてからにするべきですね」

 「ええ、事情が事情ですからよく考えなければいけませんわ」ミス・ジョウリフは答えた。「わたしはお金持ちではありませんから。でもどうしてもこの絵は売りたくはないのです。だって小さいときからずっとこの絵と一緒でしたし、父がそれは大切にしていましたからね。ミスタ・ウエストレイ、はずしてしまおうなんてお考えにならないでください。もうしばらくこのままにして見ていたら、あなたもきっと好きになると思いますわ」

 ウエストレイはそれ以上議論をしなかった。絵をはずすことが女主人にとってつらいことであることが分かったし、必要なら間に合わせの手段として、絵の上に見取り図をはることもできると考えたのである。こうして協定は成立し、ミス・ジョウリフはボーントン・アンド・ラターワースの手紙をポケットに戻し、少なくとも幾分かは心の落ち着きを回復して、再び請求書のもとへと帰っていった。

 彼女が部屋を出て行ってから、ウエストレイはもう一度絵を子細に眺め、今までにもましてその価値のなさを確信した。色づかいが粗く、輪郭が強調されすぎた最悪の素人画で、与えられた空間を塗りつぶす以外、何の目的もないような印象を与えた。その印象は金箔をかぶせた額縁がことさら凝った、巧みな作りであるという事実によって強められた。ソフィアは何かの折りにこの額縁を手に入れたのだろう、そして内側を埋めるためにこの絵を描いたのだ、彼はそう結論した。

 窓を開け、屋根屋根のむこうに広がる海を望むと、太陽は赤い玉となって水平線に浮かんでいた。夕暮れはしんと静まりかえり、町は深い休息のなかに浸っていた。青い煙が町の上を長く水平にたなびき、草を燃やす匂いがかすかに空中をただよっていた。中央棟の鐘釣り場は夕陽に照らされて淡紅色に輝き、ねぐらに帰る前のコクマル烏が大群となってけたたましくさえずりながら、金色の風見鶏のまわりを旋回していた。

 「目を奪われるような眺めじゃないかね」肘のところで声がした。「秋の空気には不思議なかぐわしさがあって、はっとさせられる」オルガン奏者がいつの間にか部屋に入ってきていた。「わたしはつきに見放されたような気分だよ。今晩はわたしの部屋で食事しながら話をしよう」

 ウエストレイはそれまでの数日間、彼とはあまり会っていなかったので喜んで晩を一緒に過ごすことに同意した。ただし場所は変更になって、夕食は建築家の部屋で取ることになった。その晩の二人は多くのことを語り合い、ウエストレイは相手に心ゆくまでカランの住人や風習についておしゃべりをさせた。人の話を聞く気分になっていたのと、自分が住むことになった場所にはどんな人がいるのか、できるかぎり詳しく知りたかったためである。

 彼はミスタ・シャーノールにミス・ジョウリフとの会話のことや、絵を取りはずしてもらえなかったことを話した。オルガン奏者はボーントン・アンド・ラターワースの手紙のことは何もかも知っていた。

 「可哀想にあの人はこの二週間というもの、あれに良心を悩まされているんだよ。悶々と絵のことについて思いわずらい、幾晩も眠れぬ夜を過ごしている。『売るべきだろうか、売るべきではないのだろうか』『売れ』と貧乏は言う。『売って債権者どもに胸を張ってみせてやれ』。マーチンの借金も『売れ』と言う。ムク鳥の雛みたいに大きな口を開けて彼女のまわりに群がり、『売って俺たちを満足させてくれ』と言うのさ。『いけない』と自尊心は言う。『売ってはいけない。家のなかに油絵があることは、立派な社会的地位を示すしるしなのだから』。『いけないわ』と家族への愛着が言い、彼女が子供だった頃の妙に甲高い小さな声が『売らないで。可哀想なお父さんがどんなに絵を愛していたか、愛しいマーチンがどんなに大切にしていたか、覚えてないの』と言う。『愛しいマーチン』か——ふん!マーチンは六十年間、彼女にとって疫病神でしかなかった。しかし女は身内のものが死ぬと聖者の列に加えてしまうんだよ。きみは信心深いと言われている女が悪人をこっぴどくののしるのを聞いたことがないかい。ところが彼女の夫や兄弟が死ぬと、生前どんなにろくでもない人生を送ったとしても、彼女は非難しないのさ。愛は彼女の刑法典をも無効にする。自分の家族には抜け道が作ってあって、愛しいディックや愛しいトムのことはまるでバクスター(註 十七世紀英国ピューリタンの指導者)描くところの聖人より二倍も偉かったかのように語るのさ。いやはや、血は水よりも濃い。家族に地獄の劫罰はくだらないんだ。愛は地獄の火よりも強く、ディックやトムに奇跡を示す。その代わり彼女は釣り合いを保つために、他人に対しては余計に硫黄の火を燃やさなきゃならん。

 最後に世俗的な知恵、というか、ミス・ジョウリフが知恵と考えるものがこう言う。『いや、売るな。あれだけの逸品なら五十ポンド以上の値をつけさせるべきだ』こんな具合に彼女は翻弄されているんだ。カラン大聖堂に修道士がいた時代なら、彼女は聴罪師に尋ねていただろうね。聴罪師は『スンマ・アンゲリカ』(註 道徳神学の辞書と呼ばれる著作)を手に取り、Vの項目——『売るべきかウェンデトゥル?売るべきか 売らざるべきか』——をのぞき、彼女を安心させてやっただろう。わたしがラテン語でその道の最高の学者とだって話ができるとは知らなかっただろう?ああ、しかしできるんだよ。主任司祭はネビュルスとかネビュルムとか言っておったが、彼の相手だってすることができる。ただわたしはあまり知識をひけらかさないようにしているだけだ。今度わたしの部屋に来たら『スンマ』を見せてあげよう。けれども今は聴罪師なんていないし、親愛なるプロテスタントのパーキンは『スンマ』を持っていたとしても読めやしない。だから彼女の悩みを解決できる人は誰もいないんだよ」

 小男は気持ちがたかぶってきて、目を輝かせながら自分の学識についてしゃべった。「ラテン語か」と彼は言った。「くそっ。わたしのラテン語は誰にも負けないぞ——そう、ベーズ(註 十六世紀フランスの神学者)にだって負けるものか——ラテン語で思わず耳をふさぎたくなるような話をすることだってできる。ああ、わたしは馬鹿だよ、なんて馬鹿なんだ。『我がパウロよ、パウロ、このふしだらなるページに満足せよ』(註 アウソニウスの詩から)」彼はラテン語でそうつぶやくと神経質そうに指でテーブルを打ち鳴らした。

 ウエストレイはこうした発作的な興奮を恐れていたので、話題を元に戻そうとした。

 「理解に苦しみますね、こんなまずい絵に価値がないことくらい、見たら分かりそうなものなのに——まったくおかしな話ですよ。それにしてもロンドンの業者はどうしてこの絵を買い取ろうとしたのでしょう。あの商会はよく知っているんですが、一流の美術商ですよ」

 「『ポップ・ゴーズ・ザ・ウィーゼル』と『ハレルヤ・コーラス』の違いが分からない人間がいるように、絵を理解しない人間もいるのさ。わたしもそんな人間の一人だ。もちろんきみの言うことは全面的に正しいよ。この絵はまともな人間にとっちゃ目障りでしかない。しかしわたしは長いこと見てきたせいか、これが好きになってきたよ。売られたら残念に思うだろう。それからロンドンのバイヤーたちだが、たぶんどこぞの無知蒙昧の輩がこの絵を気に入って買いたがっているんじゃないか。たまに一晩か二晩、この部屋に泊まっていく不時の客があったからね——もしかしたら、さんざんけなしたにもかかわらず、それはアメリカ人かも知れないよ——あの連中が何をやらかすか分かったものではない。マーチン・ジョウリフが死んだ日にも、彼からこの絵を買いあげようとして誰かが来たそうだ。あの日の午後は、わたしは聖堂にいて、ミス・ジョウリフはドルカス会に行き、アナスタシアは薬剤師のところに行っていた。家に戻ってからわたしはマーチンの顔を見よう思って、今われわれがいるこの部屋まで上がってきたんだが、彼は話をしたくてうずうずしていた。彼によると玄関のベルが鳴ったかと思うと、誰かが家の中に入ってくる音が聞こえ、ついにはドアが開いて、見知らぬ男が彼の部屋に上がりこんできたのだそうだ。マーチンはわたしが今座っているこの椅子に座っていた。あの頃は身体が弱っていて、ここから動くことができなかったんだ。それで男が部屋の中に入ってくるまでじっとしていなければなかったんだよ。見知らぬ男は丁寧な口調で花の絵を買いたい、といったそうだ。なんと二十ポンドも出すというのさ。マーチンはその頼みを聞こうとせず、その十倍払うと言われても手放すつもりはないと言うと、男は帰っていったそうだ。そういう話なんだが、あのときはただのでまかせで、マーチンは幻覚でも見ていたんだろうと思った。ひどくふらふらしていて、夢から覚めたばかりみたいに顔が紅潮しているようだったから。でもしゃべっているとき、彼の目はずるそうな色を浮かべていた。そして、あと一週間すれば、おれはブランダマー卿になるんだ、そうなりゃ絵を売りたいなんて思いもしないだろう、と言うんだ。彼は妹が戻ってきたときもそう言っていたよ。しかし男の人相については、髪の毛がアナスタシアに似ているということ以外、何も言えなかった。

 マーチンは命数つきて、ちょうどその日の晩に死んだ。ミス・ジョウリフは恐ろしく気を落としていたよ。というのは彼女は睡眠薬を与えすぎたのじゃないかと思ったからだ。エニファーは彼が睡眠薬を飲みすぎたのだと彼女に言い、彼女は自分が間違って渡したのでないかぎり、彼が薬を手に入れるはずがないと考えたのだ。エニファーが死亡証明書を書いたので死因審問はなかった。しかしそのおかげでわれわれは見知らぬ男のことを忘れてしまい、思い出したときは、もう捜そうにも手遅れになっていた。もちろん男が病人の頭から生まれた幻じゃないとすれば、なんだけれど。他には誰も見ていないし、手がかりはウエーブした髪の毛だけだ。男はマーチンにアナスタシアを思い起こさせたということだからね。しかしそれが本当だとすると、この絵に入れこんだ人間が他にもいたっていうことになる。可哀想なマイケルには大事な絵だったんだろう、こんなに立派な額に入れたんだから」

 「どうでしょうかね」ウエストレイは言った。「わたしには額の中を埋めるために絵を描いたような気がするんですけど」

 「そうかも知れないね、そうかも知れない」オルガン奏者は素っ気なく言った。

 「どうしてマーチン・ジョウリフは、夢の実現は間近いと思ったんでしょう」

 「ああ、そんなこと、わたしには分からないよ。彼はいつも丸を四角にし、謎にぴたりと当てはまる欠けた一片を見つけたと思っていた。しかし彼は自分の企みを他人に打ち明けることをしなかった。死んだときに書類でいっぱいの箱をいくつも残していってね、ミス・ジョウリフが燃やすかわりに調べてくれと、それをわたしに寄こしたんだ。そのうち中身をあらためるつもりだが、きっとろくなことは書かれていないだろう。かりに彼が手がかりをつかんでいたとしても、彼の死とともにそれもなくなってしまったさ」

 短い沈黙が訪れた。聖セパルカ大聖堂の組鐘が「エフライム山」を奏で、大鐘がカラン・フラットに真夜中を告げた。

 「ぼちぼち寝る時間だ。ウイスキーを一杯もらえないかね」彼は暖炉の前の三脚台にかけられた薬罐を見ながらいった。「おしゃべりして喉が渇いた」

 その懇願には石のような心をも溶かす哀れさがあったが、ウエストレイの原則はびくとも揺るがず、彼はかたくなな態度を貫いた。

 「残念ですが、置いていないんですよ。お酒は飲まないので。ココアをお付き合い願えませんか。薬罐が沸きましたから」

 ミスタ・シャーノールはがっかりした。

 「きみは婆さんになるべきだったな。ココアを飲むのは婆さんだけだ。まあ、それでもいい。急場をしのげれば」

 その晩のオルガン奏者は模範的なくらいしらふの状態でベットに入った。自室に戻ってから棚の中を探したが酒は見つからず、マーテレットがくれた最後のブランデーはお茶の時間に飲んでしまい、新たに買おうにも金が一銭もないことを思い出したのだ。

第六章

 一ヶ月後、聖セパルカ大聖堂の修復工事は軌道に乗りはじめた。南袖廊には木の足場が支柱の上に高々と組まれて、石工が内部から穹窿天井に作業の手を加えることができるようになった。この天井が建物の中でもっとも修理の必要な部分であることは疑いを入れないが、ウエストレイは他にも放っておけない危険な箇所があるという事実に目をつぶることができず、サー・ジョージ・ファークワーの注意を脆弱化した複数の部分にむけさせようとした。いずれもこの偉大な建築家の、おざなりな点検をまぬがれた部分である。

 しかしウエストレイの不安のいちばん底にひそんでいたのは、塔を支えるアーチへのほの暗い懸念だった。彼は中央塔のとてつもない重量が夢魔のように建物全体に覆いかぶさっているさまを思い描いた。サー・ジョージ・ファークワーは代理人の説明に充分耳を傾け、特に塔を検査する目的でカランを訪れることにした。彼はある秋の一日を測定や計算に費やし、中断されたピールの話を聞き、壁の割れ目を細かく調べたが、以前の判断を改めたり、塔の安定性に疑いをさしはさむいかなる理由も見いださなかった。彼はやんわりとウエストレイの神経質をからかい、他のところも確かに修理が必要だと同意しつつも、不運にも資金が足りないのだから、今のところ工事の規模と進捗は、いずれも限られたものにならざるを得ないと言った。

 カラン大聖堂は他のより大きな修道院とともに千五百三十九年に解体された。この年、最後の修道院長であったニコラス・ヴィニコウムは王に反抗して修道院の明け渡しを拒否したために西の大門楼の前で反逆者として絞首刑にされた。修道院の一般財源は王室収入増加庁の手に移り、すぐそのまわりの修道院領有地は王室のお抱え医師シャーマンに与えられた。スペルマンは冒涜を主題にしたその著作のなかで、修道院の土地がその新たな所有者一族に没落をもたらした例としてカランを挙げている。というのも、シャーマンには放蕩者の息子があって、彼は家督を食いつぶし、その後エリザベス女王の時代にスペインの陰謀家と策動して斬首刑になったのである。

 悪徳領主にわざわいを

 もたらす僧院領有地

 教会堂を盗む者

 必ず天の罰を受く

こうしてシャーマンの一族は次の世代で完全に絶え果てたが、サー・ジョン・ファインズが地所を買い取り、前任者の悪行をつぐなうために学校と養老院を設立した。この罪滅ぼしは見事に功を奏した。というのも、ホレイショ・ファインズはジェイムズ一世によって貴族に叙せられ、その一家はブランダマーという名を得て現在までつづいているからである。

 修道院が正式に解体される前日、僧たちは聖堂で最後の祈りのことばを歌った。夜遅く行われたのは、ひとつにはそのほうがこうした別れにふさわしいし、またひとつには一般の注意を引くことがより少ないだろうと思われたからである。王の役人たちはこれ以上儀式を執り行うことを許さないのではないかという心配があったのだ。六本の大きな蝋燭が祭壇の上で燃やされ、壁の蝋燭受けは聖歌隊席の修道士たちが目の前に置いている祈祷書をいつも通りに照らした。寂しい礼拝だった。慣れ親しんだよき習わしがこれを最後に消えてしまうというときはいつも寂しいように。修道士たち、とりわけ年のいった僧たちは明日どこへ行けばよいのか分からず、心を引き裂かれる思いだった。副修道院長は悲嘆のあまり声が途切れ、朗読を中断するありさまだった。

 身廊は暗闇に包まれ、ところどころに置かれた火鉢が巨大なノルマン様式の柱を赤く照らしているだけだった。その暗がりに町の人々が小さな集団を作ってたたずんでいた。今より幸せだった頃の身廊はいつも町の人に開放されていて、彼らはいくつもある礼拝堂の祭壇で恵みの手段にあずかろうとしたものだ。その晩彼らは、修道院の最後を見届けに集まってきた——好奇心から見に来た者も数名はいたけれど、ほとんどは偉大な聖堂が素晴らしい礼拝とともに永遠に失われるのだというつらい思いと、深い悲しみを抱いてやってきたのだった。彼らはアーケードの柱のあいだにたむろした。身廊と聖歌隊席をへだてるドアが開いていたので、石の障壁のむこう、遠く主祭壇の上にあや織りの毛織物が輝いているのが見えた。

 聖堂の中でもっとも悲しみにくれていたのは、商人であり羊毛選別人でもあるリチャード・ヴィニコウムだった。彼は修道院長の兄で、もちろん修道院がなくなることに心を痛めていたが、彼の場合はさらに、弟がロンドンで囚われの身となっていること、そしてまず確実に死罪に問われるだろうということが悲しみをいっそう深いものにしていた。

 彼は塔の北西の角を支える基柱の暗い影に立ち、修道院長の運命と修道院の消滅を思って悲しみに打ちひしがれていた。しかも弟への有罪の宣告が彼自身の破滅を招かないとは断言できなかった。その日は十二月六日、聖ニコラスの日、つまり修道院長の守護聖人の日だった。聖歌隊席の近くにいた彼は、壁のむこうで集祷文が読み上げられるのを聞いた。

 「神よ、汝の司祭、聖ニコラスに数知れぬ奇跡を行わしめし神よ、かの聖人の善行と祈りにより、主イエス・キリストを通じて、われらを地獄の火より救い給え。アーメン」

 「アーメン」かれは基柱の影で言った。「聖人ニコラスよ、わたしをお救いください。聖人ニコラスよ、わたしたち皆をお救いください。聖人ニコラスよ、わたしの弟をお救いください。弟がこの世を去らねばならないのなら、主キリストにお祈りください、主がいち早く選民をお選びになり、わたしたちを主の永遠の楽園で再び相まみえさせ給わんことを」

 彼は心痛のあまり手を握り締め、まわりに立っていた人々は、火鉢の火影が彼にあたったとき、涙がその頬を流れ落ちるのを見た。

 「み教えを地にあまねく広めしニコラスよ、われらのために取りなし、罪の清めを受けさせたまえ」と司祭者が言い、僧たちの交唱がつづいた。

 「そはこの世を卑しみ、天つ国へむかいしお方」

 侍者が祭壇の灯火を一つ一つ消し、最後の一本が消えると、僧たちはその場に立ち上がり、列をなして退出した。そのあいだオルガンは破れ窓に鳴る風のような悲しい哀歌を演奏していた。

 修道院長は門楼の前で縛り首にされたが、リチャード・ヴィニコウムの財産は没収を免れた。大聖堂がそのまま建築資材として売りに出されたとき、彼はそれを三百ポンドで買い取り教区に寄贈した。彼の祈りの一部はかなえられた。というのは一年もたたずして死が彼を弟と再会させたからである。彼はその敬虔な遺言書の中にこう書いている。「わが魂を、作り主にして救い主たる全能の神にささげ、御心のままに神と聖母と聖人のもとにゆかん。また聖セパルカ大聖堂をその備品を含めてカラン教区に遺贈す。上記教区民は上記聖堂、備品、あるいはそのいかなる一部をも永劫に売却、変更、譲渡すべからず」ウエストレイが修復しなければならない聖堂はこのようにして歴史的危機を脱したのだった。

 リチャード・ヴィニコウムの寛大さは単に聖堂の買い取りだけにとどまらず、日々の礼拝の威厳を保つために多額の金を残し、礼拝堂付き司祭を二名、オルガン奏者を一名、聖歌隊員を十名、少年聖歌隊員を十六名増やした。しかし管財人の怠慢と、信仰の深さでは迷信深いリチャード老人をしのぐ人々の情熱が、この基金を大幅にすり減らした。カランの歴代主任司祭は、自分たちの勤労に対する報酬を増やし、毎日の聖歌歌唱という口先だけの信心につぎこむ金を減らしたほうが、この町の信仰にとって有益であると確信した。こういうわけで主任司祭の俸給はしだいにふくれあがり、参事会員パーキンは就任してすぐにオルガン奏者への支払いという贅沢を切りつめ、その年収を二百ポンドから八十ポンドに減額することで、自分の生活費をきっかり二千ポンドに増やす機会を得た。

 この節減計画により平日の朝の礼拝は廃止となったが、夕べの祈りはいまでも午後三時にカラン大聖堂で執り行われた。それは修道院時代からつづく礼拝の、消えゆく薄い影であり、参事会員パーキンは、それがだんだんと小さくなり、いつか雲散霧消することを願っていた。そうした形式主義は必ずや真の信仰を窒息させるに違いないし、彼自身の美声と個人的魅力が聴衆に感動を与えるべき多くの祈りが、意味のない詠唱によって絶えず邪魔されるのを遺憾に思っていたのである。彼はおのれの高潔な信条を曲げて、哀れなリチャード・ヴィニコウムが聖歌隊学校に与えた手当をしぶしぶ認めていた。そして平日の礼拝を几帳面に欠席することで、そうした無意味に対する非難をぬかりなく表明していた。こうした事情からこの儀式は白髪のミスタ・ヌート、主イエス・キリストの大義に熱情を注ぐあまり、みずからの利益を求める機会を失い、六十五才になった今もカランの片田舎で不当に安い給料をもらいながら牧師補の地位に留まっているミスタ・ヌートに任されていた。

 それゆえ、平日の午後四時に聖セパルカ大聖堂に居合わせた人は誰でも白い法衣の短い行列が南袖廊の聖具室からあらわれ、曲がりくねるように歩きながら聖歌隊席へと進むのを目にするだろう。教会事務員ジャナウエイが銀色の頭部を持つ職杖をたずさえて先頭に立ち、そのあとを八人の少年聖歌隊員がつづく。(リチャード・ヴィニコウムによって定められた人数は半分に減らされていた)さらにそのあとにつづいたのが、いちばん若い者でも五十才という五人の聖歌隊員で、しんがりを勤めたのはミスタ・ヌートだった。行列が聖歌隊席に入ると、事務員は後ろの障壁のドアを閉めて、司宰者たちの心から外の世界の思惑を断ち切り、身廊から俗人が侵入して礼拝の妨げとならないようにした。もっともこの外部の俗人というのは現実的というよりは理論上の存在で、夏の盛りをのぞいて、訪問者の姿は身廊にも聖堂の他のどこにもめったに見られはしなかった。カランは主だった都市のいずれからも遠く離れていたし、考古学的興味はこの当時すっかり下火で、専門的な古物研究家以外、この大修道院の壮麗さを知る者はほとんどなかったのだ。よその人間がカランのことなどいささかも気にかけなかったとすれば、平日の礼拝に対する住人たちの態度はそれに輪をかけた無関心ぶりで、天蓋付き聖職者席の前にある信者席はいつもがらんとしていた。

 こういうわけで日々ミスタ・ヌートが朗読し、オルガン奏者のミスタ・シャーノールがオルガンを演奏し、聖歌隊員と少年聖歌隊員が歌を歌うのはひとえに教会事務員ジャナウエイのためだった。他にそれを聴く者は一人もいなかったのである。しかし音楽を愛好する訪問者がそんな折りに聖堂に入ってきたなら、彼は礼拝に深い感銘を受けただろう。ホメロスの詩の妻がありあわせの品を使って客にできるかぎりのもてなしをしたように、ミスタ・シャーノールは欠陥のあるオルガンと不出来な聖歌隊を最大限に活用していたのだ。彼は洗練された趣味とすぐれた資質の持ち主だった。歌声が穹窿天井におごそかに響き渡るのを聴けば、心の広い批評家ならかすれた声や空気漏れのする送風器やがたがたと鳴るトラッカーなど少しも気にせず、陽光と色ガラスと十八世紀音楽がむつまじく融け合った記憶を胸に抱いて帰るだろう。もしかしたら澄んだソプラノの声も彼の印象に残るかも知れない。ミスタ・シャーノールは少年聖歌隊の育成と歌の才能の発掘に定評があった。

 修復工事が開始されて迎えた十月、聖ルカ祭の秋晴れは、まことにその名にふさわしいものとなった。この月の中旬には、本物の夏を思わせる、珍しく晴れた日がつづき、風はそよとも吹かず、陽の光があまりにもぽかぽかと照りつけるものだから、カラン・フラットにかかる柔らかなもやを見た人が、八月が戻ってきたと考えたとしても無理からぬことだった。

 カラン大聖堂は夏の暑さの中でも概してすがすがしいほど涼気に満ちているのだが、この季節はずれの秋の暑気つづきには、さすがに外のいきれとけだるさが幾分か聖堂の中にもしみこんできたようだった。ある土曜日など普段以上の眠気が午後の礼拝を襲った。聖歌隊は詩篇を歌い終えると、どっかと椅子に腰を下ろし、ミスタ・ヌートが第一日課を朗読しはじめるや、人目をはばからず睡魔に身をゆだねた。もちろん全員が眠気に朦朧としたわけではなく、賞賛に値する例外もあった。北側聖歌隊席ではかすれ声のアルトがしゃがれ声のテノールと活発な議論を戦わせていた。彼らは机の下でとりわけ見事に育ったネギを比べあっていた。二人はどちらも園芸家で、秋のネギ品評会が迫っていたのである。南側聖歌隊席ではソプラノを歌う赤毛の小男パトリック・オブンズがオールドリッチ作曲「マニフィカト」ト長調の楽譜に手を加え、タイトルを「マグニファイド・キャット(拡大された猫)」に変えてやろうと眠る暇もなかった。

 第一日課は長々とつづいた。ミスタ・ヌートはきわめて穏やかな情け深い人物だったが、朗読では、聖書の中でも糾弾激しい一節を読むのを得意としていた。確かに英国国教会祈祷書は午後の日課に「ソロモンの知恵」の一部を読むよう指定しているが、ミスタ・ヌートは権威を軽んじ、代わりにイザヤ書からの一節を読んだ。このようなやり方に疑問を突きつけられたなら、彼は聖書外典は行為についての教訓としても、とても容認できないから、と釈明しただろう(註 英国聖公会では聖書外典を生活の模範および行為についての教訓のために読むとしている)。(それにカランにはこの個人的判断の権利に異議を申し立てそうな人間はひとりもなかった)しかし自分でも気がついていなかっただろうけれど、本当は熱弁をふるう適当な一節を探したかったから、そうしていたのである。天罰を下す雷鳴の如きその声には、彼の信じるところ、至高の正義を恐れる気持ちと、あやまてる、しかし忘れ去られて久しい民の盲目さに対する無限の哀れみがこめられているはずであった。実際彼はいわゆるバイブル・ボイスと言われるものを持っていて、朗読の際、普段の生活ではけっして使われないような声音を用い、聖書にいっそうの重々しさを与えることができた。駆け出しの牧師補が「死の時にして裁きの日」とささやいて、嘆願リタニーに厳粛さを付け加えるようなものである。

 ミスタ・ヌートは近視のためにいにしえの民への天罰がうたた寝する聴衆の頭の上を素通りしていくのが分からなかった。そして彼が長い日課をそれにふさわしい劇的な締めくくりで終えようとしたとき、思わぬ珍事が起きた。障壁のドアが開いて、見知らぬ男が入ってきたのだ。カール大帝の臣将が角笛を吹き鳴らし、百年の安らぎを破って、魔法にかかった王女とその廷臣たちを蘇らせたように、うつらうつらとしていた聖職者たちは闖入者によってはっと夢から目覚めさせられた。少年聖歌隊員はくすくす笑い、聖歌隊員は目を見開き、教会事務員ジャナウエイはこの無分別な飛び入りの頭を打ち砕かんと職杖を握り締めた。みんながざわついたのでミスタ・シャーノールは落ちつかなげに音栓をみやった。彼は寝過ごして聖歌隊がマニフィカトを歌うために立ち上がったものと思ったのだ。

 見知らぬ男は自分の姿が皆の注目を喚起したことなどまったく気づいていないようだった。偶然訪れた観光客であることは明らかで、たぶん障壁のドアを開けるまで礼拝が行われていることを知らなかったのだろう。しかしいったん中にはいると、彼は式に参加することを決意し、信徒席につながる踏み段のほうへ歩いていった。とたんに教会事務員のジャナウエイが飛び出し、芝居の脇台詞よりもやや大きめの声で彼にむかって教会の規則を口にした。

 「礼拝中は聖歌隊席に入っちゃいけません。だめですよ」

 見知らぬ男は老人の横柄な態度を面白がっていた。

 「もう入っていますよ」彼はささやき返した。「どうせ入ったんですから、よろしければ、礼拝が終わるまで席に座っていたいですね」

 教会事務員はしばらく疑わしそうな視線をむけていた。相手の顔に面白がっている様子が読み取れたとすれば、そこには同時に反論を思いとどまらせる決意もあらわれており、彼は考え直した結果、カラン大聖堂聖職者席の下に並ぶ信者席の開き戸の一つを押し開けた。

 しかし見知らぬ男は自分がそこに招かれているということが分からなかったらしく、その信者席を通り過ぎ、小さな踏み段を上がって北側聖歌隊に面した席にむかった。歌い手たちのすぐ後ろには五つの席があって、そこには他の席のものより豪華で手のこんだ天蓋がかかり、背に紋章の楯が描かれていた。この席は色あせた深紅色の細引きによって一般庶民が入れないようになっていたが、見知らぬ男は紐を留め金からはずし、まるで自分の所有物であるかのように手近の指定席に座ったのだった。

 教会事務員のジャナウエイは激怒し、大あわてで踏み段をのぼり、いきり立つ七面鳥のように彼のあとを追いかけた。

 「おい、おい!」彼は侵入者の肩に手を触れて言った。「ここに座ってはいかん。フォーディングの席なんだから。ここはブランダマー一族の席だ」

 「ブランダマー卿が家族を連れてきたら場所を空けるよ」と見知らぬ男は言い、老人がなおも攻撃を仕掛けようとしているのを見て「静かに!いい加減にしたまえ」と付け加えた。

 教会事務員はもう一度彼を見て、自分の席に戻った。完敗だった。

 「その日かれらが嘯響なりどよめくこと海のなりどよめくがごとし。もし地をのぞまばくらきなやみとありて、光は黒雲のなかにくらくなりたるを見ん」とミスタ・ヌートは言い、大きな丸い眼鏡の底から非難のまなざしを聴衆一同にむけて、聖書を閉じた。

 侵入者に体現される無法と、教会事務員に体現される権威の衝突を、興味深そうにずっと眺めていた聖歌隊は、オルガンがマニフィカトを演奏しはじめたので立ち上がった。

 歌い手たちが顔を見合わせ、にやにやしていたのは、教会事務員がへこまされるのを見て悪い気がしなかったからである。彼は聖堂の中をわが物顔に歩く専制君主で、みんなから「思い上がっている」と言われる態度で、ときどき彼らの腹を立てさせていた。もしかすると彼は行列の先頭に立って少々いい気になっていたのかも知れない。オルガンの音楽に合わせて職杖を手に行進していると、聖なる場所の、平和の使徒であることを忘れて、たった一つの希望を率いる勇敢な士官になったような気分になることが、たまにあったからである。ちょうどその日の午後は聖具室でバスのミスタ・ミリガンと園芸の問題をめぐって激しく口論した。教会事務員の高圧的な喋り方にいまだ機嫌を損ねていた歌い手は嬉しそうに侵入者に注意をむけ、敵にその敗北を思い知らせた。

 その日、北側聖歌隊のテノールが休んでいたので、ミスタ・ミリガンはこれ幸いと、欠席者のサーヴィスの楽譜を自分のすぐ後ろに座っている侵入者に貸し与えた。彼は振り返って見知らぬ男の前にマニフィカトの頁を開いたままうやうやしく楽譜を置いた。むき直るときはジャナウエイに軽蔑のまなざしをむけ、ジャナウエイはすばやくその意味を察知した。

 見知らぬ男はこの脇役たちの演技には気づかず、好意に感謝してうなずくと、差し出された楽譜を真剣に読みはじめた。

 男声が極端に不足していたため、ミスタ・シャーノールは南側ないし北側の声部に穴が空くことには慣れっこになっていた。詩篇を歌う際は、欠けた声部を左手で補い、必死になって不完全を取り繕おうとしたのだが、しかしマニフィカトの演奏を始めると、豊かな、実に力強いテノールが情感をこめ、正確に歌唱に加わるのを聞いてびっくりした。穴を埋めたのは見知らぬ男で、最初の驚きが過ぎ去ると、聖歌隊は彼を自分たちの技術に精通する者として歓迎し、教会事務員ジャナウエイは彼が入ってきたときの無礼や、ミスタ・ミリガンの反抗的な態度すらも忘れてしまった。大人も少年たちも新しい生命を得て歌った。実際彼らはこれほどの心得の持ち主には是非とも好い印象を与えたいと思い、その聖歌はカラン大聖堂ではひさしぶりに聴く出色のでき映えとなった。ただ見知らぬ男だけはまったくの冷静だった。彼は今までずっと聖歌助手であったかのように歌った。マニフィカトが終わり、ミスタ・シャーノールがオルガンのある二階の張り出しからカーテンの隙間を通してのぞくと、彼が聖書を手にミスタ・ヌートの第二日課を熱心に聞いている姿が見えた。

 年の頃は四十、中背というよりもやや背が高く、黒い眉毛に黒い髪、ただし白いものもちらほら見えはじめていた。特に髪の毛はふさふさと豊かで、自然に波打つ巻き毛がすぐさま見る人の注意を奪った。髭はきれいに剃られ、顔の輪郭は鋭いが痩せているわけではなく、引き締まった口元には何か蔑むような表情が浮かんでいた。鼻筋が通り、力強い顔は他人を服従させることに慣れていることを感じさせる。聖歌隊席の反対側から彼を見ると、その姿は素晴らしい一幅の絵になっていた。黒いオークでできた修道院長ヴィニコウムの席がちょうどその額縁の役割を果たしていた。頭上には天蓋があり、その先端は葉飾りや頂華に飾られ、座席の木の背板には楯が描かれていた。よく見るとそれは緑色と銀色の雲形線を持つブランダマー家の紋章だった。恐らくそのあまりにも堂々とした風采のためなのだろう、赤毛のパトリック・オブンズはちょうどその日手に入れたオーストラリアの切手を取り出し、王冠をかぶってゴシック風の椅子に座るヴィクトリア女王の肖像を隣の少年に指し示した。

 見知らぬ男はすっかり合唱にのめりこんでいるようだった。彼はおじることなく歌唱に加わり、もう一冊楽譜を与えられると、アンセムでも補欠としてめざましい活躍を見せた。祝福が終わって、聖歌隊が列をなして退出するときは礼儀正しく起立し、礼拝後のボランタリーを聴くために再び席についた。ミスタ・シャーノールは見知らぬテノールに対する敬意のしるしとして名曲を演奏しようと決め、「聖アンのフーガ」をオルガンの状態が許すかぎり見事に弾いて見せたのだった。確かにトラッカーがひどくがたつき、自鳴が第二主題を台無しにしてしまった。しかし張り出しから下に延びる螺旋階段を降りきったとき、見知らぬ男が彼を待っていて賞賛のことばをかけてきた。

 「ありがとうございました。あなたのおかげで素晴らしいフーガが聴けました。この聖堂に来たのはひさしぶりですよ。天気のいい午後を選んだのは幸運でした。皆さんの礼拝に間に合ったことも」

 「とんでもないよ、とんでもない」とオルガン奏者は言った。「幸運だったのはわれわれのほうだ、きみに助けてもらえて。初見で楽譜も読めるし、いい声をしている。ただシメオン賛歌のグロリアの出だしをちょっと間違えたね」彼は念のため、その部分を歌って見せた。「きみは教会音楽を理解しているし、きっと礼拝で何度も歌った経験があるんだろうね。ちょっとそんなふうには見えないんだけど」と彼は相手を頭からつま先までしげしげ見つめながら言い添えた。

 見知らぬ男はこの無遠慮な批評を不快に思うというより面白がっていた。教義問答はつづいた。

 「カランに宿泊しているのかい」

 「いいえ」と相手は丁寧に答えた。「日帰りなんですが、また機会を見つけてこの聖堂の礼拝を聞きたいと思います。次に来るときは、きっと合唱隊を全員揃えてくださいね。そうすれば今日よりもくつろいで聞くことができるでしょうから」

 「いやいや無理だな。十中八九、今日よりもっとひどいだろう。われわれは貧乏でね、しかもはるばるマケドニアまでわれわれを助けに来てくれる者は誰もおらんのだ(註 使徒行伝から)。呪われた司祭どもは蛾の幼虫みたいに資産を食い荒らし、音楽をつづけるためにとっておかれた金で私腹を肥やしている。今日の午後朗読をしていたあの気の小さい老人のことじゃないよ。彼もわれわれと同じで、こき使われる身分なのさ——かわいそうなヌート!彼は靴の底を張り替える金がないのでハトロン紙を長靴に詰めこまなきゃならん。悪いのは主任司祭の家に住む盗賊バラバだ。あいつが株式投資をし、礼拝を餓死させようとしているのさ」

 この手厳しい非難は見知らぬ男の耳を右から左へ抜けていった。彼の心は千マイルもかなたにあるかのようだった。オルガン奏者は話題を変えた。

 「オルガンは弾くかね。オルガンは分かるかい」彼は早口に尋ねた。

 「残念ながらできません」見知らぬ男は大急ぎで心を呼び戻して答えた。「楽器のこともほとんど何も知りません」

 「じゃあ、今度、二階の張り出しに来たまえ。わたしが演奏に使っているがらくた箱をお見せしよう。あれが壊れずに礼拝をやり終えることができて幸運だよ。足鍵盤は短すぎて、とっくに寿命を過ぎているし、送風器はぼろぼろなんだ」

 「修理すればいいじゃないですか」と見知らぬ男は言った。「送風器を直すくらい、たいして金はかからないはずですよ」

 「これ以上修理がきかないくらいつぎはぎだらけなんだよ。新品を買いたい人には金がない。金がある人は払おうとしない。きみが座った席、あれは新しい送風器だって、新しいオルガンだって、必要なら新しい聖堂だって買える男の席なのさ。ブランダマーという名前なんだが——ブランダマー卿。席の後ろを見たら彼の大紋章が見えたはずだよ。ところが彼は、天井がわれわれの上に落ちないようにする修理工事の費用を半ペニーだって出そうとしない」

 「ああ、それはとてもお困りでしょうね」彼らは北側扉口まで来ていた。外に出たとき、彼は思いに沈むように繰り返した。「それはとてもお困りでしょうね。この次お会いしたときにもっと詳しく話を聞かせてください」

 それを聞いたオルガン奏者はこれを引き時と心得て別れを告げ、川沿いを散歩しようと波止場にむかって歩きはじめた。見知らぬ男はどことなく外国人を思わせる仕草で帽子を持ち上げ、町のほうへ戻っていった。

第七章

 ミス・ユーフィミア・ジョウリフは土曜の午後を聖セパルカ大聖堂のドルカス会の活動に充てていた。会合は国民女学校の教室で開かれ、献身的な女たちが毎週集まって貧しい人々のために服を作った。カランには少数ながらもぼろ服をまとった紳士諸君がおり、また大勢の中流階級が生活たつきにあえいでいたけれど、幸いなことに大都市におけるような正真正銘の極貧はほとんど見られなかった。だから貧しい人々は、ドルカス会の服が最終的に配られてきたとき、ときどき品物を点検して、せっかくの生地がこんな裁ち縫いじゃもったいないと嘆いたりした。「ドルカス会が作った外套や服を見て、連中は泣いていたよ、あんまりひどい仕立てなんでね」とオルガン奏者は言ったが、しかしこれはいわれのない非難である。会には優秀なお針子が大勢いたからで、その中でもとりわけ腕のいい一人がミス・ユーフィミア・ジョウリフだった。

 彼女は揺るぎない信念を持った教会の支持者で、機会さえ許していたら、目の不自由な人の家を回って聖書を読み聞かせたり、教区牧師の活動を補助する世話人になっていただろう。しかしベルヴュー・ロッジの切り盛りで彼女の人生は手一杯、教区の仕事などやっている暇はなく、それゆえドルカス会の会合だけが規則正しく参加のできる唯一の博愛行為だったのである。しかしこの義務の遂行に当たってまさしく彼女は規則正しさの化身であった。風も雨も、雪も熱波も、病気も娯楽も彼女を止めることはできず、彼女は毎週土曜日の午後三時から五時まで、必ず国民学校にその姿をあらわした。

 ドルカス会がこの小柄な老婦人の義務だとしたら、それは同時に楽しみでもあった——数少ない彼女の楽しみの一つ、ひょっとしたらその中で最大のものだったかも知れない。彼女が会合を好んだのは、そうした場では自分よりも裕福な隣人たちと対等のような気がしたからだ。白痴が葬式や教会の礼拝に参加するのも、これと同じ気持ちからである。そういうときだけは同胞と同じ立場に立っていると感じるのだ。誰も彼も区別なく同じレベルに置かれる。話をする必要もなければ、計算をする必要もない。忠告を与えられることもなければ、決断を下すこともない。神の前では万人が愚か者のごとくあるのである(註 コリント人への前の書から)。

 ミス・ジョウリフはドルカス会の会合にいちばんいい服を着て出席したが、帽子だけは別だった。とっておきのボンネットをかぶるのは安息日だけに限られた最高のおしゃれだったのだ。彼女の衣装箪笥は中身があまりにも切り詰められ、移り変わる季節に合わせて「晴れ着」を着変える余裕はなかった。冬の晴れ着は夏の晴れ着として用いられねばならないこともあり、それゆえ彼女はときどき十二月にアルパカを着ることもあれば、この日のようにモスリンの季節だというのに、毛皮の襟巻きをしなければならないこともあった。しかし「晴れ着」を着ていれば、いつも「誰に見られても大丈夫」という気分になった。それにこと裁縫にかけては彼女の右に出る者はなかった。

 会員たちのほとんどは彼女に優しいことばをかけて挨拶した。嫉妬や憎しみや悪意が日の出から日の入りまで町中を腕組みして歩いているような場所だったが、それでもミス・ユーフィミアには敵がほとんどなかった。小さな町は大概そうだが、嘘や誹謗や悪口はカランの女たちにとっていちばん大切な活動だった。悪人はいないと思っている、世間知らずで時代遅れのミス・ジョウリフは、最初のうち、そうした歯に衣を着せない噂話で持ちきりという点が、この喜ばしい会合のただ一つの欠点であると思った。しかし昔からずっとつづいてきたこの悪弊もその後取り除かれることになる。醸造業者の奥さんで、ロンドン仕立てのドレスを着、カランで最も流行に敏感なミセス・ブルティールが、ドルカス会の午後は集まったお針子たちのために何かためになる本を読んで聞かせることにしようと提案したのである。ミセス・フリントは、そんな提案をするなんて自分が美声の持ち主だと思っているからよ、と言ったが、しかし理由はどうあれ、彼女はそういう提案をし、誰もそれに反対するものはなかった。そういうわけでミセス・ブルティールはまことに信心深い内容の本を読んだのだが、それがまたずいぶんほろりとさせる話で、彼女が涙にかきくれることなく、また彼女のご機嫌取りたちから同情のすすり泣きを誘発することなく、午後が過ぎることはめったになかった。ミス・ジョウリフ自身は、想像上の悲しみにそれほどたやすく感動できないことがあったが、しかしそれは自分の性格に哀れみ深さがかけているからだと思い、心の中で自分よりも感じやすい他の人々を慶賀した。

 ミス・ジョウリフはドルカス会に出席、ミスタ・シャーノールは川沿いを散歩、ミスタ・ウエストレイは石工たちと袖廊の屋根の上、というわけで、正面玄関のベルが鳴ったとき、ベルヴュー・ロッジにいたのはアナスタシア・ジョウリフただ一人だった。叔母が家にいるときは、アナスタシアは「殿方の給仕」をすることも、ベルに応えることも許されなかったが、叔母は不在だし、家のなかには誰もいない。しようがなく彼女は観音開きになった大きな玄関ドアの一方を開け、半円形の外の階段に一人の紳士が立っているのを見いだした。その男が紳士であることは彼女には一目で分かった。彼女にはそんな役に立たない違いを識別する「才能」があったのだ。もっともカランにはその手の人間が多くはないので、家の近所で彼女の才能を鍛えるというわけにはいかなかったけれど。実は彼はテノールを歌ったあの見知らぬ男だった。彼女は女性の持つ鋭い観察眼で、男の外見についてオルガン奏者や聖歌隊や教会事務員が一時間かけて知ったことを一瞬のうちに見て取った。いや、それだけではない。彼女は男の服装が上物であることも見逃さなかった。男は装飾品をまったく身につけていなかった。指輪もネクタイピンもつけず、懐中時計の鎖さえも革製でしかなかった。服の色はほとんど黒といってもいいくらい濃い灰色だったが、生地は上等で、仕立ても最高のものだとミス・アナスタシア・ジョウリフは思った。ベルに応えて出ていくとき、彼女は「ノーサンガー・アベイ」(註 ジェイン・オースチンの小説)にしおり代わりの鉛筆をはさんだのだが、見知らぬ男が彼女の前に立ったとき、彼女はヒロインの恋人役、ヘンリー・ティルニーがあらわれたのではないかと思った。そして彼が唇を開こうとするとき、彼女はキャサリン・モーランドのように身構えて、重大な知らせが発せられるのを待ち受けたのである。しかしそこから発せられたのは少しも重大なことではなかった。空き部屋の有無という、彼女が半ば期待していた質問ですらなかった。

 「聖堂工事の監督をしている建築家はここに下宿していますか。ミスタ・ウエストレイはご在宅でしょうか」それが彼の言ったすべてだった。

 「ここに住んでいらっしゃいますわ」と彼女は答えた。「でも今はお出かけです。六時までお戻りにならないと思います。お会いになりたいのでしたら、たぶん聖堂にいると思うんですけど」

 「今聖堂から来たところです。でも見つかりませんでしたよ」

 建築家に会えずベルヴュー・ロッジまでわざわざ歩く羽目にあったのは、きっとおざなりにしか建築家を探そうとしなかったからだろう。当然の報いだった。手間暇惜しまずオルガン奏者か教会事務員に訊いていれば、ミスタ・ウエストレイの居場所はすぐに分かったはずである。

 「メモを書いてもいいでしょうか。紙を一枚もらえれば、伝言を残していきたいのですが」

 アナスタシアは頭のてっぺんからつま先まで、早撮り写真のようにすばやく相手を一瞥した。「乞食」はカランのご婦人たちにとって常に嫌悪すべき対象で、そうした怪しい男に対して持つべき恐れは、叔母によってアナスタシア・ジョウリフにも植え付けられていた。さらに男の下宿人が家にいて、もしものことがあった場合、取っ組み合ってもらえるというときでなければ、相手がどんな口実を設けようと、決して見知らぬ人間を家に入れてはならないというのが、昔からこの家にずっとつづく規則だった。しかしちらりと見ただけで、最初の判断を確認するには充分だった——この方は間違いなく紳士だわ。紳士乞食なんてものはあり得ない。そこで彼女は「ええ、もちろん」と答えて、彼をミスタ・シャーノールの部屋に案内した。そこが一階にあったからである。

 訪問者は部屋の中をすばやく見回した。もしも彼が以前この家に来たことがあったなら、アナスタシアは彼が記憶にある何かを確認しようとしていると思っただろう。しかしオープン・ピアノといつも通り散らかった楽譜と手書きの原稿以外、見るべきものなど何もなかった。

 「ありがとう。ここで書いてもかまいませんか。ここがミスタ・ウエストレイの部屋ですか」

 「いいえ。もう一人の方がここに下宿しているんです。でもこの部屋でメモをお書きになればいいわ。外出中ですし、どっちみち気にしないでしょうから。彼はミスタ・ウエストレイのお友達です」

 「できればミスタ・ウエストレイの部屋で書きたいのですよ。こちらの紳士とは関係がありませんし、戻ってきてわたしが彼の部屋にいたら気まずいでしょう」

 今彼らがいる部屋がウエストレイの部屋ではないと知り、見知らぬ男はどういうわけかほっとしたようにアナスタシアには思えた。どんなに当惑したような振りをしていても、その態度にはかすかな、なんとも言えない安堵感が感じられた。もしかしたらこの人はミスタ・ウエストレイの大の親友で、部屋の中が散らかっていて、だらしないのを残念に思ったのじゃないかしら。ミスタ・シャーノールの部屋は本当にひどい有様だもの。だから自分の思い違いを知らされて嬉しいのだわ、と彼女は思った。

 「ミスタ・ウエストレイの部屋はいちばん上の階なんです」彼女は弁解するように言った。

 「階段を上がるくらい、なんでもありませんよ」と彼は答えた。

 アナスタシアはまたもや一瞬戸惑った。紳士乞食はいないとしても、紳士強盗はいるかも知れない。彼女は慌ててミスタ・ウエストレイの所持品リストを頭に思い浮かべたが、犯罪を誘発しそうなものは何もなかった。それでも彼女は、自分一人しか家にいないときに、いちばん上の階へ見知らぬ男を案内するのは気が引けた。そんなことを頼むなんて作法をはずれているわ。やっぱり紳士じゃないのかも知れない。さもなきゃ自分の要求がどんなに礼を失しているか、分かるはずだもの。それとも何か特別な理由があって、ミスタ・ウエストレイの部屋を見たいのかしら。

 見知らぬ男は相手の戸惑いに気がつき、彼女が考えていることを容易に読み取った。

 「申し訳ありません。あなたとお話しさせていただいている人間が誰か、名乗りをあげるべきでしたね。わたしはブランダマー卿と申します。聖堂修復の件で、ミスタ・ウエストレイに二言三言伝えたいことがあるんです。これがわたしの名刺です」

 恐らく町でアナスタシア・ジョウリフくらい平然とこの知らせを受け止めた女はいないだろう。祖父が死んで以来、新しいブランダマー卿は絶えず地元の人の噂と憶測のタネとなった。彼はこの地方の実力者で、町と周囲の田園地帯をことごとく所有していた。フォーディングの豪邸は、晴れた日なら、聖堂の塔から望み見ることができた。彼は才能豊かな、りりしい顔立ちの人物だという評判で、四十は超えておらず未婚とのことだった。しかし成人してからその姿を見た者はなく、二十年もカランから遠ざかっていると言われていた。