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あめりか物語 cover

あめりか物語

Chapter 35: Transcriber's Notes
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About This Book

A sequence of travel sketches recounts a Pacific voyage and subsequent stays in foreign towns and countryside, shifting between intimate shipboard scenes, chance conversations with fellow passengers, and walks through streets, parks, and institutional grounds. Evocative descriptions of weather, landscape, and everyday interiors alternate with reflective observations about longing, disappointment, and the uneasy prospects of those who leave home to seek opportunity abroad. Small domestic moments, social encounters, and melancholy memories are woven into an observant, elegiac account of movement, cultural dislocation, and the unsettled life of travelers.

 劇場の舞臺ならぬ現實の生活に此のやうな美しい役目ロールが又とあらうか。自分はアメリカに來た後とても夜の道花の陰をば若い女と步いた事は幾度もあるが、今夜に限つて如何したものか、最初はじめての經驗の如くに無暗と心が亂れて來てならなかつた。

 唯さへ靜な島の夜は小夜ふけて餘りに靜な爲めか。或は驟雨ゆふだちの來るやうに木の葉や草の葉の折々妙に物凄く打戰うちそよぐ所爲か。或は蟲の聲蛙の聲の云ふに云はれず鮮に星降る空に反響して天地には今や全く自分とロザリンと此の二人しか覺めて居らぬと云ふ意識の餘に强く心を打つが爲か。自分は何とも知れぬ心の亂れをば理由もなく相手に悟られまいと焦り立つて居た。で、片手に提げた提灯の火が凸凹した足許を照す光に、自分はもしや顏を見られはせぬかと、それとなしに空のみ仰ぎながら步いて行つたのである。

 ロザリンも默つて何れかと云へば早足に步みながら次第に坂道を上つて行つた。やがて高く生茂る草の上に彼の女が家の屋根が見えるあたりまで來ると二人の前には忽ち大空が一際廣く打廣がり、眞暗な海上瀨戶内の彼方此方には燈臺の火が幾個となく數へられ、又遠く大西洋の出口サンデーフツクの方に當つては終夜危險なる内海一帶の航路を照すサーチライトが望まれた。自分の後と直ぐ目の下には村の夏木立が眞黑に橫はつて居る。

 自分は覺えず立止ると彼の女は夢に物云ふ如く——Beautiful night, isn't it? I love to watch the lights on the sea. と云つたが、自分の耳にはこの語が非常に快い韻を踏んだ詩のやうに聞きなされた。

 何と答へやう。自分は唯頷付いたなりかうべを垂れたが其の時彼女はあわたゞしく自分の袖を引いて———鳥が鳴いて居る。何だらう、駒鳥ぢやないか知らと云ふ。

 成程、細くて高い笛のやうな優しい聲が一度途切れて又續いた。

 自分はこの度は躊躇はず——ロメオが忍會ふ夜に聞いた「夜の鶯」であらう。Nightingale と云ふやうな夜に歌ふ小鳥は亞米利加には居ないと聞いて居たが現在あの優しい鳴音なくねはどうしても詩に歌はれた其れに違ひは無い。と斷定した。

 實際、この國に育つたロザリンもさだかには鳥の名を知らなかつたのだ。二人は別に異論もなく、「ロメオの聽いた鳥」と云ふ事にしてしまひ、さて改めてもう一聲なり二聲なり、其の鳴く聲を聽かうとしたが、早や何處へやら飛び去つてしまつたらしい。

 自分は小山の頂からほん﹅﹅の五六步下りかけた道の右側にある彼の女の家まで送つて行き、廣い芝生ローンと花園を圍んだ垣根越に輕い握手と共に good night の一語。かくして其の夜は別れて歸つたのであつた。

 自分は次の日、目を覺ますと前夜の事がどうしても夢であるやうな氣がしてならなかつた。現實にあつた事としては餘りに詩的である。餘りに美し過ぎる。同時に自分の生涯にはもう二度とあのやうな美しい事は起るまいと妙に果敢はかない氣もした。

 午飯の時に宿の妻が問ひもせぬのに、いろ〳〵とロザリンの事を話してくれた。父親は元英吉利の商人で一度家族をつれて亞米利加へ來た後、ロザリンをば宗敎學校の寄宿舎に預けて更に南亞弗利加のケープタウンへ赴き、其の地でかなりの財產を作つて七八年前に歸つて來た。そして今の處に別莊を構へて隱居して了つたので、ロザリンは全く親の手を放れて育つたも同樣、その爲か極く氣の勝つた淋しい性質らしく、今日まで此れと云つて親しい友逹も作らず、又何につけ物事をば兩親はじめ誰にも相談なぞする事はなく、何時も〳〵己れ獨りきりで決斷分別をつけ、然も別に淋しい顏付悲しい樣子なぞ見せた事もないと云ふ事である。

 食事を濟すと、自分は例の通り櫻の木蔭に赴き讀み掛けたマラルメの散文詩を開いたが、すると其の興味に引入れられるまゝ、次第に昨夜の事も、世の中の事も、自分の身の上も、皆も忘れてしまつて、芝生の上に橫はる木の影道の上に落るまばゆい日の光のみ目に映じて、あゝ夏は美しいと思ふばかりであつた。夕方になつていざ散步の折、自分は初めて今宵かの浮洲を見に行くには一本道の是非にもロザリンの家の前を行き過るのだと心付いた位である。

 自分は逢ひたいやうな又逢ひたくないやうな、極めて朦朧とした考で、いつもの草徑を步んで行つたが、まだ小山の頂まで逹せぬ中烟のやうに暮れかゝる野草の蔭から、———Hallow! here I am!———と云ふ雲雀ひばりの樣なロザリンの聲を聞き付けた。彼の女は今宵も(自分にとは明かに云はなかつたが)自分の宿の妻を訪ねに行く處だと話した。

 で、其の夜も晚くまで話をして、昨夜の如く夜道をば提灯を片手に、再び名の知れぬ夜の鳥の囀る聲を聞き、彼女が家の垣根際まで見送つて行つたが、また其の次の日の午前にははからずも村の本道で、彼の女が郵便局へ行くとやら云ふ途中に出會ひ、そのさしかざす日傘の下に步調あしなみを揃へて步いた。

 何しろ、狹い村の事、道は多からず、散步する時間も大抵はきまつて居るので、その後は殆ど每日のやうに、自分は一日の中、何處かで一度、顏を見ぬ事はないやうになつたのである。その結果として或日二日ばかり雨が降通して何處へも出られず、從つてロザリンの姿を見る事の出來ない場合に遭遇したが、すると、自分は寂しくて寂しくて、燈下に唯一人田舎家の屋根を打つ雨の音をば聞澄して居るには忍びないやうな心地になつた。———尤もこれは紐育に居た三年間、靜な雨の音なぞ聞いた事が無かつた所爲でもあらうが———遂に自分は每晚夜寢る時には、窓から空の星を仰ぎ見て、どうか明日も散步に出られるやうな好い天氣になるやうにと、心ひそかに念ずるのであつた。

 ひでりの夏は自分の願つた通り、時々日の中に驟雨ゆふだちの降過ぎるだけで每日の天氣つゞき。殊に夜は月が出るやうになつた。自分はこの年、この夏ほど每夜正しく新月の一夜一夜に大きくなつて行くのを見定めた事はない。

 今となつては却て此の月の光が恨である。月の光さへなくば、夜の鳥、蟲の聲、草の薰、木の葉のさゝめきに、夏六月の夜は如何に美しくとも、自分は………ロザリンは………二人はかくも輕々しく互のくちをば接するには至らなかつたであらう。

 自分はこの島の靑葉が黃く、また紅くなりをはらぬ中、いづれアメリカを去らねばなるまいと云ふ事は、前から已にロザリンには打明けて居た。又、或時には自分は此四年が間アメリカの生活をした紀念に、せめては長く手紙のやりとりをするやうなブロンドの友逹が欲いものだ………と云へば、ロザリンも笑つて讀みにくいルーズベルト新式の綴字スペリングで手紙を書いて送らうと答へた位であつた。されば二人は唯だ愉快に此の美しい夏の夜を遊んで暮さうと、初めから明かに互の地位境遇を知り拔いて居た筈である。

 然し夏の夜は若いものが唯遊んで暮さうと云ふには、餘りに美し過ぎた。月は糸の樣な其の頃から一夜もかゝさず靜な其の光に二人が語る肩を照し、自然々々知らぬ間に、われ等が魂を遠い〳〵夢のさとにとおびき入れて了つたのである。

 自分はどうしても自分の意思をば弱いものであつたとは云ひたくない。最後まで自分はロザリンを愛する事は出來ぬ、縱へ心の底はどうあつても、それをば若い娘に打明けべきでは無い、と意識して居たからである。

 丁度十五夜の滿月をば夜半過ぎまで眺め明し、亞米利加では月の面に人の顏があるとロザリンが云へば、日本では兎が立つて居るのだと答へて、その何れが正しいかと他愛もない議論をした、其の翌日の事、自分は意外にも早く故郷からの音信に接し、秋を待つ間もなくこの二週間以内には是非とも歐羅巴に向はねばならぬ事情に立ち至つた———其の事情をも自分は殆ど何の躊躇もする事なく鳥渡紐育の市中へでも遊びに行くやうに、極く簡單に無造作に打明けて了つた。

 するとロザリンも同じく左程に驚いた樣子もせず、行先はフランスかイタリヤか、何日頃に出發するかなど質問して、宿の夫婦ととも〴〵客間で平日通りに雜談して居たでは無いか。

 然し十時を過ぎた後、每夜の如く自分は彼の女を送つて外へ出ると、今宵は卽ち十六夜いざよひの昨日にも勝る月の光。夜每眺め飽す身にも餘りの美しさに、二人は何とも言交す語さへなく草徑を岡の近くまで步いて來たが、其の時自分は忽然何とも知れぬ悲しさが身に浸み渡つて來るやうな氣がした。ハツと心を取直さうとする刹那、ロザリンは道傍の石に躓いたらしく突如自分の方に倚り掛つた………自分は驚いて其の手を取ると彼の女は其のまゝひし﹅﹅とばかり自分の胸の上に顏を押當てゝ了つた。

 半時間あまりも、夜露に衣服の重くなるまでも、二人は何の語もなく相抱いたまゝ月中に立竦たちすくんで居たのである。實際何とも云ひ出す言葉はない。二人とも何程戀しいと思つた處で、自分は旅人、彼の女は親も家もある娘、永く幸福の夢に醉ふ事の出來ぬ事情は已に云はずかたらず知り合うて居たからで。さればこの上に申出づべき事は唯二つあるのみである。自分は故郷の關係をすつかり斷つてしまつて獨力で生活の道を永遠に此の國に求めやうか。或はロザリンをして兩親の家と此れまで育つた亞米利加の國土を出奔せしめるか。此の二つだけである。然し自分は如何に切なくとも、到底そこまでは進んで云ひ出し兼る。ロザリンとても亦男の身に戀の爲め浮世の凡てを打捨てゝくれよとは、如何して云ひ切れやう。

 二人は遂に常識の人であつたのかも知れない。亞米利加と云ふ周圍の力が知らず識らずく爲しめたのであらうか。或は吾々の戀が未だそれまでに至らなかつたのであらうか。否、自分等二人の戀は命を捨てたロメオやパウロやジユリヱツトやフランチエスカの其れにも劣らぬものと信じて疑はない。二人は今此處で一度別れては何日又逢ふか分らぬ身と知りながら———一瞬間の美しい夢は一生の淚、互に生殘つて永遠とこしへに失へる戀を歌はんが爲め、其の次の日からは每日の午後をば村はずれの人なき森に深い接吻を交したのであつたものを………。

 船は早くも大西洋を橫斷よこぎり盡して程なくフランスのル、アーブル港に着くと云ふ事だ。今朝方アイルランドの山が見えたと人が話して居る。もう、長く筆を執つて居る暇はない。僅か一週間と云ふ日數の中に我が身は今如何に遠く彼の女から離れてしまつたのであらう。

 遠く離れゝば離れるほど彼の女の面影はあり〳〵と目に浮ぶ。彼の女は稍黑みを帶びた金髮ブロンドであつた。西洋人には稀に見らるゝ程長く濃い其の金髮をば、何時も無造作に束ね、額に垂れる後毛をば絕えず指先で搔上げる樣子の如何にも情味が深い。並んで立つと丁度自分のおとがひほどしかない———アメリカの女としては極く小作りの方であつたけれど、然し肉付がよいのと、何時も極端に直立の姿勢を取つて居るので、どうかすると非常に丈け高く、大きく見える事もあつた。湖水みづうみの樣な靑く深い眼と、細くて稍尖つた其の容貌おもざしは、熱心に話でもする折には、どうしても神經の過敏を示すだけ、ぢツと沈着おちついて居る時には、云ふに云はれない威嚴と强くて勇しい憂鬱を現す。———卽ち明い鮮な輪廓の繪にもしたいやうな妖艶な南歐の美人とは全く反對で、何處か銳い處に一種の悲哀があり、その悲哀の中に女性特有の優しさが含まれて居る北方アングロサキソン人種に能く見られる類型タイプの一であつた………。

 突然上甲板の方に人の騷ぐ聲が聞える。ル、アーブル港の燈火が見え始めたのだと云ふ。船室へやの外の廊下をば———Nousヌー voilàボアラ enアン Franceフランス———(佛蘭西に着いたぞ。)と云つて駈けて行くものがある。甲板の方では男や女が一緖になつて、

  Allons enfants de la patrie

  Le jour de gloire est arrivé

と歌ふ「マルセイヱーズ」が聞え出した。自分は遂にフランスに着したのだ。

 然しこの止みがたき心の痛みを如何にしやう。自分は思ひ出すともなくミユツセがモザルトの樂譜に合せて作つた一詩———

  Rappelle-toi, lorsque les destinées

  M'auront de toi pour jamais séparé

  ....................

  ....................

  Songe à mon triste amour, songe à

      l'adieu suprême!

  ....................

  Tant que mon cœur battra,

  Toujours il te dira:

    Rappelle-toi.

 「思ひ出よ。もし運命の永遠とこしへに、我を君より分ちなば、我が悲しき戀を思ひ出でよ。別れし折を思ひ出でよ。心の響消えざらば、とこしへに心は君に語るべし、思ひ出でよ思ひ出でよと。」

 心の中に口ずさみながら初めて見るフランスの山に自分は敬意を表する爲めにと、一あし一步甲板の方に步いて行つた。

  Rappelle-toi, quand sous la froide terre

  Mon cœur brisé pour toujours dormira;

  Rappelle-toi, quand la fleur solitaire

  Sur mon tombeau doucement s'ouvrira.

  Tu ne me verra plus; mais mon âme immortelle

  Reviendra près de toi comme une sœur fidèle.

    Ecoute dans la nuit,

    Une voix qui gémit:

      Rappelle-toi.

「思ひ出でよ。冷き土に永遠とこしへに、わが破れし心眠りなば、思ひ出でよ。淋しき花のおもむろに、わが墳墓おくつきに開きなば、君は再びわれを見じ。されど朽ちせぬわがたまは、親しきいもが如くに、君がかたへに返り來ん。心澄して夜に聞け。さゝやく聲あり、思ひ出でよと。」

          (明治四十年七月)

Transcriber's Notes

本テキストは昭和四十二年講談社刊「日本現代文學全集33 永井荷風集」(第七刷)を底本にした。近代デジタルライブラリー所収1908年博文館発行の版と比較して以下の訂正を施した。

原文 橫顏をばひ﹅﹅たと

訂正 橫顏をばひた﹅﹅

原文 木枯を搖する風

訂正 枯木を搖する風

原文 瘴煙しやうどく毒霧えんむ

訂正 瘴煙しやうえん毒霧どくむ

●文字・フォーマットに関する補足

「候」の略体は「候」で表記した。「懶」は「忄+頼」。