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苦悶の欄

Chapter 11: 第九章
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About This Book

Set in London on the eve of war, an American expatriate becomes obsessed with the newspaper's personal-ad 'agony column' and a striking fellow American he notices at the Carlton Hotel. When she responds to an anonymous admirer by daring him to write seven letters, he undertakes the challenge, and the playful courtship through public messages draws him into a larger mystery of false identities, suspicious correspondence, and police scrutiny. The narrative interweaves light romantic comedy about newspapers and social ritual with escalating intrigue that involves military figures, detectives, and revelations that transform a flirtation into a matter of danger and investigation.

 巡査が伯爵夫人の前に進み出て、ヒューズ大佐が慇懃にドアを開けました。

 「ソフィー」と彼は言いました。「別の話をでっち上げるいい機会だ。君は頭がいい。それくらい朝飯前だろう」

 彼女はむっとした目つきで彼をみつめ、出て行きました。ブレイは机から立ち上がり、ヒューズ大佐とテーブル越しにむかい合いました。両者のあいだには永遠に相容れないものがある、彼らの様子を見て私はそんなふうに感じました。

 「ほんの少しは近づいただと?」ブレイがせせら笑いました。

 「我々が見落としていた可能性が一つあります」ヒューズは答えました。彼は私のほうをむき、私はその目の冷酷さにぎょっとしました。「ご存知ですか、警部。このアメリカ人が大尉宛ての紹介状をたずさえて、ロンドンにやって来たことを。大尉の従兄弟、アーチボルド・エンライトが書いた手紙なんですがね。さらに言えば、フレイザー=フリーアにはそんな名前の従兄弟はいなかったんですよ」

 「なんだと!」とブレイ。

 「嘘じゃありません」とヒューズ。「このアメリカ人がそう私に告白したのですから」

 「そういうことなら」とブレイが私にむかって言いました。ぱちぱちとしばたたく小さな目は、狭量で疑い深い視線を、私に送るのです。私は背筋が寒くなりました。「お前を逮捕する。今までアメリカ領事館の知り合いに免じて特別扱いをしてきたが、それもこれで終わりだ」

 私は仰天しました。そして大尉のほうをむきました。彼は味方が必要なら自分を当てにしてくれと言ったのです。このような不測の事態から助けてくれるものと、頼みにしていた人物です。しかし彼の目はまったく無表情で同情のかけらもありません。

 「そのとおりです、警部」と彼は言いました。「この男は監禁すべきだ!」私が抗議しはじめると、彼は私のすぐそばを通って、そっとささやきました。「なにも言うな。待て」

 私は部屋に帰って、友達と連絡をとったり、領事館や大使館を訪れる許可を与えてくれと頼みました。大佐の助言もあって、ブレイはこのやや異例の取り扱いに同意しました。そういうわけで今日の午後、私は巡査に付き添われて外に出ました。そして、この長い手紙を書いているあいだ、巡査は私の安楽椅子でそわそわしていたのです。今、彼はもう待てない、すぐ出なければならない、と言っています。

 あれこれ考える時間はありません。これからどうなるのかとか、私に対する大佐の突然の変節や、耳元でささやいた彼の約束について考える時間はないのです。今晩、私が夜を過ごす場所は、間違いなく、観光案内があなたにスコットランドヤードですと言って指さした、あのいまわしい不気味な壁の背後でしょう。そして私がふたたびペンを手にして、最後の手紙に思いのたけを……

 巡査は待ってくれません。彼は子供のようにいらだっています。一時間も待たされたなどと言っていますが、まったくの嘘です。

 お嬢さん、私がどこにいこうと、この奇怪なこみ入った謎の結末がどうなろうと、あなたへの思いは……

 ええい、いまいましい!

不当に逮捕された男

 苦悶の欄の若い男から五番目の手紙がカールトン・ホテルに届いたのは、読者も覚えておられるように、八月一日の月曜の朝だった。それはテキサスの娘に、アデルフィ・テラス殺人事件の興奮のクライマックスを伝えるものであった。面識はないが、感じのいい若い男友達が、事件の容疑者として逮捕されたというニュースは、避けられない進展として予想されていたにもかかわらず、彼女に深刻な衝撃を与えた。彼女は彼を助けるために自分にできることはないだろうかと考えた。みずからスコットランドヤードへのりこみ、父親がテキサス州選出の下院議員であることを盾にとって、イチゴ男の即時釈放を求めようかとすら思った。しかしテキサス州選出の下院議員などロンドンの警察からは洟もひっかけられはしないと、分別のある判断をくだしたのだった。さらにその下院議員にたいして、新聞にもまだ出ていない犯罪を彼女が知悉している理由を説明するのは、容易なことではなかっただろう。

 彼女は五番目の手紙の後半を読みなおした。そこには彼女のヒーローが、不名誉にもスコットランドヤードへとむかう姿が描かれている。彼女は心配そうに小さいため息をひとつついて、父親と合流するために下へ降りて行った。

第七章

 その日の朝、彼女は殺人に関する国際法上の微妙な点について、父親に訳ありげな質問をいくつかした。父親がほかのことに気を取られ、はなはだしく興奮していなければ、恐らくこの質問の奇妙さに気がついていただろう。

 「いいか、帰らなきゃたいへんなことになるぞ!」彼は憂鬱そうにそう告げた。「ドイツ軍はエクス・ラ・シャペルでリエージュ攻撃に備えている。そう、あいつらはベルギーに襲いかかるつもりだ! それがどういうことか分かるか? イギリス参戦だよ。労働問題や女性参政権問題やアイルランド内乱なんぞ、去年の冬、テキサスに降った雪みたいにあっという間に消えてなくなるだろう。連中は参戦するぞ。しなけりゃ国家的自殺行為だ」

 娘は大きく目を見開いて父親を見た。彼女は、父がカールトン・ホテルの靴磨きの受け売りをしていることを知らなかった。そして思っていたよりも父は外交問題に通じているのではないかと考えはじめた。

 「そうとも」彼はつづけた。「我々は帰国しなければならん、急いでな。ドンパチがはじまればここは非戦闘員には安全な場所じゃなくなる。わしは帰るぞ、定期船を買収してでも」

 「とんでもないわ!」と娘が言った。「これこそ一生に一度の好機よ。あたし、なにもわかってないお父さんにだまされて、絶好の機会を逃したくないわ。ほら、ここであたしたちは歴史とむかい合っているのよ!」

 「アメリカの歴史だけでたくさんだよ」彼は手も足も放り出した。「なんだ、その目つきは?」

 「骨の髄まで田舎者なんだから」彼女の言葉には思いやりがこもっていた。「お父さん……あたし、お父さんが大好きよ。アメリカの政治家の中には理解できない事態を前にしてほうけたような顔をしている人もいるでしょうね。お父さんがそんなふうにならなければいいと思うわ」

 「無駄口はもういい!」彼は大声を出した。「わしは今日、汽船会社の事務室に行って掛け合ってくる。選挙のときより激しくな」

 父が固く決心していることが、娘には分かった。長い経験から得た知恵で、彼女は思いとどまらせようとはしなかった。

 その暑い月曜日のロンドンは、警戒体制に入った都市、恐れおののく人々の都市であった。ある新聞の号外に載った噂は次の号外で否定され、その次の号外で再び肯定された。先見の明ある人間は幸せからはほど遠い表情を浮かべて通りを歩いた。不安が町を支配した。そしてスコットランドヤードの威圧的な壁のむこうで「不当監禁」されている苦悶の欄の友人を思いやるテキサス娘の胸にも、その不安はこだましていた。

 午後、父親は勝利者のようなにこやかな笑みを浮かべて現れた。三日後に汽船サロニア号で出航予定だった男から、途方もない額で切符を買い取ったらしい。

 「連絡列車は木曜日の朝十時に出る」と彼は言った。「最後のヨーロッパ見学と帰る準備をしておきなさい」

 たった三日間! 娘は聞きながら気持ちが沈んだ。三日のうちにあの不思議な謎の結末を聞くことができるだろうか。公共の刊行物を使って、型破りな声のかけ方をしてきた男の最後の命運を見極めることができるだろうか。そうだわ、あの人、三日経ってもまだスコットランドヤードにいるかもしれない、囚人として! ほんとうにそうなったとしたら、立ち去ることはできない。とてもできるものじゃない。彼女はもう少しで父親に洗いざらい話をするところだった。父の怒りを静め、その協力を取り付ける自信があったのである。が、彼女は次の朝まで待つことにした。そしてもし手紙が来なければ、その時は……

 しかし火曜日の朝、手紙が来た。その最初のほうには喜ばしい知らせが書かれていた。最初のほうには……そのとおり、喜ばしい知らせが。ところが最後のほうには! これがその手紙である。

 安否を気遣う親愛なるお嬢さま

 英国インド陸軍大尉を殺害したかどで監禁され、わたしに有利な証拠はなにもなし、希望はまことにかぼそい、小さな声で語りかけるだけ、そんなありさまをご存知のお嬢さまが、私の安否を気遣っているだろうと考えるのはうぬぼれでしょうか。

 お嬢さん、ご心配はもう無用です。先週の木曜以来、私の運命であった驚くべき日々の中で、もっとも驚くべき一日が経過したばかりなのです。そして今、私は自由の身となって夕闇に包まれた自分の部屋に腰かけ、先ほど経験したばかりの思いも寄らぬ冒険のあと、思う存分、平和と静寂を味わいながら、あなたへの手紙を書いているのです。

 私への疑惑は晴れ、巡査たちの見張りも、もうありません。スコットランドヤードは私にたいしてひとかけらの興味すら抱いていないのです。なぜならフレイザー=フリーア大尉の殺人者がとうとうつかまったからです!

 日曜日の夜を、私は不名誉にもスコットランドヤードの独房で過ごしました。私は眠れませんでした。いろいろなことを考えたのです……たとえばあなたのことを。そしてその合間に、身動きも取れないくらいまわりに張り巡らされた罠から逃れる手立てのことを。領事館の友人ワトソンが夜遅く訪ねてきて、とても気を遣ってくれました。しかし彼の声にはなにかが欠けているのです。彼が帰った後、恐ろしいことですが、結局、彼も私の有罪を信じているのだと確信を抱きました。

 一夜が過ぎ、今日という日も、詩人風に言えば「歩みも遅々と」大部分が過ぎて行きました。私は日射しを受けて黄色くみえるロンドンを思い、カールトン・ホテルを思いました。今はもうイチゴはないでしょうね。私のウエイター、あの背筋をぴんと伸ばしたプロシア人は、今ごろ、祖国ドイツで連隊行進に加わっているでしょう。そして私はあなたのことを考えました。

 今日の午後三時に私はブレイ警部の部屋に連れ戻されました。しかし私が部屋に入ったとき、警部はそこにいませんでした。ただヒューズ大佐のみが、いつものとおり身だしなみよく、冷静な態度で、窓からわびしい石畳の中庭を眺めていました。私が入ると、彼は振り返りました。私は見るも痛ましい姿をしていたのに違いありません。後悔の表情が彼の顔を横切ったのですから。

 「いや、まことに申し訳ない! 昨日の晩、釈放させようと思っていたのですが、あまりにも忙しかったのです」

 私は黙っていました。なにが言えるでしょうか。忙しかったなど、随分ふざけた言い訳だと思いました。しかしすぐにも法の網を逃れることができるのかと思うと、胸がどきどきしはじめました。

 「許していただけないかも知れませんね、昨日、あなたをあんなふうに見捨てたりして。ただ、あれはどうしても必要だったのです。間もなくご理解いただけると思うのですが」

 私は態度を少し軟化させました。なにしろ彼の声と態度には疑いようのない誠意があったのです。

 「いまブレイ警部を待っているんですよ。この事件の決着を見届けたいと思っていらっしゃるでしょう?」

 「最後まですべてを」と私は答えました。

 「当然です。警部は昨日の会見の後、すぐ呼び出しを受けました。どうも大陸のほうで仕事があるようです。しかし幸いにも、ドーヴァーに着いたとき、彼と連絡が取れまして、ロンドンに戻ってきてもらいました。彼が必要なのですよ。フレイザー=フリーア大尉殺害の犯人が見つかったのですから」

 私はそれを聞いてわくわくしました。私にとって、それこそ熱烈に望んでいた結末なのです。大佐は話すのを止めてしまいました。数分後、ドアが開いてブレイが入ってきました。まるで昨夜は服を着たまま寝たような様子で、その小さな目は血走っていました。しかしそこには忘れることができない火のようなきらめきがありました。ヒューズはお辞儀をしました。

 「こんにちは、警部」彼は言いました。「仕事の邪魔をして、ほんとうに申し訳ありません。しかしあなたが私にホンブルグ帽の借りがあることを、どうしてもお伝えしたかったものですから」彼は警部に歩み寄りました。「いいですか、賭けに勝ったのは私です。フレイザー=フリーア大尉を殺した男を見つけました」

 奇妙なことにブレイはなにも言いませんでした。彼は机に座ると、そこに積まれた郵便の山をぼんやりと眺めました。ようやく彼は顔を上げると、疲れたような口調で言いました。

 「あんたは切れ者だな、ヒューズ大佐」

 「いいえ、そんなことはありません」とヒューズは答えました。「運がよかったのです——最初から。この事件にたずさわることができて、ほんとうによかったと思います。私が捜査に参加していなかったら、きっと無実の人間が憂き目を見ることになったでしょう」

 ブレイの大きく丸々とした手は、机の上の手紙をもてあそびつづけました。ヒューズはつづけます。

 「有能な警部としてあなたも、私がホンブルグ帽を勝ち取るに至った一連の事情に興味がおありではないですかな。もうお聞きでしょうが、私が捕まえた男はフォン・デア・ヘルツ。十年前はドイツ政府のために働いていたいちばん優秀な秘密諜報員でした。ところがここ数年は不可解にも我々の前から姿を消していました。我々陸軍省はずっといぶかしく思っていました」

 大佐は椅子に腰を下ろし、ブレイにむかい合いました。

 「フォン・デア・ヘルツはもちろんご存知ですよね」彼は何気なく言いました。

 「当然だ」ブレイはやはり疲労困憊した声で言うのです。

 「奴はイギリスにいるスパイどもの首領格です」ヒューズはつづけました。「彼を捕まえたことは、ちょっとした自慢の種になりますな。いや、うぬぼれるのはよしましょう。私が捕まえてなくても、かわいそうなフレイザー=フリーアが捕まえていたでしょうから。ただフォン・デア・ヘルツは運よく先に大尉を殺すことができたというだけです」

 ブレイは目を上げました。

 「あんたが話すといってたのは……」彼は言いかけました。

 「これから話しますよ」とヒューズ。「フレイザー=フリーア大尉はインドで不祥事をおこし、昇進の機会を失いました。彼は軍務に不満を抱いている、嫌気がさしていると疑われました。そしてソフィー・ド・グラフ伯爵夫人がその魅力で彼を誘惑し、大尉の忠誠心を殺し、仲間にひきこもうとしはじめたのです。

 彼女はそれに成功したように思われました。ドイツの外務省はそう思いました。我々、陸軍省もそう思いました。彼がインドにいるあいだは。

 ところが大尉と女がロンドンに来たとき、我々は大尉を不当に評価していたことに気がついたのです。彼は最初の機会が訪れたとき、我々に、名誉挽回の努力をしていること、危険なスパイどもを、自分もその一人のふりをして、一網打尽にしようと考えていることを伝えてきたのです。彼は、ロンドンでフォン・デア・ヘルツ、つまりスパイの中でもいちばんの大物に会うのが自分の使命だと語りました。そしてこの男の居場所がわかったら、また連絡するとも言いました。それから数週間、私は伯爵夫人を見張りつづけました。また大尉も、一応ですが、監視していました。というのは、恥ずかしながら、私は彼を完全に信頼していなかったのです」

 大佐は立ちあがって窓のほうへ行きました。そして振り返ると、話をつづけました。

 「フレイザー=フリーアとフォン・デア・ヘルツはお互いのことをまったく知りませんでした。手紙を連絡手段として使うことは禁じられていました。しかしフレイザー=フリーアはなんらかの方法でスパイの首領から連絡がくることを知っていたのです。しかもデーリー・メールの私事広告欄を注意して見ろと言う示唆も受けていました。今や我々は、あの四つの奇妙なメッセージを説明できます。あの欄を見てラングーンから来た男は白いシナギクをボタン穴にさし、ネクタイにはコガネムシのピンをし、ホンブルグ帽をかぶって、先週の木曜日の晩十時にリージェント通りのイ・オールド・ガンブリヌス・レストランでフォン・デア・ヘルツと会わなければならないことを知ったのです。我々も知っているように、彼はこれらの指示にしたがって準備をしました。その他にも彼がしたことがあります。彼がスコットランドヤードに来るのは論外ですから、巧妙な手を使って一人の警部とホテル・セシルで落ち合うことにしたのです。その時に、フォン・デア・ヘルツが木曜日の晩、大尉に正体を明かしたら、その場で逮捕するという手はずがととのえられたのでした」

 ヒューズは話を中断しました。ブレイは手紙の山をもてあそびつづけ、大佐はそんな彼をいかめしい顏つきでみつめていました。

 「かわいそうなフレイザー=フリーア!」ヒューズはつづけます。「彼にとって不運だったのは、フォン・デア・ヘルツが自分を罠にかける計画を、警部とほとんど同時に知ったことでした。スパイに残された道はただ一つしかありませんでした。彼は大佐の下宿先を突き止め、あの晩の七時にそこへ行き、忠節で勇敢なイギリス人を殺害したのです」

 緊迫した静寂が部屋を満たしました。私は椅子から身を乗り出して、いったいこの絡み合った謎が解けた先に、なにがあるのだろう考えていました。

 「私が持っていた手がかりは実にわずかでした」ヒューズは話を進めます。「しかし私に有利なこともありました。つまりスパイは警察だけが殺人犯を追っていると思っていたのです。彼は私をまこうともしませんでした。なぜなら私が捜査に当たっていると思っていなかったからです。それまで何週間ものあいだ、私の部下は伯爵夫人を見張っていました。私は監視をつづけさせました。遅かれ早かれ、フォン・デア・ヘルツは彼女に接触するだろうと考えていたのです。私の考えは当たりました。そしてついに自分の目で、まがうかたなきフォン・デア・ヘルツその人を見たとき、私は愕然としましたよ、警部、圧倒されるような思いでしたよ」

 「そうかね」とブレイ。

 「その後、私は、彼がアデルフィ・テラスのあの事件とどう結びついているのか、鋭意調査に取り掛かったのです。大尉の書斎にあった指紋は、なぜかことごとく拭き取られていました。しかし私は屋外で犯人の指紋を見つけました。それは庭から外へ通じる、めったに使われない門の埃についていたものです。私は疑いをかけていた男から、その右手の親指の指紋をこっそりと採取しました。両者の類似は驚くほどでした。次に私はフリート街の新聞社へ行き、幸運にもデーリー・メールに送られたあの四つのメッセージのタイプ用紙を手に入れたのです。それを見ると小文字のaが文字列を外れていることに気がつきました。私は容疑者の所有しているタイプライターで書かれた手紙を手に入れました。aが列をはみ出していました。そのころアーチボルド・エンライトという、我々のあいだでは売国奴としてよく知られている裏切り者のろくでなしが、イギリスにやって来たのです。容疑者と彼はイ・オールド・ガンブリヌスで落ち合いました。そして最後に、私がフォン・デア・ヘルツに間違いないと確信する男の下宿を訪ねたとき、私はベッドのマットレスの下からこのナイフを発見したのです」

 ヒューズ大佐は警部の机の上に、私がフレイザー=フリーア大尉の書斎で最後に見たインドのナイフを放り出しました。

 「昨日の朝、この部屋にいたとき、私はこうした証拠をみんなつかんでいたのですよ。それでもそれらが示す答えはあまりにも信じがたく、あまりにも驚くべきものなので、私は確信が持てませんでした。さらに強力な証拠がほしかったのです。それで私はここにいるアメリカ人の友達に疑惑がかかるようにしむけました。私は待っていました。フォン・デア・ヘルツもさすがに危険を察知するだろう、機会さえあれば、イギリスから出て行こうとするはずだ、と考えていました。彼がどんなにずる賢いとは言え、そうなればクロであることの証拠は決定的になります。予想は的中し、彼はその日の午後、伯爵夫人を釈放し、二人そろって大陸へむかったのです。彼をドーヴァーで捕まえることができたのは幸運でした。そして喜んで夫人のほうはそのまま見逃したのです」

 私は驚くべき真相にそのときようやく気がつき、はっとしました。ヒューズがその獲物を見下ろして、微笑んでいました。

 「ブレイ警部」と彼は言いました。「あるいはフォン・デア・ヘルツ、あなたを二つの犯罪で逮捕します。一つはイギリスに潜入したドイツのスパイ組織の首領として、二つ目はフレイザー=フリーア大尉殺害の犯人として。それから差し出がましいようですが、あなたの有能さには敬意を表したいと思います」

 ブレイはしばらく返事をしませんでした。私は麻痺したように椅子に座っていました。やっと警部が顔を上げました。彼は驚いたことに笑顔を浮かべようとしていました。

 「帽子はあんたのものだ」彼は言いました。「が、ホンブルグまで買いに行かなければならんぞ。喜んで費用は全額払うが」

 「恐れ入ります」ヒューズが答えました。「遠からずあなたのお国を訪問したいと思います。しかし、帽子選びにうつつを抜かすわけにはいかないでしょうね。もう一度賞賛の言葉を差し上げましょう。あなたは少々注意が足りなかった。しかしあなたの地位を考えればそれも当然でした。スパイ狩りを専門にするスコットランドヤードの一部局の指揮者なのですから、警戒の必要などないと思っていらっしゃったのでしょう。フレイザー=フリーアは実に運が悪かった。あなたのところへ行って、あなた自身の逮捕の手はずをととのえたのだから! 私はその情報をホテル・セシルのフロント係から聞きました。あなたの立場からすれば、彼を殺すのは当然です。しかも、さっきも言ったように、多少危険を犯しても大丈夫でした。あなたは、大尉殺害の知らせがスコットランドヤードに届いたら、自分が捜査を指揮できるよう、前もって手配していました。巧妙に仕組みましたな」

 「あの時はそう思えた」とブレイが認めました。そのとき初めて、私は彼の声に苦い響きを聞き取りました。

 「たいへん残念なことですが」とヒューズ。「今日か、遅くとも明日にはイギリスは戦争に加わるでしょう。それがどういうことか分かっていますね、フォン・デア・ヘルツ。ロンドン塔、そして銃殺刑執行隊!」

 彼はゆっくりと警部のそばを離れ、窓にむかい合うように立ちました。フォン・デア・ヘルツは机の上のインドのナイフをぼんやりひねくり回していましたが、ふと怯えたような目つきで部屋の中をすばやくみまわすと、その手を振り上げたのです。そして私が止めようと前に飛び出すよりも先に、ナイフを自分の心臓に突き立てました。

 ヒューズ大佐は私の叫びを聞いて振り返りました。しかし目の前の光景を見ても、あのイギリス人は動じませんでした。

 「惜しい」と彼は言いました。「実に惜しい人物だった。勇気があって、しかもすぐれた頭脳の持ち主でしたよ、疑いもなく。しかし……これは彼の優しい気遣いですな。いろいろな面倒を省いてくれたのですから」

 大佐は私をすぐ釈放してくれました。スコットランドヤードの冷え冷えとした壁を経験した後には、とても心地よく感じられる明るい日射しを浴びて、彼と私はともにホワイトホールの通りを歩きました。彼は前日、私に疑惑の目をむけさせたことをもう一度詫びましたが、私はなんの恨みも抱いていないと言って彼を安心させました。

 「分からないことが一つ二つあるのですが」と私が言いました。「インターラーケンから私が持ってきたあの手紙は……」

 「簡単なことです」と彼は答えました。「エンライトは……今はロンドン塔の牢獄ですがね……フレイザー=フリーアと連絡をとろうとしました。奴は大佐を忠実なスパイ団の一員と思っていたのです。郵便で手紙を送るのは危険だと思われました。そこで、あなたの親切な協力によって、大尉に自分の居場所と、目前に迫ったロンドン到着の日付を教えたわけです。フレイザー=フリーアは、あなたが計画にまきこまれることを望まず、あなたを遠ざけるために従兄弟の存在を否定したのです。もちろんそれは真実でしたが」

 「なぜ伯爵夫人は私に証言を変えるよう要求したのですか」

 「ブレイがやらせたのですよ。彼はフレイザー=フリーアの机を捜してエンライトの手紙を手に入れました。彼は若い中尉に罪を押しつけようとやっきになっていました。あなたと、あなたの犯行時刻に関する証言が邪魔だったのです。彼はあなたを脅迫し……」

 「でも……」

 「分かりますよ、伯爵夫人がなぜ次の日、私に告白したのか不思議に思っているのですね。私は少々脅してやったのですよ。矢継ぎ早の質問の網にひっかかって、身動きができなくなったんですな。彼女は何週間も見張られていたことや、フォン・デア・ヘルツも思っていたほど安全ではないことを悟り、急に怖くなったんでしょう。頃合いを見計らって、私は、彼女をブレイ警部のところへ連れて行かねばならないだろうと言いました。これが彼女にアイデアを与えたのですね。彼女は嘘の告白をでっちあげ、彼のもとに行きました。そこで彼女は、彼が危険であることを知らせ、二人で逃げたと言うわけです」

 私たちは少しのあいだ黙って歩きつづけました。まわりでは毒々しい見出しをつけた午後の号外が、来るべき恐怖をこれ見よがしに報じていました。大佐は厳粛な面持ちでした。

 「フォン・デア・ヘルツはどのぐらいスコットランドヤードにいたのですか」私は聞きました。

 「ほぼ五年です」ヒューズが答えました。

 「信じられませんね」私はつぶやきました。

 「そうですね」と彼が答えました。「しかしそれはこの戦争が明らかにする数多くの信じられない事実の最初の一つに過ぎません。二カ月もたてば、さらに信じがたい新たな暴露を前に我々はこんなことは忘れてしまっているでしょう」彼はため息をつきました。「ここにいる人々が、我々を待ちうける恐るべき試練に気がついてさえいれば! 国家として統制がとれておらず、準備は不足している。われわれが払わなければならない犠牲を思うとぞっとします。しかもその多くは無駄な犠牲です。それでも時間がたてば、いつかは、なんとか切りぬけられるんでしょうけど」

 彼はトラファルガル広場で私に別れを告げました。そしてこれからすぐ亡くなった大尉の父親と弟を探しだし、彼らの血族がほんとうは祖国に忠実であったことを話してやらなければならないと言いました。

 「彼らにとって、この知らせは暗闇にさす一筋の光になるでしょう」と彼は言いました。「あなたにはもう一度お礼を言います」

 私は彼と別れ、下宿に戻りました。謎はついに解けました。悪夢としか思えないような結末ではありましたが、しかし解決したことは解決したのです。私は心安らかであるべきなのです。しかし、たった一つ私をさいなみ、休ませようとしない、まがまがしい事実があるのです。お嬢さん、私はそれをお話ししなければなりません……ですが、それが一切の終わりになりはしないかと不安なのです。なんとかあなたのご理解がいただけたらいいのですが!

 私は部屋の中を歩き、考えこみ、困惑し、迷いました。そして今、決心しました。他に方法はありません。あなたに真実をお話ししなければなりません。

 ブレイがフォン・デア・ヘルツであったという事実にもかかわらず、彼が罪の露見により自殺したという事実にもかかわらず、あれやこれや一切合切にもかかわらず、ブレイはフレイザー=フリーア大尉を殺していないのです!

 この前の木曜日の晩、七時すこし過ぎに私は階段をあがり、大尉の部屋に入り、机からナイフを取りあげ、彼の心臓に突き刺したのです! 

 どのような挑発を私が受けたのか、どのような深刻な必要が私を動かしたのか……このすべてを知りたければ明日までお待ちいただかなければなりません。私は自己弁護を用意しながら、もう一日不安な日を過ごすことになるでしょう。慈悲深い奇跡が起きて、あなたが私を許し、私にはそうする以外どうしようもなかったのだということを理解してくれることを望みながら。

 お嬢さん、事件の一部始終を知るまで結論を下さないでください。私が証拠を洗いざらい、あなたの美しい手に差し出すまでは。

あなたの卑しきしもべ。

 苦悶の欄の男から来た六番目の、そして最後から二番目の手紙は、初めのうち、それを読む娘の顔に安堵の笑みを浮かべさせた。彼女は友人がヴィクトリア・エンバンクメントに沿った、あの灰色の壁のむこうで、もはや、やるせない思いをしてはいないことを知り、無条件に喜んだ。読み進むにしたがい、ますます興奮を覚えながら、彼女は手紙の中のヒューズ大佐がしだいに事件の核心へと近づき、ついに椅子に座るブレイ警部を指差し、犯人と指摘するまで、彼の一挙手一投足をじっと見守ったのである。これは十分納得のいく解決であり、彼女の友人を監禁した警部には、当然の報いであった。ところが手紙の最後では、飛行船から落とされた爆弾さながらの唐突さで、イチゴ男が罪の告白をしているのだ。実は彼こそが殺人犯だった! 彼はそれを認めている! 彼女は自分の目が信じられなかった。

 しかしぞくぞくするようなこの一週間のあいだに、すっかりおなじみとなってしまった便箋には、彼女の目の色とおなじすみれ色のインキで確かにそう記されていたのである。彼女は手紙を二回、三回と読んだ。当惑が怒りへ変わり、彼女の頬は炎のように紅くなった。が、彼はすべての証拠を目にするまでは結論を下さないでくれと頼んでいる。確かにそれは筋が通った要求だったし、公正を保つためにも彼女はそれを認めてやらなければならなかった。

第八章

 このようにしてテキサスの娘にとってだけでなく、ロンドンじゅうの人々にとっても落ち着かない一日がはじまった。彼女の父親は、顧問の靴磨きから先ほどさずけられた、新たな外交上の秘密の話ではちきれそうになっていた。後に彼はワシントンで、海外の事情通として注目を浴びる運命にあった。靴磨きが背後で彼を支えていたとは、誰も予想しなかったが、テキサスから来た男は、あの有能な外交官のことを幾度も思いだし、今もご意見番として足元にいてくれたらと思うことになるのである。

 「真夜中までに戦争になるだろう、間違いない!」彼はこの運命の火曜日の朝、そう宣言した。「いいか、マリアン、サロニア号の切符が手に入って、わしらは幸運だ。今日となっては五千ドルでも切符は売れん。あさって定期船に乗りこめば、わしは万々歳だ」

 あさって! 娘は考えた。とにかく手紙は届くだろう。彼女の若い友人が自分の卑劣な行いを説明するために書いた弁護とやらを含む手紙が。彼女は最後の手紙を首を長くして待った。

 その日はのろのろと過ぎ、次の日に変わろうとする深夜になってイギリス参戦の報がもたらされた。カールトン・ホテルの靴磨きは、あるテキサス人の心の中で、尊敬されるべき預言者となった。次の日の朝、手紙が到着し、震える指がその封をちぎった。手紙には次のようにあった。

 親愛なる女性裁判官さま

 これは、あなたが私から受け取ったどの手紙よりも、はるかに書くのが難しい手紙です。私は二十四時間、悩みつづけました。昨晩、私はエンバンクメントの通りを散歩しました。辻馬車がゆっくり走り、市街電車の明かりが、カンサスの我が家の裏庭を飛び交った蛍のように、ウェストミンスター橋の上を踊っていました。私は歩きながら悩みました。今日も部屋に閉じこもって悩みました。今、こうして手紙にとりかかろうとしているときも、私はまだ考えがまとまりません。どこからはじめればよいのか、なにを言えばいいのか、まったく分からないまま私は書き出しました。

 この前の手紙の最後で、私はあなたにフレイザー=フリーア大尉を殺したのは私だと打ち明けました。それは真実です。どんなに婉曲に表現しようと、突き詰めればおなじことです。なんと苦い真実でしょう!

 まだあれから一週間も経っていない先週の木曜日の夜七時、私は暗い階段を上り、あの無防備な紳士の心臓にナイフを突き刺しました。もしも彼がなんらかの形で私を怒らせたと言えるなら、もしも彼の死がブレイ警部にとってとおなじように私にとっても必要であったと証明できるなら、いつかあなたの許しが得られる希望があるかもしれません。しかし、なんということでしょうか、あの紳士は私にとてもよくしてくれたのです。私の手紙からはご想像もいただけないくらいに親切だったのです。彼を亡き者にする必要など、実際はなかったのです。私はどこに自己弁護を求めることができるでしょうか。

 今、私に思いつくただ一つの弁護はこれだけ……大尉は、私が彼を殺したことを知っている! ということです。

 これを書いている今も、最初の手紙を書きながらここに座っていたときとおなじように、大尉の足音が頭上から聞こえます。彼は夕食に出かけるために、身なりをととのえているのです。私たちは一緒にロマノズのレストランで食事をすることになっています。

 さあ、お嬢さん、あなたを悩ました……と私が期待する……謎の答えがついにお分かりでしょう。私は二番目の手紙で親友の大尉を殺しました。その後の奇妙な展開はそっくり、書斎の緑色の笠が付いたランプのそばで、小説の広告にあるように、あなたの注意を最後までつかんで離さない手紙を七通もどうやって書いたらよいのだろうと考えをめぐらす私の想像力の中の出来事だったのです。ああ、私は罪を犯しました……それは否定できません。聖書のアダムの真似をして、美しい女性に誘惑された、などとほのめかすことはしたくないのですが、真実を厳密に尊重する立場からは、あなたにも罪があるのだといわざるを得ません。どうしてでしょう? あなたがデーリー・メールに載せたメッセージを思い返してください。「グレープフルーツの女性は……謎とロマンスが大好き……」

 もちろんあなたは知らなかったでしょうが、この言葉であなたは、私に対して、応じずにはいられないような挑戦状をつきつけたのです。というのは物語を作るのは、私の生涯をかけた仕事、いや人生の活力だからです。私はたくさんの物語を作ってきました。ことによるとあなたも、そのいくつかをブロードウエーでご覧になったかもしれません、。また、ロンドンで私の劇が公開予定と言う知らせを見たことがあるかもしれません。パレスシアターの演目表には私の劇のことが書かれていました。私がイギリスにいるのも、その仕事のためです。企画がオクラになったため、今はいつでも帰国できるのですが。

 このようにあなたが七通の手紙という特典を与えたのは私の思うつぼでした。つまり、と私は考えました、この女性は謎とロマンスを求めている。それなら、ようし、それをさしあげようじゃないか!

 そして上から聞こえてきたフレイザー=フリーア大尉の重い編上靴の音がヒントになったのです。立派な、固い信念を持った、誠意あふれる人物ですよ、大尉は。彼の従兄弟、アーチボルド・エンライトの紹介状を差し出してからというもの、とても親切にしてくれるのです。かわいそうなアーチー! おとなしくて品行方正なのに、私が彼をスパイで、ライムハウスの常連に仕立てあげたことを知ったら、ショックのあまり言葉も出なくなるでしょう!

 話の出だしをどうもっていくかは、まだぼんやりとしていましたが、私は最初の手紙を書き出し、アーチーの紹介状が普通とはちょっと違うことをほのめかしておきました。二番目の手紙を書くとき、フレイザー=フリーアの死がどうしても必要であると思いました。彼の机の上にあったインド製のナイフを思いだし、その瞬間に彼の運命は決まったのです。そのときは、謎の解決方法をまったく考えていませんでした。しかしデーリー・メールのあの四つの奇怪なメッセージをいぶかりながら読み、これはぜひとも話の中に取り入れなければならないと思ったのです。

 四番目の手紙はなかなか思うように書けないでいたのですが、それもその晩、夕食からの帰りに、静かなアパートの前に止まっていたタクシーを見るまでのことでした。あれからライラックの香水をつけた女の訪問を思いついたのです。ドイツの外務省もあそこまで愚かしく自分を目立たせる女スパイには用はないと思うんですけどね。五番目の手紙を書くときが来ました。私は自分が逮捕されるときが来たように感じました。あなたが、かわいそうだと思ってくれるんじゃないかと、淡い期待を抱いて。ああ、嫌な奴ですね、私は。自分でもわかっています!

 このゲームをはじめた頃、私は大尉にむかって、あなたを残酷にも殺してしまったと話しました。彼はとても面白がっていましたが、最後の手紙を書くまでに必ず汚名を晴らしてくれと言いました。私もそれに同感しました。彼は掛け値なしにいい人ですから。さらに、彼がふと語ったことから、謎の解決を思いつきました。彼が確かな筋から聞いたところによれば、潜入スパイを捕まえるロシア皇帝の機関の長官自身がスパイだったそうです。それなら……スコットランドヤードにスパイがいてもいいではありませんか。

 この手紙を書きながら、私はとても後悔しています。覚えていらっしゃるでしょうが、この話を書きはじめたときは、戦争が起こるなどとは思ってもいませんでした。しかし今は全ヨーロッパが炎に包まれています。激しい戦闘と、怖ろしい苦しみがやがて訪れることを思うと、私と私のささやかな物語はなんだか不謹慎な……いや、私の言いたいことは、あなたにはお分かりでしょう。

 許してください。どう言えばいいのかまったく分からないのですが、あなたの興味を手紙にひきつけ、私があなたの関心に値する面白い人間であると感じさせることがとても重要であるように思えたのです。あなたがカールトン・ホテルの朝食室にあらわれたあの朝は、私の人生でほんとうに最高の日でした。あなたがドアを通って入ってきたとき、まるで私の胸に……。いや、私にそれを言う権利はありません。なにも言う権利はないのです。ただ、すべてをあなたにゆだねます、と言うこと以外は。もしも私があなたの気持ちを傷つけたなら、二度と連絡をいただこうとは思いません。

 大尉がすぐここに来ます。もうすぐ約束の時間で、彼は決して遅れませんから。彼はインドに戻る予定はなく、大陸への派遣軍に選抜されるだろうと思っています。ドイツ軍が彼に対して私よりも親切であればよいのですが!

 私の名前はジェフリー・ウエスト。アデルフィ・テラスの十九番地に住んでいます。部屋からはロンドンでいちばんみごとな庭が見下ろせます。少なくともそれは嘘じゃありません。今晩はとても静かで、都会だけでなく、戦争と恐怖に対する絶え間ないざわめきも、百万マイルのかなたにあるかのようです。

 お目にかかることができますか。お答えはまったくあなたしだいです。しかし、私は一日千秋の思いで返事を待っています。もしも説明の機会を、つまり直接あなたにむかって自分を非難する機会を与えてくれるなら、そのとき幸運な男はこの庭と、薄暗い埃っぽい部屋に別れを告げ、地の果て、そう、テキサスまでもあなたについて行くでしょう!

 フレイザー=フリーア大佐が降りてきます。お嬢さん、これが永遠のお別れになるのですか。心からそうでないことを望みます。

悔い改めたイチゴ男

第九章

 女中のセイディ・ヘイト気付で送られてきた最後の七通目の手紙を読みながら、カールトン・ホテルの娘が味わった気持ちは、とても言葉では言い表せない。が、ぱらぱらと辞書をめくれば、幾つか使えそうな言葉が見つからないわけでもないだろう。例えば「驚愕」、「怒り」、「不信」、「感嘆」などだ。Aの項目まで戻れば、感興(amusement)という言葉も悪くない。謎の解決は手にしたが、サロニア号の出航まではあと一日とすこし。心中にいろいろな感情が奇怪に入り乱れている彼女を、我々はそっとしておこうと思う。

 彼女を離れて、アデルフィ・テラスの心配でたまらない若い男のほうに戻ろう。

 手紙が配達されたことを知るや、ジェフリー・ウエストははなはだ謙虚に不安という椅子に座った。水曜日の朝はそこで何時間も長いこと身悶えしていたのである。この痛ましい姿の描写が長くならないように、急いで、その日の午後三時に緊張に終止符を打つ電報が届いたと付け加えよう。彼は封を破り読んだ。

 イチゴおとこさん。あなたをけっしてゆるさないわ。あすサロニアごうでたちます。すぐきこくのよていはありますの?  マリアン・A・ラーネッド

 こういうわけで数分後、アメリカ人が騒然と群がる、ある汽船会社の切符売り場に、狂ったような目の若者が加わり、それを見た人々をさらに動揺させたのだった。彼はくたびれ果てた係員に、なんとしてもサロニア号に乗らなければならないのだと火を吐く勢いで言った。この男をしずめる手だてなどありそうになかった。彼一人のために定期船を出すと言っても、見むきもしなかっただろう。

 彼は狂ったようにうわごとを言い、髪の毛をかきむしり、激しく怒鳴った。すべて無駄なことである。分かりやすいアメリカ英語で言えば「どうもならんナッシング・ドゥーイング」と言うわけだ。

 望みはかなわなかったが、決然と彼は、サロニア号の切符を持っている人を、群衆の中に探し出そうとした。最初のうちはなかなか幸運な相手を見つけることができなかったが、ついにトミー・グレイと出会ったのである。古い友達であるグレイはしつこく問いただされたあげく、喉から手が出るほど欲しくてたまらないあの船の乗船券を持っていることを認めた。しかし王様に馬と黄金をみんなやると言われても、彼は少しも心を動かさなかった。願いを聞いてやりたいのは山々だけど、私も妻も決めているんだ、出航するって。

 ジェフリー・ウエストが友達と協定を結んだのはそのときである。彼は友達から汽船の荷札をもらい、自分の荷物をグレイの所持品としてサロニア号に載せることになった。

 「だけどねえ」とグレイは抗議した。「そこまでうまくやりおおせたとしても、つまり切符なしで出航できたとしても、どこで寝るんだい。船倉のどこかに鎖につながれて寝ることになりゃしないか?」

 「大丈夫さ」とウエストは陽気に言った。「食堂でも救命ボートでも風下側の排水口でも、どこでだろうと寝るさ。空中でも寝るよ、目に見える支えがなくたって。どこだってかまうもんか。とにかく船に乗るんだ! それに鎖と言ったって……僕をつなぎとめるほど頑丈にできちゃいないぜ」

 木曜日の午後五時に、サロニア号はリヴァプールの波止場をすべるように離れていった。快適な船旅ができる乗員数の、ほぼ二倍にあたる、二千五百人のアメリカ人がデッキに立って歓声をあげた。その大勢のなかには百万長者もいたが、彼らですら三等船室の予約だった。誰もが大西洋横断のあいだに空腹、不快、苦痛を覚える運命にあった。他の人に踏みつけられ、のっかられ、ぎゅうぎゅう詰めの状態で押し合いへしあいすることになるのだ。船が埠頭を出たとき、彼らはそのくらいのことは予想していた。それにもかかわらず歓声をあげたのである。

 いちばんうれしがっていたのは、混乱のさなかで勝ち誇ったような表情のジェフリー・ウエストだった。無事に乗船し、船は航行中! 切符がないから密航者だが、そんなことは気にもかけなかった。まさに強固な意志の塊となって、幸福の船サロニア号に乗りこんだのである。

 その夜、サロニア号がデッキの明かりをことごとく消し、舷窓をカーテンで覆い、こっそりと航海しているとき、ウエストはほの暗いデッキに大切な女性のすらりとした姿を見た。彼女は黒い海面をみつめながら立っていた。彼は胸をどきどきさせて彼女に近づいた。なにを言えばいいのか分からなかったが、とにかくきっかけを作らなければならないと感じていた。

 「失礼ですが、お話ししてもよろしいでしょうか」と彼ははじめた。「じつは……」

 彼女は驚いて振り返り、奇妙な、かすかな笑みを浮かべた。しかしそれは暗闇の中で彼からは見えなかった。

 「ごめんなさい」と彼女。「あなたとは面識がありませんわね、私の記憶しているかぎり……」

 「分かっています」彼は答えた。「明日、紹介をいただくことになっているのです。トミー・グレイ氏の奥様が以前あなたと船で一緒に……」

 「あの方とは汽船で知り合っただけですわ」娘は冷たく答えた。

 「そうでしょうとも! しかしグレイ夫人はすばらしい人です……彼女がきちんと紹介の労をとってくださると思います。わたしはただ、明日紹介される前に……」

 「お待ちになった方がよくはなくって?」

 「できません! 私は乗船券を持ってないのです。すぐにも下へ降りて、パーサーにそのことを話さなければなりません。海に放り出されるかもしれませんし、監禁されるかもしれません。彼らが私みたいな連中をどう扱うのか知りませんが、ひょっとしたら火夫にさせられるかもしれませんね。そうしたらあなたを二度と見ることもなく、燃料をくべなければなりません。だから今あなたに言いたいのです……私の想像力が強すぎたことをお詫びします。思わず夢中になってしまったんです、ほんとうに! あの手紙であなたをだまそうなんてつもりはありませんでした。しかしいったんはじめると……ご存知でしょう、私が心からあなたを愛していることを。あの朝、カールトン・ホテルに入ってきた瞬間から私は……」

 「あの、困りますわ、ミスター……」

 「ウエストです。ジェフリー・ウエスト。あなたを愛しています! どうしたらそれが証明できますか? 僕は証明しますよ、この船がノース・リヴァーに着く前に。お父さんに話したほうがいいかも知れませんね、私事広告欄のことも七通の手紙のことも……」

 「それはだめ! 父はとても機嫌が悪いの。夕食がまずかったうえに、給仕係ったら、航海が終るころには、あれがご馳走に思えるさ、なんて言うんですもの。それに、かわいそうなお父さんはあてがわれた個室じゃ眠れないって言うし……」

 「そのほうが都合がいい! 今すぐお父さんに会いにいきますよ。今、私の味方をしてくれるなら、いつだって味方してくれるということです! 私が下に行って、事務室の怖い顔をしたパーサーのご機嫌をとる前に、どうか信じてくれませんか、私があなたを深く愛しているということを」

 「私が愛しているのは、謎とロマンスよ! それからあなたの非凡な創作力! あんなに嘘がお上手なんだもの、あなたの言葉をまじめに受け取ることなんてできないわ……」

 「この航海が終るまでにはまじめに受け取らざるを得なくなるでしょう。あなたへの愛を証明してみせます。もしもパーサーが私を見逃してくれたら……」

 「証明なさることがたくさんおありですわね」女は微笑んだ。「明日、トミー・グレイ氏の奥様からご紹介をいただいたら……お付き合いすることになるかもしれない……作り話の上手な方として。才能があることはたまたま知っていますもの。でも、それ以上のお付き合いなんて……ばかばかしい! さっさとパーサーと決着をつけていらっしゃいな」

 しぶしぶ彼はその場を離れた。五分後、彼は戻ってきた。娘はまだ手すりのそばに立っていた。

 「大丈夫です!」ウエストが言った。「こんなことをするのは自分だけだと思ってたんですが、おなじように困ってる連中が十一人もいるんだそうです。その一人はウオール街の億万長者だそうですよ。パーサーは我々からすこしお金を取って、デッキで寝るように言いました、空きがあればですけど」

 「残念ですわ」と娘が言った。「私はむしろあなたが火夫になったところを想像していたんですの」彼女は暗いデッキの上を見まわした。「どきどきなさらない? わたし、この航海はきっと謎とロマンスに満ちていると思うの」

 「ロマンスに満ちていることは分かります」ウエストが答えた。「謎のほうは……説明させてください、納得がいくように……」

 「黙って!」娘がさえぎった。「父が来るわ。お会いするのを楽しみにしています……あしたですわね。かわいそうなお父さん、寝る場所を探しているんだわ」

 哀れな父親は、船が冷たい小ぬか雨を受けて毎晩海上を進むあいだ、服を着たままデッキで寝、食べ物の貯蔵が激減した食堂でひもじい思いをしていた。五日後のその姿は政敵も心を動かされる哀れなものであった。健康なテキサス人の食欲をすこしも満足させない夕食のすぐ後、彼は陰気に、今や彼の特別室と化したデッキチェアにぐったりもたれかかった。ジェフリー・ウエストがさっそうとやって来て、そのそばに座った。

 「ラーネッドさん」彼は言った。「差し上げたいものがあります」

 彼は優しい微笑とともにポケットから大きなあたたかい焼きいもを取り出した。テキサスの男は大喜びして贈り物を受け取った。

 「どこで手に入れたのかね」彼は宝物を二つに割りながら尋ねた。

 「秘密です」ウエストは答えた。「でも私は好きなだけ手に入れられるんです。ラーネッドさん、もうお腹を空かせることはありませんからね。それから他にもお話ししたいことがあるんです。私は、あなたのお嬢さんと結婚しようと思っているんです」

 夢中になってジャガイモを食べながら下院議員は言った。

 「娘はなんと言ってる」

 「そんな見こみはないと言うんですよ。でも……」

 「じゃ、気をつけろ、君。あいつは君との結婚を決意してるぞ」

 「あなたにそう言っていただけてうれしいです。私、自己紹介すべきですね。それからお嬢さんと会う前に、私が彼女に手紙を七通書いたということも知っておいていただきたくて……」

 「ちょっと待て」テキサスの男が口をはさんだ。「その話に入る前に、このジャガイモをどこで手に入れたか、教えてくれんか」

 ウエストはうなずいた。

 「もちろんですとも」と彼は言い、身体を乗り出してささやいた。

 年配の男の顔にこの数日間ではじめての笑顔が浮かんだ。

 「君」と彼は言った。「君が好きになりそうだ。他のことは気にせんでいい。君のことは君の友達のグレイからなにもかも聞いておる。それにあの手紙だな……あれがなければこの旅の前半を耐えることができなかっただろう。マリアンが乗船した夜に読めと言ってよこしたんだよ」

 突然、雲のかげから長いこと姿が見えなかった月があらわれ、超満員の定期船を銀色の光で包んだ。父親のことはジャガイモに任せ、ウエストは娘を探しに出た。

 彼女は船首甲板の手すりのそばで月の光を浴びて立っていた。その目はうっとりと前方を、彼女を冒険と見聞の旅に送り出した偉大な国のほうを、見ていた。ウエストが近づくと彼女はくるりと振り返った。

 「ちょうどお父さんと話をしてきたんです」彼は言った。「あなたは、結局は、私を受け入れるつもりだろうとおっしゃいましたよ」

 彼女は笑った。

 「私たちが船で会うのは、明日の晩が最後ね。そのとき私の最終的な決定をお聞かせするわ」

 「でも二十四時間も先のことですよ! そんなに待たなければいけませんか」

 「少しくらいはらはらするのも悪くはないでしょう。あなたの手紙を待っていた、あの長い日々が忘れられないわ……」

 「分かってますよ。でもちょっとだけ……ここで……今晩……ヒントをくれませんか」

 「私は冷たい女なの、全然優しくないんだから!」

 その時だった。ウエストの指が彼女の手を包みこむと、彼女はそっと言い添えた。「ヒントになりそうなことはなにも教えない……私の答えが……イエスだってこと以外は」

翻訳後記

この翻訳は Internet Archive 所収の The Agony Column (1916年 The Bobbs-Merrill Company) を底本にしました。