The Project Gutenberg eBook of 何處へ
Title: 何處へ
Author: Hakuchō Masamune
Release date: June 21, 2010 [eBook #32941]
Most recently updated: February 24, 2021
Language: Japanese
Credits: Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
何處へ
正宗白鳥著
目次
| 何處へ | (四十一年一月—四月 早稻田文學) | ……………………… | 一 |
| 玉突屋 | (同 年一月 太 陽) | ……………………… | 一三五 |
| 六號記事 | (同 年一月 文章世界) | ……………………… | 一四三 |
| 彼の一日 | (同 年三月 趣 味) | ……………………… | 一五九 |
| 五月幟 | (同 年三月 中央公論) | ……………………… | 一七三 |
| 村 塾 | (同 年四月 中央公論) | ……………………… | 二〇五 |
| 空想家 | (四十年十 月 太 陽) | ……………………… | 二二一 |
| 株 虹 | (同 年十二月 新思潮) | ……………………… | 二六九 |
| 凄い眼 | (四十一年八月 太 陽) | ……………………… | 二九一 |
| 世間並 | (同 年七月 趣 味) | ……………………… | 三一一 |
何處へ
(一)
可愛かあいい目元めもとをほんのり酒さけに染そめた女をんなが高たかくさし掛かけた傘かさの下したに入はいつて、菅沼健次すがぬまけんじは敷石傳しきいしづたひに門口かどぐちへ來きた。
「ぢや明後日あさつて、屹度きつとですよ」と、女中ぢよちうは笑顏ゑがほで覗のぞき込こみ、艶氣つやけを含ふくんだ低ひくい聲こゑで云いつた。
「むゝん」と健次けんじは女をんなの顏かほをも見みず、引ひつたくるやうに傘かさを取とつて、さつさと急いそぎ足あしで步あるき出だしたが、五六間けんも步あゆんで我知われしらず振返ふりかへると、「鳥とり」と行書ぎやうしよで書かいた濕しめつた軒燈がすとうの下もとに彼かの女ぢよがぼんやり立たつてゐる。
健次けんじは何なんの譯わけもなく微笑につこりする。女をんなも微笑につこりして、胸むねを突出つきだして會釋ゑしやくする。
それも一瞬間またゝくまで、健次けんじは傘かさを肩かたにかけ、側目わきめも振ふらず上野うへのの廣小路ひろこうぢへ出でて、道みちを山下やましたの方はうへ取とる。
昨日きのふの天長節てんちやうせつに降ふり通とほした雨あめは、今日けふも一日にち絕間たえまなく、濕しめつぽい夜風よかぜが冷つめたく顏かほに吹ふき當あたる。往來わうらいの人々ひと〴〵は皆みな傘かさを斜なゝめに膝ひざを曲まげて、ちよこ〳〵と小股こまたに急いそいでゐる。健次けんじも膝ひざから下したはびしよ濡ぬれになつたが、敢あえてそれを氣きに留とめるでもなく、只たゞいゝ氣持きもちで、口くちの内うちで小唄こうたか何なにか呟つぶやいて、沈しづんだ空そらへ酒臭さけくさい息いきを吐ふきながら、根岸ねぎしの近ちかくまで來くると、橫合よこあひから底そこの深ふかい大おほきな蝙蝠傘かうもりがさが、不意ふいに健次けんじの蛇じやの目めにぶつ付つかる。チエツと舌打したうちして避さけやうとする機會とたんに、蝙蝠傘かうもりがさの男をとこが聲こゑをかけて、
「やあ君きみ」と立留たちどまつた。
健次けんじは少すこし驚おどろいて、「やあ君きみか、何處どこへ行いつた」
「君きみの家うちさ、今夜こんやは雨あめだから、屹度きつとゐるだらうと思おもつたのに、何處どこを浮うかれてた、いい顏かほつきをしてるぢやないか」
「そりや氣きの毒どくだつたね、これから僕ぼくの家うちへ行いかうぢやないか」
「いや、もう遲おそいからよさう」と、蝙蝠傘かうもりがさの男をとこは長ながい身體からだを屈かゞめて、下駄屋げたやの時計とけいをのぞいて見みて、「もう彼此かれこれ九時じだね」と一寸ちよつと考かんがえ、「實じつは君きみに少すこしお賴たのみがあるんだが……此處こゝで話はなしてもいゝが、どうだ其邊そこらの珈琲店コーヒーてんへでも寄よつて吳くれんか」と、首くびをまはして周圍あたりを捜さがす。
「ぢや、さうしよう、この先さきにいゝ家うちがある」と、健次けんじは先さきに立たつて、半丁はんちやうばかり泥濘ぬかるみの中なかを通とほつて、擦玻璃すりがらすに一品亭いつぴんていとある小ちいさい西洋料理店せいやうれうりてんへ行いつた。
客きやくは一人ひとりもゐない。白布ぬので蔽おほうたテーブルの上うへに火鉢ひばちを置おいて、籐椅子とういすが四五脚きやく周圍まはりに不秩序ふちつじよに置おかれてある。健次けんじは火鉢ひばちの火ひを搔かき廻まはして、
「君きみは馬鹿ばかに寒さむさうぢやないか、さあ當あたり給たまへ」
と云いつて、卷煙草まきたばこに火ひを付つけて、反身そりみで椅子いすに寄よりかゝり、頻しきりに瞬まばたきをしながら仰向あふむいて煙草たばこを吸すふ。
今迄いまゝで板いたの間まに腰掛こしかけ、左右さいうの袖そでを搔かき合あはせて居眠いねむりをしてゐた小娘こむすめが、高たかい足駄あしだを引摺ひきずつて、
「お誂あつらへは」と寢呆聲ねぼけごゑで聞きく。
「寒さむいから日本酒にほんしゆがいゝだらう、料理れうりは何なにがいゝ、ビフテキにでもするか」と、骨太ほねぶとい手てを火鉢ひばちの上うへに翳かざしぽかん﹅﹅﹅としてゐる相手あひての顏かほを見みて、默諾もくだくを得えて、健次けんじは小娘こむすめに命めいじた。
この丈高たけたかき男をとこは織田おだ常吉つねきちと云いひ、健次けんじが昔むかしの同窓どうそうの友ともで、今いまは私立學校しりつがくかうに英語えいごの敎師けうしを勤つとめ、傍かたはら飜譯ほんやくなどをしてゐる。年齡としは健次けんじより僅わづか一つ上うへだが、健次けんじの小柄こがらで若わかく見みえるのに反はんして、格段かくだんに老ふけて見みえる。丈たけの高たかきのみならず、それに釣合つりあふ程ほどに肉付にくづきもよく、見みた所ところ魁偉くわいゐなる人物じんぶつであるが、何處どことなく身體からだにゆるみ﹅﹅﹅がある。鹽氣しほけが足たらぬ。顏かほは平ひらたく目めは細ほそく、耳みゝは福々ふく〴〵と垂たれてゐる。
「君きみは相變あひかはらず氣樂きらくさうだね、殊ことに今日けふは愉快ゆくわいな顏かほをしてるぢやないか」と、織田おだは健次けんじを見みて、ゆつたりした聲こゑで云いふ。
「はゝゝゝ、そう見みえるかな、これで二三日打續ぶつつゞけだよ、まあ社しやの方はうが暇ひまつぶしで、遊あそぶ方はうが本職ほんしよくのやうな者ものだ、しかし本職ほんしよくとなると、遊あそぶ方法はうはふに苦心くしんする。如何いかにして遊あそぶべきかが、僕ぼくの當面たうめんの問題もんだいである」と、陽氣ようきな聲こゑで、一寸ちよつと桂田かつらだ博士はかせの假聲こはいろを使つかひ、顏かほに愛嬌あいけうを湛たゝえて微笑々々にこ〳〵する。
「まあ遊あそべる間うちは遊あそぶがいゝやね、しかし今いまもね、君きみの母堂マザーと話はなして來きたんだが、健次けんじも此頃このごろは酒好さけずきになつて困こまると云いつてたよ、祖父おぢいさんのやうにならなきやいゝがと云いつてゐられた」
「さうか、僕ぼくの母方はゝかたの祖父ぢいさんは、大酒呑おほざけのみで終しまひには狂人きちがひになつて死しんだんだからね、それに僕ぼくの顏かほが次第しだいに祖父ぢいさんに似にて來くるさうだから、母はゝは心配しんぱいしてるだらう」
「何なに、さうでもないらしい、只たゞ早はやく嫁よめを貰もらひたいやうな話はなしをしてゐた、僕ぼくにもいゝのを見みつけて吳くれつて、本氣ほんきで云いつてられたよ、親おやは有難ありがたいものだね」
「さうかね」と、健次けんじは嘲あざけるやうに云いつて、「君きみも精々せい〴〵美人びじんを捜さがして呉くれ賜たまへな」
「そんな氣きがあるんなら周旋しうせんしよう、しかし何なんだよ」と云いひかけた所ところへ、小娘こむすめが銚子てうしを持もつて來くると、織田おだはぽかんとして、前まへの話はなしの緖いとぐちを忘わすれてしまひ、健次けんじの矢繼早やつぎばやにさす盃さかづきを三四杯はい引受ひきうけた。
「で、君きみ、僕ぼくに用事ようじと言いつて何なんだい」と、健次けんじは强つよい調子てうしで押付おしつけるやうに云いふと、織田おだは「何なに、急きふな事ことでもないんだがね」と、前まへに自分じぶんが賴たのみがあると云いつた癖くせに、その用談ようだんを避さけるやうにして、ビフテキの小ちいさい切きれをもぐ〳〵させながら、顏かほを顰しかめ、「非常ひじやうに堅かたい」と呟つぶやき、暫しばらく無言むごんの後のち「僕ぼくも弱よわつたぜ、親爺おやぢの病氣びやうきがます〳〵よくないんで、入院にふゐんさせなくちやならんのだ、まだ確定かくていはしないが、どうも胃癌ゐがんらしい」
と、フオークとナイフとを持もつたまゝ、仰向あふむいて云いつたが、顏かほにも言葉ことばにも弱よはつてる樣子ようすは見みえず、例れいの通とほりポカンとしてゐる。
「さうかい、そりや困こまつたね」と、健次けんじは少すこしも手てを付つけぬ皿さらを見詰みつめたなりで、氣きのない聲こゑで云いひ、心こゝろでも左程さほど同情どうじやうしてる風ふうはない。織田おだは相手あひてに頓着とんちやくなく、悠長いうちやうな聲こゑで、
「妻ワイフは身みが重おもいし、母はゝはあの通とほりの無性者ぶしやうもので、一日いちにち煙草たばこばかり吸すつてゝ役やくにや立たたず、妹いもとは學校がつかうへ行いつたきりで、遲おそくまで歸かへつて來こんから、何なにもかも僕ぼく一人ひとりでやらなくちやならんのでね、本當ほんたうに困こまるよ、それでこの四五日にちは學校がつかうも缺勤けつきんばかりしてる」
「ぢや妹いもとを學校がつかうへやつて、君きみは缺勤けつきんして家うちの世話せわをしてるんだね、しかし病人びやうにんの看護かんごなんか君きみの適任てきにんぢやないね」
「だつて仕方しかたがないさ、どうも一家かの主人しゆじんとなると面倒めんだうなものだ、今いまに君きみも結婚けつこんすると困こまるぜ、何なんだのかだのと、そりや五月蠅うるさくつてね、それに子供こどもなんか出來できなきやいゝんだが」
「そいつあ當然あたりまへだから仕方しかたがないさ、しかし僕ぼくだつたら、家うちが五月蠅うるさけりや一日にち外そとへ出でてゐらあ、女房にようばうの產さんの世話せわから借金しやくきんの言譯いひわけまで亭主ていしゆがしなくつたつていゝ」
「さうもいかんよ、君きみ、それに僕ぼくの月給げつきうが安やすいから、平生ふだんだつて内職ないしよくをしなくちや引足ひきたらんのに、病人びやうにんが出來できちや災難さいなんだ、だから此頃このごろは酒さけどころぢやない、煙草たばこも止やめてしまつた」と、少すこし萎しほれた。その樣子やうすを見みると、健次けんじは急きふに不憫ふびんになり、
「だが君きみは感心かんしんだよ、家庭かていのために犧牲ぎせいになるから」と云いつて、後うしろを見みて「もう一本ぽん」と叫さけんだ。
「僕ぼくはもういゝよ、遲おそくなると家うちで心配しんぱいするから、そろ〳〵歸かへらなくちや」
「まあいゝさ、久振ひさしぶりだから、も少すこし話はなしをしやうぢやないか」と、健次けんじは少すこしも手てを付つけぬ皿さらを押をしのけ、煙草たばこを啣くはへたまゝ腕組うでぐみして、半なかば目めを閉とぢ、降ふりしきる雨あめの音おとやら、幽かすかに響ひゞく車くるまの掛聲かけごゑやら、前まへを通とほつてる按摩あんまの震ふるえ聲ごゑに耳みゝを傾かたむけ、森しんとした淋さみしい空氣くうきに心こゝろが吸込すひこまれ、快活くわいくわつな色いろも顏かほから失うせかゝつて來きたが、コトンと銚子てうしの音おとがするので、振返ふりかへつてパツと目めを開あけた。惡夢あくむから醒さめたやうに、銳するどく四圍あたりを見みまはし、やがて眉まゆをぴりゝとさせ、二本ほんの指ゆびで熱あつさうに銚子てうしの首くびを持もつて、
「さあ受うけ玉たまへ」と、無雜作むざうさに相手あひての盃さかづきへどぶ〳〵と注つぎ、「そして肝心かんじんの用事ようじは何なんだい」と問とふと、織田おだは言憎いひにさうに暫しばらく口籠くごもり、
「少すこし無理むりなお願ねがひだがね」と、盃さかづきを持もつては置おき〳〵して、「又また原稿げんかうの事ことさ」と、氣きの毒どくさうに云いふ。
「うん原稿げんかうの周旋しうせんか、僕ぼくが引受ひきうけてどうかしやう」と、健次けんじは快こゝろよく首うなづく。織田おだはやうやく安心あんしんしたらしく、甘うまそうに盃さかづきを呑のみ干ほして健次けんじに差さし、
「實際じつさい忙いそがしい間あひだに書かいたので、よくはなからうがね、それでも毆なぐり書がきぢやないんだ、會話くわいわにや格別かくべつ苦心くしんして、一機軸きぢくを出だしたつもりだから、まあ讀よんで吳くれ賜たまへ、物ものはゴルキーの小說せうせつだ」
「さうか、いゝだらう」と、健次けんじは輕かるく答こたへて、物ものが何なんであれ、譯筆やくひつが何なんであれ、そんな事ことは身みを入いれて聞きかうともせぬ。
「それからね、少すこし無理むりだが原稿料げんかうれうを早はやく貰もらつて吳くれまいか、月初つきはじめから一文無もんなしだから、それに……」
と、健次けんじの煙草たばこを一本ほん取とつて、指先ゆびさきで揉もみながら、何なにをか訴うつたへんとする。それと見みて健次けんじは頭あたまから打消うちけし、
「よし〳〵、それも僕ぼくが受合うけあつた、引替ひきかへに貰もらつてやらう」