The Project Gutenberg eBook of 幽霊書店
Title: 幽霊書店
Author: Christopher Morley
Translator: Kiyotoshi Hayashi
Release date: November 9, 2012 [eBook #41325]
Most recently updated: October 23, 2024
Language: Japanese
Credits: Produced by Kiyotoshi Hayashi
幽霊書店
クリストファー・モーリー
書店主各位へ
このささやかな本を皆さまに愛情と敬意を込めて捧げます。
作品の欠陥はだれの目にもあきらかでしょう。わたしは「移動書店パルナッソス」において大活躍し、一部の方からありがたくもお褒めの言葉をいただいたロジャー・ミフリンの冒険談のつづきをお話ししたいと思ってペンを取りました。ところがミス・ティタニア・チャップマンがあらわれ、若き宣伝マンが彼女に恋をし、むしろこの二人が物語の中心になってしまったのです。
さて、一言申し添えておきますが、第八章でシドニー・ドルー氏のすばらしい才能を語った一節は、この魅力的な芸人の悲しむべき死の前に書かれたものです。しかしながらそれは嘘偽りのない、心からの賛辞でしたので、わたしは削除する理由はなにもないと考えました。
第一章、第二章、第三章、および第六章はもともと「ザ・ブックマン」に掲載されたものですが、このすぐれた雑誌の編集者には再版の許可をいただいたことを感謝します。
ロジャーは十台のパルナッソスに地方回りをさせることになりましたので、もしかすると旅先で皆さまのお目に留まることがあるかもしれません。もしもそのような機会があれば、パルナッソス巡回書店株式会社のあらたな行商の旅が、わたしたちの高貴な職業の、ふるくて名誉ある伝統をけっして汚すものではないことをお確かめいただきたいと思います。
クリストファー・モーリー
フィラデルフィアにて
一九一九年四月二十八日
第一章 幽霊書店
ブルックリンといえば、とびきりあざやかな夕映えと、女房持ちが乳母車を押すすばらしい光景の見られる街だが、もしもあなたがそこに行くことがあるなら、まことにめずしい本屋のある、とある静かな裏通りに行きあたることを願う。
この本屋は「パルナッソスの家」という、いっぷう変わった屋号を持ち、店をかまえた褐色砂岩のふるい快適な住居は、配管工とごきぶりが数代にわたってこおどりしてきた場所だった。店の主人は家を改装し、古本のみをあつかう自分の商売にいっそうふさわしい聖廟をつくろうと苦労をかさねた。世界じゅうを探しても、この店ほど敬服にあたいする古本屋はない。
寒い十一月のある晩、およそ六時ごろのこと、ときおり雨がはげしく降りそそぎ、舗道にあたってはねかえるなか、ひとりの若い男が道に迷ったかのようにときどき立ち止まりながら、頼りなげにギッシング通りを歩いてきた。彼は暖かそうな明るいフランス式焼き肉料理店の前に立って、欄間窓にエナメルでしるされた番地と、手にしたメモを見くらべた。それからさらに数分歩きつづけ、ついに探していた住所にたどりついた。入り口の上の看板が目をひいた。
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パルナッソスの家 R・ミフリンとH・ミフリン 愛書家のみなさん、ようこそ! ☞この店には幽霊がいます☜ |
彼は詩神のすみかに通じる三段の踏み段をおり、立てた外套の襟をなおして、あたりを見まわした。
そこは行きなれた本屋とはずいぶん様子がちがっていた。二階建てのふるい家は、床が打ち抜かれてつながっていた。下の空間はいくつもの小さなアルコーヴ(くぼみ)にわかたれ、上のほうは回廊をめぐらした壁に、天井までびっしり本が並んでいた。あたりはふるびた紙と革の馥郁としたかおりに満ち、それにたばこの強烈なにおいが加わっていた。目の前には額入りの掲示があり、こう書いてある。
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当店には幽霊がいます あまたの偉大な文学の霊が。 にせもの、駄作は売りません。 本が好きなら大歓迎です。 むだ口をたたく店員はいません。 喫煙自由——ただし灰は落とさないように! —— 閲覧はお好きなだけどうぞ。 値段はすべてわかりやすく表示されています。 ご質問があれば、もうもうたるたばこの煙に包まれた店主まで。 本は現金で買い取ります。 あなたに必要なものがここにあります。もっとも、それが必要だということをあなたはご存じじゃないかも知れません。 ☞読書する力が栄養不足におちいると一大事です。 本の処方は当店におまかせください。 店主 R・ミフリン、H・ミフリン |
店内はあたたかく落ちついた薄暗さ、いわば眠気をさそう夕闇のなかにあり、緑色の笠をかぶった電灯がそこここで黄色い円錐形の光をはなっていた。たばこの煙がすみずみまで行きわたり、ガラス製のランプシェードの下で渦を巻いたり、もやもやと立ち迷っていた。アルコーヴのあいだの狭い通路を通るとき、仕切られた区画のあるものは完全な闇にとざされていることに訪問者は気がついた。ランプがともるほかの場所には机と椅子が見えた。「随筆」という表示の下の一隅で、年輩の紳士が熱中のあまり恍惚とした表情を電灯に照らしだされて本を読んでいた。しかし、たばこの煙がまわりにただよっていなかったので、あれは店主ではないのだろうと、初めて店に来た男は判断した。
店の奥に行けば行くほど、まわりの印象はますます現実ばなれしていった。はるか頭上に明かり取りの窓があって、そこに雨の打ちつける音が聞こえるのだが、それ以外はしんとしていて、まるで住んでいるのは、充満する煙の渦と、随筆を読む男の明るい横顔だけのような感じがした。そこは秘密の神殿、奇怪な儀式のとりおこなわれる聖廟のような印象で、若者は、なかば不安のために、なかばたばこのために、喉元がしめつけられるような気がした。見あげると暗がりのなかに本棚が何段もつみかさなっており、屋根にちかづくほど闇にしずんで見えるのだった。彼は褐色包装紙の筒と麻ひもをのせたテーブルを見つけた。あきらかに商品を包装する場所だったが、店員のいる気配はなかった。
「この店には本当に幽霊が住み着いているのかもしれない」と彼は思った。「たばこの守護神で、ここが気にいったサー・ウォルター・ローリーの魂とか。しかし店主は出没しないようだ」
彼の目は青くけむる店内を見わたしていたが、ふと卵のような奇妙な光沢をはなつ光の輪に気がついた。それは吊り電球の光を受けてまるく白く輝き、たばこの煙の波間にうかぶ明るい島のように見える。ちかづいてみると、それははげあがった頭だった。
この頭は、よく見ると、回転椅子にふんぞりかえった目つきのするどい小男の上にのっており、彼がいる片隅がこの建物の中枢神経と思われた。男の前には仕切り棚のついた大机があり、刻みたばこの缶や新聞の切り抜きや手紙とともに、ありとあらゆる種類の本がうずたかくつみあげられていた。ハープシコードに似た旧式のタイプライターが、原稿用紙の束に半分うもれていた。はげ頭の小男はコーンパイプをくゆらし、料理の本を読んでいた。
訪問者はほがらかに話しかけた。「失礼ですが、この店のご主人でしょうか?」
「パルナッソスの家」の店主、ミスタ・ロジャー・ミフリンは顔をあげた。青いするどい目に、みじかい赤髭をたくわえ、いかにも有能で独創的な人物だという雰囲気をただよわせていた。
「そうですが、なにかご用ですか?」
「わたしはオーブリー・ギルバートといいます。グレイ・マター広告代理店を代表してまいりました。わが社に広告業務のとりあつかい、しゃれたコピーの作成、発行部数のおおきなマスメディアへの掲載などをまかせていただけないかと思い、ご相談にあがりました。戦争もおわりましたから、販売拡大のために建設的な宣伝活動にとりくむべきだと思います」
店主はにっこりと笑みをうかべた。彼は料理の本を置き、勢いよくたばこの煙をまわりに吹き出すと、楽しそうに相手を見あげた。
「きみ、わたしは宣伝をいっさいしないんだ」
「まさか!」相手はまるで背徳行為を目にして度をうしなったかのように叫んだ。
「きみがいうような意味での宣伝ではない。わたしにとっていちばん役に立つ宣伝は、業界最高の粋なコピーライターたちがやってくれている」
「というと、ホワイトウォッシュ・アンド・ギルト社ですね?」ミスタ・ギルバートは残念そうにいった。
「とんでもない。うちの宣伝をしているのは、スティーブンソン・ブラウニング・コンラッド商会だよ」
「おやおや」グレイ・マター社のセールスマンはいった。「そんな代理店は知りませんでしたね。でも、うちのコピーほどパンチはきいていないでしょう」
「おわかりじゃないようだな。わたしがいっているのは、うちの広告はわたしが売る本がやっているということだ。お客さんにスティーブンソンやコンラッドの本を売るとするね。おもしろがらせたり、こわがらせたりする本だ。するとそのお客さんと本が、わたしの生きた広告になるんだよ」
「しかしその手の口コミは時代遅れです。それじゃ販路拡大ができません。大衆の前にトレードマークをかかげなければ」
ミフリンは大きな声でいった。「今は亡きタウフニッツ(註 ドイツの出版業者)に誓っていおう! いいかい、きみは医療の専門家である医者のところに行って、新聞雑誌で宣伝する必要を説いたりはしないだろう? 医者の宣伝は医者がなおした肉体がする。わたしの商売の宣伝はわたしが刺激を与えた心がする。それに一言いわせてもらえれば、本を売るのはほかの商売とちがう。人々は自分が本を必要としていることを知らないんだ。わたしは一目見ただけできみの心が読書不足で病んでいるとわかるが、きみはおめでたくもそのことに気がついていない! 人は心に重い傷を受けたり、病いにかかり、重篤な状態にでもならないかぎり本屋に来ないものだ。そういう状態におちいってはじめて本屋に来る。わたしの考えでは、宣伝の効用とは、どこも悪いと思ってない人に医者に行け、と忠告するようなものだ。きみはどうして人々が今までにもまして読書をするようになったのか、知っているかい? 戦争という大惨事によって、みんなが心を病んでいることを知ったからだ。世界はありとあらゆる精神の熱病、疼痛、障害にとりつかれていたのだが、そのことに気がつかなかった。しかしいまや、心の病いは明らかすぎるくらい明らかだ。だれもが貪欲に、せっかちに本を読み、災難が過ぎ去ったいま、われわれの心のどこに病巣があったのかを知ろうとしている」
小柄な店主は立ちあがり、訪問者は興味と警戒のいりまじった表情で彼を見つめた。
「こんなところでも来る価値がある、ときみが考えたことがわたしには興味ぶかい。本屋のすばらしい将来にたいする、わたしの確信を裏づけるものだ。しかし商売を拡充するだけじゃ、ほんとうの未来はおとずれない。肝心なのは専門家としての誇りを持つことだ。粗悪な本やいんちきな本や嘘を書いた本をほしがると、一般大衆にむかって文句をいってもはじまらない。医者よ、汝自身を癒やせ! 本屋に良書を見わけ、敬うことを学ばせよ。そうすれば客に教えることができる。良書を読みたいという欲求はきみが夢想するよりはるかに広がっているし、強いものだ。しかしそれはまだ、いうなれば意識下にとどまっている。人々は本を必要としているが、必要としていることを知らないのだ。たいていは必要としている本が存在することにも気づいていない」
「どうして宣伝でそのことを教えてやらないんです?」若い男はなかなかするどく尋ねた。
「きみ、わたしも宣伝の価値は理解している。しかしわたしの場合はむなしいのだ。わたしは商品の卸業者じゃなくて、人の必要にあわせて本をえらぶ専門家なんだ。ここだけの話、『よい』本という抽象的なものは存在しない。本は人間の飢えを満たし、まちがいを証明するときにのみ、『よい』本といえる。わたしにとってよい本は、きみにとって無価値ということもおおいにありうる。わたしの楽しみはここに立ち寄り、喜んで症状を話してくれる患者さんに本を処方することだ。なかには読書能力を衰退させてしまって、検死をしてあげるほかは手のうちようのない人もいる。しかしたいていはまだ治療の道がのこされている。いちばん喜んでくれるのは、その人の魂が求めていた、まさにその本を紹介することができ、しかもその本のことを知らなかったお客さんだ。この世に喜んでくれるお客さんほど強力な宣伝はないよ」
彼はつづけた。「わたしが宣伝をしない理由をもうひとつ話そう。猫も杓子もきみがいうように大衆の前にトレードマークをかかげる今日では、宣伝をしないというのがもっとも独創的ではっとさせる注目の集め方なんだ。きみをここに引き寄せたのも、わたしが宣伝をしないという事実だった。それにここに来た人はだれもが、ここを発見したのは自分だけだと思っている。そして変人と狂人が経営するこの本の収容所のことを友だちにいいふらし、今度はそれを聞いた友だちがどんな場所なのだろうと見に来てくれるというわけさ」
「わたしもまたここにきて、本を見てまわりたいです。あなたに処方していただきたいですよ」と宣伝マンはいった。
「最初に学ぶべきは残念だと思う心だ。世界は四百五十年間、本を印刷しつづけてきたが、火薬のほうがいまだにそれより広く行きわたっている。しかし心配はいらない! 印刷屋のインクのほうが強力な爆弾だからね。いつかきっと火薬を負かすだろう。そうだね、ここにはよい本が何冊かある。世界には本当に重要な本が三万冊くらいしかない。そのうち五千冊は英語で書かれ、もう五千冊が翻訳されているはずだ」
「夜もあいているんですか?」
「十時までね。うちのお得意さんは昼間ずっと働いている人が多くて、夜でないと本屋に来ることができないんだ。真の読書家というのはたいてい貧しい階層の人々だよ。読書に夢中という人は、仲間から金をまきあげてやろうなどと、あくどい計画をねる暇もないし、忍耐も持っていない」
小柄な店主のはげ頭は、包装台の上のつり電球の明かりを受けてひかった。目は真剣さにかがやき、短い赤髭が針金のようにぴんと立っていた。彼はボタンがふたつとれた、みすぼらしい茶色のノーフォークジャケットを着ていた。
ちょっと狂信的なところがあるな、と訪問者は思った。しかしとても愉快な狂信者だが。「それでは、ご主人、お話を聞かせていただいてほんとうに感謝します。またまいります。おやすみなさい」彼はドアにむかって通路をもどりはじめた。
店の正面にちかづいたとき、ミスタ・ミフリンが天井高くぶらさがっている電球の群れに明かりをともしてくれたので、若者は脇に大きな掲示板があるのに気がついた。切り抜き、お知らせ、回状、そして小さくこぎれいな字でカードに書かれた本の短評がそこを埋めている。こんな掲示が彼の目をとらえた。
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処方箋 もしもあなたの心が、燐を必要としているなら、ローガン・ピアソール・スミスの「トリヴィア」をおためしあれ。 もしもあなたの心が、丘の上と、桜草の谷から吹きつける、青く清浄な一陣の強い風を必要としているなら、リチャード・ジェフリーズの「わが心の物語」を。 もしも鉄分配合の強壮酒と、とことん頭のなかを引っかきまわされるような経験が必要なら、サミュエル・バトラーの「ノートブックス」あるいはチェスタートンの「木曜日の男」を。 「アイルランド的な奇想」、羽目をはずしたどんちゃん騒ぎが必要なら、ジェイムズ・スティーブンスの「半神半人」を。教えるのがもったいないような、思った以上にいい本です。 砂時計をひっくりかえすように、時には心を上下反対にして、砂粒を逆流させるのもいいもの。 英語をいつくしむ人なら、ラテン語の辞書はとてもおもしろいはず。 ロジャー・ミフリン |
人間はすでに多少知っている事柄でないと、あまり注意をはらわないものだ。若者は書籍療法士が処方した本はどれひとつ聞いたことがなかった。彼がドアを開けようとしたとき、ミフリンがそばにあらわれた。
「ねえ、きみ」彼はどことなく妙におどおどした様子でいった。「きみとの話はとてもおもしろかったよ。今晩、わたしはひとりなんだが——妻が旅行に出ているんだ。よかったらいっしょに夕ご飯をどうだろう? きみが来たとき、ちょうど新しいレシピを見ていたところだ」
相手はこの思いがけない招待に驚き、おなじくらい喜びもした。
「ああ、それは——ご親切にありがとうございます。でもほんとうにお邪魔じゃないんですか?」
「とんでもない! わたしはひとりで食事をするのがだいきらいなんだ。だれかうちに寄ってくれないかと思っていたところだ。妻がいないときはいつもお客さんを招くようにしている。ほら、店番があるから、わたしは家にいなければならないんだ。召使いがいないので自分で料理をしている。料理はじつに楽しいね。さあ、パイプに火をつけて、準備をするあいだ、くつろいでくれ。奥の居間に行こう」
ミフリンは正面入り口の本の平台ひらだいにつぎのように書かれた大きな札をのせた。
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店主食事中につき ご用の方は ベルを鳴らしてください |
札の横に大きくて古風なディナーベルを置くと、彼は先に立って店の奥へすすんだ。
この変わり者の商人が料理の本を研究していたせまい帳場のうしろには、左右にほそい階段があって、それぞれ二階の回廊までのびていた。その階段のうしろの短いあがり段をあがると、家族が住まう奥の間にでる。訪問者はまねかれるままに左手の小部屋にはいった。黄色がかった大理石のすすけたマントルピースのなかで石炭があかあかと燃えていた。その飾り棚の上には黒ずんだコーンパイプが一列に並び、刻みたばこの缶が一つ置いてある。上の壁にはびっくりするくらいどぎつい油絵がかかっていた。大きな青い馬車が、見たところ馬らしき、白い屈強な動物にひかれている。青々としげる草の背景が、画家の力強い筆づかいをきわだたせていた。壁は本でびっしりつまっていた。貧弱だが座り心地のよさそうな椅子が二脚、鉄の炉格子の前に引き寄せられている。からし色のテリヤが寝そべっていたが、火にちかづきすぎて、毛のこげるにおいがした。
「さあ、ここがうちの居間、くつろぎの礼拝堂だよ。コートを脱いでお座りなさい」
「あのう」とギルバートが話しはじめた。「こんなことをしていただいて——」
「なにをおっしゃる! さあ、座って魂を、神と台所のかまどにゆだねなさい。わたしは夕食の支度をしてくる」
ギルバートはパイプを取り出し、うきうきした気持ちで奇妙な一夜をたのしむ心づもりをした。彼は愛想がよくて、よく気がつく、人当たりのいい青年だった。文学の話題にとぼしいことは自覚していたが、それは名門大学に進学したものの、グリークラブと演劇活動がいそがしくて、読書する時間がほとんどなかったからである。しかし、主に噂で情報を手にいれるとはいえ、よい本を読むのは大好きだった。年齢は二十五歳、職業はグレイ・マター広告代理店のコピーライターだった。
彼がいる小部屋が店主にとって神聖な場所であることはあきらかで、店主個人の蔵書が並べられていた。ギルバートは本棚を興味ぶかく眺めまわした。本はぼろぼろにいたんでいるものがほとんどだった。どうやら古本屋の粗末な飼い葉桶から一冊一冊選ばれたものらしい。どの本にも手あかと瞑想のあとがついている。
ミスタ・ギルバートは自己修養なるものに熱中していて、これは多くの若者の人生をしおれさせてきたものなのだが、しかし大学卒という経歴や男子学生友愛会フラターニティのきらめく記章を負担に感じる人々にあっては賞賛にあたいする情熱である。彼はふとミフリンが蒐集した本のタイトルをいくつか書き抜いておけば、自分の読書の貴重な参考になるのではないかという気がした。彼は手帳を取り出し、興味をそそる本の題を書きつけはじめた。
フランシス・トンプソン全集(三巻)
アパーソン「喫煙の社会史」
ヒラリー・ベロック「ローマへの道」
岡倉覚三「茶の本」
F・C・バーナンド「名案」
「ジョンソン博士の祈祷と瞑想」
J・M・バリー「マーガレット・オギルビイ」
テイラー「サグ団員の告白」
オクスフォード大学出版部総目録
C・E・モンタギュー「夜明けのたたかい」
ロバート・ブリッジズ編「人間の精神」
ボロー「ジプシー紳士」
エミリー・ディッキンソン「詩集」
ジョージ・ハーバート「詩集」
ジョージ・ギッシング「蜘蛛の巣の家」
ここまで書き取り、(嫉妬ぶかい女王さまである)広告のためにも、もう止めたほうがいいと思ったとき、主人が小さな顔をかがやかせ、目を青い光の点にして部屋のなかに入ってきた。
「さあ、ミスタ・オーブリー・ギルバート!」彼は叫んだ。「食事の準備ができました。手を洗いますか? じゃあ、いそぎましょう。こちらです。卵が熱々で待っていますよ」
客が招じ入れられた食事室は、たばこの煙にかすむ店内や居間にはない女性らしさをしめしていた。窓には笑っているようなチンツのカーテンがかけられ、ピンクのゼラニウムの鉢が置いてあった。オレンジ色のシルクにおおわれたつるしランプの下には、テーブルが置かれ、まばゆい銀器や青い皿がならんでいた。カットグラスのデカンターには赤茶色のワインがきらめいている。有能な広告業者は気持ちが高揚するのをはっきりと感じた。
「さあ、座ってください」ミフリンは大皿のふたを取りながらいった。「これはサミュエル・バトラー風卵といいまして、わたしが考案した、卵料理の精髄ですぞ」
ギルバートはその考案を賞賛の言葉でむかえた。サミュエル・バトラー風卵を家庭の主婦のメモ用に簡単に紹介すると、トーストの土台にベーコンの薄切りと、かためにゆでた落し卵をのせ、まわりをきのこで飾ってピラミッド状にし、てっぺんに唐辛子をふりかけたものといっていいだろう。全体に考案者秘密のあたたかいピンク色のソースがかけられている。書店主のシェフはこれにフライドポテトをべつの皿からもりつけ、客のグラスにワインをそそいだ。
「これはカリフォルニアのカトーバ・ワインだ。このなかで葡萄と太陽の光が、それぞれさだめられた運命をじつに味わいよく、しかも安価にまっとうしている。きみの黒魔術、広告の繁栄に乾杯しよう!」
広告の本質をなす心理作戦の要諦は、如才のなさ、聞き手の気分にぴったりの口調や言葉づかいを直感的に察知することにある。ミスタ・ギルバートはこのことをよく理解していた。主人はおそらく本屋という神聖な職業よりも、美食家としての余技のほうを自慢に思っているのではないかと彼は直感した。
「ご主人」彼はジョンソン博士のまねにしては、ずいぶんわかりやすい言葉づかいでそう話しはじめた。「かくも美味なる一品を、かくもすばやくおつくりになるなど、はたして可能でありましょうか? わたしをかついでいらっしゃるのではありませんか? ギッシング通りとリッツホテルの厨房のあいだに秘密の通路がありはしないでしょうね?」
「ああ、妻の手料理を味わってごらんなさい! わたしは彼女がいないときに道楽で手を出すしろうとにすぎない。妻はボストンの従姉妹をたずねている。この建物にこもるたばこの煙にうんざりして、当然といえば当然なんだが、健康のために年に一度か二度、ビーコンヒルのすんだ空気を吸いに行くんだよ。妻が留守のあいだ、家事という儀式を研究するのはわたしの特権だ。店でたえず興奮したり思索したりしたあとでは、心をしずめるのに非常にいいね」
「本屋さんはとてものどかな生活をおくっているものだと思っていましたが」
「とんでもない。本屋の生活は爆弾倉庫に住むようなものだ。あの棚にはこの世でもっとも危険な可燃物——人間の頭脳がならんでいる。雨の日の午後を読書してすごすと、わたしの心は人間がかかえる諸問題にかき乱され、不安におちいり、気がめいってしまう。あれはおそろしく神経をつかれさせる。カーライル、エマーソン、ソロー、チェスタートン、ショー、ニーチェ、それにジョージ・エードに囲まれてみなさい——興奮するのも当然じゃないかね? もしも猫が好物のイヌハッカのつづれ織りで飾られた部屋に住まなければならないとしたらどうなるだろう? そりゃあ、気が変になるだろう!」
「正直にいって、本屋さんにそんな側面があるとは思いもよりませんでした」と若者はいった。「しかし、それなら図書館はどうしてあんなにおごかな静けさにつつまれた神殿なのでしょう? あなたがおっしゃるように本が挑発的なら、図書館員はみんな秘儀の祭司のように甲高い叫び声をあげ、ひっそりしたアルコーヴのなかで夢中になってカスタネットでも打ち鳴らしそうなものですよ!」
「だがね、きみ、きみは検索カードを忘れているよ。図書館員は、魂の熱冷ましとして鎮静効果のあるしかけを考え出したんだ。わたしが台所の儀式を利用するのとまったくおなじだ。集中してものを考えることができる図書館員だもの、ひんやりとして心をいやす薬のような検索カードがなければ、みんな頭がおかしくなるよ! 卵のおかわりはどうだい?」
「ありがとうございます」ギルバートはいった。「この料理の名前のもとになった執事バトラーはだれでしたっけ?」
「なんだって?」ミフリンはショックを受けて叫んだ。「きみはサミュエル・バトラーを聞いたことがないのか? 『万人の道』の作者を? きみ、この本と『エレホン』を読まずに死んだ人間は、天国に行く機会をわざと放棄したようなものだ。あの世で天国に行けるかどうかはわからないが、この世にはまちがいなく天国がある。それはよい本を読むときに住まうことができる天国だ。ワインをもう一杯めしあがれ。それではここでひとつ……」
(ここからサミュエル・バトラーの反逆的な哲学について、熱のこもった説明がはじまるのだが、読者に敬意を表して割愛しよう。ミスタ・ギルバートは会話の最中にメモを取り、うれしいことに、自分の罪ぶかさを心から自覚したらしい。数日後、彼は市立図書館にあらわれ、「万人の道」はないかとたずねているところを目撃されている。図書館を四つ訪ねてまわり、いずれの場所でも本が貸し出し中であることを知り、彼は一冊購入せざるをえなかったが、そのことを後悔はしていない)
「おやおや、お客さまをおまねきしながら、わたしはなにをしているのやら」ミフリンはいった。「デザートはアップルソース、ショウガ入りケーキ、そしてコーヒーだよ」彼はからになった皿を手早くテーブルからかたづけ、つぎの品を持ってきた。
「さっきから食器棚の上の注意書きが気になっていたんですが」ギルバートはいった。「今晩、かたづけのお手伝いをさせてもらえませんか?」彼は台所のドアのちかくにかかっている札を指さした。それにはこう書いてある。
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食事が終わったすぐあとに かならず皿を洗うこと あとで手間がかかりません |
「残念だが、いつもあの教えを守っているわけではない」店主はコーヒーをそそぎながらいった。「妻は注意をうながすために出かけるときはいつもあれをかけていく。しかしわたしたちの友人、サミュエル・バトラーがいうように、些末なことにとらわれるおろか者は、大切なことを見失うおろか者だ。わたしは皿洗いにかんして人とはちがう見解をもっていて、わたしなりの流儀でたのしんでやっている。
わたしは皿洗いをいやしい雑用、いってみれば眉間にしわをよせ、辛抱づよく堪えしのばなければならない、憎むべき試練にすぎないと思っていた。妻がはじめて出かけたとき、わたしは流しの上に書見台と電球を取りつけ、手が自動的に食器洗いというくだらない行為をおこなっているあいだ、本を読んでいたものだ。偉大な文学の霊を悲しみの友にし、鍋や皿にまじって水をあび、のたうちまわりながら、『楽園喪失』やウォルト・メイソンをずいぶん暗記した。よくキーツの詩の二行を口ずさんで自分を慰めたものだ。
動きやまぬ波は神官のごとく
人住まう大地の岸辺を浄め……
そのとき、新しいものの見方にはっと気がついた。人間は、いかなる仕事も、強制されて苦行のようにいつまでもつづけることはできない。どんな仕事であれ、それになんらかの精神的な意味を賦与し、ふるい考え方を打ちこわし、心から望むものに作り変えなければならない。皿洗いの場合はどうしたらいいだろう?
わたしはこの問題を考えながら、かなりの数の皿を割ったよ。そしてふいに、これこそわたしに必要な息抜きなんだとさとったのだ。それまで、人生の栄光や苦悩について相矛盾する見解を叫びつづけるやかましい本たちに終日囲まれ、頭がくたくたになってしまうことに不安を感じていたのだ。それなら皿洗いをわたしの鎮痛剤と湿布薬にしたらどうだろう?
どうにもならないような事実も、あたらしい角度から見ると、おどろくほど輪郭や縁の形がちがってくるものだ! とたんに洗い桶は一種、哲学的な神々しさをおびて光りはじめた! なまぬるい泡だらけの水は、かっかした頭を冷す特効薬になり、コップや皿を洗って乾かす地味な行為は、いうことを聞かないまわりの世界に人間が押しつける秩序と清潔さの象徴に変わった。わたしは流しの上から書見台と読書灯をとっぱらった。
ギルバートさん、笑わないで聞いてほしいんだが、わたしは独自の台所哲学を発展させたんだ。台所はわたしたちの文明の聖堂、人生における好ましいものすべての中心だと思う。ストーブの赤いかがやきは、どんな夕焼けにも負けないくらい色鮮やかだ。丹念にみがかれた水入れやスプーンは、ソネットのように優雅で、完璧で、美しい。きちんと洗って水切りをし、裏口のドアの外にほしてある皿洗い用のモップは、それじたいが一編の説教だ。冷蔵庫の水受けをからにして、スコットランド風にいえば、台所をくまなく『レッドアップ(整理)』したあと、勝手口から見る星くらいかがやかしいものはない」
「とてもすてきな哲学ですね」とギルバートはいった。「さあ、食事がおわりましたから、ぜひ皿洗いのお手伝いをさせてください。あなたの汎皿論をためしてみたくてうずうずしているんです」
「きみ」ミフリンはせっかちな客を手で押さえるようにしていった。「たまには否定を甘んじて受けいれるぐらいでないと、本物の哲学とはいえない。いやいや——いっしょに皿を洗ってくれとたのんだんじゃないんだ」彼は客をふたたび居間のほうへ導いた。
「きみが入ってくるのを見たとき、新聞記者が取材に来たのかと心配になったよ。いちど若いジャーナリストがうちに来て、非常に不愉快な目にあったことがある。やつは妻に取り入って、わたしたちの話を本にしてしまった。『パルナッソス移動書店』というんだが、わたしにとってはいささか目ざわりな本でね。その本のなかで、わたしは本屋の仕事について、あさはかで感傷的な発言をいくつもしていることになっているんだが、それが同業者をいらいらさせている。しかしさいわいなことに、その本はほとんど売れなかった」
「聞いたことがない本ですね」とギルバートはいった。
「本屋の仕事に真剣な興味があるなら、いつかまた晩に来てコーンパイプ・クラブに顔を出しなさい。月に一回、書店主が大勢ここにあつまって、コーンパイプをくゆらし、リンゴジュースを飲みながら本の話をするんだ。じつにいろいろな書店主がいるよ。一人は図書館の話ばかりをする。彼は、市立図書館をことごとく爆破すべし、と考えている。それから映画が出版業を破滅させると考えている人もいる。ばかな話だ! 精神をとぎすまし、疑問をいだかせるものは、どんなものであれ、かならず読書欲をかきたてるものだ」
「本屋の生活は知性をひどく堕落させる」一息おいて彼はつづけた。「数知れぬ本に取り囲まれているが、すべてを読むことはできないので、あっちをちょいとのぞき、こっちをすこしかじるという読み方をする。しだいに頭のなかは漂流物の寄せ集め、うすっぺらな意見、千の生半可な知識でいっぱいになり、ほとんど無意識のうちに、大衆の需要という尺度で文学を評価しはじめる。ラルフ・ウォルド・トラインはラルフ・ウォルド・エマソンよりすぐれているのではないかとか、J・M・チャプルはJ・M・バリーとおなじくらい偉大な文人じゃないかとか考えるようになる。こうして知性は自殺してしまうのだ。
しかしよい本屋には一つだけ認めてやらなければならないことがある。それは寛容だということだ。本屋はどんな思想や理論にも辛抱づよく接する。奔流のような人間の言葉にのみこまれても、喜んで一人ひとりの言い分に耳をかたむける。出版社のセールスマンにさえおおらかに耳を貸す。人類の幸福のためならすすんでだまされようというのだ。よい本が生まれることをひたすら願っているのだ。
わたしの商売は、ごらんのとおり、ほかとくらべるとずいぶん毛色がちがっている。あつかっているのは古本だけだし、買い取るのも正当な存在価値があると、わたしが考える本だけだ。人間の判断がおよぶ範囲で、わたしは駄本を棚に置かないようにしている。医者はにせの薬を売買しない。わたしはいいかげんな本を売買しない。
先日、おもしろいことがあったよ。あるお金持ちで、ミスタ・チャップマンという人がいるんだが、この店に足繁くかようになってもうずいぶんになる……」
「もしかするとチャップマン・デインティビッツ株式会社のミスタ・チャップマンですか?」ギルバートは勝手を知った領域に足を踏み入れたことを感じながらいった。
「そうだが」ミフリンはいった。「知っているのかい?」
「やっぱり」青年は敬意のこもった声で叫んだ。「あの人こそあなたに広告の美徳をお話しできる人ですよ。あの人が本に興味を持っているとしたら、それは広告のせいです。あの会社の広告は、すべてうちが引き受けているんです——わたし自身もたくさん作りました。わたしたちがチャップマン社のプルーンを、文明と文化の必需品にしたんです。大きな雑誌ならかならずのせている『わが社の自慢、チャップマン・プルーン』というあの標語はわたしが考えたんです。チャップマン社のプルーンは世界じゅうが知っています。日本の帝みかどは一週間に一回食べているし、ローマ法王も食べています。そうだ、講和会議に出席するため大統領が乗船するジョージ・ワシントン号にも十三箱積み込まれたって話ですよ。チェコスロバキア軍の糧秣はほとんどがプルーンでした。チャップマン・プルーンの宣伝が戦争勝利におおいに寄与したと、うちの会社は確信しています」
「このまえ読んだ広告——もしかしたらあれもきみが書いたのかい?」と店主はいった。「エルジン時計が戦争を勝利に導いた、というやつだが。ともかく、チャップマンさんは長いことうちのお得意さんのひとりなんだ。彼はコーンパイプ・クラブのことを聞いて、もちろん書店主じゃないんだが、ぜひ集まりに参加したいと熱心に頼みに来た。わたしたちは大歓迎だったし、彼も真剣に議論の輪にくわわってくれた。鋭い意見を出すこともしばしばあった。彼は本屋の生活にいれこんでしまって、先日、娘さんのことでわたしに手紙をよこしたくらいだ。(チャップマンさんはやもめ暮らしをしている)娘さんは上流階級の女の子が通う学校に行っているのだが、彼がいうには、そこで常識はずれの贅沢な俗物思想をたっぷり吸収したらしい。人生の意義とか美しさがわからない点は、ポメラニア犬とおなじだそうだ。彼は娘を大学にやるかわりに、わたしたち夫婦が引き取って、ここで書籍商の仕事を教えてくれないかといってきた。彼女には自活しているように思わせておいて、内緒で住み込みの費用を払うというのだ。本に囲まれていれば、すこしは良識をわきまえるようになるのではないかと考えているようだ。そんなことをこころみて大丈夫なのかと、ちょっと不安なんだが、しかし店にとっては名誉なことだ。ちがうかね?」
「おどろいたなあ」ギルバートは大声を出した。「それをネタにしてすごいコピーが作れますよ!」
ちょうどそのとき店のベルが鳴り、ミフリンは飛びあがった。「夜のこの時間帯はちょいとだけいそがしくなることがある」彼はいった。「残念だが、下に行かなければならない。常連客のなかには、わたしが本の話に花を咲かせようと、うずうずしながら待ちかまえていると思っている人がいる」
「お礼の言葉もないくらいたのしかったです」ギルバートはいった。「またお邪魔して、本棚をじっくり見ることにします」
「そうだ、さっきのお嬢さんの話は秘密にしておいていただきたい」と店主はいった。「きみのようなさっそうとした青年が押し寄せて、彼女の心をまどわすようではこまる。この店にいるあいだ、恋をする相手はジョセフ・コンラッドかジョン・キーツにしてもらわなければね!」
外に出て行くとき、ギルバートはロジャー・ミフリンが髭をはやした大学教授風の男と話しているのを見た。「カーライルの『オリバー・クロムウェル伝』ですか?」彼はそういっていた。「もちろんですとも! こちらですよ! おや、変だな! ここにあったんだがなあ!」
第二章 コーンパイプ・クラブ*
*読者が書店経営者でないなら、本章の後半は飛ばしていただいてかまわない。
幽霊書店は魅力にあふれる店だが、とりわけ夕方、ものういアルコーブにランプの光がともり、本の列を照らし出すときがそうだった。多くの通行人がひたすら好奇心にかられて階段をおりてきた。それ以外のなじみの客は、クラブを訪れる男のようにゆったりとした気分で店に立ち寄った。ロジャーは店の奥で机にむかい、パイプをふかして本を読むのが常だったが、客に話しかけられると、たちまち会話に夢中になった。おしゃべりな獅子は身体のなかに眠っているだけで、それを目ざめさせるのは造作もなかった。
夜も営業している本屋は、どこも夕食後が多忙な時間帯といっていいだろう。真の読書好きは夜行性の種族であって、闇と静けさと笠を被った電球の光が、あらがいがたい力で読書へと誘いざなうまで外に出ようとしないからだろうか? もちろん夜は文学と神秘的な類縁性を持っている。イヌイットが偉大な書物を生み出していないのは奇怪なことだ。われわれのほとんどは北極の夜などオー・ヘンリーとスティーブンソンがなければ耐えられないだろう。また、いっときアンブローズ・ビアスにかぶれたロジャー・ミフリンはこういったこともある。真に甘美な夜ノクテス・アムブロジアナエは、アンブローズ・ビアスの夜である、と。
しかしロジャーは十時になるとパルナッソスの家をさっさと閉めた。その時刻に彼とボック(からし色のテリヤで、ボッカチオから名前をとった)は、店を巡回してすみずみまで点検し、客用の灰皿をあけ、正面ドアに鍵をかけて明かりを消した。そのあと彼らが居間にもどると、たいていミフリン夫人が編み物か読書をしていた。彼女はポットにココアをわかし、二人は床につくまでの半時間あまりを読書やおしゃべりで過ごすのである。ロジャーは寝る前にギッシング通りを散策することもあった。一日じゅう本といっしょにいると、精神的な疲労は相当なものになる。だからブルックリンの通りを吹き抜けるさわやかな風にあたって、ボックが老犬らしく鼻を鳴らしたり、夜道をのろのろ歩くかたわら、読書中に思いついたことをじっくり考え直したりしたものだ。
しかしミセス・ミフリンが家にいないとき、ロジャーの行動はいつもの手順をいささか逸脱する。店じまいをしたあと、彼は机にもどり、こそこそと恥ずかしそうに、いちばん下の引き出しからメモや原稿が乱雑につめこまれた紙ばさみを取り出す。これは押し入れのなかの骸骨、人に知られてはならない彼の罪悪だった。それはすくなくとも十年のあいだ、彼が編集して本にしようとしてきた資料で、「文学ノート」、「松葉杖をついた詩神」、「本とわたし」、「若き書籍商が知っておくべきこと」などといったいろいろな仮題がつけられていた。はるか昔、彼が本の行商人として田舎をうろつきまわっていたころに「農民と文学」という題で書きはじめたものなのだが、しだいに枝葉がついて、ついには(すくなくとも分量だけは)リドパス教授の布張りの著作(註 「リドパスの世界文学集成」のこと)をおびかすまでにいたった。いまのところ、この草稿には出だしも終わりもなく、ただ中間部分だけが猛烈な勢いでふくれつつあり、何百枚もの原稿用紙がロジャーのこまかな手書き文字で埋まっていた。「アルス・ビブリオポラエ」、すなわち本を売る技術の章は、いまだ生まれざる書籍販売業者に古典として世代を超えて読み継がれることを彼は望んでいた。散らかった机にむかい、もうもうたるたばこの煙の掛布団にやさしく包まれ、彼は原稿を熟読しながら、字句を消し、手を加え、議論をやり直し、棚の本を参照した。ボックは椅子の下でいびきをかき、じきにロジャーは頭が朦朧としてきた。結局、彼は原稿用紙の上につっぷして寝てしまい、夜中の二時ごろ、からだが痛くなって目をさまし、いらいらと床をきしませひとり寝のベッドにむかうのだ。
長々とこんなことを話したのは、オーブリー・ギルバートが訪ねてきた晩の真夜中、ロジャーが机にむかってうとうとしていたことを説明したかったからにすぎない。渓流のように冷たいすきま風がはげた頭の上を通りすぎ、彼は目をさました。上半身をぴんと起こして、まわりを見た。店内は頭上の明るい電球以外は暗闇に包まれている。飼い主よりも規則正しい生活を送っているボックは、台所にある寝床にもどっていた。かつてはブリタニカ百科事典が一式詰め込まれていた荷箱で作ったものだった。
「変だな」ロジャーはひとりごとをいった。「たしかに鍵はかけたんだが」彼は店の正面に行き、スイッチを押して、天井からぶらさがる電球の群れに明かりをともした。ドアがすこし開いていたが、ほかはなんの異常もないようだった。彼の足音を聞きつけたボックが、木の床に爪音を響かせながら台所からとことこと出てきた。主人の奇矯なふるまいに慣れた犬らしく、辛抱づよく問いかけるような目で彼を見あげた。
「だんだんぼけてきたようだ」ロジャーはいった。「きっと閉め忘れたんだ」彼はドアを閉めて鍵をかけた。そのときテリヤが店の正面の左側にある歴史のアルコーヴに入り込み、においを嗅いでいることに気がついた。
「どうしたんだ、おまえ」ロジャーはいった。「寝床で読む本がほしいのか?」彼はアルコーヴの明かりをつけた。なにも変わったところはないように思われた。が、ふと一冊の本がまっすぐに並んだ背表紙の列から一インチほど飛び出しているのを見つけた。ロジャーは几帳面に棚の本をことごとく平らに並べる癖があり、ほとんど毎晩、閉店の時間になると、てのひらを背表紙にそってはしらせ、不注意な閲覧者による本の不揃いを直すことにしていた。彼は手を伸ばして本を押し込もうとした。そして手を止めた。
「こりゃまた変だな」彼は思った。「カーライルの『オリバー・クロムウェル伝』じゃないか! 昨日探したときは見つからなかったのに。あの教授がここにいたとき。もしかしたら疲れて、まともにものも見えなくなったのかも知れない。寝ることにしよう」
つぎの日はきわめて重要な日だった。感謝祭とコーンパイプ・クラブの十一月例会がかさなっているだけでなく、ミフリン夫人がそれに間にあうようにボストンから帰ってきて、書店主たちのためにチョコレートケーキを焼いてあげると約束していたのである。クラブのメンバーのなかには、本の話をするためというより、ミフリン夫人のチョコレートケーキと、彼女の兄アンドリュー・マギルがサビニ農場から毎年秋に送ってくる樽詰めのリンゴジュースを目あてに欠かさず出席する者もあるという。
ロジャーは妻の帰りをむかえる準備として、かるく家の掃除をして午前中をすごした。食べ物のくずやら、たばこの灰が食事室の絨毯の上にたくさんたまっていて、彼はいささか恥ずかしくなった。昼食はつつましくラムチョップとベークトポテトですませたが、食べ物にかんする警句が頭にうかんだのでご満悦だった。「大切なのはあなたが夢に見る食べ物ではない」彼はひとりつぶやいた。「家のなかに入り来たり、家族の一員となる食べ物こそ重要なのである」もうすこしみがきあげ、言葉づかいを工夫する必要があるが、ちょっと気がきいていると思った。ひとりで食事をするときは、よくいろいろなことを思いつくのだった。
そのあと流し場で皿洗いに精を出していると、二本の腕がじつに手早く彼をつつみ、ギンガムのピンク色のエプロンを頭からすっぽりかぶせたのでびっくりした。「ミフリン」妻がいった。「何度いったらわかるの! 洗い物をするときはエプロンをおつけなさい」
二人は気があって結婚した中年者どうしの、あっさりしたなかにも心から愛情のこもった挨拶をかわした。ヘレン・ミフリンはふくよかな健康的な女性で、良識とユーモアに富み、心にも身体にも栄養がゆきわたっていた。彼女はロジャーのはげた頭にキスをし、相手の小柄な身体に腕をまわしてエプロンの紐を結び、台所の椅子に座って彼が食器をふきおわるのを見ていた。彼女の頬は身を切るような空気にあたって冷たく赤みをおび、その顔は快適な都市ボストンに逗留した者があじわう静かな満足感にかがやいていた。
「さあ、おまえ」ロジャーはいった。「これでほんとうの感謝祭になった。『家庭版名詩選集』みたいにふっくらして元気いっぱいのようだね」(註 「家庭版名詩選集」は四千ページあまりのぶあつい本)
「すばらしかったわ」彼女は膝もとのボックをかるくなでながらいった。犬は人間の友を見わける嗅ぎなれた不思議なにおいを吸いこんでいた。「三週間というもの、本の話はいっさいなし。きのう、オールド・アングル書店に立ち寄って、ジョー・ジリングスにひとこと挨拶して来たの。彼は、書店主はみんな頭が変だけど、あなたは群を抜いて変だっていっていたわよ。まだ店はつぶれていないのか、ですって」
ロジャーの灰色がかった青い目がひかった。彼は瀬戸物戸棚のフックにコップをひっかけ、パイプに火をつけてから返事をした。
「なんて答えたんだい?」
「うちの店には幽霊がついているから、普通の本屋とはわけがちがうのよ、って」
「よくぞいった! で、ジョーはなんていっていた?」
「『変わり者にとりつかれているのさ』だって」
「そうだな」ロジャーがいった。「文学が破産することになったなら、そのときはわたしも運命を共にしよう。それまではやめるものか。ところで、もうすぐ、うちの店に美しい乙女がとりつくことになっているんだ。チャップマンさんがお嬢さんをうちの店で働かせたいといったのを覚えているだろう? ほら、これは今朝、彼からとどいた手紙だよ」
彼はポケットをさぐって手紙を取り出した。ミセス・ミフリンが読んだのは、つぎのような文面だった。
親愛なるミフリン
きみと奥さんが娘を試験的に見習いとして雇うことにこころよく同意してくれたので、わたしは心から喜んでいる。ティタニアはほんとうはとてもかわいい娘で、いわゆる「教養学校」のくだらない考え方を頭から取りのぞいてやれば、立派な女性になるだろう。(これは彼女のせいではなく、わたしに問題があったのだが)彼女はほしいものはなんでも手に入り、気まぐれはすべて許されるという悪い環境のなかで育てあげられてきた、というか、育てさげられてきた。彼女のためにも、また、結婚することがあるなら、未来の夫のためにも、彼女に生計を立てることを多少学んでもらいたいのだ。彼女はもうすぐ十九歳になる。わたしは彼女に、しばらく本屋の仕事をしたなら、そのあとは一年間ヨーロッパ旅行につれていってやると約束した。
前にも説明したとおり、彼女にはほんとうに自活しているのだと思わせておきたい。もちろん毎日の仕事がきつすぎるというのでは困るが、しかし自力で人生に立ちむかうことの意味をいくらかでも理解させたい。給料は新米あつかいで毎週十ドル、そこから食費を差し引いてくれたら、わたしのほうからは、娘の世話ときみたちのやさしい監督にたいして、こっそり毎週二十ドルを払う。あすの夜、コーンパイプ・クラブに出るから、そのとき最終的な手はずをととのえよう。
さいわいなことに、娘は本が大好きで、今回の冒険におおいに期待しているようだ。たまたま昨日、娘が友達の一人に、今年の冬は「文学的な仕事」をする、などと言っているのを耳にした。わたしが娘に卒業してもらいたいのは、こういうばかげたものの言い方だ。本屋で働く、と言えるようになったら、彼女の病気は治ったということだ。
親愛なるきみの友
ジョージ・チャップマン
「どうだい?」ミフリン夫人がなにもいわないのでロジャーは尋ねた。「われわれの平穏な暮らしがかかえる諸問題に純真な若い娘がどう反応するか、ちょっと興味ぶかいと思わないか?」
「ロジャー、あなたってどこまで世間知らずなの!」妻は叫んだ。「ここに十九歳の女の子が来たら、平穏な暮らしどころじゃなくなるわよ。自分をだますことはできるかもしれないけど、わたしはだまされない。十九歳の女の子は『反応』するんじゃないのよ。爆発するの。『反応』がおきるのはボストンと化学実験室だけ。あなたは兵器庫に人間爆弾をつれこもうとしているのよ。わかっている?」
ロジャーは、そうだろうか、という顔をした。「『ハーミストンのウィア』のなかで女の子のことを『爆発機関』とか書いてあったな。しかしべつに困ることもないだろう。われわれは二人とも砲弾ショックには充分抵抗力がある。考えられる最悪の事態は、わたしの『エリザベス女王時代の炉端談話』が見つかってしまうことだ。どこかに鍵をかけてしまっておくよう、あとで注意してくれないか?」
マーク・トゥエインの手になるこの秘密の傑作は、店主の宝物の一つだった。ヘレンですら読むのを許されていなかったが、彼女は賢明にも自分が好んで読むような本ではないことを見抜いていた。保管場所はちゃんと知っていたが(生命保険証券、自由公債、チャールズ・スペンサー・チャップリン直筆の手紙、新婚旅行で撮った彼女のスナップ写真などといっしょにしまってあった)、手にとって見ようとしたことは一度もなかった。
「とにかく」ヘレンはいった。「ティタニアが来ようが来まいが、今晩、コーンパイプ・クラブがチョコレートケーキを食べたいというなら、遊んでるひまはないわ。お願いだからスーツケースを二階に持って行ってちょうだい」
書店主の集まりは、参加してたのしい衆議所サンヘドリンである。歴史のふるいこの業界の人々には、洋服製造業者やそのほかの業界の人とおなじく、はっきりそれとわかる癖や特徴がある。彼らは、いってみれば、装丁がすり切れかかっているのだ。つまり、世俗的な利益に背をむけ、現金にはめぐまれない高貴な天職に殉じようとする者にふさわしい身なりをしている。彼らは幾分苦虫をかみつぶしたような顔をしているかも知れないが、不可解な天意を前にした人類にしてみれば上出来の表情である。出版社のセールスマンと長くつきあっているため、ごちそうの合間に賞賛される本には疑いの目をむける。出版社のセールスマンが夕食に誘う場合、最後の豆粒が皿の上で追いまわされるころ、会話が文学に流れたとしても驚くことではない。しかしジェリー・グラッドフィストがいうように(彼は三十八番街で店を経営している)、出版社のセールスマンは、長いあいだ満たされなかった、切実な要求を満たしてくれる。彼らは書店主風情には、そういう機会でもないかぎり、ありつけそうもないような食事をときどきおごってくれるのだ。
「さあさあ、みなさん」ロジャーは客が彼の小部屋に集まったときにいった。「寒い晩になったね。火のそばに寄ってくれ。リンゴジュースはご自由にどうぞ。ケーキはテーブルの上。妻はこれを作るためにわざわざボストンからもどってきたんだ」
「ミフリン夫人の健康に乾杯!」ミスタ・チャップマンがいった。彼は人の話をよく聞く、しずかな小柄な男である。「わたしたちが騒いでいるあいだ、奥さんにに店番をしてもらっていいのかね?」
「気にすることはない」ロジャーがいった。「彼女は店番が好きなんだ」
「ギッシング通りの映画館で『ターザン』を上映しているな」グラッドフィストがいった。「傑作だよ。見たかい?」
「『ジャングルブック』が読めるあいだは、見るつもりはない」ロジャーがいった。
「きみの文学談義にはうんざりだ」ジェリーが大声でいった。「本は本だよ、ハロルド・ベル・ライト(註 説教師からベストセラー作家になった人物)が書いたとしても」
「本は本さ、読んで楽しければ」五番街に大きな書店をかまえるメレディスが訂正した。「ハロルド・ベル・ライトははやっているね。くだらないものがはやるように。不愉快きわまりないが、しかし心は広く持とう」
「きみの議論には論理的一貫性がまるでないぞ」ジェリーはリンゴジュースに刺激され、いつになく頭が冴えていた。
「前提から結論までロングパットは決まらなかったな」稀覯本と初版本をあつっているベンソンが笑った。
「わたしがいいたいのはこういうことだ」ジェリーがいった。「われわれは文芸評論家じゃない。なにがよくて、なにが悪いかなど、知ったことではない。われわれの仕事はただ、大衆がほしがる本を、ほしいと思ったときに与えることだ。どうしてその本がほしくなったかなど、われわれには関係ない」
「きみのような人間が書籍業をこの世で最低の仕事だといったりするんだ」ロジャーは興奮していった。「そしてきみのような人間が書籍業を最低の仕事にするんだ。きみは本にたいする一般人の食欲をかき立てることなど本屋の関心事ではないというんだろう?」
「食欲というのはいいすぎだ」ジェリーがいった。「本というのはせいぜい寝ている病人が起き直って、すこしだけ食べる流動食くらいのものさ。食べごたえのあるものは敬遠される。病人の喉にローストビーフを詰め込んだら、死んでしまうよ。一般人のことは放っておけ。そして苦労してかせいだ金を手放しにやってきたら神さまに感謝することだ」
「ふむ、儲けという最低レベルで考えてもだね」ロジャーはいった。「根拠があるわけじゃないが……」
「きみの話にはいつも根拠がないな」ジェリーがちゃちゃをいれた。
「しかしわたしは、ライト牧師の本を全部合わせたより、ブライスの『アメリカ共和国』のほうが、業界に利益をもたらしたと思いたい」
「それがどうした? 両方とも出版すればいいだろう?」
この前哨戦的な論争はさらに二人の客が到着したことによって中断した。ロジャーはリンゴジュースのカップを手わたし、ケーキとかごに入ったプレッツェルを指さして、コーンパイプに火をつけた。あらたにやってきたのはクインシーとフリューリングで、前者は巨大な百貨店の書籍部門に勤めている。後者はグランド通りのユダヤ人地区に店をかまえていた。山の手の愛書家にはあまり知られていないが、そこはブルックリンでもっとも在庫のそろった本屋の一つである。
「さてさて」フリューリングは血色のいい頬と、もじゃもじゃの髭の上の黒くひかる目を輝かせていった。「なにを議論しているんだい?」
「いつものやつさ」グラッドフィストがにやにや笑っていった。「ミフリンが商品と形而上学とを混同しているんだ」
ミフリン——とんでもない。わたしはただ、まっとうな商売とは最上のものしか売らないことだといっているだけだ。
グラッドフィスト——それもちがう。売り物は客に合わせなければならない。ここにいるクインシーに訊いてみろ。百貨店の客がエレナ・ポーターとターザンものをほしがっているときに、メーテルリンクとショーを棚に積み上げてどうする? 田舎の雑貨屋が、五番街のホテルのワインリストにのっているような葉巻を置くか? もちろん置かない。よくさばける、いつもの葉巻を仕入れるものだ。本屋もふつうの商売のやり方に従わなければならない。
ミフリン——ふつうの商売のやり方とはしゃらくさい! わたしはそういうものがいやで、このギッシング通りに来たんだ。こせこせと意地汚く需要と供給にこだわらなければならないなんて、思っただけでも頭のなかのヒューズが吹っ飛ぶ。わたしに関するかぎり、供給が需要を生むんだ。
グラッドフィスト——それでも、きみ、生計を立てるためにはこせこせと汚くやらなければならないだろう? だれかがお金を寄付してくれるのでないかぎり。
ベンソン——うちの商売は、厳密にいえば、もちろん、みんなとおなじとはいえない。しかし稀覯本を売りながらわたしがよく考えることは、みんなにも興味があるんじゃないかな。客の金離れのよさは、たいていの場合、購入したものから期待できる永続的な利益と反比例するんだ。
メレディス——なんだかちょっとジョン・スチュアート・ミルみたいだな。
ベンソン——でも、まちがってはいないと思うよ。人は教養よりも娯楽にずっと金を払うものだ。劇場の席を二席取るのにしぶしぶ五ドル払ったり、毎週いつの間にか葉巻に二ドル使っているじゃないか。でも一冊の本に二ドルとか五ドルを使うのは耐えがたい苦痛だ。きみたち小売業の人間がやるまちがいは、顧客にむかって、本は必需品だと信じこませようとすることだ。本は贅沢品だといってみろよ。客は気持ちを引きつけられるから! みんな生きるために苦労して働いているから、必需品はなかなか買おうとしない。スーツなどはすり切れるまで着つづけるものね。それにくらべれば安葉巻にはすぐ手を出す。