「すてきな一瞬だわ!」ティタニアが叫んだ。
「その通り。しかし悲しいことだが、熱心な、期待に胸をふくらませている観客にさしだされるのは、たいていの場合、くだらない演し物なのだ。観衆はみんなわくわくさせられる準備をし、心揺さぶられることを待ち望んでいる。芸術家の手中にある粘土のように、なにをされてもそれを受け入れる、あの輝かしい希有な心がまえでいるときに——なんということだろう! 喜びと悲しみのかわりにどれほどみすぼらしい演し物を与えられることか! 来る日も来る日も人々は劇場や映画館に押し寄せる。いつも行き当たりばったりに入っていって、満ち足りた思いになったつもりだが、じつは子供だましの駄作を与えられているだけだ。悲しいことに、駄作に満足した気でいると、中身のある本物を味わう食欲を失ってしまうのだよ」
ティタニアは自分が駄作に満足した気でいたのでは、とかすかにうろたえた。彼女は数日前の晩、ドロシー・ギッシュの映画をおおいに楽しんで観たことを思い出した。「だけども」と彼女は思いきっていった。「さっき人は娯楽を求めているとおっしゃったわ。笑い声をあげてしあわせそうにしていたら、楽しんでいるってことじゃないかしら?」
「楽しいと思っているだけなんだよ!」ミフリンが強くいった。「本当の楽しさがわからないから、楽しい気がしているのさ。笑いと祈りは人間の気高い二つの習性だ。それこそが人間を獣から区別する。安っぽい冗談を聞いて笑うのは、安っぽい神に祈りを捧げることくらいあさましい。ファッティ・アーバックルを観て笑うなんざ、人間精神を堕落させることだよ」
ティタニアは話がなんだか難しくなってきたような気がしたが、彼女には健康的な若い女性のたくましい考え方があった。彼女はいった。
「でも安っぽく思える冗談でも、笑っている人には安っぽくないのかもしれませんわ。そうでなければ笑わないでしょうから」
彼女は新しい考え方が心のなかにあふれてきて、顔を輝かせた。
「野蛮人が祈りをささげる木の彫像は安っぽく思えるかもしれないけど、野蛮人にとっては最高の神様で、だからそれに祈りをささげるのは当然なんじゃないかしら」
「おそれいったな」とロジャーがいった。「まったくその通りだ。しかしわたしが考えていたことから話がそれてしまった。人類は今まで以上に真実や美、慰めとなり、人生に価値を与えるものを渇望している。わたしの周囲では毎日そのことが感じられる。恐ろしい試練をへて、心ある人間はみな、どうすれば断片と化したものを拾いあげ、世界を望ましい姿につくり直すことができるだろうかと自問している。ほら、この前、ジョン・メイスフィールドの劇の序文にこんな言葉を見つけたんだ。『人間の真実と歓喜は神聖なものであって、軽々しくあざわらうべきものではない。人生と美をぞんざいにする者はいつの世をみても暴食家、不精者、死の道を歩む愚者である』じつは、わたしは身の毛もよだつ過去数年間、店のなかに座りこみながら真剣に考えていた。ウォルト・ホイットマンは南北戦争の時期に短い詩を書いている。『戦きよろめいた年よ』とウォルトは呼びかける。『わたしは挫けた者の冷たい挽歌と、陰鬱な敗北の聖歌が歌えるすべを学びとらねばならないのか』——わたしは夜中にこの店のなかに座りこんで棚を見わたし、男と女の希望、優しさ、そして夢を詰め込んだすばらしい本を眺め、もしかするとこの本はすべてまちがっていて、信用にあたいしない敗北者ではないかと思った。世界はいまだに狂乱の渦巻く場に過ぎないのではないかと思った。わたしはウォルト・ホイットマンがいなかったら気が狂っていただろうと思う。ブリトリング氏じゃないが——ウォルトは『本質を見抜いていた』男だ。(註 H・G・ウエルズは「ブリトリング氏、本質を見抜く」という小説を書いている)
『いつの世をみても暴食家、不精者、死の道を歩む愚者』——うむ、まさに死の道だな。ドイツの軍人は不精者じゃなかったが、暴食家で愚かさをN乗した痴れ者だった。彼らが歩んだ死の道を見てごらん! それから他の人々が歩んだ死の道も。貧民窟に刑務所に精神病院をみてごらん——
そんな恐ろしい時に、ここでのうのうと生きている自分の存在をどうやったら正当化できるだろうか、とわたしはよく考えた。多くの人が自分のせいでもないのに苦しみ死んでいくときに、いったいどんな権利があってわたしは静かな本屋のなかにこっそり逃れているのか。わたしは医療部隊に参加しようとしたが、医学的な訓練は受けてないし、熟練した医者でもないかぎりわたしのような年の男はいらないそうだ」
「お気持ちはわかります」ティタニアは驚くほどの理解を示していった。「なんのお手伝いもできない女の子のなかにだって、ただサムブラウン・ベルトつきのかわいい制服を着ていることに飽き飽きしている人が大勢いるって考えたことはありません?」
「そうだな」とロジャーがいった。「時代が悪かったのだ。戦争がわたしの目指していたものに異議を唱え否定したのだ。わたしの気持はとても言葉にはできないよ。自分でもよくわからないのだから。あの気高いお人好し、ヘンリー・フォードが和平交渉の船旅を組織したことがあったね。たぶんあの時、彼が感じたものとおなじものを感じながら、わたしもときどき思ったものだ——戦争を止めさせるためならどんなに愚かなことでもやってやるぞ、とね。冷笑的で、残忍で、抜け目のない人間ばかりの世界に、ヘンリーのようなとことん単純で希望を持っている人間がいるとは驚くべきことだ。お人好しだとみんなはいう。だが、わたしはお人好し万歳といいたい。あえていえば、十二使徒だってほとんどみんなお人好しだった——もしかしたら彼らは自分たちのことをボルシェヴィキと呼んでいたかもしれない」
ティタニアはボルシェヴィキのことを漠然としか知らなかったが、新聞の漫画はすくなからず見ていた。
「ユダはボルシェヴィキだったと思うわ」彼女は無邪気にいった。
「ああ、それにジョージ三世もベンジャミン・フランクリンをボルシェヴィキと呼んだだろう」ロジャーは切り返した。「やっかいなことに真実と嘘は白黒はっきり分かれて差し出されるわけじゃない——真実とフン真実(註 ドイツ兵のことをフンといった。フン真実は同時に反真実のしゃれになっている)と戦時中に冗談めかしていったものだ。わたしには真実が地上から消えてしまったのではないかと思えることがときどきある」彼は苦々しくいった。「ほかのものとおなじように、それも政府からの配給品だったのだ。わたしは新聞に書いてあることの半分は信じないようにした。世界は激高してみずからをずたずたに引き裂こうとしているように思えた。残忍でばかばかしい現実をありのままに直視し、それを描く勇気のある者はほとんど一人もいなかった。暴食家、不精者、愚者が拍手喝采し、勇敢で素朴な人々が地獄の恐怖のなかを歩んでいった。家にこもっているだけの詩人たちは、それを栄光と犠牲のきれいな叙情詩に変えてしまった。彼らのなかで真実を語ったのはおそらく片手で数えられる程度だろう。サスーンは読んだことがあるかね? あるいはラツコーの『戦争のなかの人間』は? あまりにも真実を描きすぎて政府が発禁処分にした本だよ。ふん! 真実まで配給品扱いするとはな!」
彼はパイプをかかとにこつこつと打ちつけて灰を出した。青い目はいわばいちずな真剣さに輝いていた。
「だが、わたしが思うに、世界はもうすぐ戦争の真実を知るだろう。わたしたちはこの狂気に終止符を打つんだ。それは容易なことじゃない。今は、ドイツが崩壊したことに酔いしれて、だれもが新たなしあわせを感じ、歓喜している。だがね、ほんとうの平和が来るのは、これからずっと先のことだ。文明という織物を切れ切れに引き裂いてしまったのだもの、それを元通りに縫い直すには時間がかかる。ほら、学校にむかって通りを歩くあの子供たちを見てごらん。平和は彼らの手のうちにある。彼らが学校で戦争こそ人類が逃れることができないもっとも忌むべき疫病であり、人間精神の美しい活動をことごとく汚し、冒涜するということを学べば、そのときは未来にいくばくかの希望がもてるかもしれない。しかし賭けてもいいが、彼らが教えこまれるのは、戦争が栄光に満ちた、崇高な犠牲であるという考え方だよ。
塹壕を飛び出して突撃する神々しい狂気について詩を書く人は、たいてい塹壕の泥だらけの踏み板からはるかに遠い場所でペンをインクに浸している。わたしたちがどれほど現実直視をいやがるか、それはもうおかしくて笑いたくなるくらいだ。以前、わたしの知り合いに毎日八時十三分の列車で町に行く通勤者がいた。でも彼はそれを七時三十七分の列車だというのだ。そのほうが勤勉な人間になった感じがするからだそうだ」
遅刻しそうな腕白小僧が急いで学校に行くのをロジャーが眺めているあいだ沈黙がつづいた。
「将来、戦争が二度と起きないように、目覚めているあいだにあらゆる努力をおこたらないと誓わない人は、人類にたいする裏切り者だといえるだろう」
「それに反対する人はだれもいないと思います」とティタニアはいった。「でもわたしは思うんです、今度の戦争には心底ぞっとさせられたけれど、同時にそれはとても名誉に満ちたものだったって。わたしも出征した人をたくさん知っています。みんな、戦地でなにとむきあうことになるのか、よくわかっていました。でも正しい大義のためだと信じ、よろこんで謙虚に出かけていったんです」
「それほど正しい大義なら何百万もの犠牲者を必要とはしない」とロジャーは重々しくいった。「そこに恐るべき崇高さがあることはわたしにもわからないことはないんだよ。しかし哀れな人間にそんな犠牲を払ってまで崇高であることを要求するのはおかしい。そこがいちばん痛々しい悲劇だな。ドイツ人たちも、戦争をはじめ、世界にこの不幸を押しつけはじめたとき、崇高な大義にむかって進んでいるのだと考えていたんじゃないのかね? 彼らは一世代のあいだ、そう信じるように教育されたんだ。それが戦争の恐ろしい催眠状態、凶暴な群衆的衝動、思い上がった国民精神、自分の所有するものをほかのなによりも崇めさせる人間の本能的な愚かさなのだ。わたしもみんなとおなじように愛国的な誇りに身を震わせ、叫び声をあげたりした。音楽や旗や足並み合わせて行進する兵士にみんなが魅了されたように、わたしも魅了された。しかしそれから家に帰って、わたしは自分の魂からこの悪の本能を根絶やしにしようと誓ったのだ。神よ、わたしたちを助けたまえ——世界を愛し、人類を愛しよう——自分の国を愛するだけでなく! だからわたしは講和会議でわが国が担う役割に非常に関心を持っているのだ。そこでわが国が標榜する立場は『アメリカはいちばん最後』だ! アメリカ万歳、とわたしは叫ぶよ。アメリカは『利己的な目的をなに一つ持たない』ノー・アックス・トゥ・グラインド唯一の国家だろうからね。あるのは『平和の時代を築こう』パックス・トゥ・グラインドという気持ちだけだ!」
その議論はティタニアのおおらかな心にも納得のいくもので、あわれな書店主の苦悩にみちた熱弁に失望したり、おびえたりすることはなかった。彼女は相手が人にはいえない剣呑な思いを胸からはき出しているのだと賢く推察した。不思議なことだが、彼女は精神が持ちうる最高の、そしてもっともたぐいまれな資質——寛容を学んでいたのだ。
「自分の国を愛さずにはいられないわ」と彼女はいった。
「なかに入ろう」彼はそれに応えていった。「ここじゃ風邪をひいてしまう。戦争の本を集めたアルコーヴを見せてあげるよ」
「もちろん自分の国は愛さずにはいられない」と彼はつけ加えた。「わたしは祖国を愛しているからこそ、この国に新しい時代を切り開く先達となってほしいのだ。わが国は戦争で犠牲を払うことがもっともすくなかった。だから平和のために最大の犠牲を払うことをいやがってはいけない。わたしとしては」と彼は笑いながらいった。「共和党の連中全員を犠牲に祭りあげたい気分だ」
「どうして戦争がばかげているとおっしゃるのかしら」とティタニアがいった。「わたしたちはドイツを負かさなければならなかったんです。さもないと文明はどうなっていたでしょう?」
「ドイツを負かさなければならなかったというのは、その通り。しかしそのためにわたしたちは自分自身を負かさなければならなかった。その点がばかばかしいのだ。講和会議が軌道に乗ったらまっさきに気がつくと思うが、ドイツを法にかなったやり方で罰するには、まずドイツが立ち直れるよう手を貸さなければならない。わたしたちはドイツに食料を与え、商売をするのを認めてやらなければ、ドイツは賠償金を払うことができない——わたしたちがドイツの都市の治安を維持してやらなければ、革命が全土を燃やしつくすだろう——とどのつまり人間が史上最悪の戦争をたたかい、名状しがたい恐怖にたえたのは、敵を元気になるまで看病するという特権のためだったのさ。それがばかばかしくなくてなんだというのだ? ドイツのような偉大な国家が正気を失うとこんなことが起きる。
さて、われわれはひどく込み入った問題にぶつかっている。わたしにとっての唯一の気休めは、世界の正気を再建するにあたり、本屋がだれにも負けないくらい有用だということだ。わたしにどんな貢献ができるだろうと悩んでいるとき、大好きな詩人の作品のなかにこんな二行を見つけて励まされたよ。昔の詩人ジョージ・ハーバートがこういっている。
謙虚と綯い交ぜられた ほんの僅かの誇りは、
熱狂をも 無気力をも ともに癒してくれる。
確かに古本屋はごくごく卑しい職業だが、すくなくともわたしの想像力のなかではそこに一抹の栄光が綯い交ぜられている。いいかい、本には人間の思いや夢、希望や努力など朽ちることのないあらゆる要素が詰まっている。人は人生がすばらしく価値あるものであることを、たいてい本を読んで知るのだ。わたしはミルトンの『アレオパジティカ』を読むまで人間精神の偉大さ、屈服することなき魂の威厳に気がつかなかった。烈々火を吐く怒りを読むと、ミルトンと同類であるというだけで凡夫の気持ちも高揚する。書物は人類が残した不滅の足跡、いつくしむべき価値あるほとんどのものの父であり母なのだ。よい本を行きわたらせ、肥沃な精神の土壌にその種を植え、理解しあうことと、人生や美を大切にすることを教えひろめる、これは人間にとって充分すぎるくらい立派な使命ではないかね? 本屋こそ正真正銘の奉真勇夫(註 「天路歴程」中の人物)なのだ。
「ここが戦争のアルコーヴだよ」と彼はつづけた。「先の大戦から生まれたほんとうにいい本がここに積み上げられている。人間がこれらの本を心して読むくらい分別があるなら、二度と今回のような混乱に陥ることはないだろう。印刷屋のインクはここ何年ものあいだ火薬とつばぜり合いを演じてきた。インクはある意味では不利な条件を背負っている。火薬は人間を吹き飛ばすのに一秒の半分もあればいいが、本の場合は二十年かかるかも知れないからね。しかし火薬は犠牲者とともに自分も消滅するが、本は何世紀も爆発しつづける。たとえばハーディーの『覇者たち』だ。あの本を読むと精神を吹き飛ばされるような気がするだろう。息が止まり、不快さに吐き気を催す——真に純粋な知性が頭のなかに沁み通って来るというのは、まったくもって心地のよいものではないな! それは痛みをともなうものだ! あの本には地上から戦争を一掃してしまうくらいの炸薬が詰まっている。しかし燃えるのがおそい導火線がくっついているのだ。あれはまだほんとうに爆発はしていない。おそらくあと五十年たっても爆発しないだろう。
今回の戦争で、本がどんな役割を果たしたか考えてごらん。どこの政府も最初にはじめたことは——本を出すことだ! 青書、黄書、白書、赤書——黒書をのぞいてあらゆる色の本が出た。ベルリンには黒書こそふさわしかっただろうに。ともかく政府は、鉄砲や軍隊といったものは、本を味方につけてはじめて有効だということを知っていたのだ。本はアメリカに参戦をうながすにあたって、ほかのなにものにも負けないくらい力があった。ドイツで出た本のいくつかは皇帝を退位に追いやった——『われ、告発す』、ミュロン博士の格調高い怒りの書『ヨーロッパの破壊者』、そしてリヒノウスキー(註 イギリスに駐在していたドイツの外交官)の個人的なメモはただ真実を述べているというだけでドイツを根本から揺すぶった。ほら、『戦争のなかの人間』がある。たしか作者はハンガリーの士官で、この本に『友と敵へ』という気高い献辞を添えている。こっちにはフランスの本が何冊かある——あの民族の明晰で情熱的な知性が残酷なアイロニーとともに火のように燃えている。ロマン・ロランがスイスに亡命しているときに書いた『戦いを超えて』。バルビュスの恐るべき『砲火』。デュアメルの苦渋に満ちた『文明』。ブールジェの奇妙に魅力的な『死の意味』。さらにイギリスから生まれた崇高な作品もある。『武器を取る学徒』、『天上の樹』、バートランド・ラッセルの『人間はなぜ戦うか』——わたしはいつか彼に『人間はなぜ監禁されるのか』を書いてほしいと思っている。知っているだろうが、彼は反戦を唱えて投獄されているからね。それから群を抜いて感動的な作品の一つ——西部戦線で殺された温和で感受性のするどいオックスフォード大学の若いチューターが書いた『アーサー・ヒースの手紙』だ。あれは読まなければいけないよ。あれを読むとイギリス側にまったく敵意がなかったことがわかるんだ。ヒースと友達は入隊する前夜を彼らが愛するドイツの歌を歌って明かしたんだ。いはば古き、友好的な、喜びに満ちた人生への決別として。そう、戦争というのはそういうことをする——アーサー・ヒースのような立派な人間を消してしまうんだ。あれは読んでほしいな。そのあとはフィリップ・ギブズやローズ・ディッキンソンや若い詩人をみんな読まずにはいられなくなるだろう。もちろんウェルズはとっくに読んでいるね。読んでない人はいないだろうが」
「アメリカ人はどうなんです? 戦争について価値のあることを書いていませんか?」
「この本にはみっちり肉がついていて、哲学的なすじが入っている」ロジャーはパイプに火をつけ直しながらいった。彼は「ラティマー教授の巡礼」を棚から引き出した。「この本の一節に印をつけておいたんだが——ええと、どんな内容だったかな?——ああ、ここにあったぞ!
『新聞編集者に聞き取り調査をすれば、大多数が戦争は悪であると考えていることがきっとわかるだろう。しかし大都会のしゃれた教会に勤める牧師を調査すると……』
「いや、まさしくその通りだ! ほとんどの良識ある人々にとって教会は自殺したも同然だよ——『ラティマー教授』にはもう一つ、皿洗いの哲学的価値を指摘したすてきな一節がある。ラティマー教授の話を聞くと意見の一致するところが多くて、いつかこの店に立ち寄ってもらいたいものだと思っているくらいなんだよ。ぜひ会ってみたいものだ。アメリカの詩人について言えば、エドウィン・ロビンソンは読まなければいけない——」
書店主の独白はいつ果てるとも知れなかったが、ちょうどそのときヘレンが台所からあらわれた。
「ロジャーったら!」彼女は大声を出した。「ずっと聞いていたけど、あなたのおしゃべり、いつまでつづくのかしら。お嬢さんに文化講演会でも開いているの? 震えあがらせて本の仕事を辞めさせたがっているみたいよ」
ロジャーはいささかばつが悪そうだった。「いや、なに、書籍業の原則をいくつか説明していただけだよ——」
「とてもおもしろかったわ、ほんとうに」ティタニアは明るくいった。青いチェックのエプロンを着て、まるまるとした腕を肘まで粉まみれにしたミセス・ミフリンは彼女にむかって片目をつぶって見せた——あるいは女性にできるもっとも目くばせに近いものをやって見せた(目くばせを受けた男に聞いてみるとよい)。
「ミスタ・ミフリンは商売のことですごく落ち込むことがあるとね」と彼女はいった。「いつもこんな理想高い考え方にすがりつくの。牧師のつぎに割りの悪い職業についたと思っているくせに、それを自分から隠そうとして一所懸命なのよ」
「ミス・ティタニアの前でばらすのはまずいと思うがなあ」ロジャーが笑いながらいったので、ティタニアはこれが夫婦間の冗談に過ぎないことがわかった。
「でも嘘じゃないんですよ」と彼女は訴えた。「ほんとうにお話は楽しいわ。『ヨーロッパの和解者』を書いたラティマー教授のこととか、いろいろなことを教えてもらっていたんです。お客さんが来て中断したらいやだなって思っていたんです」
「それなら心配におよばないわ」とヘレンがいった。「朝早くに客が来ることはめったにないから」彼女は台所にもどった。
「さて、ミス・ティタニア」ロジャーが話を再開した。「わたしの言いたいことはおわかりだろう。わたしは人々に本屋にたいするまったく新しい考え方を与えたいのだ。熱狂と無気力をともに癒してくれるほんの僅かの誇り、それこそが発電所のように真実と美を放つ場所、つまり本屋の命じゃないかと、わたしは思う。書物はけっして死物ではない。伝説の竜の歯のように命をおびていて、土に植えれば兵士を生み出す可能性だってある。ベルンハルディがそうじゃないかね? (註 ドイツの軍人フリードリヒ・フォン・ベルンハルディは当時の政権を批判した「現代戦争論」を書いた)コーンパイプ・クラブの友人のなかには、本は単なる商品だという人がいる。たわけたことをショー!」
「バーナード・ショーはあまり読んでいませんわ」とティタニアがいった。
「本が人を追いかけ、結局その人を捕まえてしまうことに気がついたことがあるかね? 本はフランシス・トンプソンの詩に出てくる猟犬みたいに追いかけてくる。本は獲物のことを知りつくしているんだ! 『ヘンリー・アダムズの教育』を見てごらん! あの本が今年の冬、どれほど思慮深い人々を追いつめただろう。それから『黙示録の四騎士』——あれが読書人のあいだを駆けめぐっているのはきみも知っているね。実際、本がものすごい勢いで人を追いまわすさまは、わたしが知るかぎりもっとも奇怪な現象の一つだな——どこまでも追跡し、隅に追い込んで、無理矢理自分を読ませてしまう。わたしも古い妙な本に今まで何年も追いかけられているんだ。『ジョン・バンクル氏の生活と意見』という本でね、さんざん逃げまわってきたのだが、あいつは折を見てひょいと頭をもたげる。いつか捕まえられ、読まされることになるだろう。『年収一万ポンド』もおなじようにわたしをつけてきて、とうとう降参させられた。ある種の本のずるがしこさは言葉では表現できないね。追跡を振り切ったと思ったら、ある日客が何気ない様子でひょっこりやってきて話をはじめる。するとその客が知らず知らずのうちに本という名の運命の仲介人を演じていることがわかるのだ。ここにときどきやってくる年のいった船長がいる。まさにマリアット船長の小説から飛び出したような人物だ。わたしは彼に一種の呪いをかけられてしまったよ。きっと死ぬまでに『ピーター・シンプル』を読むことになるだろう。なにせ老船長酷愛の書だからね。そんなこんなでこの店は『幽霊書店』というのさ。わたしが読んでいない本の幽霊にとりつかれているという意味でね。かわいそうな精霊たちがそわそわとわたしのまわりをうろついている。霊をしずめる方法は一つしかない。つまりそれを読んでやることだ」
「よくわかりますわ」ティタニアがいった。「わたしはバーナード・ショーをあまり読んでないけど、いつか読まなければならないような気がします。どこに行っても待ちかまえていて、わたしをいじめるの。それからH・G・ウエルズにひたすらおびえている人もたくさん知っています。あの作家の本て、しょっちゅう出版されるけど、そのたびに彼らは本を読みおわるまで気が狂ったようになるんです」
ロジャーは笑った。「なかにはそのために『ニュー・リパブリック』を予約購読した人もいるよ」(註 「ニュー・リパブリック」はウエルズが寄稿していたアメリカの雑誌)
「でも幽霊書店といえば、どうしてあのオリバー・クロムウェルの本に格別な関心をお持ちなんです?」
「そうそう、思い出させてくれてありがとう。あれは棚にもどしておかなければならないな」彼は本を取りに居間に駆けこんだのだが、ちょうどそのとき、ドアのベルが鳴った。客が入ってきて、一方的なおしゃべりは当分中断することになった。
第七章 オーブリー、間借りする
ミスタ・オーブリー・ギルバートがこの作品の主人公としてけっして理想的な青年でないことは作者も承知している。この時期、主役の青年が左の袖になぜ金の山形袖章をつけていないのか。これには少々説明が必要だろう。じつを言えば、われらがグレイ・マター広告代理店の若き社員は偏平足フラット・フィートを理由に徴兵局と徴兵委員会から入隊を拒否されていたのである。しかし作者はこの処分に異議を唱えなければならない。足が扁平だからといって彼の見かけに問題があるわけではないし、素直な青年にできることならなんでもこなす体力もあるのだ。軍が、彼がいうように「にべもなくフラット入隊を拒否した」とき、彼は広報委員会に入って、一年以上謎めいた活動に従事し、それがユナイテッド・プレスによる休戦協定締結までつづいた。今はもうだれも覚えてないちょっとした判断ミスが彼の側にもあったのだが、なにしろ惜しむらくはドイツの外交使節が浮かれすぎた特派員に調子を合わせず、ぐずぐずしていたものだから、戦争最後の三日間は彼の積極的な貢献をともなうことなく過ぎ去った。(註 ユナイテッド・プレスは休戦協定締結を誤ってその四日前に報じた)十一月十二日は当然英気を養い、そのあとはふたたびグレイ・マター広告代理店に吸収された。同社とは数年にわたって関係があり、彼の堅実で陽気な性格は高く評価されていたのである。いつもの行動範囲をはるかに逸脱してロジャー・ミフリンを訪れたのは、戦後のビジネスを盛り上げる活動の真っ最中のことだった。こうしたことはもっと早くに説明しておいたほうがよかったかもしれない。
ともかくオーブリーは土曜日の朝、ティタニアが店頭本の箱からほこりを払いはじめたころ、世界征服達成とはおよそ正反対の気分で目を覚ました。半ドンの日だったので、事務所に行かなくても一向に気はとがめなかった。母親のようにかいがいしい宿のおかみさんはコーヒーとスクランブルエッグを持ってきて、医者を呼び、傷の手当てを受けるよういいはった。数針縫ったあと、彼は昼寝をした。午後起きたとき、頭痛は相変わらずひどかったが、気分はましになっていた。部屋着を身につけ、椅子に腰掛けた。家財道具といえばパイプ立てと灰皿とオー・ヘンリーの小説一そろいくらいしかない質素な部屋のなかで、彼は気を紛らせようとお気に入りの一冊を取り上げた。ミスタ・ギルバートがいわゆる「文学青年」でないことはすでに話した。彼が読むのはほとんどが新聞売り場に置いてあるような本と、広告業者むけの幼稚な雑誌「プリンターズ・インク」だった。彼の大好きな気晴らしは広告クラブで昼食をとり、そこで魅入られたように広告用パンフレットやポスター、「あなたの話をボールド体で」(註 「ずうずうしく語れ」という意味とかけてある)などといったタイトルの小冊子を読みあさることである。彼はふだん「ラルフ・ウォルド・エマソンよりパッカードのコピーを書いたやつのほうがてんで上だよ」などと話していた。しかしそれもこの青年がオー・ヘンリーを愛読することに免じて大目に見てやらなければならない。彼は、ほかの大勢のしあわせな人々が気づいたように、オー・ヘンリーが時代をこえた、類まれな天才ストーリー・テラーの一人であることを知っていた。どれほど疲れていても、どれほど気が滅入っていても、どれほど意気消沈していても、このキャバラビアン・ナイト(註 キャバラビアンとはタクシーのキャブ、キャバレー、アラビアンをかけた造語)の名手はいつも喜びを与えてくれる。「ディケンズの『クリスマス・ストーリーズ』なんてくそくらえだ」オーブリーはブルックリンでの冒険を思い出していった。「オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』のほうがディックのどの作品よりずっといい。彼が『ローリング・ストーンズ』(註 オー・ヘンリーの最後の短編集)のクリスマス・ストーリーを完成させないで死んだのは残念なことだ! アーヴィン・コブとかエドナ・ファーバーとか大物作家が結末を書いてくれたらいいのに。自分が編集者だったら、だれかを雇ってあの話を完成させるんだがな。あんなにいい物語を中途半端なままで投げ出しておくなんて犯罪だよ」
彼がたばこの煙にやわらかく包まれて座っていたとき、宿のおかみさんが朝刊を持って入ってきた。
「タイムズが読みたいんじゃないかと思ったんだよ、ミスタ・ギルバート」と彼女はいった。「その身体じゃ、外に買いに出るわけにもいかないしね。どうやら大統領は水曜日に船に乗るようだよ」
オーブリーはおもしろいものを見わける熟練した眼で記事を読んでいった。それから、つい習慣で、広告ページを注意深く見わたした。求人広告欄のひとつの記事が彼の目に飛び込んできた。
求む——オクタゴン・ホテルはシェフ三名、経験豊かなコック五名、ウエイター二十名を臨時募集する。申し込み受付はシェフの事務所にて火曜日午後十一時まで。
「ははあ」と彼は思った。「たぶんミスタ・ウィルソンの料理人がジョージ・ワシントン号に乗っていってしまうので、そのかわりを探しているんだな。大統領の船旅に厨房のメンバーが選ばれたとは、オクタゴンも鼻高々だな。なんだってまた、本格的に紙面を使ってそのことを強調しないんだろう? ぼくがそのコピーをつくって載せてやってもいいんだが」
急に彼はあることを思い出し、昨日の晩、外套を放り投げた椅子のほうに歩み寄った。ポケットから表紙だけになったカーライルの『クロムウェル伝』を取り出し、じっと見つめた。
「いったいこの本にどういう呪いがかかっているんだろう? 昨日の晩、あの男がぼくをつけてきたのもおかしな話だが——そのあと薬屋でこいつを見つけ、頭をがつんとやられたのも訳がわからない。あの近所は女の子が働く場所として安全なところなんだろうか?」
彼は頭の痛さも忘れて部屋のなかを行ったり来たりした。
「警察に知らせたほうがいいだろうか。悪い予感がする。でも自分で解決してみたい気もするな。あの娘を危険から救ってやったら、チャップマン老人がぐんと好意的になるだろう——人さらいの一味のことも聞いたことがあるし——うん、どうもこの成行きは気に入らない。なにしろあの本屋は半分いかれている。広告を信じていないだなんて! チャップマンが娘をあんなところに預けるとは、考えただけで——」
広告の委託業務よりもっと個人的でロマンチックなもののために、中世の遍歴の騎士を演じるという思いつきは、たまらなく魅力的だった。「今晩暗くなったらすぐにブルックリンに忍び込もう。あの通りのどこかに部屋を借りることができるはずだ。そこから本屋をこっそり観察して、あの店にとりついているものの正体をつきとめるんだ。キャンプでよく使った二十二口径の古い銃があったな。あれを持っていくとしよう。それにワイントラウブの店のことももっと知りたい。ヘア・ワイントラウブの顔ときたら、まったくいけ好かないや。それにしても、正直な話、カーライルみたいなむかしの作家がこんなにおもしろいことに関係しているとは思ってもいなかった」
彼は手提げかばんに荷物をつめながら冒険に胸が躍った。パジャマ、ヘアブラシ、歯ブラシ、練り歯磨き——(「チャイニーズ・ペースト社がこの冒険に彼らの歯磨きチューブを持っていくことを知ったら、大喜びするんじゃないかな!」)——二十二口径の回転式連発銃、リス撃ちによく使われる小さな緑の弾薬の箱、オー・ヘンリーの本、安全かみそりと付属品、そして便箋一冊。すくなくとも六つは全国的に宣伝されている製品だぞ、とかばんの中身を数えあげながら思った。かばんに鍵をかけ、身支度して昼ごはんを食べに下におりた。昼ごはんのあとは、依然として頭痛がひどかったので横になってひと休みをした。しかし眠ることはできなかった。ティタニア・チャップマンの青い目と物怖じしない小柄な姿が、彼と眠りの間に割って入ってきたからである。彼女の身の上に危険が迫っているという確信は振り払うことができなかった。彼は何度も何度も時計を見ては、歩みののろい夕闇を非難した。四時半に彼は地下鉄にむかった。三十三丁目の通りを半分ほど歩いたとき、はっと思いついたことがあった。彼は自分の部屋にもどり、トランクからオペラグラスを取り出し、かばんのなかに入れた。
ギッシング通りに着いたとき、あたりは青くたそがれていた。ワーズワース・アヴェニューとハズリット通りにはさまれたこの区画には奇妙な特徴がある。一方の側——幽霊書店がある側——の古い褐色砂岩の住居はほとんどが明るい、にぎやかな小店舗になっていた。ワーズワース・アヴェニューが尽きて、高架鉄道がはるか頭上を轟々とうなりながらカーブしてくるところにワイントラウブの薬局がたっていて、そこを発端に西側にはショーウィンドウが並び、夜のあいだもかがり火のように輝いている。デリカテッセンには調理肉や塩漬け肉、乾燥果実、チーズ、色鮮やかなジャムの瓶など、食欲をそそる雑多な品が並び、小さな婦人服の店には髪飾りをつけた蝋細工の豊満な半身像が飾られ、軽食堂の窓の外にはその日のメニューが印刷されて貼ってあった。フランス式焼肉料理店では焼き串にさされた鶏肉がシュッシュッと音をたてながら、石炭がばら色に燃える大きなオーブンの前で回転していた。花屋、たばこ屋、果物屋。ギリシャ菓子の店もあり、縞大理石のピカピカ光る大きなソーダ水売り場や、色つきガラスランプや、ココアを入れた銅の容器が並んでいた。文房具店は冬のバーゲンに備えてクリスマスカード、おもちゃ、カレンダーを所狭しと陳列し、クリスマスが近づくと毎年あらわれるスエード張りのキプリング、サーヴィス、オスカー・ワイルド、オマル・ハイヤームの小型本もどっさりあった——そうした質素だが楽しい商品のおかげでギッシング通りの西の歩道は、明かりがともるころ、にぎわいだ場所になるのである。どの店もクリスマス・セールにむけて飾りが施されていた。雑誌のクリスマス特別号がちょうど出たところで、その燃え立つような表紙が新聞雑誌の売店を輝かせていた。ブルックリンのこの区画は奇妙にフランス的な雰囲気を漂わせている。パリの小市民がつどう小さめの通りにいるような気になるのである。この人を引きつける活気にあふれた区画のまんなかに幽霊書店があった。オーブリーは明かりのともった本屋の窓と、店内の棚にずらりと並ぶ大量の本を見た。彼はなかに入りたいという強い誘惑を感じたが、なんだか気恥ずかしくもあり、それがいっそう秘密裡に行動する気持ちを強くした。本屋をこっそりと監視するという計画にはひそかに胸をときめかすものがあり、彼はいまだ知られざる新たな冒険に乗り出したような気がした。
彼は通りの反対側を歩きつづけた。そちらは北の端、ワイントラウブの店の反対にある映画館を除いて、今も静かな茶色い正面が途切れることなくつづいている。こちら側の地階は、ほとんどが普通の住居のままで、そこにちらほらと仕立て屋、クリーニング屋、レースカーテン専門の洗濯屋(ブルックリンの人々は今でもレースのカーテンに固執している)などの小さな店が混じっている。かばんを運びながらオーブリーは映画館のまぶしい光の輪を通り抜けた。「ターザンの帰還」を予告するポスターには「創世記」第三章の場面でイヴに運動着を着せたような絵が描かれていた。「シドニー・ドルー夫妻の作品を同時上映」とも書いてあった。
その区画のやや先の応接間の窓に「空き部屋あり」という掲示がかかっているのが見えた。その建物はほぼ本屋の反対側に位置していた。さっそく高い踏み段をあがって正面ドアのベルを鳴らした。
ほどなく淡い黄褐色の肌をした、よく「アディ」などと呼ばれるような黒人の女の子があらわれた。「部屋を借りられるかい?」と彼は尋ねた。「知らないわ。ミセス・シラーに聞きなさいよ」彼女はそういったが、いやな顔はしていなかった。しつけの悪いお手伝いにありがちな中途半端な応対で、彼を招き入れはしなかったものの、うとましく思っているわけでもないようで、ドアを閉ざさずそのままむこうへ行ってしまった。
オーブリーは玄関に入り、ドアを閉めた。巨大な鏡に、薄いチーズ色をしたガス灯の炎が、離れたところからちらちらと映りこんでいた。壁には大きな方形石をデザインした灰色の壁紙が貼られ、ランドシア(註 イギリスの画家)の銅板画がかかっている。例によって電話のメモが、例のごとくミセス・J・F・スミスに宛てて(彼女はどこの下宿屋にも住んでいる)鏡の縁に差し込んであった。「ミセス・スミス、ストックトン6771に連絡してください」と書いてある。絨毯敷きの階段には、古い立派なマホガニーの手すりがついていて、登った先は薄闇に包まれていた。下宿暮らしにすっかり慣れているオーブリーは本能的に階段の四番目、九番目、十番目、そして十四番目の段がきしるだろうと思った。ほんのりと麝香のような匂いが暖かい、よどんだ空気を甘くしていた。だれかがガス灯でマシュマロをあぶっているのだと彼は推測した。この家の浴槽の上には「湯船はあなたが使いたいと思う状態にして出てください」と書かれた張り紙があるだろうということもちゃんとわかっていた。ロジャー・ミフリンなら玄関をじっくり見まわしたあと、この家のだれかがきっとラビ・タゴールの詩を読んでいる、といったかもしれないが、オーブリーはそんな揶揄嘲弄を口にするタイプではなかった。
ミセス・シラーは小さなパグを従えて地階から階段をのぼってきた。彼女はやさしそうな太った女で、腋の下がはちきれそうにふくらんでいた。彼女は愛想がよかった。パグはオーブリーの膝にじゃれついた。
「やめなさい、トレジャー!」とミセス・シラーはいった。
「部屋を借りられますか?」オーブリーはごく丁寧にたずねた。
「三階の正面にひと部屋だけ空いているわ。寝たばこはしないでしょうね? この前いた若い人ったら、三枚もうちのシーツに穴をあけて——」
オーブリーは彼女を安心させた。
「食事は出ないわよ」
「それはかまいません」とオーブリーはいった。「結構です」
「一週間五ドル」
「部屋を見てもいいですか?」
ミセス・シラーはガスの炎を大きくし、先にたって階段をのぼりはじめた。トレジャーは彼女の横を飛び跳ねるようにして一段一段をのぼった。六本の足が同時に動いて階段をのぼる様子はオーブリーをおかしがらせた。四番目、九番目、十番目、十四番目の段は予想通りきしんだ。二階にあがるとドアがあり、その上の小さな窓からオレンジ色の光があふれていた。通路のガス灯の火を大きくしなくてすんだことを、ミセス・シラーは心のなかで喜んだ。その小さな窓の下、ドアの後ろから、だれかがお風呂に入っていて、水をはね散らかす大きな音が聞こえた。彼はそれがミセス・J・F・スミスではないかと失敬なことを考えた。ともかくそれは下宿生活に慣れた人で、風呂に入る時間はほかの住人が夕ご飯の支度をしたり、帰宅後のシャワーを浴びて温水ボイラーが空になる前の、午後五時半くらいが最適であることを知っている人だと彼は確信した。
彼らは階段をもうひとのぼりした。部屋は小さく、三階正面側の半分を占めているにすぎない。大きな窓が通りに面し、その反対側の本屋とほかの家々がすぐ見わたせた。化粧台が大きな棚のなかにひっそりとつくりつけられていた。炉棚の上にはよく見かける絵——通常は四階の奥の部屋に置いてあるものだが——若い女性が下品な男の子に靴を磨いてもらっている写真がかかっていた。
オーブリーは喜んだ。「これなら文句ありません。一週間分の家賃を先払いします」
ミセス・シラーは契約成立の早さに面食らったようだった。彼女は新しい下宿人の受け入れをもうちょっといろいろな話——天候のこととか、お手伝いさんがなかなか見つからないこととか、お茶の葉を洗面台に流して捨てる若い女の下宿人のこととか——をして厳粛なものにしたかった。こうした世間話は一見漫然と交わされるようだが、じつはとても大切な役目がある。それによって身を守るすべのない下宿のおかみさんは、彼女にたかろうとする見知らぬ人物の品定めができるのだ。彼女はまだこの紳士をよく見ていなかったし、名前さえ知らなかった。それなのに彼は一週間分の家賃を払い、もう部屋に落ち着いてしまったのである。
オーブリーは彼女が躊躇している理由を察し、名刺をわたした。
「結構ですわ、ミスタ・ギルバート。お手伝いの女の子にきれいなタオルと鍵を持たせますから」
オーブリーは窓辺のゆり椅子に腰掛け、モスリンのカーテンを一方に寄せて留め、照明の輝くギッシング通りを眺めた。住まいを変えたことで彼の心は浮き立っていたが、愛らしいティタニアのすぐそばにいるというロマンチックな満足感は、無意味なことをしているのではないかという一抹の思いによって台無しにされていた。それは若者にとって負傷や死よりも恐ろしいものなのだ。幽霊書店の明るい窓がはっきりと見えたが、そこへ行く適当な理由がなにも思いつかなかった。しかもミス・チャップマンのそばにいることは、予想とはうらはらに、なんら心の慰めにならないことを彼は思い知った。彼女に会いたいという強い思いが彼を襲った。ガス灯を消し、パイプに火をつけてから窓をあけ、本屋の入り口にオペラグラスの焦点を合わせた。店がもどかしいほど間近に見えた。店の正面には平台、電球の下にはロジャーの掲示板が見え、そして一人か二人、特徴のない客が棚を丁寧にのぞいてまわっている。そのとき、なにかがシャツの第三ボタンの下で激しく飛び跳ねた。彼女がいる! 明るい虹色の小さなレンズのなかにティタニアの姿があった。白いVネックのブラウスに茶色のスカートをはいた天使のような存在は本を読んでいた。彼女が腕を伸ばすと腕時計がきらりと輝くのが見えた。彼女のまぶしい無心な顔、横から見た楽しげな頬と顎、それが拡大鏡で見たときのように驚くほどくっきりと見えた——「あんな娘が古本屋で働いているなんて!」彼は叫んだ。「まったく神を冒涜するようなものだ! チャップマンは気が狂ったにちがいない」
彼はパジャマを取り出し、ベッドの上に投げ出した。歯ブラシとかみそりは化粧台の上におき、ヘアブラシとオー・ヘンリーは整理だんすの上に載せた。なかば真剣な、なかばふざけた気分で、彼は小さなリボルバーに弾を込めて尻ポケットに入れた。六時になったとき時計のねじを巻いた。これからなにをするのか、いまひとつはっきりしなかった。オペラグラスを握って窓辺で監視をつづけるのか、それとも通りに出てもっと近くで本屋を見張るべきか。冒険の興奮のせいで頭の傷のことはすっかり忘れ、身体に元気がみなぎっていた。マディソン・アヴェニューを離れるとき、彼はこの非常識な遠出の言い訳を考えた。ブルックリンで静かな週末を過ごせば、月曜日にボスに提出することになっているデインティビッツの広告コピーの原案を書きあげることができるだろう、と。しかしいざここに来てみると、とうていそんな退屈な仕事をやる気にはなれなかった。「デインティビッツ・タピオカ」や「みんな大好きチャップマン・チップス」の「視線を釘づけにする」レイアウトなど落ち着いて考えている場合じゃない。この世でいちばん麗しいデインティエスト人がほんの数ヤード先にいるのだから。彼は世界の合法的な商業活動さえ止めてしまう若い女性の驚くべき力を、生まれてはじめてまざまざと感じた。彼は実際、便箋を取り出し、こう書きつけるところまではいったのだ。
みんな大好きチャップマン・チップス
秘密の製法で作られたこのおいしいチップスは、独特のぴりっとした味わいと香りのなかに、成長を助けるあらゆる栄養を詰めこんでいる。なにしろポテトは野菜の王様——
しかしミス・ティタニアの顔が彼の手と頭のあいだに割り込んでくるのだ。この世界をチャップマン・チップスであふれさせたとしても、あの娘に危害が及ぶようなことがあればなんの意味があるだろう? 「この顔か、一千のチップスを戦いにおもむかせたのは?」(註 クリストファー・マーロー「ファウスト博士」の一節「この顔か、一千艘の船シップスを戦いにおもむかせたのは」をもじって)そう彼はつぶやき、一瞬、オー・ヘンリーのかわりにオックスフォード版詞華集を持ってくればよかったと思った。
ドアをノックする音がして、ミセス・シラーがあらわれた。「電話ですよ、ミスタ・ギルバート」
「ぼくにですか?」オーブリーはあっけにとられていった。自分に電話が来るはずがない、と彼は思った。だれもここにいることを知らないのだから。
「半時間ほど前にきた紳士と話がしたいというので、きっとあなたのことだろうと思ったんですけど」
「名前を名乗りましたか?」
「いいえ」
オーブリーはつかの間、電話に出ないでやろうかと考えた。しかしそれではミセス・シラーに怪しまれると思い直した。彼は階段を駆けおり、電話のある所へむかった。それは正面玄関の階段の下だった。
「もしもし」と彼はいった。
「あんたが新しい下宿人かい?」声が——深い、がらがらした声がいった。
「そうですが」
「半時間前にかばん一つでやってきた紳士だね?」
「そうだよ。あなたはだれなんですか?」
「友人だよ。あんたのしあわせを願うものだ」
「お初にお目にかかります、友人にしてしあわせを祈ってくれる方」オーブリーはにこやかにいった。
「警告したかっただけだ。ギッシング通りにいると危ない目にあうぜ」
「そうなのか?」オーブリーは鋭くいった。「きみはだれだ?」
「友人さ」受話器が低くうなった。その声にはオーブリーの鼓膜に不愉快な振動を与える、ざらつくような低音の響きがあった。オーブリーは怒りがこみあげてきた。
「いいか、友人ヘア・フロイント」彼はいった。「あんたが昨日の晩、橋の上で僕のしあわせを祈ってくれたやつなら、気をつけろ。お前の企みなどお見通しなんだ」
沈黙が訪れた。それから相手は重々しく繰り返した。「わたしは友人だ。ギッシング通りにいると危ないぜ」ガチャッと音がして、相手は電話を切った。
オーブリーはひどく困惑した。彼は部屋にもどると、電気もつけず窓際に座って、本屋を見ながらパイプをくゆらし考えた。
なにやら得体の知れないことが起きつつあることは疑いの余地がなかった。彼はそれまで数日間の出来事を振り返った。
本好きの友達がギッシング通りの本屋のことをはじめて教えてくれたのは月曜日のことだった。火曜日に彼はわざわざその本屋を訪れ、ミスタ・ミフリンと夕食をともにした。水曜日と木曜日は事務所でいそがしく働き、ブルックリンでデインティビッツの集中キャンペーンをひらくアイデアを思いついた。金曜日はミスタ・チャップマンと食事をし、それから一連の奇妙な出来事を経験した。彼はそれを箇条書きにした。
(1)金曜日のタイムズ朝刊に載った「なくしもの」の広告。
(2)エレベータのなかでなくしたはずの本を持っていたシェフ——そいつは火曜日の晩にオーブリーが本屋で見た男と同一人物だった。
(3)ギッシング通りでふたたびシェフを見かける。
(4)本屋に本がもどされる。
(5)ミフリンは本は盗まれたといった。それならなぜ広告を出したり、また返却したりするのか?
(6)本の表紙がつけかえられていた。
(7)本来の表紙をワイントラウブの薬局で見つける。
(8)橋の上での出来事。
(9)「友人」からの電話——明らかにドイツ訛りがあった。
エレベーターのなかでオクタゴンのシェフに話しかけたとき、相手が見せた怒りと恐れの表情を思い出した。先ほどの奇妙な脅迫電話が来るまで、橋の上での襲撃はたまたま物取りにやられたものと説明することができたが、今では本屋を訪ねたこととなにかしら関係があると結論せざるを得なかった。彼はまた、はっきりとはわからないが、ワイントラウブの薬局が事件に関わっているような気がした。本の表紙を薬局から持ち逃げしなければ襲われることはなかったのではないか? 彼はかばんから表紙を取り出して、もう一度調べた。無地の青い布張りで、背中には金文字で題名が刻印され、下のほうには「ロンドン チャップマン・アンド・ホール出版社」という文字が書かれている。背表紙の大きさから見て、あきらかに大部の本であるらしい。表紙の内側を見ると60という数字が赤鉛筆で記されている——これはロジャー・ミフリンが書き込んだ値段だろうと彼は思った。裏表紙の内側にはつぎのような符号が並んでいた——
Vol.3 -- 166, 174, 210, 329, 349
329 ff. cf. W. W.
この記号は黒インクで、小さく丁寧に書かれていた。その下にはまったく筆跡の違う薄いすみれ色のインクで
153 (3) 1, 2
と書かれていた。
「どうやら本のページのようだな」とオーブリーは思った。「あの本を調べておいたほうがよさそうだ」
彼は表紙をポケットにしまい、夕食を食べに外に出た。「この謎には三つの側面があるぞ」彼はみしみしとなる階段をおりながら思った。「本屋、オクタゴン、ワイントラウブの店。しかしあの本がすべてを解く鍵になりそうだ」
第八章 オーブリーは映画に行き、もっとドイツ語ができればと思う
本屋からいくらも離れていないところに偉大な都市ミルウォーキーの名をいただいた小さなカフェテリアがあった。カウンターで食べ物を買い、平たい肘掛のついた椅子に座って食べる気持ちよい食堂のひとつである。オーブリーはスープ、コーヒー、ビーフ・シチュー、ブラン・マフィンを受け取り、窓際のあいた席に持って行った。彼は注意を半分通りにむけながら食事をした。通りの角にあたるその場所からはミフリンの店の前の舗道が見わたせた。シチューを半分ほどたいらげたころ、ロジャーが舗道に出てきて箱から本を片づけはじめた。
夕ご飯のあとは「味はマイルド、気分は爽快」なたばこに火をつけ、椅子に座りながら、そばの放熱器の暖かさを心地よく感じていた。大きな黒猫が隣の椅子に寝そべっていた。ときどき客がやってきて注文をするたびに、サービスカウンターの上で丈夫な瀬戸物が陽気にカチャカチャと音を立てた。オーブリーは血管を通してくつろいだ気分が身体に広がりだすのを感じた。ギッシング通りは煌々と輝き、落ち着いたなかにも土曜日の夕方の活気がみなぎっていた。ブルックリンの古本屋にメロドラマじみた事件が起きようとしているなど、想像することじたいまったくばかげているような気がした。尻ポケットの銃はやたらにごつごつして感触が悪い。ささやかながらあたたかい夕食を食べたあとは、なんと事態が一変して見えることだろう! どんなに意志の固い理想主義者も冷酷な暗殺者も、詩を書いたり非道な計画を練るなら、夕ご飯の前にするがいい。食事という麻酔のあと、精神は安らぎのなかに沈み込み、ひたすら安逸を求めるようになる。ミルトンですら夕ご飯のすぐあとに「楽園喪失」の執筆に取りかかるという非人間的な精神力は持っていなかっただろう。オーブリーは自分の憂慮が思い過ごしに過ぎないのではないかと考えはじめた。彼は本屋に立ち寄って、ティタニアを映画に誘うことができたらどんなにすてきだろうと思った。
人間の思いには不思議な力があるものだ! 心のなかにそんな考えがひらめいたとたん、ティタニアとミセス・ミフリンが本屋からあらわれ、食堂の前をさっそうと通り過ぎたのである。彼らは楽しげにおしゃべりをしながら笑っていた。ティタニアの顔は若さと生命力に輝き、彼が今までに見たどんな十ポイント・カスロン書体の組版より「視線を釘づけにする」ように思われた。彼はこよなく愛する広告技術の観点から彼女の顔のレイアウトに感嘆した。「空白のとり方が絶妙だ」と彼は思った。「あれでこそ中心的主題である目を引き立たせる。彼女の顔の造作は現代的な、ボールド体のべた組じゃない」彼は活版印刷に喩えながら考えた。「ほんのちょっとインテルを詰めた、フレンチ・オールド・スタイルのイタリック体に近い。22ポイントのボディに鋳込まれているんだろうな。チャップマン老人はなかなか腕のいい活字鋳造工だ。それは認めよう」
彼はこの奇抜な比喩ににっこりとし、帽子と外套をつかむとカフェテリアを飛び出した。
ミセス・ミフリンとティタニアはすぐ先のところで立ち止り、ショーウィンドウのしゃれた小型ボンネットを見ていた。オーブリーは通りをわたってつぎの角まで走り、ふたたび通りをわたると東側の歩道をもどりはじめた。地下鉄から出てきたふりをして彼らに会おうとしたのである。彼はベルギーのアルベール王がブリュッセルにふたたび舞いもどってきたときよりも興奮していた(註 アルベール王は1914年にドイツに占領された祖国を四年後奪還した)。外出してはしゃいでいる、はなやいだ様子の二人がおしゃべりをしながら彼のほうに近づいてきた。ヘレンは彼女といっしょにいると、ずっと若く見えた。「やなぎ色のタフタの裏地に、刺繍のついたスリッポンね」彼女はそういっていた。
オーブリーは巧みに驚いたふりをしながら彼らのほうに進んでいった。
「あら、どうしましょう!」ミセス・ミフリンがいった。「ミスタ・ギルバートがいらっしゃるわ。ロジャーに会いにいらしたの?」彼女はそうつけ加え、若者をいじめて楽しんだ。
ティタニアは真心のこもった手を差し伸べた。オーブリーは校正係の必死のまなざしでオールド・スタイルのイタリック体をのぞき込んだが、こんなに早く彼に再会したことを苦々しく思っている容子はなかった。
「そういうわけじゃないです」彼は苦しい言い訳をした。「みなさんに会いに来たんですよ。その——どうしていらっしゃるかと思って」
ミセス・ミフリンは彼がかわいそうになった。「わたしたちはミスタ・ミフリンに店番をまかせて出てきたの。彼はなじみのお客さんとおしゃべりに忙しいところよ。いっしょに映画に行くのはどう?」
「ええ、そうなさって」とティタニアがいった。「シドニー・ドルー夫妻の作品よ。あの二人、わたし大好きなの!」
オーブリーが一も二もなく同意したのはいうまでもない。彼は一行のうちでいちばん街路側を歩かなければならなかったが、そこはティタニアの横であり、つまり喜びと義務が一致したのだった。
「あのう、本屋の仕事はどうですか?」と彼は訊いた。
「すごく楽しい!」と彼女は叫んだ。「でも本の名前をぜんぶ覚えるには、まだまだうんと時間がかかるわ。お客さんたらむずかしい質問をするんですもの! 今日の午後、女の人が来て、『無関心な話ブラーゼイ・テイル』はないかって言うの。それが『しるべのある山道ブレイズド・トレイル』のことだなんてわかるわけがないわ」
「そのうち慣れるわよ」とミセス・ミフリンがいった。「みんな、ちょっと待って。薬局に寄るから」
彼らはワイントラウブの薬局に入った。ミス・チャップマンがそばにいるので彼はすっかり有頂天だったが、薬屋がなんとなく奇妙な目つきで彼を見つめることには気がついていた。もともと観察力の鋭いたちなので、ミセス・ミフリンが買おうとした明礬の粉末の箱のラベルにワイントラウブが薄いすみれ色のインクで字を書いたのも見逃さなかった。
劇場前のガラス張りの入場券売り場でオーブリーは自分に券を買わせてくれといって譲らなかった。
「夕ご飯のあとすぐ出てきたの」ティタニアはなかに入りながらいった。「混雑する前に入っちゃおうと思って」
しかしブルックリンの映画ファンを出し抜くのはそう簡単なことではない。彼らは怖い顔をした若者が入場待ちの群衆をベルベットのロープで堰き止めているあいだ、すし詰め状態のロビーに数分間立っていなければならなかった。もみくちゃにされないようティタニアを守りながら、オーブリーの保護本能は喜びにふるえた。彼は彼女に悟られないよう、背中の後ろに鉄棒のような腕を伸ばし、押し寄せる熱心な群衆の圧力を吸収していたのである。偉大なターザン映画のオープニングが銀幕にひらめくと、声にならないため息が熱心なファンのあいだを駆け抜けた。出だしを見損なったことに気がついたからだ。三人はやっと仕切りを越えて、最前列に近い端のところに空席を三つ見つけた。その角度からだと次々と移り変わる画面が奇妙に歪んで見えるのだが、オーブリーは気にもとめなかった。
「わたし、ちょうどいいときに来たと思っているの」とティタニアがささやいた。「さっきミスタ・ミフリンにフィラデルフィアから電話があって、売却予定の蔵書があるから、見積もりを出しに月曜日に来てほしいんですって。それで留守のあいだ、わたしがお店の番をするのよ」
「そうなんですか。じつは、わたしも仕事の都合で月曜日はブルックリンにいなければならないんです。ミセス・ミフリンのお許しがあれば、お店に行って、あなたから本を買いたいのですが」
「お客さんはいつでも歓迎よ」ミセス・ミフリンがいった。
「あのクロムウェルの本が気に入ってしまいましてね。ミスタ・ミフリンはいくらなら売ってくれるでしょう?」
「あの本は大切なものにちがいないわ」とティタニアがいった。「今日の午後、だれかが買いに来たんだけど、ミスタ・ミフリンは手放そうとしなかったの。お気に入りの一冊なんですって。まあ、なんて変な映画なんでしょう!」
ターザンの途方もなくばかばかしい物語が観客を興ざめさせながら、銀幕の上で展開していった。しかしオーブリーは厚かましくもジャングルの強者が自分にそっくりだと思っていた。僕も——と、彼はたあいもなく考えた——広告というジャングルのあわれなターザンではないだろうか。商売という名の象やらワニのなかに迷い込み、己の熱いまなざしに飛び込んできた、手の届かぬ美しい女性に胸を焦がしているあわれなターザン! 彼は危険をおかして彼女の横顔をこっそりのぞいた。銀幕の光のゆらめきが彼女の目のなかにいくつもの踊る小さな点となって映し出されていた。彼はすっかりのぼせて、相手が自分の視線に気がついていることもわからなかった。そのとき明かりがついた。
「ひどい映画だったと思いません?」とティタニアがいった。「終わってよかった! 象がスクリーンから飛び出して来て、わたしたちを踏みつけるんじゃないかと怖くてたまらなかったの」
「どうして名作を映画化しないのかしら」とヘレンがいった。「納得がいかないわ——フランク・ストックトンの作品なんか、とっても楽しいでしょうに。ドルー夫妻が『ラダー・グランジ』を演じるなんてどう?」
「まあ、うれしい!」とティタニアがいった。「本のお仕事についてから、わたしが読んだ本の名前が出たのははじめてだわ。ええ、そう思います——ポモナとジョナスが新婚旅行で精神病院を訪れたときのことを覚えています? じつはね、あなたとミスタ・ミフリンを見ているとドルー夫妻を思い出してしまうんですよ」