WeRead Powered by ReaderPub
幽霊書店 cover

幽霊書店

Chapter 13: 第十章 ロジャー、冷蔵庫をあさる
Open in WeRead

Explore more books like this:

About This Book

An eccentric antiquarian bookseller presides over a smoke-filled secondhand shop he regards as a shrine to reading, offering personalized book prescriptions rather than conventional advertising. A young advertising copywriter arrives, sparking conversations about promotion, the therapeutic power of literature, and readers' hidden needs; he accepts the proprietor's hospitality and learns the shop's ways. The narrative uses the shop and its noticeboard of recommendations to stage debates about taste, postwar moral disquiet, and reading as cure, while comic and romantic threads involving other visitors gradually entwine with the bookseller's devotion to good books.

 ヘレンとオーブリーはこの無邪気な連想に吹き出してしまった。そのとき、オルガンが「ああ、朝起きるのは大きらい」を弾きはじめ、いつ見ても楽しいドルー夫妻がスクリーンにあらわれ、ホームコメディのひとつを演じはじめた。この型破りな無言劇俳優がアーク灯とレンズのためにその健康的で人間的な才能を発揮しはじめたとき、映画は新時代の幕を開けたのだと、映画愛好者が考えるのももっともである。オーブリーはティタニアの横で彼らの演技を見ながらおだやかなくつろいだ喜びを感じた。目の前に繰り広げられる朝食の場面が、納屋のような映画撮影スタジオに木摺り板でつくられた間に合わせにすぎないことはわかっていたが、舞い上がる彼の想像力のなかでは、彼とティタニアが恵みぶかい運命の采配によっていっしょに住むことになる、牧歌的な郊外の家のように思えるのだった。若者は開拓者のような想像力を持っている。若きオーランドーがロザリンドの隣にいるとき、彼女との結婚を夢見ないでいられるとは思えない。たとえこの世の煩わしさを脱するまでに千回死ぬほどの苦しみがつづこうとも、きっと若者は市役所で許可証をもらう前に千回婚約を交わすだろう。

 オーブリーはオペラグラスがまだポケットのなかに入っていたことを思い出して取り出した。三人は面白がってシドニー・ドルーの顔を双眼鏡でのぞいた。しかしそれはがっかりするような結果に終わった。というのは映像を拡大してみると細かなひび割れが画面を蜘蛛の巣状に覆っているのがわかってしまったからである。ミスタ・ドルーの鼻は映画史上もっとも滑稽な顔の造作なのだが、拡大してみるとそのおかしさが失われてしまった。

 「あら、まあ」とティタニアが声を上げた。「これで見ると彼のすてきな鼻がフロリダの地図みたいに見えるわ」

 「どうしてこんなものをポケットに入れていたの?」ミセス・ミフリンがオペラグラスを返しながら訊いた。

 オーブリーは急いでもっともらしい嘘をつかなければならなかったが、広告マンというのは機転がきく。

 「それはですね。ときどき夜中に持ち出して屋上広告を研究するんですよ。ちょっと近視なものですから。ネオンサインの研究は仕事の一部なんです」

 ニュース映画をいくつか流したあと、上映プログラムは最初にもどり、彼らは劇場を出た。「うちに寄っていっしょにココアでも飲みませんか?」本屋の入り口まで来たときヘレンがいった。オーブリーは招待に応じたくて仕方なかったが、図に乗りすぎるのは禁物と思った。「申し訳ないのですが、止めておきましょう。今晩、仕事があるんです。月曜日はミスタ・ミフリンがいらっしゃらないそうですが、かまどに石炭をくべるとか、なにかお手伝いをしにお邪魔してもいいですか?」

 ミセス・ミフリンは笑った。「そうね!」彼女はいった。「いつでも歓迎しますわ」彼らがドアを閉めると、オーブリーは深い憂鬱に沈んだ。神々しい美文のようなティタニアの目を奪われたギッシング通りは、気が抜けてどんよりしていた。

 まだ遅い時間ではなかったし——十時をまわっていなかった——オーブリーはふと、この近所を見張るのなら細かい地理を頭にたたき込んでおくのも悪くないと思った。ハズリット通りは本屋から南に進んだつぎの通りである。人通りのすくない静かな細い道で、質素な住居の明かりに豊かに照らし出されていた。ハズリット通りをすこし進むと、丸石を敷いた狭い路地があった。両側を裏庭にはさまれた小径で、ギッシング通りとホイッティアー通りのなかほどを、ワーズワース・アヴェニューまで延びていた。路地は真っ暗だったが、家の数を正確にかぞえることでオーブリーは本屋の裏口を突き止めた。庭の門にそっと手をかけると、鍵はかかっていない。なかをちらりと見るとココアでも温めているのだろうか、台所に灯がともっていた。そのとき二階の窓が明るくなり、ランプの光に輝くティタニアの姿を見て彼の胸は震えた。彼女は窓辺にやってきてブラインドをおろした。彼女の頭と肩の影がつかの間カーテンに映って見えたが、つぎの瞬間、明かりが消えた。

 オーブリーはしばらく突っ立ったままロマンチックなことを考えていた。毛布が二枚ありさえすればロジャーの裏庭に野宿して一夜をあかすのだが、と彼は思った。あの観音開きの窓の下で、僕が監視をしているかぎりけっして彼女に危険はない! この思いつきは突拍子もないだけにかえって彼を魅了した。そのときだった。開いた門口に立っている彼の耳に、遠くからこちらにむかって路地を進んでくる足音と、低くうなるような複数の声が聞こえた。たぶん警官が二人組で見まわりに来たのだろう、と彼は思った。夜のこんな時間に裏口でこそこそしているのを見つかったらまずい。彼は忍び込むようになかに入り、門をそっと閉め、用心のためにかんぬきをかけた。

 荒い砂利道を踏みしだき、足音が暗闇のなかを近づいてきた。彼は裏門の柵に寄りかかってじっと立っていた。驚いたことに男たちはミフリンの門の前で止まり、掛け金を静かにはずそうとした。

 「だめだ」と声がいった——「かんぬきがかかっている。別のやり方を考えなきゃならんぜ、相棒マイ・フレンド

 オーブリーは最後の単語に、巻き舌のしわがれた「r」が使われたことに気づき、身体がぞくぞくした。まちがいない——これは「友人にしてしあわせを祈ってくれる」電話の男の声だ。

 もう一人の男がしゃがれたドイツ語でなにごとかをささやいた。オーブリーは大学でドイツ語を勉強したが、二つの言葉しか聞き取れなかった——「トュル」と「シュルッセル」で、それが「ドア」と「鍵」を意味することは知っていた。

 「わかった」最初の声がいった。「そいつは大丈夫だが、この仕事は今晩じゅうにやっちまわないとな。例のものはなんとしても明日完成させる。貴様が間抜けなものだから——」

 がらがらしたドイツ語がふたたび聞こえてきたが、早口の小声でオーブリーの耳はついていくことができなかった。路地に面した門の掛け金がもう一度かちりとなり、彼は拳銃に手をかけた。しかしすぐさま二人は路地のむこうへ歩いていってしまった。

 若き宣伝マンは柵に寄りかかったまま、恐ろしさのあまりものもいえず、心臓をどきどきさせていた。手はじっとりと汗ばみ、足は膨れあがって根をおろしたかのようだった。いったいなにを企んでいるんだ? 灼けつくような怒りの波が、身体を駆け抜けた。あのやさしそうな、口のうまい、話し好きの書店主、あいつはあの娘を誘拐し、父親が汗水流して稼いだ金を脅し取ろうとしているのか? しかもドイツ人なんかと手を組みやがって、あの悪党! 無防備な娘をブルックリンの荒野に送り出すとはチャップマンもおろかなことをしたものだ——さしあたり、自分はなにをしたらいいだろう? 裏庭を一晩じゅう偵察するか? いや、友人にしてしあわせを願ってくれる男は「別のやり方を考えなきゃならん」といっていた。それにオーブリーは年老いたテリヤが台所で寝ていることを思い出した。ボックなら夜中にドイツ人が侵入したとき、きっと大騒ぎを起こすにちがいない。たぶんいちばんいいのは店の正面を見張ることだ。みじめに混乱する頭を抱えながら、彼は数分のあいだ自分の足音を聞きつけられないよう、二人のドイツ人が遠くに離れるのを待った。それから門のかんぬきをはずし、彼らとは反対のほうにむかって路地を忍び足で進んだ。路地はワイントラウブの薬局のちょうど裏側でワーズワース・アヴェニューにつながっていた。そこには高架鉄道の駅を支える大梁と構脚がそびえていて、いわばスイスの山小屋が竹馬に載って通りをまたいでいるような格好をしていた。彼は遠まわりしたほうが賢明だと考え、ワーズワース・アヴェニューを東にむかってホイッティアー通りまで歩き、それからつけられていないことを油断なく確認しながらホイッティアー通りを一ブロック南にくだった。ブルックリンは夜になって明かりを消しはじめ、すべてが静まりかえっていた。彼はハズリット通りに入り、それからギッシング通りにもどったのだが、そのとき幽霊書店の明かりが消えていることに気がついた。もうすぐ十一時だ。映画館から最後の客がぞろぞろと出てきた。二人の従業員がはしごにのぼり、早くもターザンの電光看板をおろして、つぎの呼び物のイルミネーション文字を設置していた。

 彼はしばらくあれこれ考えたあと、ミセス・シラーの下宿にもどるのがいちばんだと判断した。自分の部屋からなら本屋の正面ドアをしっかり監視することができる。うまい具合にミフリンの家のほぼ真ん前に街灯が立っていて、ドアの前のくぼんだあたりにも充分な光があたっていた。オペラグラスを使えば、寝室からそこの様子は手に取るように見えた。通りをわたりながら、彼はミセス・シラーの下宿の正面を見あげた。四階の二つの窓に明かりがともっていて、一階の玄関にはガスの火が小さく燃えていた。そのほかは暗闇に包まれている。ふと自分の部屋の窓を見た。カーテンは今も窓ガラスの後ろに留められたままだ。しかし奇妙なことに、窓のそばで小さなバラ色の光が強くひかり、それが小さくなったかと思うと、また強く光った。だれかが彼の部屋でたばこを吸っている。

 オーブリーはなにごともなかったかのように足取りを乱さず歩きつづけた。通り沿いに下宿のむかいまで来ると、最初に見たものがまちがいでないことを確かめた。光の点は依然としてそこにあり、たばこを吸っているのは例の友人にしてしあわせを願う男か、その一味だと考えるのがまず妥当と思われた。路地にいたもう一人の男はワイントラウブのような気がしたが、確信はなかった。薬局の窓から気をつけてなかをのぞくとワイントラウブが調剤台にむかっている。オーブリーは彼を待つしわがれ声の、もちろん好意などチリほども持っていない紳士に、しっぺ返しをしてやろうと決意した。彼はミセス・シラーの下宿を出るとき、本の表紙を外套のポケットに突っ込んだ幸運に感謝した。理由はわからないが、だれかがそれをひどく手に入れたがっていることはあきらかだった。

 ちょうど閉店の準備をしていた小さな花屋を通り過ぎるとき、ある考えが浮かんだ。彼は店に入り、白いカーネーションの花を十本ばかり買い、まるで思い出したように「針金はあるかい?」と訊いた。

 花屋は細くて丈夫な一巻きの針金を差し出した。花屋はそれで高価なバラのつぼみをしめつけ、開花を遅らせることがある。

 「八フィートほどくれないか。今晩いるんだが、金物屋はみんな閉まっているだろうから」

 彼はそれを持って、上の窓から姿を見られないよう、慎重に建物伝いに歩いてミセス・シラーの下宿にもどった。階段をのぼり、息を凝らしてドアの掛け金をはずす。時間は十一時半、彼はしあわせを願う男がおりて来るまでどれぐらい待たなければならないだろうと思った。

 彼は用意をととのえながら、大学時代にこれよりもはるかにふざけた目的で似たようなことをやった経験を思い出し、おもわずくすりと笑ってしまった。まず靴を脱ぎ、またすぐ見つけられるようにそっと片隅に寄せておいた。そして床から六フィートほどの高さの手すりを選び、その根本に針金の一方の端をきつく巻きつけ、踏み段を二段にわたって広がる大きな輪を作った。針金の残りは手すりのあいだを通して外に出し、小さな輪にして引っ張りやすいようにした。それから玄関のガス灯を消し、暗がりのなかでことが起きるのを座って待った。

 パグがこっそりやってきて彼を見つけるのではないかという、一抹の不安をかんじながら長い時間座っていた。部屋着を着た女性——おそらくミセス・J・F・スミスだろう——が一階の部屋からあらわれ、暗闇にひそんでいる彼のすぐそばを通って、ぶつぶつ言いながら上にあがっていったときは肝をつぶした。彼は輪っかを引っ張ってかろうじて彼女の足に引っ掛からないようにした。しかし間もなく彼の忍耐は報われた。上のほうでドアがきしり、だれかがゆっくりと階段をおりはじめた。階段はうめくような音をたてた。彼はわなを置きなおし、にやりと笑いながら待った。建物のどこかで時計が十二時を打ったとき、男は暗闇のなかを手探りしながら最後の一つづきの階段をおりてきた。オーブリーは男が低く悪態をつくのを聞いた。

 その瞬間、犠牲者の両足が輪のなかに入り、オーブリーは針金を思い切り引っ張った。男は金庫のように倒れ、手すりに激突し、床の上にのびてしまった。すさまじい落下が家を揺らした。彼はうめき声をあげ、呪いの言葉を吐いて倒れていた。

 笑いたいのをなんとかこらえながら、オーブリーはマッチを擦って大の字に横たわる男の上にかざした。男は横にむけた顔を、伸ばした一方の腕に押しつけていたが、あの髭に見まちがいはなかった。またしても例のアシスタント・シェフだ。彼は意識を失いかけているように見えた。「髭を燃やすといい気つけになるんだ」オーブリーはそういってマッチの火をもじゃもじゃの髭につけた。二三インチ髭を焦がすのはひどく小気味よかった。それから動かない男の頭にカーネーションの花を置いた。地階からごそごそと音が聞こえてきたので、彼は針金をはずし、靴を拾い、上の階に逃げた。彼はしてやったりと胸のなかで大笑いしながら部屋にたどり着いた。しかし部屋に入るときは、罠がしかけられていないかと用心した。強いたばこのにおいをのぞいてなにも異常はないようだった。ドアのところで耳を澄ましていると、ミセス・シラーが玄関で金切り声をあげ、それにパグがきゃんきゃんと唱和するのが聞こえた。上の階のドアが開き、問いが発せられた。髭男がしわがれたうめき声をあげながら、階段から落ちたことをののしり、憤るのが聞こえてきた。パグは狂ったように興奮して吠えた。女性の声——おそらくミセス・J・F・スミスだろう——が叫んだ。「この焦げくさいにおいはなに?」ほかのだれかがいった。「気つけに彼の鼻の下で羽を燃やしているんだ」

 「そう、ドイツ野郎の羽をね」オーブリーは一人で満足そうに笑った。彼はドアに鍵をかけ、オペラグラスを手に窓のそばに座った。

第九章 ふたたび物語の進行は遅れる

 ロジャーは店のなかで静かな晩を過ごしていた。頭の上に霧のようなたばこの煙をうかべながら、机にむかって書籍業に関する偉大な著作の第十二章の執筆にいそしんだ。この章は(残念なことに最初から最後まで夢想に過ぎなかったが)「一流大学名誉文学博士号授与記念講演」として発表されるべきものであり、これを書いているとさまざまに魅惑的な可能性が頭に浮かんできて、ロジャーの心はいつも紙を離れて空想の世界に遊んでしまうのである。彼は書籍業がついに学問的職業の一つとして正式に認められ、それを祝う晴れの式典の快心の場面を事細かに思い描くのが大好きだった。大講堂は教養ある人々でいっぱいである。エマソンのような横顔の殿方、次第書をひらひらさせて口を覆いながらささやき交わすご婦人方。大学儀官ビードルなのか学生監プラクターなのか学部長ディーンなのか(ロジャーにはなんだかよくわからなかったが)、とにかくだれかがおごそかな紹介の言葉を述べている——

 公共の福利のために絶えず個人的利益を度外視し、プロメテウスにも似た情熱的犠牲の精神をもって、数え切れない多くの人に、優れた文学への愛を教えた人物。何事も泡沫のように消えていく世間に広く文学的趣味を浸透させたのは、主に彼とその同業者の功績と言っていい。彼を讃えることでわたしたちは、彼によって代表される気高く、慎み深いなりわいを讃えようとするものである——

 謙虚な書店主は手に汗をかき、フードつきのアカデミックガウンをまとったまま途方に暮れ、そわそわと角帽をいじり回していたのだが、案内役に引っ張られて赤くなりながら総長チャンセラーだか学寮長プロボウストだか学長プレジデントだか(なんだかわからない人)の前に出ると、その人から学位証書がわたされるのである。それから(ロジャーの空想のなかでは)花輪をいただいた書店主は待ちわびている聴衆のほうを振りむき、舞台の上で垂れ下がったガウンをご婦人方がするように器用に後ろ足で蹴り、ためらうことも気後れすることもなく、品のよい冗談を適度にさしはさみながら彼がしばしば夢見ていた書物の喜びについての、学識に満ちた、すこしもしゃちほこばったところのない講演をするのだ。そのあとは引きつづいて祝賀会。高名な碩学たちが彼を取り囲む。マカロンの皿に、口をつけてないお茶のカップ。ご婦人たちのさえずるようなおしゃべり。「お尋ねしたいことがありますのよ——将軍、提督、牧師、政治家、科学者、芸術家、作家、こういう人たちの銅像はたくさんあるけど、どうして書店主の銅像はないのかしら?」

 こんなはなやかな場面を想像するとロジャーはいつもめくるめくような夢の世界に誘い込まれる。数年前に太った白馬に幌つき荷馬車をひかせ、田舎道で本を売っていたときから、いつかパルナッソス巡回書店株式会社を立ち上げ、十台の荷馬車隊を擁し、本屋を知らない田舎の間道へ行商に繰り出すという、ひそかな夢を胸に抱いていたのである。彼は好んで大きなニューヨーク州の地図を思い浮かべた。そこには旅回りに出ているパルナッソスの毎日の位置を示す色つきのピンが刺さっている。彼は夢のなかで巨大な中央古本倉庫に陣取り、軍司令官さながらに地図を眺め、荷馬車の在庫を補充するため文学的弾薬箱を送りつけるのだ。外交員はおもに、報われない仕事にいや気がさし、機会さえあれば旅に出たいと思っている大学教授、牧師、新聞記者で編成しようと思っていた。彼はミスタ・チャップマンがこの卓越した計画に興味を抱くことを期待し、またパルナッソス巡回書店株式会社の株が大きな配当金を生み、真剣な投資家たちを惹きつける日を夢見ていた。

 そうこう考えていると義理の兄、田舎暮らしの喜びを描いた魅力的な本の作者であるアンドリュー・マギルのことが頭に浮かんできた。彼は緑のコネチカット渓谷が肘のように曲がったあたりのサビーニ農場に住んでいる。初代パルナッソスはロジャーが結婚前にそのなかで生活し、田舎を何千マイルも旅して本を売った、風変わりな古くて青い荷馬車なのだが、今はアンドリューの納屋に収まっている。でっぷりと太った白馬のペグもそこにいた。ロジャーはふとアンドリューに手紙を書かなければならないことを思いだし、書店主の大学講演草稿を脇に寄せて、こう書きはじめた。

 幽霊書店

 ブルックリン、ギッシング通り163

 一九一八年十一月三十日

 親愛なるアンドリュー

 もっと早くにお礼を申し上げるべきでした。今年もリンゴジュースの樽を送っていただきありがとうございます。夫婦ですこぶるおいしくいただいています。今年の秋はひどくいろいろなことを考えさせられ、手紙がまったく書けませんでした。ほかの人とおなじように、わたしも常に僥倖のように訪れたこの新しい平和のことを考えています。この機会を人類の福利に転じることができる政治家が将来きっとあらわれることでしょう。わたしは書店主の世界的平和会議があったらいいのにと思っています。というのは(お笑いになるでしょうが)世界の未来の幸福はすくなからず彼らと図書館員の肩にかかっていると信じるからです。ドイツの書店主はいったいどんな人間なのでしょう?

 今「ヘンリー・アダムズの教育」を読んでいるのですが、彼が長生きをして、戦争をどう思うか、意見を聞かせてほしかったと思います。きっとあっけにとられるでしょうね。こんなものは「感受性の鋭い、おずおずとした人間が身震いすることなく見守ることができる」世界ではないと思ったことでしょう。彼はわたしたちが目撃した四年にわたるいとわしい流血に関してなんと言うでしょうか?

 覚えていらっしゃるでしょうが、わたしの愛唱する詩——ジョージ・ハーバートの「教会のポーチ」の一編——にこうあります。

 ぜひとも ときどき独りになる習慣をつけなさい

  自分に向かって挨拶し 自分の魂の装いを確かめるのです

 恐れることなく胸の内をのぞきなさい それはあなたのものなのだから

  そしてそこに見つけたものを いろいろひっくり返してごらんなさい

というわけで、わたしは自分の考えを大いにひっくり返してみているわけです。憂鬱というやつは知識階級にかけられた呪いであると思いますが、しかしわたしの魂はこのごろ恐ろしく落ち着きを失っているのです。人間世界で突然起きた驚くべき変化は歴史上類を見ない劇的なものなのに、もうすでに当然のことのように受け止められているようです。わたしが大いに恐れているのは、人類がむごたらしい戦争の惨禍を忘れてしまうことです。それはまだ語られてもいない。フィリップ・ギブズのような人たちが、現実に目の当たりにしたことを、わたしたちに伝えてくれることを期待し祈っています。

 あなたはわたしがいおうとしていることに賛成はしないでしょうね。頑固な共和党員でいらっしゃるから。しかしわたしはウィルソンが講和会議に出席することを運命の神に感謝します。わたしは愛読書のひとつ「クロムウェル伝」——それを横に置きながらこの手紙を書いているのですが——についてずっと考えてきました。これはカーライルによって編集され、カーライルが「注解」と称する妙なものがつけ加えられています。(カーライルの注解はどれもよくわかりません!)わたしはどこかでこれがウィルソンの愛読書の一つであると聞きました。たしかに彼にはクロムウェル的なところが多々あります。刀剣をその手に握らざるを得なくなったとき、なんという断固たる誓約者の意気込みでその武器をつかんだでしょう! 彼が講和会議でいうこともオリバーが一六五七年と一六五八年に議会でよく発言していたこと——「虫の食っていない平和が手に入れば、正義と公正の土台を作ることができる」——と非常によく似ているのではないかと思っています。ウィルソンが思慮のない人々にとってじれったく感じられるのは、彼が情熱ではなく、あくまで理性にもとづいて行動するからです。キプリングの有名な詩、あれはたいていの人間にあてはまるのですが、彼はその正反対です——

 事実を真っ向からとらえ とことん論理的に押し詰めて

 その結論を確固たる行為に結実させることなど めったにありはしない

今回は理性が勝利すると思います。世界全体がその方向にむかっていると感じられるのです。

 ウッドロウはいはばクロムウェルとワーズワースの掛け合わせのような男で、そんな人間が砲弾痕の残る場所で外交のためにひと肌脱ごうなどというのは考えてみればおかしなことです。わたしが待っているのは彼が公職を退き、彼の私生活について本を書くときです。こういってよければ、それこそ身も心もぐったり疲れ果てて当然の人間にうってつけの仕事です。その本が出版されたら、わたしはそれを売って余生を過ごします。それ以上のものは要りません! ワーズワースといえば、わたしはよくウッドロウが日記のどこかにこっそり詩を書いているのではないかと思います。ひそかな詩作にふけっている姿をいつも想像するのです。ところで、わたしがジョージ・ハーバートに入れ込んでいることをおからかいになる必要はありませんよ。自分でも判っていますからね。英語でもっともなじみ深い二つの引用が彼のペンから生まれていることを知っていますか? つまり

 ケーキを口にして しかもそれを持っていたいと願うのか

これと

 おそれずに真実を語れ どんな場合も嘘はいらない

 過ちが切実に嘘を必要とするとき 罪は二倍に膨れあがる

です。

 このつまらない説教をお許しください! わたしの心はこの秋あまりにも混乱し、憂鬱と高揚が入りまじった奇妙な状態にあるのです。わたしがどれほど本に埋もれ、本のために生きているか、ご存じでしょう。じつは、この人類の希望と苦悩が逆巻くなかから偉大な書物があらわれるような不思議な気分、予感みたいなものを感じるのです。それは嵐に揺すられた人間の魂が、今までになかったような率直な語り方をする本です。聖書にはご存知のとおり、いささか失望しました。人間にたいしてなすべきことをなさなかったのですから。どうしてなんでしょうね? ウォルト・ホイットマンはこれから大活躍するでしょうが、わたしがいおうとしているものとはちょっとちがう。なにかがやってきつつある——ただわたしにはそれがなんであるのか、はっきりとはわからないのです! 自分が単なる商品のセールスマンではなく、人間の夢や美や好奇心を取引する書店主であることを神に感謝したいと思います。しかしわたしたちは自分のなかで起きていることを語ろうとするとき、なんと無力でしょうか! 先日、ラフカディオ・ハーンの手紙のなかにこんな一節を見つけました——あなたに見せようと思って印をつけておいたものです——

 ボードレールはアホウドリについて感動的な詩を書いていて、これはあなたも気に入ると思う——詩人の魂はその自由な青空においてこそ優美だが——俗な大地を歩む姿は無力で、屈辱的で、醜く、不器用——いや、そこは大地ではなく、実際には刻みたばこのパイプで水夫にいじめられる甲板なのだが、云々。

 日の暮れるのが早くなり、ここでわたしが棚に囲まれ、どんな夜を過ごしているか想像がつくでしょう! もちろん十時に店を閉めるまで、絶えず邪魔がはいります——この手紙を書いている最中も同様です。一度は「叔父さん征伐」を売り、一度は「レディング獄舎の唄」を売るといった具合で、わたしのお客さんの趣味が多種多様だということがわかりますね! しかしこのあと夫婦で夜のココアを飲み、ヘレンが寝てしまうと、わたしは店をうろつき、あっちの本やらこっちの本をのぞき込み、思索の美酒に酔いしれるのです。夜更けになると精神は、どれほど澄んだ輝く流れとなってあふれだすことか! 昼間の沈殿物や浮遊するごみがすっかり消えています。ときにはこれこそまさに美か真実の岸辺ではないかと思えるところを進み、そのきらきらした砂浜に砕ける波の音が聞こえるような気がします。ところがつぎの瞬間には沖合から倦怠と偏見の風が吹き、ふたたびわたしを運び去ってしまう。アンドレーエフの「偉大な日々のあいだに語られた卑小なる男の告白」を読んだことがありますか? 先の戦争から生まれた誠実な本のひとつです。卑小なる男は告白をこんなふうに締めくくっています——

 わたしのなかから怒りが去って、悲しみがもどり、また涙が流れる。わたしはだれを呪うことができるだろう、だれを裁くことができるだろう、わたしたちすべてがおなじように不幸だというのに。苦痛はあらゆるところにある。お互いに手を伸ばし合い、その手が触れあうとき——大いなる解決が訪れるだろう。わたしの心は燃え立つように輝き、わたしは手を差し伸べ、こう叫ぶ。「さあ、手をつなぎ合おう! わたしはあなたたちを愛しているのだ、愛しているのだ!」

そしてもちろんそんな気持ちになった途端、他のだれかにポケットの金をすられてしまうわけですが——まあ、すられたって平気な顔をしていられるくらいの気位を教育すべきでしょうね!

 世界はじつは本によって支配されている、などと考えたことがありますか? たとえばこの国が戦争に突入した道筋はウィルソンがものを考えはじめたときから読んだ本によって大筋決められていたのです! 戦争がはじまってから彼が読んだおもな本のリストが手に入ったら、これは面白いでしょう。

 ここにお客さんに考えてもらおうと思って掲示板用に今写している詩があります。一九一五年にフランスで戦死した若いイギリス人、チャールズ・ソーリーの書いたものです。彼はまだ二十歳でした——

 ドイツへ

 きみはぼくらのように目が見えない きみは意図して人を傷つけたのではなかった

 そしてだれもきみの国土を征服しようとしたのではなかった

 しかしいずれも狭隘な思想という戦場を手探りし

 ぼくらはつまずき 互いを理解しない

 きみが見ていたのは きみの大いなる未来だけ

 ぼくらが見たのは 先に行くほど細くなるぼくらの心の道だった

 ぼくらは互いに相手の大切な道に立ちふさがり

 非難し 憎み合う そして盲人が盲人にうちかかる

 平和がきたときに ぼくらはもう一度

 新たな目でお互いの本当の姿を見直し

 不思議に思うかも知れない もっと慈愛と思いやりを学んだとき

 ぼくらはしっかり手を握り合い 過去の苦しみを笑い飛ばす

 平和がきたときに しかし平和がくるまでは嵐

 暗闇 いかずち 雨

気高い響きがあるでしょう? わたしがへどもどしながらいおうとしていることがわかりますか——戦争は人類を浄化したのだと(後生の人に)思えるような、そんな戦争のとらえ方です。悪臭を放つ灰や、苦しむ肉体、原型を失うまで弾丸を撃ち込まれ、血と汚水の泥沼のなかに横たわる人間といった単なる暗黒のイメージではなくて。そんな口にすることもはばかられるような荒廃から、人間は、隣人としての国家という新しい概念にかならずや目覚めなければなりません。ドイツをいくら罰してもその罪は充分にあがなえないといった不安の声がたくさん聞こえてきます。しかしあのような広範囲の悲しみにたいしてどんな罰を考え出し、押しつけられるというのでしょう。ドイツはすでに自分を手ひどく罰しているし、これからもそれはつづくと考えます。わたしたちの経験が生命の——人間だけでなく動物も含むすべての生命の——威厳にたいするなにか新しい自覚を世界にもたらすことになれば、と祈っています。動物園に行くと生命力のとてつもない奇怪な多様性に驚き、謙虚な気持ちになりませんか?

 どんな生命の形のなかにも見いだせるものはなんでしょう? ある種の欲望——ほんのちっぽけな虫をすらその奇態な旅へと駆り立てる説明しがたい原動力のようなものです。あなたもきっと垣根の横木をせわしなく動きまわっている、ものすごく小さな赤い蜘蛛を見たことがあると思います——いったいなぜそんなことをするのでしょうか、そしてどこへ行こうとしているのでしょうか? だれにもわかりません。人間ともなれば、どれほど混沌とした欲望と衝動が、彼らをそのおかしな仕事の繰り返しにおもむかせていることやら! それにどの人間の心にもなんらかの悲しみ、挫折、苦しみがひそんでいます。わたしはよくラフカディオ・ハーンが書いている日本人の料理人の話を思い出します。ハーンは感情を顔に出さない日本人の習性について語っていました。彼が雇っていた料理人は、いつもにこにこしている、機嫌のいい、健康な、人当たりのよさそうな若者でした。ところがハーンはある日、偶然にも、壁の穴からひとりぼっちの料理人を見たのです。彼の顔はいつもの顔ではありませんでした。痩せて引きつって、過去の苦労や辛酸によってできた奇怪なしわを浮かべていました。ハーンは「死人のような表情だ」と思いました。彼は台所に入っていきました。すると途端に料理人はふたたび若々しく、しあわせそうな顔に様変わりしたのです。それから二度とハーンは悩みを抱えた顔を見ることはありませんでした。しかし彼は男がひとりのときはそんな顔をしていることを知っていました。

 これは人類全体にあてはまる寓話のようなものだと思いませんか? だれかに出会って、その人が世間からどんな輝かしい悲しみを隠しているのだろう、とか、どんな理想と現実の差に苦しめられているのだろう、とか、思わずにいられたことがありますか? 微笑みを見せるどの仮面の背後にも、苦痛にゆがむ謎めいた顔がないでしょうか? ヘンリー・アダムスが簡潔にそれを表現しています。人間の心は未知の、想像もできない虚空から突然、不可解な形であらわれると。人間の心はその生の半分を眠りという精神的混乱のなかで過ごします。目覚めているときさえ、それは適応能力の欠如、病気、加齢、外からの暗示、生理的欲望の犠牲者です。己の感覚を疑い、道具ばかりを頼り、平均値しか信用しない。ますます大きな驚きを味わいながら六十年ほどしてふと気がつくと、心はなにもない死の空間を呆然とのぞき込んでいる。そして、アダムスがいうように、そんな人生に満足だと公言することが、最高の教育に望みうるすべてなのです。精神が満足するといっても、それは自分が白痴のような存在であることを証明するだけです!

 このことに関してあなたがどんなふうに思っていらっしゃるか、お手紙をいただければうれしく思います。わたしは今まさにすばらしいことが起きようとしているような感じがしています。ずっと以前、本はただ一つ変わることのない心の慰めだと思っていました。本は人類が生み出した、文句のつけようのない完璧な作品です。何千冊もの本を未読のまま死んでいかなければならないことを考えると悲しくなります。それらは崇高な、満ち足りた喜びを与えたはずなのですから。一つ秘密をお話ししましょう。わたしは「リア王」を読んだことがありません。わざと読まないようにしているのです。もしも重い病気にかかったら、わたしは自分にこういえばいいのです。「まだ死ぬわけにはいかないぞ。『リア』を読んでいないのだからな」そう思えばわたしは病気から回復するでしょう。きっと回復しますとも。

 本はわたしたちが困惑したときの答えです! ヘンリー・アダムズは宇宙が理解できないと歯ぎしりします。彼にできるのはせいぜい「加速の法則」を提案するくらいです。それはどうやら自然がますます勢いをつけて人間をせき立て、その結果人間は問題をことごとく解決するか、その努力の最中に熱病にかかって死ぬか、いずれかになるだろうということらしい。しかしアダムスが遠慮なくあからさまに描き出していますが、精神が絶望的なまでに謎に取り組む様子は狂喜乱舞するようなおもしろさで、その描写の的確さに、奮闘の虚しさなど忘れてしまうぐらいです。人間は自分の無力すら気晴らしの種にしてしまうのですから、まったくいい根性をしています。どうやら人間の信条は、「神がわたしを殺すとしても、わたしは神を笑ってやろう!」というものらしい。

 ええ、本は人間の最高の勝利です。本はそれ以外のすべての勝利をかき集め、後生に伝えるのですから。ウオルター・デ・ラ・メアが書いているように「天使が、小説に夢中のあわれな人間を見たらどれほど不可解な思いでほほえむことだろう。どっかと椅子に腰をおろして身じろぎもせず、鼻の頭にめがねをのせ、二本の足を人魚の尻尾みたいにぴったりくっつけ、珍妙な目だけが年を刻んだ顔のなかで動いている」

 さてさて、わたしは駄文を弄して近況報告をなにもしていませんでした。ヘレンはボストンでおおいに羽を伸ばし、先日もどってきました。今晩彼女は、わたしたちの若い門弟、ミス・ティタニア・チャップマンと映画に出かけています。ミス・チャップマンは本屋の見習いとしてうちが受け入れた魅力的な娘さんです。うちのような店に若い娘さんが見習いに来るなんて、なんとも妙な話ですが、これは彼女の父親、どこにでも広告が出ているチャップマン・デインティビッツの経営者から、頼まれてしていることなのです。彼は大の本好きで、その情熱を娘にも受け継がせようと、とても熱心なのです。本についてこんこんと説くことができる新しい帰依者を迎え、わたしがどれくらい喜んでいるか想像ができるでしょう! また、彼女のおかげでわたしは今までよりもいくぶんか店を離れて活動することができます。今日の午後、フィラデルフィアから電話があり、蔵書を売りに出すので、来週の月曜日、こっちにきて見積もりを出してくれないかと頼まれました。どうしてわたしの名前を知ったのか知りませんが、ちょっとくすぐったい気がしました。

 長々と、脈絡もないことを書きつづってしまい申し訳ありません。「エレホン」はいかがでしたか? もうすぐ閉店の時間です。本日の儲けに感謝の祈りを唱えなければなりません。

頓首再拝   

ロジャー・ミフリン   

第十章 ロジャー、冷蔵庫をあさる

 ちょうどロジャーがカーライルの「クロムウェル伝」を歴史アルコーヴのあるべき場所にもどしたとき、ヘレンとティタニアが映画から帰ってきた。ボックは主人の椅子の下でうたた寝していたのだが、礼儀正しく起きあがると敬意をあらわすように尻尾を振った。

 「ボックってしぐさにとっても愛嬌があるわ」とティタニアがいった。

 「そうね」とヘレンが応えた。「あれだけ尻尾を振っても筋肉がぜんぜんすり切れないんだから、ほんとうに驚いちゃうわね」

 「それはそうと」とロジャーはいった。「楽しかったかい?」

 「とっても!」ティタニアがあまりにも顔を輝かせ、きらめく声でそういったものだから、かびくさい常連客二人が「随筆」と「神学」のアルコーヴから頭を突き出し、びっくりしたように彼女を見たくらいである。そのうちの一人は三人に近づいて驚いた目を満足させようと、むさぼるように読んでいたリー・ハントの「ウィッシング・キャップ新聞」をわざわざ買い求めた。ミス・チャップマンが本を受け取り包装したとき、彼の驚きは頂点に達した。

 自分が売り上げを伸ばすのに一役買っているとも知らずに、ティタニアは話をつづけた。

 「途中であなたのお友達のミスタ・ギルバートに会ったんですよ。それで一緒に映画に行ったんです。月曜日にお店に来て、あなたが留守のあいだに、かまどを修理するとかいっていました」

 「それはそれは。広告代理店というのはじつに商売熱心だねえ。ちょっとでも広告業務を請け負う可能性があれば、従業員を送り込んでかまどの面倒まで見させるんだから」

 「静かな夜が過ごせた?」ヘレンがいった。

 「ずっとアンドリューに手紙を書いていたんだ。でも面白いことが一つあったよ。例の『フィリップ・ドルー』が売れたんだ」

 「まさか!」ヘレンが大声を出した。

 「ほんとうだよ。客が本を見ていたんで、作者はハウス大佐(註 外交官でウィルソン大統領の腹心)らしいといったんだ。ぜひ売ってくれといわれたよ。しかし読み出したらえらくがっかりするだろうなあ!」

 「ハウス大佐が書いたんですか?」ティタニアが訊いた。

 「さあね」ロジャーがいった。「そうじゃないことを願うよ。わたしはミスタ・ハウスは有能な人物だとひそかに信じている。もしもあれを書いたのだとしたら、パリの講和会議の場で外国政治家にその事実がばれないことを切に願う」

 ヘレンとティタニアが外套を脱いでいるあいだに、ロジャーは忙しく店を閉めていた。彼はボックと通りの角まで行って手紙を投函した。居間にもどってくると、ヘレンが大きなポットにココアを用意していた。彼らは暖炉のそばに座りそれを味わった。

 「チェスタートンがココアをこっぴどく非難する詩を書いている」とロジャーがいった。「『さまよえる居酒屋』に出てくるんだが、しかしわたしは理想的な夜の飲み物だと思うよ。ゆったり心を鎮めてくれて、眠りに誘ってくれる。とびきり激しい哲学的苦悩もミセス・ミフリンのココアが三杯あれば癒される。ショーペンハウエルだってスプーン一杯のココアとコンデンスミルクの缶があれば一晩じゅう読んでいられるというものだ。もちろんコンデンスミルクを入れなければいかんよ。そういうものだと決まっているんだ」

 「こんなにおいしいものとは知らなかったわ」ティタニアがいった。「たしかにお父さんは工場の一つでコンデンスミルクを作っていますけど、自分がいただこうなんて夢にも思いませんでした。探検家だけが食べるものと思っていたんですもの、北極に行く人とかが」

 「うっかりしていた!」ロジャーが叫んだ。「きみに話すのをすっかり忘れていた! 夕方二人が出かけたあと、すぐにお父さんから電話があって、調子はどうだと尋ねていたよ」

 「あら。はじめてのお仕事なのに、二日目にもう映画に出かけたと聞いて、お父さん、きっとあきれていたでしょうね! 『まったくあの娘は』なんていったんじゃないかしら」

 「わたしがミセス・ミフリンと出かけるように勧めたんだと説明しておいたよ。気分転換が必要だと思ったんだってね」

 「お願いですから、お父さんがいうことなんか真に受けないでくださいね。お父さんたら、わたしの見かけがうわついているから、心も浮ついていると思っているの。でもわたし、ここでいい仕事をしたいと思ってやる気満々なんですよ。午後はずっと包装の練習をして、紐を切らずに上手に結び目が作れるようにしました。先に紐を切ってしまうと、短すぎて縛れなかったり、長すぎてちょっぴりむだになったりするんですね。それから包装紙でカフスを作って袖を汚さないようにすることも覚えました」

 「おいおい、わたしの話はまだ終わってないよ」とロジャーがつづけた。「お父さんは明日わたしたちみんなを家に招待するというんだ。買ったばかりの本を見てもらいたいんだそうだよ。それにきみがホームシックにかかっているんじゃないかと思っているらしい」

 「なんですって。こんなにすてきな本があるっていうのに? ばかばかしい! 半年は家に帰る気がしないわ!」

 「いやとはいわせないつもりだよ。明日の朝いちばんにエドワードを迎えに寄こすようだ」

 「おもしろそうね!」ヘレンがいった。「楽しみだわ」

 「とんでもないです。このすてきな本屋さんを離れてラーチモントで日曜を過ごすなんて。でも、いいわ、うっかり置いてきたジョーゼットのブラウスが取りに行けるから」

 「何時に車が迎えに来るの?」ヘレンが訊いた。

 「ミスタ・チャップマンは九時ごろだといっていたがね。できるだけ早くに出るようにといわれたよ。一日本を見てほしいそうだ」

 彼らがしだいに消えていく石炭の火を囲んで座っているとき、ロジャーは自分の蔵書の棚を見まわしはじめた。「ギッシングは読んだことがあるかい?」と彼はいった。

 ティタニアはミセス・ミフリンにむかって悲しげな仕草をした。「そういうことを訊かれるとすごく困っちゃう! いいえ、聞いたこともありません」

 「そうか。家の前の通りは彼にちなんで名前がつけられているので、知っておくべきだと思うな」彼は「蜘蛛の巣の家」を引っ張り出した。「これからわたしが知るいちばん素晴らしい短編小説の一つを読んであげよう。題名は『ゆかしい家族』だ」

 「だめよ、ロジャー」ミセス・ミフリンが断固としていった。「今晩はいけないわ。十一時だし、ティタニアは疲れているじゃない。ボックだって犬小屋に引っ込んだのよ。あなたよりよっぽど常識があるわ」

 「よしよし」書店主は素直にいった。「ミス・チャップマン、よかったら本を持っていって寝床のなかで読みなさい。きみは閨房閲覧者リブロキュビキュラリストかい?」

 ティタニアは目を白黒させた。

 「驚くことはないわよ」ヘレンがいった。「ベッドで本を読むのが好きかって訊いているだけ。あの単語が出てくるのを、わたし、いまかいまかと待っていたの。うまく使えたので、彼はご機嫌よ」

 「ベッドで読書ですか? 変わっていますね! そんなことする人がいるんでしょうか? 考えたこともなかったわ。ベッドに入ったら眠たくて眠たくて、そんなことをしようなんて思う暇もないわ」

 「それじゃ、お二人ともお休みなさい」とロジャーがいった。「美容のために寝たほうがいい。わたしもすぐ寝るよ」

 そう話したときはそのつもりだったのだが、店の奥の机にもどると彼はバートンがいうところの「不安を鎮める」本を納めた自分の蔵書の棚の上に視線を落とした。この棚には「天路歴程」、シェイクスピア、「憂鬱の解剖」、「家庭版詞華集」、「ジョージ・ハーバート詩集」、サミュエル・バトラーの「ノートブックス」、「草の葉」が並んでいた。彼は「憂鬱の解剖」を取り出した。真夜中に拾い読みをするならこれ以上におもしろい本はない。お気に入りの一節「心に安らぎを与える脱線 数々の不満を癒す方法」をめくっていると、本にひきこまれて、時計のかちかちと時を刻む音すら耳につかなくなる。唯一身体に残った意識はときどきパイプの灰を捨て、詰め直し、火をつけるのに必要な動作をするだけだった。毎日退屈な仕事のあれやこれやに追われる人間にとって、ひとりの時間は貴重な宝石である。ロジャーは貪るように真夜中の黙想にふけった。ロバート・バートンやジョージ・ハーバートのような信頼できる伴侶とはいつも打ち解けたつきあいをしてきた。孤独なオックスフォードの学者バートンがみずからの憂鬱を「癒す」ためにあの膨大な本を書いたのだと思うと彼は愉快な気持ちになったものだ。

 かびくさい古いページをめくっていくうちに、やがて「眠り」に関するつぎのような一節にぶつかった——

夕ご飯を食べて二、三時間後が最適である。その頃には食べ物が胃袋の底に落ち着いているからだ。まず右の脇腹を下にして寝るのがよい。その位置だと肝臓が下になるので、胃は圧迫されず、火の上に置かれたやかんのように暖められるからである。寝入りばなに左側を下にすると食べ物がいっそう降下する。時にはうつぶせもいいが、仰向けは絶対いけない。睡眠時間は憂鬱症の人間には七、八時間がちょうどよい——

 そうだとすれば、わたしも寝る時間だな、とロジャーは考えた。時計を見ると十二時半だった。明かりを消してかまどの火を見に台所にもどった。

 作者としては家庭内のいざこざに触れることはためらわれるのだが、ここは思い切ってロジャーが夜の見まわりの最後に必ず冷蔵庫にむかうことを申し上げねばならない。冷蔵庫のものを盗み食いすることについては二つの説があり、一つは夫の立場からの説、もう一つは妻の立場からの説である。夫は(単純なものだから)冷蔵庫内のごちそうをどれも少量ずついただいて、食べ物への略奪を分散させれば、全体として荒らされた跡はほとんど残らないと考えがちだ。しかるに妻に言わせれば(そしてミセス・ミフリンもロジャーにしばしばいって聞かせるのだが)、どれもこれもをすこしずつ食べるのではなく、一つの品を全部平らげられた方がはるかに都合がいいのだ。というのは前者の場合はどの品も残り物として有用な量を切ってしまうことになりやすいからである。しかしロジャーはよき夫ならだれもが持つ頑固な意地の悪さがあり、しかも冷たくひえた食べ物のうまさを知っていた。プルーンの煮込み、サヤエンドウ、味つけしてない冷たいゆでじゃがいも、チキンレッグ、アップルパイの残り半分、ライスプディング一口分、そうしたものが何度も何度も真夜中の宴で消えていったのである。彼はどの皿も平らげてしまわず、衰えることのない食欲で次から次へとつまみ食いすることを信条としていた。戦争のあいだはきっぱりとこの習慣を絶っていたが、ミセス・ミフリンは休戦成立以来、それが獰猛な食欲とともに再開されたことを知っていた。この習慣のせいで家庭の主婦はつぎの日の朝、無惨な食べ残しが集積する悲劇的光景を目撃することになる。小さなお茶碗にビートが二切れ、一インチ幅の細長いアップルパイのかけら、わずかにシロップを帯びてつつましく身を寄せ合うプルーンが三粒、黄色いボールにいっぱい作ってあったのに、今や大さじ一杯分しか残っていないルバーブの煮込み——どれほど有能な料理人でもこんな半端物でなにができるというのだろう? こういうたちの悪い習慣はいくら激しく非難してもしすぎることはない。

 しかしわたしたちの性根は変わるものではないし、しかもロジャーは普通の人以上に頑固だった。「憂鬱の解剖」を読むといつも彼は腹がへり、こっそりとご馳走の皿をいろいろ漁るのである。ボックもほんの一口、そのお裾分けにあずかるのだが、この秘密の夕餉にむける茶色い懇願の目は、それが恥ずべき、こそ泥じみた性質のものだと彼が自覚していることを滑稽にもあらわしていた。ボックはロジャーに冷蔵庫を荒らす権利がないことをちゃんと知っていた。犬は、どんな家庭であっても従うべき社会的な決まり事を、大枠において明確に理解している。しかしボックの顔はびくびくしながらも罪悪に身を投じたがっていることを示していた。ロジャーは黙って非難がましく横で見つめられるよりはましだと、冷えたじゃがいもはほとんど彼に与えたものだ。犬に見とがめられて耐えられる人間はいない。しかしバートンではないが、わたしの話も本筋からそれてしまったようだ。

 冷蔵庫のあとは、地下室である。自分の家を持つ者はだれでもそうだが、ロジャーも地下室に強い愛着を持っていた。ややかびくさいにおいはしたが、そこには酒がたっぷり詰まった箱があった。そしてコンクリートの床の上で桜色の輝きを放つかまどの口は、書店主にとって大きな喜びだった。火室の真っ赤な石炭の上で、小さな青い炎が飛び跳ねる様子はじつに目に快かった——それはスミレの花のように青い、かすかな、ふんわりとした小さな炎で、上昇するガスにゆすられて伸びたり縮んだりするのだった。石炭をくべて火が隠れてしまう前に、彼はブッシュミルズ・ウイスキーの木箱を引っ張り出して、頭の上の電灯を消し、そこに腰をおろして、火床のバラ色の輝きを見ながら最後の一服を吸う。タバコの煙は熱い火によってかまどに吸いこまれ、黄金色の光のなかで灰色に乾いて見えた。ボックは彼について階段をおり、地下室をあちらこちら嗅ぎまわったり詮索して歩いた。ロジャーは不滅のたばこについてバートンが語ったことばを思い出していた。

 たばこ、神から授けられた、貴重な、このうえないたばこ、それはいかなる不老長寿の薬、王水に溶けた金、賢者の石にも勝る至高の万能薬——無闇に吸うのではなく、適度に服用し、薬として使用するなら効き目のめざましい薬草である。しかし一般的には鋳掛け屋がエールを飲むように濫用されているため、疫病、害悪と化し、財産や土地や健康をひどく損ない、地獄の悪魔のように呪われ、精神と肉体を荒廃させ滅ぼすものとなっている——

 ボックは後ろ足で立って地下室の正面の壁を見あげていた。そこには鉄格子のはまった小窓が二つあり、店の正面入り口脇のくぼんだところに面していた。彼は低いうなり声をあげ、落ち着かなげに見えた。

 「どうした、ボック?」ロジャーはパイプを吸い終えておだやかな口調でいった。

 ボックは短く、鋭く、一声吠えたが、そこには抗議するような奇妙な響きがあった。しかしロジャーの心はまだバートンとともにあった。

 「ネズミかい?」彼はいった。「さもありなん! ここはラティスボンだからな、おまえさん、吠えちゃいかんよ。『フランスキャンプの出来事』(註 ロバート・ブラウニングの詩)にはこうある。『微笑みながら、ねずみは斃れた』(註 ブラウニングの詩の最終行は「微笑みながら、少年は斃れた」)」

 ボックは冗談に取り合わず、妙に興奮して上を見ながら地下室の正面のほうへ忍び足で進んだ。彼はまた低くうなった。

 「シーッ」ロジャーがやさしくいった。「ねずみなんか気にするな、ボック。ほら、石炭をくべてベッドに行くぞ。おやおや、一時じゃないか」

第十一章 ティタニア、ベッドのなかで読書をこころみる

 オーブリーはオペラグラスを手に窓際に座ったが、すぐに自分が疲れ切っていることに気がついた。ロマンチックな英雄的行為にはやる心も疲れにはかなわない。夢を追い求める者すべてにとって手ごわい敵である。その日は長い一日だったし、前日は頭をかち割られそうになった。窓を押し上げ、冷たい風にあたりながら、彼はかろうじて目を開けていた。うとうととしかけたときに、通りのむこう側から足音が聞こえてきた。

 それまでも何度か眠い目をこすり、ブルックリンの清らかな闇を、罪のない人々がそぞろ歩くのを見ていたのだが、しかし今度こそ待ちかまえていたものが来たようだ。その男は慎重かつ自信のある足取りで人目をはばかるように進んできた。オペラグラスは、本屋のそばの街灯の下に立ち止まった男の姿を、オーブリーの目に大きくうつした。薬屋のワイントラウブだった。

 本屋の正面は真っ暗闇で、舗道より下の部分がかすかに不思議な光を放っているだけだった。オーブリーはそれを見て変だとは思ったものの、店の入り口にオペラグラスをむけつづけた。ワイントラウブがポケットから鍵を取り出し、ひどく用心しながら鍵穴に差し込み、そっとドアを開けるのが見えた。ドアを開けたままにして、薬屋は店のなかに入った。

 「いったいなにをしているんだ?」オーブリーは怒りを覚えた。「あの野郎、自分用の鍵まで持っているぞ。まちがいない。あいつとミフリンは手を組んでいるんだ」

 一瞬彼はどうしてよいかわからなかった。下に駆けおりて通りのむこうに行くべきだろうか? 彼が躊躇しているそのとき、本屋の左の角にあわい光の筋がさした。オペラグラスをのぞくと、おぼろに見える本棚に懐中電灯の黄色い光の輪が映っていた。ワイントラウブが棚から一冊の本を引き抜くと光は消えた。つぎの瞬間、男はふたたび入り口にあらわれ、音を立てないように注意しながらドアを閉めると、ひっそりすばやく通りをむこうへ去った。すべてが終わるのに一分しかかからなかった。ドアの下のあたりに一、二分のあいだ黄色い楕円形の光が二つ見えていた。オペラグラスで見るとその光の斑点は地下室の窓だった。やがてその光も消え、すべてがおだやかな薄暗闇に包まれた。震えるような街灯の明かりのなかに、「この店には幽霊がいます」という本屋の看板が白く光った。

 オーブリーは椅子に深く腰掛けた。「なるほど」彼はひとりごちた。「あの店にぴったりの名前だ。いったいどういうことなのかさっぱりわからないぞ。やっぱりただの本泥棒なのかな。あいつとワイントラウブでにせ初版本を作ったりとか、その手の詐欺をはたらいているのだろうか? なんとかして調べたいものだが」

 彼は窓辺で見張りをつづけたが、ギッシング通りの静けさを破るものはなにもなかった。遠くのほうから高架鉄道がワーズワース・アヴェニューのカーブをきしりながら通過する音が低く聞こえてきた。通りを横切り、店のなかに飛び込んで、何事もなかったかどうか確かめるべきだろうか。しかし健全な若者ならだれでもそうだが、彼は物笑いの種になることを恐れていた。疲労が徐々に彼の懸念を麻痺させていった。遠くの教会の鐘が二時を打ち、こだました。彼は服を脱ぎ捨てベッドにもぐり込んだ。

 目を覚ましたのは日曜日の十時だった。陽の光が大きく部屋を半分に区切っていた。白いモスリンのカーテンが窓から外にはみ出し、旗のようになびいていた。オーブリーは時計を見て叫んだ。急に今までの信頼を裏切ったような気がした。道のむこうで起きていたこと、あれはなんだったのだろう?

 彼は本屋を望み見た。ギッシング通りは昼前のさわやかな静けさに包まれ明るく慎みぶかく見えた。ミフリンの家にはだれもいないようだ。最後に見たときと変わらなかったが、ただ正面の大窓の内側にいかつい緑の日よけがおろされ、本でいっぱいのアルコーブをのぞくことができなかった。

 オーブリーは部屋着のかわりに外套を着て、シャワーを探しに部屋の外に出た。おなじ階にある浴室には鍵がかかっていて、なかからたっぷり水を撥ね散らかす音が聞こえた。「いまいましいミセス・J・F・スミスめ」と彼はいった。裸足とパジャマのすねを恥ずかしく思いながら下の階に行こうとしたところ、手すり越しにミセス・シラーと宝探しトレジャー犬がなにやら家事にいそしんでいるのが見えた。パグは彼のパジャマの足を見つけてきゃんきゃんと吠えはじめた。オーブリーは冷たいシャワーを邪魔されていらいらと後じさった。彼は手早く髭を剃り服を着た。

 下におりる途中でミセス・シラーと出会った。非難がましい目つきだなと彼は思った。

 「昨日の晩、男の方が面会にいらっしゃったんですよ」と彼女はいった。「お会いできなくて残念だとおっしゃっていました」

 「帰るのが遅かったものですから」とオーブリーはいった。「名前をいいましたか?」

 「いいえ、また来るとだけ。階段でひっくり返って下宿のものがみんな起きちゃいましたの」彼女は苦々しくつけ加えた。

 彼は本屋から見られないように急いで下宿を離れた。なにごともなかったことを確かめたくて仕方がなかったが、通りのまむかいに下宿していることはミフリン夫妻に知られたくなかった。道路を斜めに横切りながら、昨夜食事をしたミルウオーキー・ランチが開いているのに気がついた。なかに入ってグレープフルーツ、ハムエッグ、コーヒー、そしてドーナッツで朝食を済ませた。彼はパイプに火をつけ、さてつぎはどうしようと考えながら窓際に座っていた。「まったく困ったことになった」と彼は思った。「どう出たところでうまくいかない。なにもしなければ、あの娘の身になにかが起きる。首を突っ込むのが早すぎると、彼女のご機嫌を損ねてしまう。ワイントラウブとあのシェフがなにを企んでいるのか、それさえわかればいいんだが」

 軽食堂はがら空きに等しかった。彼のそばで店主と店員が椅子に座って話をしていた。オーブリーは突然彼らの話にぎくりとした。

 「なあ、あの本屋のおやじ、一山当てたにちがいないぞ」

 「だれです、ミフリンですか?」

 「そうさ。今朝、店の前に止まっていた車を見たか?」

 「いいえ」

 「すげえ大型車だぜ」

 「きっと借りたんじゃないですか? どこに行くつもりだったのかな?」

 「さあね。とにかくでっかい車が入り口の前に止まっていたぜ」

 「ほら、あいつが雇ったべっぴんさんを見ました?」

 「もちろん。今頃なにをやっているのやら。彼女とドライブとしけ込んでるのかな」

 「でしょうね。ぼくだって行きたいですよ——」

 オーブリーはなにも聞かなかったかのように立ち上がり食堂を出た。あの娘は彼が寝過ごしているあいだに誘拐されたのだろうか? 武者修行の旅がとんだ失敗に終わったことを思うと彼は恥ずかしくて顔が赤くなった。最初に考えたことはワイントラウブの髭をつかんで、本屋との関係を白状させることだった。つぎに考えたのはミスタ・チャップマンに電話をして今までの経過を報告し注意をうながすことだった。しかし実際になにが起きたのかを確かめるまではどちらの行動もむだに終わりそうだ。彼は本丸の本屋に乗り込み、得体の知れない秘密をあばいてやろうと心に決めた。

 彼は裏の路地に急いでまわり、住居として使っている部屋を見まわした。二階の窓が二つ、わずかにあいていたが、人がいる気配はない。裏門はあいかわらず鍵がかかっていなかった。彼は大胆に裏庭へ入っていった。

 柵に囲まれた狭い庭は、冬の弱々しい日差しを浴びて落ち着いて見えた。一方の側には低木と多年草が生い茂っていて、その根本は藁に覆われていた。芝地は平坦でなく、草は黄褐色にしおれ、霜を浴びて葉に斑が入っていた。台所のドア——登り段をあがったところにあった——の下には、葡萄をはわせた小さな格子と丸太のベンチがあった。ロジャーが夏の夕方パイプをふかす場所である。この格子の後ろに地下室へのドアがあった。オーブリーが取っ手に手をかけると、鍵がかかっていた。

 些細なことにこだわるような気分ではなかった。本屋の謎をあばこうという彼の決意は固かった。ドアの右、煉瓦の舗石の位置に低い窓があった。埃まみれの窓ガラスを通してみると、内側には留め金が一つしかないようだ。彼は窓ガラスをかかとで蹴りつけた。ガラスが地下室の床に散らばる音とともに、低いうなり声が聞こえた。留め金をはずし、ガラスの割れた窓を押し上げ、なかをのぞいた。ボックがとまどったように首をかしげ、低いうなり声をあげていた。無意識に身体のなかからでてくるようなうなり声である。