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Chapter 15: 第十二章 オーブリーは他人とはちがうサービスを決意する
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About This Book

An eccentric antiquarian bookseller presides over a smoke-filled secondhand shop he regards as a shrine to reading, offering personalized book prescriptions rather than conventional advertising. A young advertising copywriter arrives, sparking conversations about promotion, the therapeutic power of literature, and readers' hidden needs; he accepts the proprietor's hospitality and learns the shop's ways. The narrative uses the shop and its noticeboard of recommendations to stage debates about taste, postwar moral disquiet, and reading as cure, while comic and romantic threads involving other visitors gradually entwine with the bookseller's devotion to good books.

 オーブリーはやれやれと思ったが、しかしにこやかにこういった。「やあ、ボック! いい子だ! ようし、おとなしくしてろよ!」驚いたことにボックは彼を友達と認めて尻尾をかすかに振った。けれどもうなり声はつづいている。

 「形にこだわるばかりが能じゃないってことを、犬もわかってほしいな」とオーブリーは思った。「正面の入り口から入れば、ボックはなにもいわないんだ。こんなところから入ろうとするからとまどっているだけで。とにかく、いちかばちかやるしかない」

 彼は三角形の鋭いガラスの破片がのこる窓を慎重に持ちあげて足からなかに入ろうとした。ボックが突き出された足にどれほど食いつきたいと思ったかはわからない。しかし彼は老犬であり、永年受けてきた人間のやさしさが戦闘本能を鈍らせていた。さらに彼はオーブリーをちゃんと覚えていて、そのズボンのにおいになんら敵意を感じなかった。そういうわけで彼は小さく抗議のうなり声をあげるだけで我慢したのである。彼はアイリッシュ・テリヤだが、シンフェイン党とは無縁だった。

 オーブリーは床に飛び降りると犬を撫でて、自分の幸運に感謝した。彼は地下室を見まわした。怪物でも潜んでやしないかと思っているような目つきだったが、ビール瓶の箱以上にぞっとするものはなにもなかった。彼は静かに地下室の階段をのぼりはじめた。ボックは当然興味津々といった様子で後ろからついて行った。

 「まいったな」オーブリーは思った。「家のなかをどこまでもついてこられちゃたまらない。なにかに触っただけで、すねの肉にかじりつかれるかもしれないし」

 彼が裏庭へ通じるドアをあけると、ボックは屋外を好むアイリッシュ・テリヤの本能にしたがって外に走り出た。オーブリーは急いでまたドアを閉めた。ボックの顔が割れた窓のところにあらわれ、憤慨と驚きの入りまじった奇妙な表情を浮かべてのぞき込んだので、オーブリーは声をあげて笑いそうになった。「よしよし。どうもしやしないよ。ちょいと見てまわるだけだから」

 階段をのぼるとそこは台所だった。あたりはしんと静まりかえっていた。目覚まし時計がつまずいて転びそうになるくらい大急ぎで時を刻んでいた。ゼラニウムの鉢が窓辺に飾ってある。調理用レンジは蓋が取られ、注意深く火が絶えないようにしてあり、おだやかな暖かさをまわりにまき散らしていた。暗い小さな食器室を通ると食事室だった。ここも異常はないようだ。白いヒースの鉢がテーブルの上にあり、コーンパイプが食器棚に置いてあった。「こんなに犯罪っ気のない誘拐犯の部屋など聞いたことがない。映画監督がこれよりましなセットを組むことができなかったら屈辱ものだな」

 その瞬間、頭の上から足音が聞こえた。不思議なくらいやわらかな、かすかな足音だった。とたんに彼は警戒して身がまえた。最悪の事態になりそうだった。

 二階の窓が勢いよくあいた。「ボック、裏庭でなにをしているの?」声が聞こえてきた——ひどく澄んだ、命令するような声で、なんとはなしに豪華なガラスのタンブラーを叩いたときの、か細い響きを思い出させた。ティタニアだった。

 彼は驚いて立ちつくした。するとドアがあいて階段をおりてくる音が聞こえた。どうしよう、こんなところを見つかったらおしまいだ。彼女はなんと思うだろう? 彼は食器室に飛ぶようにもどり、身体をちぢめて隅に隠れた。足音が階段の下に達したのがわかった。中央のホールからは直接台所に通じるドアがある。だから彼女が食器室を通る必要はない、と彼は思った。彼女が台所に入る音が聞こえた。

 不安のあまり彼は洗面台の下にしゃがみ込んだのだが、曲げた足が壁によりかかっていた大きなブリキのお盆に触れてしまった。それはすさまじい音を立てて床にずり落ちた。

 「ボック!」ティタニアが鋭くいった。「なにをしているの?」

 オーブリーは惨めな気持ちで犬の吠え声をまねるべきだろうかと思ったが、すでに遅かった。食器室のドアがあいてティタニアがなかをのぞいた。

 二人はどちらも恐怖の目つきで数秒間相手を見つめた。面目を失って隅っこの棚の下にしゃがんでいても、オーブリーの麻痺した感覚は、これほど美しい女性の姿は見たことがない、と彼に語りかけていた。ティタニアは青い化粧着と、訳のわからぬ奇妙なひらひらしたレースのボンネットをかぶっていた。彼女の輝く黒髪は太い二本のおさげに編まれて両肩に垂れていた。その青い目は驚きと警戒の色をありありと浮かべていたが、それはすぐさま怒りに変わった。

 「ミスタ・ギルバート!」彼女は叫んだ。彼は一瞬、彼女が笑い出すのではないかと思った。その時、新たな表情が彼女の顔に浮かんだ。彼女はなにもいわず背をむけると走り去った。二階に駆けあがる音が聞こえた。ドアがばたんと鳴り、鍵がかかった。窓が急いで閉められた。ふたたび静寂が訪れた。

 あまりの無念さにまともにものも考えられぬまま、彼は窮屈な体勢から立ち上がった。いったいどうしたらいいのだろう? どうしたらわかってもらえるだろう? 彼は痛々しいまでに悩みながら食器室の洗面台のそばに立っていた。こっそり家から出ていくべきだろうか? いや、説明もしないでそんなことはできない。それに彼は得体の知れない危険がこの家に迫っていると、いまだに確信していた。どんなにばつの悪い思いをすることになろうと、ティタニアに注意をうながさなければならない。彼女が化粧着を着てさえなければ——ことはずっと簡単だったのだが。

 彼はホールに出てきて、自信を失いそうな自分を励ましながら階段の下に立った。しばらくじっと待ってから、彼は咳払いして呼びかけた。

 「ミス・チャップマン!」

 答えはなかったが、頭の上で軽く、すばやく動く音が聞こえた。

 「ミス・チャップマン!」彼はもう一度呼んだ。

 ドアのあく音が聞こえ、冷ややかな調子の澄んだ声が一階に投げかけられた。今度は氷を入れた細めのタンブラーのような響きだった。

 「ミスタ・ギルバート!」

 「なんです?」彼は情けない声でいった。

 「タクシーを呼んでくださる?」

 落ち着いた、命令的な口調がなんとはなしに彼をいらだたせた。もちろんいろいろ問題はあっただろうが、しかし彼の行動はまったくの善意から出たものなのだ。

 「喜んで」と彼はいった。「でもその前にお話ししたいことがあります。とても重要なことなんです。怖がらせてしまったことはお詫びのしようがありませんが、ほんとうに緊急を要するんです」

 短い沈黙があった。それから彼女がいった。

 「ブルックリンておかしな場所ね。ちょっと待ってちょうだい」

 オーブリーは壁紙の模様を指でたどりながらぼんやりと立っていた。急にパイプを吸いたくてたまらなくなったが、こんな時にたばこをふかすのはエチケットに反するような気がした。

 ほどなくティタニアはいつもの服装で階段の上にあらわれた。彼女は踊り場に座り込んだ。なにもかも最悪だとオーブリーは感じた。彼女の顔が見られたならば、決まりの悪さも多少は報われるというものだ。しかし光が彼女の後ろの階段の窓から差し込み、顔が影になっていた。彼女は膝に腕をまわし、手を組んで座った。光は階段を斜めに横切り、彼女のくるぶしだけが光って見えた。彼の心は自分でも気がつかないうちに歩き慣れた道を進んだ。「シルクストッキングの広告にうってつけのすてきなポーズだ!」と彼は思った。「目も覚めるような全面広告ができるぞ。アンクルシマー社に話を持ちかけなければならないな」

 「それで?」彼女はいった。彼女は笑いをこらえることができなかった。彼の姿があまりにも哀れだったのである。彼女は吹き出し、鳥がさえずるような愛らしい笑い声をあげた。「どうしてパイプをおつけにならないの? ドイツの皇帝みたいに悲しそうだわ」

 「ミス・チャップマン。もしや——あなたがどうお考えになっているかわかりませんが、しかし今朝ここに入り込んだのは、わたしが——その、ここがあなたにとって安全な場所ではないと考えるからなんです」

 「そのようね。だからタクシーを呼んでとお願いしたの」

 「この店のまわりでおかしなことが起きています。こんなふうに独りでいるのはよくありません。あなたの身になにかがあったのではないかと不安になったんです。もちろんわたしは知らなかったんです、あなたが——あなたが——」

 彼女の頬にほのかな巴旦杏の花が咲いた。「本を読んでいたのよ」と彼女はいった。「ミスタ・ミフリンがあんまり寝床で読書する話をするから、ためしてみようと思ったの。お二人は今日いっしょに外出しようって誘ってくれたんだけど、わたしは断ったの。だって本屋さんになるんですもの、文学にすこしでも追いついておかなければならないわ。読まなければならない本がたまる一方なのよ。お二人が出て行ったあと、わたし——わたし——つまりベッドで本を読むのがみんながいうようなものかどうか、ためしてみたかったのよ」

 「ミフリンはどこに行ったんです? いったいなんだってあなたをここに置いてきぼりにしたんです?」

 「わたしにはボックがいるわ。いったいなによ、日曜の朝のブルックリンがそんなに危険とは思えないわ。お知りになりたければいいますけど、彼とミセス・ミフリンはお父さんのところへ一日遊びに出かけたんです。わたしも行くことになっていたんだけど、断ったの。それがあなたとなんの関係があって? あなたって『箱ちがい』のモリス・フィンズベリーとおなじくらい悪者ね。犬の吠え声が聞こえたとき、ちょうどその本を読んでいたのよ」

 オーブリーはだんだんいらいらしてきた。「わたしが余計な真似をしたと思っているようですが、一つ、二ついわせてください」彼は金曜日の晩に店を出てから起きたことを手短に語ったが、道のまむかいに下宿していることは省いた。

 「なにかひどく感心できないことが起きているんです。はじめミフリンは被害者なのかと思っていました。この店から貴重な本をかっぱらう陰謀があるんじゃないかと思ったんです。でもワイントラウブが自分の鍵でここに入るのを見て、気がつきました。やつとミフリンはぐるなんです。そういうことなんですよ。やつらがなにを企んでいるのかはわかりませんが、わたしはどうも気に入らない。ミフリンはお父さんに会いに行ったといいましたね。きっとあなたをだますための口実に過ぎないはずです。わたしならミスタ・チャップマンに電話して、あなたをここから連れ出すべきだといいますね」

 「ミスタ・ミフリンの悪口はやめてちょうだい」ティタニアが怒っていった。「彼はお父さんの古い友達のひとりよ。あなたがこの家に押し入って、わたしを死ぬほど怖がらせたことをミスタ・ミフリンが知ったら、なんていうかしら? 頭を殴られたことはお気の毒に思いますわ。だってそこがお弱いようなんですもの。おあいにくですが、自分の身は自分で守ります。映画と勘ちがいしないでちょうだい」

 「それじゃ、あのワイントラウブの行動をどう説明するんです? 夜中にだれかが店のなかに出たり入ったりして本を盗んでもいいんですか?」

 「そんなこと、お答えする義務はありません。説明する義務はあなたにあると思います。ワイントラウブさんはもの静かなおじさんよ。おいしいチョコレートを五番街の半値で売っているのよ。ミスタ・ミフリンが教えてくれたけど、彼はうちのお得意さまなの。きっと仕事のせいで昼間は本が読めなくて、夜中にここに来て本を借りるのよ。たぶんベッドで本を読むんでしょうね」

 「夜中に裏の路地でドイツ語を話すようなやつがもの静かなおじさんとは思えませんね。いいですか、あなたの幽霊書店はトマス・カーライルよりもっとたちの悪いなにかに取り憑かれているんですよ。これを見てください」彼はポケットから例の本の表紙を取りだし、そこに書き込まれた符号を指さした。

 「それはミフリンさんの筆跡ね」ティタニアは上の列の数字を指さしていった。「好きな本にはそういう印をつけるのよ。面白い一節を見つけたページをあらわしているの」

 「そうです。そしてこっちはワイントラウブの筆跡です」オーブリーはすみれ色のインクで書かれた番号をさしていった。「これがやつらの共謀の証拠じゃないなら、いったいなんだというんです。クロムウェルの本がここにあるなら、見せてくれませんか」

 二人は店舗に移動した。ティタニアが先に立ってかびくさい通路を進んでいった。オーブリーは確信に満ちた頑固な彼女の小さな肩を見て腹が立った。彼は彼女をつかんで揺さぶってやりたいという激しい気持ちに襲われた。彼女の輝かしい、なにも知らない青春が、薄汚れた本の納骨所にあるということが彼には不愉快だった。「彼女はこんな店にはふさわしくないんだ——『リベレイター』(註 1918年発刊の社会主義雑誌)に載ったパッカードの広告みたいなものだ」と彼は思った。

 二人は歴史のアルコーヴに立っていた。「ここにあるわ」と彼女はいった。「ううん、ちがう——これは『フリードリヒ大王の生涯』だわ」

 棚には二インチの隙間があった。クロムウェルは消えていた。

 「たぶんミスタ・ミフリンがどこかに持っていったんだと思う。昨日の晩はここにあったもの」

 「それはちがう」とオーブリーはいった。「いいですか、あれはワイントラウブが持って行ったんです。この目で見たんだ。はっきりいいましょう。戦争はけっして終わっていないんです。ワイントラウブはドイツ人。カーライルはドイツびいき——それくらいは大学で習いました。あなたの友達のミフリンも、話を聞いたかぎりでは、ドイツびいきだと思います!」

 ティタニアは頬を赤く燃え立たせて彼とむかい合った。

 「いいかげんにして!」彼女は叫んだ。「つぎはわたしのお父さんも、ついでにわたしもドイツびいきだっていうんでしょうね! ミスタ・ミフリンに直接いってもらいたいものだわ」

 「そのつもりですよ、ご心配なく」オーブリーは顔をゆがめていった。彼は絶望的なまでにティタニアのご機嫌を損ねたことを理解したが、自分の信念を曲げようとはしなかった。沈む心で彼は彼女の顔を見た。それは色あせた装丁の並ぶ棚の前にくっきりと浮かんでいた。彼女の目は深い、燃えるような青に輝き、あごは怒りに震えていた。

 「いいこと」彼女はつよい口調でいった。「わたしかあなたか、どっちかがここを出て行くのよ。あなたがまだいるつもりなら、わたしのためにタクシーを呼んでちょうだい」

 オーブリーも彼女とおなじくらいむかっ腹をたてていた。

 「帰りますよ。でもフェアに振る舞ってもらわなくちゃ困ります。ミフリンとワイントラウブの二人はなにかを企んでいる。これは誓っていいます。これから証拠をつかんであなたにお見せします。でもわたしが彼らを見張っていることは教えてはいけません。そんなことされたら、もちろんあいつらは計画を中止するでしょう。あなたがわたしをどう思おうとかまいません。でもそのことだけは約束してください」

 「なにも約束なんかできません。二度とあなたと口をきかないこと以外は。男の人は何人も見ているけど——あなたみたいな人ははじめてよ」

 「あいつらに警告しないと約束するまでここを出て行くことはできない」彼はいい返した。「いまのことはあなたを信じて打ち明けたのです。やつらはもうわたしの下宿先を知っている。これが冗談だと思いますか? 二度もわたしを消そうとしたんですよ。あなたがこのことをミフリンにもらせば、彼はほかの二人に警告するでしょう」

 「あなたは店に押し入ったことをミスタ・ミフリンに知られるのが怖いのね」彼女は嘲るようにいった。

 「そう考えるのはあなたの自由です」

 「なにも約束しませんからね!」彼女は突然あらあらしくそういった。それから顔色が変わった。挑戦的な小さな口元がゆがみ、その痛ましい曲線の両端から力が抜け落ちていくようだった。「いいわ、約束する」と彼女はいった。「それがフェアだと思うわ。どっちにしろミスタ・ミフリンには話せない。あなたにおびえたことなんか恥ずかしくて話せない。にくたらしい人。ここでたのしみながら仕事をしようと思っていたのに、あなたのおかげで台なしだわ!」

 一瞬、彼女が泣き出すのではないかという恐ろしい思いが頭をよぎった。しかし彼は映画のなかでヒロインが泣く場面を思い出し、手近にテーブルと椅子がなければそういうことにはならないはずだと思った。

 「ミス・チャップマン」と彼はいった。「申し訳なくて言葉もありません。でも誓っていいますが、わたしがしたことは真心から出たものです。まちがっていたなら、二度とわたしに話しかける必要はありません。まちがっていたなら、お父さんに——グレイ・マター社との広告契約をやめるようにいえばいい。それ以上はなにもいえません」

 その言葉の通り、彼は口がきけなくなった。彼女のためなら自分を犠牲にしても平気なつもりだった。

 彼女はなにもいわず彼を正面のドアから送り出した。

第十二章 オーブリーは他人とはちがうサービスを決意する

 若者がその日曜日のオーブリーくらいみじめな午後を過ごすことは、そう多くはないだろう。ただ一つの慰めは、彼が本屋を出てから二十分後にタクシーがやってきて(彼はそのとき寝室の窓辺に座ってふさぎ込んでいた)ティタニアが乗り込み、走り去ったことである。ラーチモントの一行に合流するのだと思い、彼女が「交戦地帯」と彼が呼んでいるところから抜け出したことを知って喜んだ。オー・ヘンリーははじめて彼に慰めを与えなかった。パイプは苦くてまずかった。ワイントラウブがなにをしているのか知りたくてたまらなかったが、昼日中にさぐりを入れる勇気はなかった。暗くなるまで待とうと彼は考えた。安息日の通りの静けさと、サッカレー大通にむかう乳母車の行列を見ながら、彼はたんなる想像上の疑惑が、彼女との友情をぶち壊しにしてしまったのだろうかと、もう一度思った。

 とうとう彼は狭苦しい寝室に我慢ができなくなった。下の階でだれかが悲しげにフルートを吹いていた。胸の張り裂けそうな思いをしている者にはひどく残酷な拷問である。下宿人が教会に行っているあいだ、疲れを知らないミセス・シラーは軽く家の掃除をしていた。隣の部屋でじゅうたん掃除機が行ったり来たりしながら単調な摩擦音を立てていた。彼はいらいらと階段をきしませて下におりたが、浴室からはいつもの水を撥ね散らかす音が聞こえた。玄関の鏡の枠には鉛筆書きのメモがあった。「ミセス・スミス、ターキントン1565にご連絡を」と書いてある。理由もなく腹を立てた彼はノートから紙を引きちぎりこう書いた。「ミセス・スミス、バース4200にご連絡を(註 温泉都市バースは浴室のバスとおなじ綴り)」彼は二階に上がって浴室のドアをノックした。「入ってこないで!」あわてた女の声が叫んだ。彼はメモをドアの下から差し込むと下宿を出た。

 風の強いプロスペクト公園の小径を歩きながら、彼は容赦なく自分を責めた。「おまえが馬鹿なことをしたおかげで彼女とは二度と会えなくなったんだぞ」彼はうめいた。「なにかを証明しないかぎりは」本棚の前に立つティタニアの顔が狂おしいまでに心に浮かんできた。「たのしみながら仕事をしようと思っていたのに、あなたのおかげで台なしだわ!」つぎの彼女の言葉には、どれだけ怒りに満ちた確信がこもっていただろう。「男の人は何人も見ているけど——あなたみたいな人ははじめてよ!」

 心は千々に乱れていても使い慣れた業界の言葉づかいが自然と口をついて出た。「すくなくとも『他人とはちがう』ことを認めてくれたわけだ」彼は悲しげにいった。彼はグレイ・マター社社訓集の第一条を思い出した。それは雇い主が販売員の参考のために出した気のきいた小冊子だった。

 「ビジネスは『信頼』のうえに築かれる。グレイ・マター社のサービスをクライアントに売り込む前に、自分自身を売り込まなければならない」

 「どうやって彼女にぼくを売り込むか?」彼は考え込んだ。「とにかくやれることをやるしかない。他人とはちがうサービスをするしかないんだ。ここでくじけたら、彼女は二度とぼくに話しかけてくれないぞ。それだけじゃなくて、会社は父親のひいきを失ってしまう。考えられない話だ」

 考えられないとはいいつつも、彼はそのことをさんざん考えた。長々とつづく広告板のそばを歩いていたので(彼はフラットブッシュの郊外にむかっていた)、ときどき広告のアイデアが頭に浮かんできた。彼は広告板にチャップマン・プルーンを宣伝する色鮮やかなリトグラフが張られているさまを想像した。「アダムとイブは新婚旅行でプルーンを食べた」という標語が頭にひらめき、この文句にすばらしい絵が添えられているところを思い描いた。このように男というものはだれでも苦悩の時間にみずからが選んだ専門分野に慰めを求めるのだ。運命に打ちのめされた詩人は精妙な脚韻で傷を癒す。禁酒法支持者はほかの人が禁酒に苦しむ様子を思い描いて、憂鬱のどん底を切り抜ける。デトロイト市民はどれほどつらい目にあっても修理する自動車があるかぎり自分の手で命を断つことはない。

 何マイルも歩くうちに、オーブリーの絶望的な気分は徐々に風に吹き飛ばされて消えていった。ゼウスの陽気な双子の息子、オリソン・スウェット・マーデン(註 実業家。楽観主義を基底にしたビジネス書で有名)とラルフ・ウォルド・トライン(註 ヘンリー・フォードにも影響を与えた新思想の主導者)の朗らかな精神が彼に寄り添っていて、不可能なことなどなにもないことを思い出させてくれたようだった。とある小さなレストランにはソーセージとシロップのかかったホットケーキがあった。ギッシング通りにもどるとあたりは暗くなっていた。彼はさらなる奮闘にむけて気を引き締めた。

 九時頃、彼は裏の路地を歩いていた。彼はミセス・シラーの下宿の部屋に外套とクロムウェルの表紙を置いてきていた——しかし書き込みは用心してポケットのメモ用紙に写してあった。本屋の裏の明かりを見て、ミフリン夫妻と雇い人が無事家に着いたことを知った。ワイントラウブの薬局の裏に来たときは、建物の外郭を注意して調べた。

 薬屋は前にも説明したようにギッシング通りとワーズワース・アヴェニューの交差する角に建っていた。ちょうど高架鉄道が長いカーブを描いてまわり込んできている場所である。このカーブを支えるために高架道の足場が建物の裏の屋根から突き出していて、オーブリーは前の日、その事実をしっかりと観察し目に焼きつけていた。薬局の正面は三階建てだったが、後ろの方はがくんと落ち込んで二階建てになっており、平らな屋根がのっかっていた。この屋根から窓が二つのぞいていた。ワイントラウブの裏庭は路地に面していたが、門は閉まっていた。柵をよじ登るのはむずしくなかったものの、そこまで露骨な手段に訴えることはためらわれた。

 彼は最寄りの階段をつかって高架鉄道の駅にあがった。五セントを払って回転ゲートを抜け、プラットフォームに出る。列車が走り去るのを待ち、風が吹きすさぶ長い厚板のプラットフォームにだれもいないことを確かめると、線路脇を走る細い歩道に飛びおりた。帯電している第三レールのすぐそばだったので、用心ぶかく歩かなければならなかったが、外側に張りつくようにしてなにごともなく進むことができた。十五フィートほどの間隔を置いて大梁がレールと直角に交わるようにわたされ、下の通りから垂直に延びる支柱に支えられていた。四つ目の大梁はワイントラウブの家の裏の隅に突きだしていて、彼はそれに沿ってそろりそろりと這うように進んだ。下の舗道には通行人がいるので、見つかりはしないかとびくびくしなければならなかったが、しかし梁の先端まで無事たどり着くことができた。ここから十二フィートほどの高さを飛びおりればワイントラウブ薬局の裏側の屋根にいける。一瞬彼は、そこにおりてしまえばおなじ経路でもどることはできないのだと思った。しかしその危険は承知でやらなければならない。梁の上にまたがって脚をぶらぶらさせている彼の姿は人目を引く危険性がおおいにあった。

 彼はそのとき外套を持ってこなかったことを後悔した。というのは外套を先に落としてその上に飛びおりれば着地したときに音が響かないだろうからだ。彼は上着を脱ぎ、屋根の片隅に慎重に落とした。それから手でぶら下がるようにしてできるだけ身体を低い位置に持っていき、列車が頭上を通り、その轟音でほかのすべての音を消す瞬間を抜け目なくねらって手を放した。

 数分間、彼はブリキの屋根の上にうつむけに横たわっていた。そのあいだにいくつもの苦々しい思いが頭に浮かんできた。本気でワイントラウブの家に忍び込むつもりなら、なぜもっと綿密な計画を練らなかったのか? たとえば、なぜ家のなかに人が何人いるのか確かめなかったのか? なぜ友達のひとりと時間をしめし合わせてワイントラウブに電話をかけてもらい、家に侵入しても気づかれないよう、より確実な手立てを工夫しなかったのか? それに家に入ったらなにを見、なにをしようというつもりなのか? 彼はこうした質問にまったく答えることができなかった。

 外はやけに寒く、上着を着直したときはほっとした。小型拳銃はまだ尻ポケットのなかだ。べつの考えが浮かんできた——それはテニスシューズを履いてくるべきだったということだった。しかし彼が履いているゴムヒールの靴はアメリカ全土で宣伝されているブランドなのだと思うとなんとなく安心できた。彼は一つの窓の下枠まで静かに這っていった。窓は閉まっていて、部屋の内部は暗かった。ブラインドがほとんど下までさがっていたが四インチほどの隙間が空いていた。用心しながら下枠からのぞき込むと、奥のほうに明るい光を浴びたドアと通路が見えた。

 「一つだけ気をつけなければならないのは、子供たちだな。きっと二人以上いるだろう——子供のいないドイツ人なんて聞いたことがない。起こしたりしたら、泣きわめかれる。この部屋は南東をむいているから、たぶん子供部屋だろう。それに窓ががっちり閉まっている。たぶんドイツ人は寝室の通気にはこれがいいと思っているんだ」

 彼の推測はそう的はずれでもなかったようだ。というのは目が薄暗がりに慣れると、子供用ベッドが二つ見えたような気がしたからだ。それからべつの窓の方へ這っていった。こちらはブラインドが窓枠の下まできっちり下りていた。慎重に窓を持ち上げてみると鍵がかかっている。どうしたらいいのかわからなかったので、最初の窓にもどり、腹ばいになってのぞき込んだ。窓枠は屋根よりわずかに高い位置にあり、なかを見るには手を突いて身体をすこしだけ浮かす必要があったが、これはなかなかにつらい姿勢だった。しかもブリキ板の屋根は動くと騒々しくつぶれやすい。しばらく寒さに震え、パイプを吸っても大丈夫だろうかと思いながらはいつくばっていた。

 「もう一つ気をつけるべきことがあるぞ」と彼は思った。「それは犬だ。ダックスフントを飼っていないドイツ人なんて聞いたことがないからな」

 明かりに照らし出されたドアを長いこと見つめていたがなにも起きず、これでは時間のむだだと思いはじめたとき、恰幅のいい、人の良さそうな女が廊下にあらわれた。彼女は彼が観察していた部屋に入ってドアを閉めた。電気をつけ、恐ろしいことに服を脱ぎはじめた。まったく予想もしていなかったことなので、彼は急いで退却した。こんなところにいてもなにも得るものがないことは明らかだった。びくびくしながら屋根の一方の端に座り込んで、つぎにどうしようかと考えた。

 そうするうちに、ほぼちょうど真下にある裏口のドアがあき、ドアの前の階段脇に置いてあるゴミ入れがガチャンと鳴った。ドアはおそらく三十秒ほどあいていただろう。男の声——ワイントラウブの声だ、と彼は思った——がドイツ語を話していた。生まれてはじめて大学のドイツ語講師がここにいたら助かるのに、と思い——その場とはまったく関係のないことだが——あの講師は今どうやって生計を立てているのだろうとちらりと思った。末尾の動詞がおもおもしく響く、長々しくて、いかつい文だったが、彼は重要と思われる一節を聞き取った。「ナッハ・フィラデルフィア・ゲーエン」——「フィラデルフィアに行く」

 ミフリンのことだろうか? と彼は思った。

 ドアがまた閉まった。雨樋越しに身を乗り出してみると、台所の明かりが消えた。すぐ足下の窓の上部からなかをのぞこうとしたのだが、身を乗り出しすぎて、手にしたブリキの樋がぐにゃりと曲がった。どうやったのか自分でもわからないが、彼は壁に沿ってすべり落ち、足が窓枠をとらえた。手は頭の上のブリキの雨樋をつかんだままだった。急いでその姿勢から下におりると、裏口のドアが目の前にあった。念入りに計画を練ったとしてもこれ以上静かにはおりられなかっただろう。しかし彼はひどくあたふたして、勘づかれたのではなかろうかと、庭の端に身を隠した。

 数分待っても恐れていたことは起きなかったので、彼は勇気を出した。家の奥のほう——ワーズワース・アヴェニューから離れたほう——には舗装した小径がついていて、その先には屋外から地下室に通じる、斜めにかしいだ旧式のドアがあった。彼はそれを油断なく見つめた。路地に面した窓の一つから明るい光がさしていた。彼は四つんばいになってその窓の下へ這っていったが、のぞき込む前にもうすこしあたりを調べることにした。地下室に通じるドアの、片方の扉が開いていたので、隙間に鼻を突っ込んでみた。下は真っ暗だったが、塗料と薬品の強い湿ったにおいが立ちのぼってきた。用心しながらくんくんとにおいをかいでみた。「この下に薬をしまっているんだな」と彼は思った。

 注意しながら四つんばいのまま明かりのともる窓のほうへ這ってもどった。一度に数インチずつ頭をあげ、とうとう窓枠より上に目を持っていった。残念なことに窓の下半分はすりガラスだった。壁に取りつけられたパイプから突然液体が噴き出し、地面についていた膝にかかった。においを嗅ぐと、またしても強烈な酸のにおいだ。細心の注意を払って、煉瓦の壁にもたれながら立ち上がり、窓の上半分からなかを盗み見た。

 薬を調合する部屋のようだった。人がいなかったので、急いでなかを見わたした。壁に沿ってさまざまな瓶が並んでいる。秤が載っている背の高いカウンター、机、流し。奥には店舗のほうから見えた竹のカーテンがかかっていた。どこもかしこもひどく散らかっていた。すり鉢、ビーカー、タイプライター、分類棚、フックで留めた古い埃だらけの処方箋の束、錠剤とカプセルの紙袋、それらすべてが乱雑に置かれていた。三脚台に載せられたガラスの器のなかでなにかの混合液が青いガスの炎に熱せられていた。とりわけオーブリーの注意を引いたのは、カウンターの一方の端に無造作に積まれた、高さ数フィートにもなろうとする古本の山だった。

 さらにもっと気をつけてみると、調剤台の上にある、鏡と思われたものは、じつは店のなかをのぞくのぞき穴だった。そこを通してワイントラウブが葉巻のケースの後ろに立ち、夜おそく訪れた客にたいしていつもの商売用の愛想を振りまいているのが見えた。客が立ち去るとワイントラウブはドアに鍵をかけ、ブラインドをおろした。そのあと調剤室にもどってきたので、オーブリーは見つからないように頭を引っ込めた。

 ほどなく危険を承知でもう一度なかをのぞくと、そこには奇妙な光景があった。薬屋はカウンターの上にかがみこんでなにかの液体をガラス容器に注いでいた。彼の顔はぶら下がっている電灯の真下にあり、オーブリーはその変貌ぶりに驚いた。葉巻とソーダ水を売る、一見にこやかな薬屋の表情は消え、そのかわりに重苦しい、残忍な、顎の大きな顔があった。まぶたが目の上に垂れかかり、巨大な顎の先は四角く突き出、脂肪のついた頬は油ぎって光っている。その顎が強い感情を抑えるかのようにかすかに震えた。男は仕事に完全にのめり込んでいた。肉の厚い下唇が上唇をなめた。頬骨の上には深くて赤い傷痕があった。オーブリーはその忌まわしいほど残忍な仮面が持つ荒々しい迫力に、身がすくむような驚きを感じた。

 「これがもの静かなおじさんの正体か!」

 ちょうどその時、竹のカーテンがひらいて二階で見た女があらわれた。オーブリーは我を忘れてじっと見つめた。彼女は色あせた部屋着を着て、これから寝ようとしているかのように髪の毛を編んでいた。彼女は怯えているようだった。唇が動くのが見えたから、なにかしゃべったにちがいない。男は液体の最後の一滴を注ぐまでカウンターにかがみつづけた。口をきっと引き締めると急に身体を起こし、腕を伸ばして命令するように指さしながら、彼女のほうに一歩近づいた。オーブリーは彼の顔がはっきりと見えた。そこには獣以上の獰猛さがあった。女の顔はおどおどした、懇願するような表情を浮かべて語りかけるのだが、荒々しい仕草の前にはなすすべがなかった。彼女はくるりとむきを変え姿を消した。オーブリーは薬屋のさし示す指が震えているのを見た。彼はふたたび頭を引っ込めた。「人ごみのなかで見たらさびしそうに見えるような顔なんだがな」と彼は思った。「それに映画で見る表情はなんでも誇張されているものと思っていたが。ふむ、あいつはセダ・バラ(註 妖婦役で有名な俳優)の相手役を演じるべきだ」

 彼は舗装した小径に張りつくように身を伏せた。もうちょっと探りを入れることができれば、大きな手がかりがつかめそうな気がした。上の窓の明かりが消えたので、彼は必要ならすばやく動くことができるように身がまえた。もしかすると男は地下室のドアを閉めに外に出てくるかもしれない——

 そう思ったときに小径のむこう、彼と台所のあいだに、光るものが見えた。光は地面に接した小さな格子窓からさしていた。どうやら薬屋は地下室におりていったようだ。オーブリーは音を立てずに這ってそちらにむかった。明かりのともる窓ガラスに近づき、壁に張りついてなかをのぞいた。

 窓があまりに汚れていてはっきりとは見えなかったが、どうやら化学実験室と機械の修理工場を組み合わせたような場所だった。長い作業台が数個の電灯に照らされている。その上には妙な形のガラス瓶と雑多な道具がのっていた。ブリキの板、いくつもの銅管、ガスバーナー、万力、シリンダーのついた煮沸器、色つきの液体が入った大きな広口瓶。にぶいうなるような音も聞こえたが、それはモーターとベルトでつながれた、回転する機械から聞こえてくるようだ。もっとはっきり見えないものかと目をこらしているうちに、ガラスの汚れと思っていたものが、じつは内側から白色塗料を塗りつけたものだとわかった。それが一ケ所だけ剥げ落ちてのぞき穴になっていたのである。いちばん彼を驚かしたのは作業台のまわりに散らかっている多くの本の表紙だった。そのうちの一つは「クロムウェル伝」だと断言できた。あかるい青の表紙布はもうおなじみだった。

 その晩二度目であったが、オーブリーはかつての彼の先生がその場にいたら助かるのに、と思った。「化学の教授がここにいてくれさえしたら。いったいなにを企んでいるんだろう。あいつが調剤した薬を飲むのはごめんだな」

 長い時間夜気にさらされ、歯がかちかちと鳴った。しかも身体を伏せていた溝には、調剤室の流しから排水が流れてくるらしく、ずぶ濡れになってしまった。薬屋は彼に背中をむけていたため、地下室でなにをしているのかわからなかった。彼はもう充分に一晩分のスリルを味わったように感じた。這うようにして裏庭にもどり、散らかったからの箱のあいだを注意しながら歩いた。頭の上で高架鉄道の列車が轟音を立て、明るく電気に輝く車両がカーブを回って通り過ぎた。列車の音が鳴り響いているあいだに柵を乗り越え、路地に飛びおりた。

 「さてさて。あのボルシェビキ総司令本部でなにが起きているのか教えてくれる人がいたら、ベン・フランクリンが創刊した雑誌の好きな場所に全面広告をのせてやってもいいぞ。なんだかオクタゴン・ホテルを地図の上から消す準備をしているみたいだ」

 ワーズワース・アヴェニューに出ると、まだあいている菓子屋があったので、身体をあたためるために熱いチョコレートを一杯飲みに入った。「この仕事の必要経費は少々高くつきそうだ」と彼はひとり思った。「これはデインティビッツに請求しなければならないな。まさしくグレイ・マター社はほかとはちがうサービスを提供する! わが社はチャップマンの製品を大衆に宣伝するだけじゃなく、ブルックリンを襲う恐怖にたちむかい、彼の家族を犯罪から守るのだ。それにしても本屋がつきあっているあの相手は気に入らない。もしも『フィラデルフィアにナッハ・フィラデルフィア』が合図なら、ひとつ跡をつけてやろう。朝になったらフィラデルフィアに出発だ!」

第十三章 ラドロー通りの戦い

 オーブリーは意志の力と意識下にひそむ時間感覚だけをたよりに、つぎの日の朝六時に起床した。魅力的な若い娘にこれくらい心のこもった行為が捧げられることは、そう滅多にあることではない。若者は真剣に、原始人のように一心に眠った。それは彼にとってほとんど宗教的な儀式だった。ある二流の詩人が言ったように、彼は「眠りを生涯の仕事とした」のだ。

 しかしロジャーがどの列車に乗るのかわからなかった彼は、絶対にその跡を見失うわけにはいかなかったのである。六時十五分には彼はミルウォーキー・ランチでコーヒーとコーンビーフのハヤシ料理を食べていた(この店に閉店時間はない——「当店は『最後の審判の日』まで営業します。女性専用テーブルあり」と看板には書かれている)。慣れない早起きにはつきものの軽い憂鬱感にひたりながら、彼は近くて遠いティタニアのことを慈しむように考えた。彼には好きなだけ空想にふける時間があった。地下鉄へ急ぐロジャーがあらわれたのは七時十分過ぎだったからである。オーブリーは見つからないように慎重に距離を置いて跡をつけた。

 書店主と追跡者はともにペンシルベニア駅で八時の汽車に乗ったが、二人の気分には雲泥の差があった。ロジャーにとってこの遠出は単純に心浮きたつ遊山の旅だった。店に縛られていた期間があまりにも長かったため、一日じゅう外に出ていられるなど夢のような話だった。葉巻を二本買い——めったにない贅沢だ——列車がハッケンサックの沼沢地をがたごとと通り過ぎるあいだ、朝刊を膝の上に置きっぱなしにしていた。彼はオールダム蔵書の鑑定に呼ばれたことをたいへんな誇りに感じていた。ミスタ・オールダムはきわめて著名な蒐集家で、裕福なフィラデルフィアの商売人だった。ジョンソン、ラム、キーツ、ブレイクのえり抜かれた蒐集本は世界じゅうの好事家の羨望の的である。ロジャーは自分よりも名の知られた業者がたくさんいて、彼らがこのコレクションを調べて鑑定料を手にする機会に飛びつくであろうことをよく知っていた。長距離電話で聞いたところによると、ミスタ・オールダムはコレクションを売ることになり、オークションに出す前に今の市場でどれくらいの値がつくものか、専門家の意見をあおぎたいということだった。ロジャーは稀覯本や手書き原稿の今の相場にはあまり通じていなかったので、旅のほとんどは注釈つきのカタログで最近売買された本を見ながら過ごした。その本はミスタ・チャップマンが貸してくれたものだった。「今回の招待は、いつもわたしがいっていたことの証明だな。どんな分野であろうと、芸術家はたんなる商売人以上のものとしていつかは認められるのだ。どこで聞きつけたのか、ミスタ・オールダムはわたしが古書の販売をやっているだけでなく、その愛好家でもあることを知ったのだろう。彼は宝物の鑑定人として、本を蝋燭のようにあきなう連中ではなく、わたしを選んだというわけだ」

 オーブリーの気分は書店主のしあわせな気分とはまったくの正反対だった。まず第一にロジャーは喫煙車に座っていたが、オーブリーは見つかるのを恐れておなじ車両には入らず、パイプなしで我慢しなければならなかった。彼は二両目の最前列に陣取り、ときどきガラスのドアを通して、安物のハバナの煙に包まれた、獲物のはげた後頭部に視線を飛ばした。第二にワイントラウブがおなじ列車に乗るものと期待して、改札口を最後の瞬間まで見張ったのだが、ドイツ人はあらわれなかった。ワイントラウブの昨夜の言葉から、薬屋と本屋がいっしょに任務に当たるものと決めつけていたのだ。あきらかに彼の勘ちがいだった。彼は爪をかみ、飛ぶように流れる風景をにらみつけ、ちくちくと痛む胸のなかでさまざまな心配事に思いをめぐらせた。気がかりの一つはニューヨークにもどるだけの充分な持ち合わせがなく、フィラデルフィアでだれかに借金するか、事務所に電報して送金を頼まなければならないことだった。この冒険に乗り出したとき、出費がこれほどかさむとは思ってもいなかった。

 列車は十時にブロードストリート駅に着き、オーブリーは終着駅の人ごみを縫い、市庁舎プラザをまわって書店主の跡をつけた。ミフリンは道を知っているようだったが、グレイ・マター社の注文取りはそれほどフィラデルフィアの地理にくわしくなかった。彼はサウス・ブロード通りの立派な眺めにすっかり驚き、たった今ニューヨークから来たばかりだというのに、舗道をにぎわす人びとに傍若無人にもみくちゃにされ、くやしく思った。

 ロジャーはブロード通りの巨大なオフィスビルに入り、急行エレベータに乗った。オーブリーはおなじエレベータに乗る勇気はなかったので、ロビーで待つことにした。彼はエレベータの操縦係から建物の反対側にべつのエレベータがあることを知った。そこで操縦係に二十五セント銀貨を一枚わたして見張りの役を頼み、見逃すことがないようミフリンの容貌を正確に教えた。そのときにはオーブリーはすっかり不機嫌になっていて、エレベーターの位置をあらわす表示器をめぐって操縦係に口論をふっかけるありさまだった。この建物の表示器はガラスチューブでできていて、色のついた液体が上下してエレベータの動きを表示するのだが、それを見てオーブリーはいらただしげに、こんな旧式の仕掛けはニューヨークではとうの昔に使われなくなっているといったのだ。操縦係は、ここがいやならニューヨークに帰ったらどうです? 二時間しか離れてないんですから、といい返した。このいい争いのおかげで時間が早く過ぎた。

 一方、ロジャーは町の外から来た著名人として歓待されることを期待してうきうきしながらミスタ・オールダムの贅沢なスイートに足を踏み入れた。ブラウスがやや透けすぎの、きれいな若い女性が、なんのご用でしょうと、彼にたずねた。

 「ミスタ・オールダムに会いたいのですが」

 「どちらさまでしょう?」

 「ミフリン——ブルックリンのミフリンです」

 「お約束ですか?」

 「そうです」

 ロジャーは期待に胸を躍らせて待った。そこにあったのはぴかぴかに光るマホガニー製のオフィス家具、きらめく緑の水差し、音を立てずてきぱきと動きまわる若い女性たちの姿だった。「フィラデルフィアの女の子はびっくりするほど美人だな」と彼は思った。「しかしミス・ティタニアとは比べものにならないが」

 さきほどの若い女性がいささか困惑した様子で専用事務室からもどってきた。

 「ミスタ・オールダムとお約束がございましたか? 覚えていないとのことなんですが」

 「ええ、まちがいありませんよ」とロジャーはいった。「土曜日の午後、電話で決めたんです。ミスタ・オールダムの秘書から連絡がありました」

 「お名前をもう一度伺ってもよろしいでしょうか?」彼女はそういって Mr. Miflin と書いた紙切れを見せた。

 「f が二つです」とロジャーがいった。「ミスタ・ロジャー・ミフリンです。書店主をしています」

 女性はひっこんで、またすぐもどってきた。

 「ミスタ・オールダムは取り込んでいるのですが、すこしだけならお会いするとのことです」

 ロジャーは専用事務室に案内された。大きな、風通しのいい、本棚の並ぶ部屋だった。白く短い髪に、生き生きした黒目を持つ長身痩躯のミスタ・オールダムは礼儀正しく机から立ちあがった。

 「はじめまして」と彼はいった。「申し訳ありません。ですが、約束が思い出せないのですよ」

 こりゃ相当なうっかり屋にちがいないぞ、とロジャーは思った。五十万ドルのコレクションを売る手配をして、すっかり忘れてしまうんだからな。

 「あなたにいわれてここに来たのですよ。コレクションの売買の件で」

 ロジャーはミスタ・オールダムの目つきがなんとなく鋭くなった気がした。

 「お買い求めになりたい、ということですか?」

 「わたしがですか?」ロジャーはむっとしたようにいった。「ちがいます。コレクションの見積もりに来たんです。あなたの秘書から土曜日に電話がありました」

 「失礼ですが、なにかのまちがいでしょう。わたしはコレクションを売る気は全然ありません。あなたに連絡したこともありませんよ」

 ロジャーはあっけにとられた。

 「なんですって」彼は声が大きくなった。「あなたの秘書が土曜日に電話してきて、今日の朝、ぜひともわたしに本の鑑定をしてもらいたいと、あなたが要望しているといったのですよ。そのためにブルックリンから出てきたんです」

 ミスタ・オールダムがブザーに触れると、中年の女性が事務室に入ってきた。「ミス・パターソン、土曜日にミスタ・ミフリンに依頼の電話を——」

 「電話してきたのは男でした」

 「非常に申し訳ないんですがね、ミスタ・ミフリン」とミスタ・オールダムがいった。「お気の毒ながら——だれかにかつがれたようですな。さきほどお話ししたように、そしてミス・パターソンが証明してくれるはずだが、本を売る気はまったくないし、そんなことを許可したこともありません」

 ロジャーは困惑と怒りでいっぱいだった。コーンパイプ・クラブのだれかに一杯食わされたんだ、と彼は思った。喜び勇んだ自分の単純さかげんを思い返し、痛ましいほど顔が赤らんだ。

 「どうかお気を取り直してください」ミスタ・オールダムは小男の腹立ちを見ていった。「むだ足を踏んだとお考えになることはありません。今晩、郊外のわたしのうちで夕ご飯を食べて蔵書を見ていきませんか?」

 しかしロジャーはプライドが高すぎて、この思いやりのある慰めの言葉を受け入れることができなかった。

 「すみませんが、お招きに預かることはできません。店の仕事が忙しいですし、緊急の用件だと思ってこちらに来ただけですから」

 「それではまたべつの機会にでも」とミスタ・オールダムはいった。「そうだ、あなたは本屋さんなんですね。あなたのお店は知らないけれども、名刺をいただけませんか。今度ニューヨークに行ったら、立ち寄りたいと思います」

 ロジャーは相手の儀礼的な誘いを断りつつ、できるだけいそいで退去した。自分のきまりの悪い立場にひどくいらいらし、通りに出るまで自由に息をすることもできなかった。

 「ジェリー・グラッドフィストのくだらない冗談だな。絶対まちがいない」彼はつぶやいた。「ファニー・ケリー(註 1864年スー族によって五ケ月間囚われの身となり、その回想録で有名になった)の名にかけて、とっくりお灸を据えてやる」

 ふたたび跡をつけはじめたオーブリーでさえロジャーの怒りに気がついた。

 「ご機嫌斜めだな。なにに腹を立てているんだろう」

 彼らはブロード通りをわたった。それからロジャーはチェスナット通りを歩きはじめた。オーブリーは書店主がある建物の入り口前で足を止め、パイプに火をつけるのを見ると、自分も数ヤード手前で足を止め、市庁舎のウィリアム・ペンの銅像を見上げた。風の強い日で、折からの突風に彼の帽子が吹き飛ばされ、ブロード通りをころころと転がった。彼は半ブロック走ってようやく帽子をつかまえることができた。チェスナット通りにもどるとロジャーの姿はなかった。彼はチェスナット通りを急いで進んだ。あせって何人もの歩行者にぶつかったが、十三丁目まできて、がっかりして立ち止まった。小柄な書店主はどこにも見あたらなかった。街角に立つ警察官に話しかけてみたが、なにもわからない。そのブロックを探しまわり、ジュニパー通りを走って行ったり来たりしたが、結局徒労におわった。時間は十一時で、通りは混雑していた。

 彼は南北両半球の書籍業を呪い、自分自身を呪い、フィラデルフィアを呪った。それからたばこ屋に入って、たばこを一箱買った。

 もしかしたらロジャーに出くわすかも知れないと、彼は一時間あまりチェスナット通りの両側を歩いてまわった。そのとき、ふとある新聞社を目の前に見い出し、そこの編集部で古い友人が論説委員をしていることを思い出した。彼はなかに入り、エレベータで上にあがった。

 友人は汚れた小部屋のなかで書類の海に囲まれ、テーブルに足を載せたままパイプをふかしていた。彼らはうれしそうに挨拶をした。

 「おやおや、だれかと思ったら!」おどけた新聞記者が大声でいった。「ほかでもないタンバレイン大王じゃないか! いったいこんな辺境の地になんのご用かな?」

 オーブリーは大学時代の古いニックネームを使われ、にやっと笑った。

 「昼飯をいっしょに食べようと思ってきたんだ。それから家に帰るためのお金を借りようと思ってね」

 「月曜日にか?」相手は叫んだ。「このあたりじゃ火曜日が給料日だっていうのに? いやいや、左様なことはおっしゃいますな」

 彼らは静かなイタリア・レストランで昼飯を食べ、オーブリーは手短に過去数日間の冒険を物語った。新聞記者は話が終わったとき、考え込むようにパイプをふかしていた。

 「その娘を見てみたいな」と彼はいった。「タンボよ、君の話にはまことの響きあり。怒りと叫びにみちてはいるが、ちゃんと意味はあるようだ。その男は古本屋なんだね」

 「そうだ」

 「じゃあ、彼のいる場所はわかる」

 「いいかげんなことをいうなよ!」

 「調べる価値はあるよ。南九丁目九番地のリアリーに行けよ。この通りの先だ。連れて行ってやる」

 「よし、行こう」オーブリーはすぐにいった。

 「それだけじゃないぞ。おれの最後の五ドル札を貸してやろう。おまえのためじゃなくて、その娘さんのためにな。おれの名前くらい伝えてくれよ」

 チェスナット通りに着いたとき彼は指さした。「この一ブロック先さ。いや、ついていくわけにはいかない。ウィルソンが今日、議会で演説するし、大ニュースが入電することになっているんだ。じゃあ、きみ、さようなら。結婚式に招待してくれ!」

 オーブリーはリアリーがなんの店なのか見当もつかず、居酒屋のようなものを想像していた。しかしそこに着いてみると、なぜ友達がそこをロジャーのうろつきそうな場所といったのかがわかった。女性が花嫁を見ずに結婚式のお祝いパーティーの脇を通り過ぎることができないように、愛書家であればだれもがこの有名な古本屋に立ち寄らずにはいられないだろう。荒涼とした日で、通りを冷たい風が吹きすぎていったが、店頭の平台には人だかりがして、ごちゃごちゃに積み上げられた本を引っかきまわしていた。なかを見ると白い書棚がずらりと並んでいて、色とりどりの装丁がつづれ織りのように建物のはるか奥までつづいていた。

 彼はいさんでなかに入り、あたりを見まわした。店のなかは適度な混み具合で、大勢の人が立ち読みをしていた。彼らは後ろから見ると普通そのものだが、目には書籍狂の興奮した、食い入るような光が宿っていた。あちらこちらに店員が立っていて、オーブリーはその表情に古本屋らしい静かに瞑想するような落ち着きを認めた——もっともミフリンをのぞいた古本屋という意味だが。

 彼は細い通路を歩きながら、しあわせそうに掘り出し物を探す人々を眺めた。地下の教育書部門へおり、二階の医学書を陳列した回廊に行き、さらに奥の一段と床の高いドラマおよびペンシルベニアの歴史書コーナーにも行ってみた。ロジャーの姿はどこにもなかった。階段下の机に、痩せた、まじめで親切そうな書誌研究家が座っていて、巨大な目録に目を通していた。彼はふとあることを思いついた。

 「カーライルの『クロムウェル伝』はあるかい?」

 相手は顔をあげた。

 「残念ですが切らしています。ほんの数分前にべつのお客さまもおなじ本をお尋ねになりましたよ」

 「なんてことだ!」オーブリーは大げさにいった。「買っていったのか?」

 客がこんなふうに力んでも、書店主はとくに驚かない。初版本をあさる連中の奇癖には慣れっこなのである。

 「いいえ。店に本がなかったんです。長いこと店には置いてないですね」

 「その客は赤い髭を生やした、明るい青い目のはげた小男か?」オーブリーはしわがれた声で聞いた。

 「ええ——ブルックリンのミスタ・ミフリンですよ。ご存じですか?」

 「知っているとも!」オーブリーは叫んだ。「どこに行ってしまったんだ? やつの跡を、町じゅう追い回していたんだ、あの悪党め!」

 沈着な書店主は風変わりな客をたくさん見てきたのでこの質問者の激しい口調にもびくともしなかった。

 「ちょっと前にここにいらしたんですよ」彼はおだやかにいい、軽い興味を抱いたかのように、いきり立つ若い宣伝マンを見つめた。「外で見つかるんじゃないでしょうか、ラドロー通りで」

 「それはどっちの方だ?」

 背の高い男——べつに名前で呼ぶのを躊躇するいわれはないのだから、フィリップ・ウォーナーと呼ぼう——の説明によると、ラドロー通りはリアリーの一方の側に面した細い裏通りで、店の後ろで直角に曲がっているという。この狭い小路にそって店の側面には差し掛け屋根がわたされ、その下に本棚が並んでいた。そこはリアリーが十セントの均一本——つつましい購買者の心をひく奇妙に黒ずんだ本——を並べている場所だった。この年季の入った棚に沿って、多くの悩める魂がしあわせをつかもうと可能な限り接近したのだった——結局、しあわせは(おそらく数学者が言うように)曲線上にあるのであり、わたしたちはそれに漸近線のようにしか近づくことができないのである——この小路をよく訪れる人びとは自分たちのことをいたずらっぽく「ラドロー通りビジネスマン連合」と称し、毎年行う晩餐会ではメンバーがその年の最高の掘り出し物について発表をするのだが、チャールズ・ラムやユージーン・フィールドならその司会役になることを名誉に思ったことだろう。

 オーブリーは店を飛び出し小路を眺めた。ラドロー通りビジネスマン連合が六人ほど棚に手を伸ばしていた。そのいちばんむこう端にロジャーがいた。小さな顔を開いた本のあいだに突っ込んでいる。彼はずんずんと大股に近づいた。

 「やあ」彼は怒った声でいった。「ここにいたな!」

 ロジャーは機嫌よく本から顔をあげた。趣味に熱中して自分がどこにいるかも忘れてしまったようだ。

 「おや!」と彼はいった。「ブルックリンでなにをしているんだね? ほら、ごらん。『トゥックのパンテオン』だよ——」

 「どういうつもりなんだ?」オーブリーが大声で詰問した。「ぼくをからかおうというのか? 貴様とワイントラウブはフィラデルフィアでなにを企んでいる?」

 ロジャーの心はラドロー通りに舞いもどってきた。彼は若者の紅潮した顔をやや驚いたように見て、本を棚にもどし、その場所を頭のなかにメモした。今朝の失望に終わった出来事がいらだたしさとともによみがえってきた。

 「なんの話かね?」と彼はいった。「そんなこと、きみになんの関係があるんだ?」

 「おおありさ」オーブリーはそういって書店主の顔の前で拳を振った。「悪党め、ぼくはずっと跡をつけていたんだ。貴様の企みをあばこうとしてな」

 赤い点がロジャーの頬骨の上に広がった。一見するとおとなしそうだが、彼はかっとなりやすく、手を出すのも早かった。

 「チャールズ・ラムの名にかけていうがね!」と彼はいった。「お若いの、きみは礼儀を知らないな。大型広告がお望みなら、両方の目に一つずつお見舞いしてやろう」

 オーブリーは犯罪者が縮みあがるだろうと思っていたのだが、この口答えを聞いて自制心を失うほど怒り狂ってしまった。

 「このちびのボルシェビキが。もうちょっとでかければ叩きのめしてやるところだ。さあ、貴様とドイツびいきの友達がなにを企んでいるのかいえ。さもないと警察に通報するぞ!」

 ロジャーはきっとなった。髭は逆立ち、青い目は光を放った。

 「厚かましい犬っころ」彼は静かにいった。「人目のないそこの角までついて来い。じきじきに個人指導をしてやろう」

 彼は先に立って路地の角を曲がった。めくら壁にはさまれたこの狭い道筋で二人は顔をつきあわせた。

 「グーテンベルグの名前にかけて」ロジャーは守護聖人に呼びかけていった。「どういうことか説明しなければ、一発お見舞いしてやるぞ」

 「そいつはだれだ?」オーブリーはせせら笑った。「貴様の好きなドイツ野郎の一人か?」

 そのとき彼は顎に鋭い一撃を受けた。ロジャーが砂利敷きのむらのある足下を計算に入れていたらもっと強烈だったろう。しかも自分より何インチも上背のある敵なだけに、その一撃は充分顔に届かなかった。

 オーブリーは自分より背の低い男は殴らないという自分の信条を忘れ、やはり守護聖人——世界広告クラブ連合——に呼びかけて、猛烈な強打を書店主の胸に放った。相手は小路の幅を半分ほどよろめき退いた。

 二人とも頭に血が上ってみさかいがなくなっていた——オーブリーは過去数日間の心配と疑惑が積もり積もっていらだっていたし、ロジャーはもともとかんしゃく持ちなところに不当な無礼を受けて怒りを爆発させていた。この対決は背の高さと重量に勝り、二十才も若いオーブリーのほうが有利だったが、幸運は書店主に味方した。オーブリーの強打は相手を道の反対側の縁石の上までよろめかせた。そのあと一気に襲いかかり、強烈な一撃で相手を倒すつもりだった。しかしロジャーは冷静にかまえ、地の利を利用した。縁石の上に立つと、彼はわずかだが高さで相手の優位に立ったのである。オーブリーがぞっとするような憎しみを顔に浮かべて飛びかかってきたとき、ロジャーは顎に容赦のないパンチをお見舞いした。オーブリーは足を縁石に当て、砂利の上に後ろむきにひっくり返ってしまった。頭を砂利に強く打ちつけ、古傷がまた開いた。目の前がくらくらし、気持ちも動揺し、彼はその瞬間に闘う気力を失った。

 「この横柄な青二才」ロジャーがあえぎながらいった。「まだやる気か?」そのとき彼はオーブリーがほんとうに怪我をしていることに気がついた。若者の側頭部を血がしたたり落ち、かれはぎょっとした。

 「たいへんだ。殺してしまったのかもしれない!」

 彼は泡を食って角を曲がり、店の外に立っていたレアリー書店の店員をつかまえた。店の前に小さなボックスがあって、そこで店頭本の販売をしていたのである。

 「すぐ来てくれ」彼はいった。「裏に大けがをしている人がいるんだ」