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Chapter 18: 第十五章 ミスタ・チャップマン、魔法の杖を振る
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About This Book

An eccentric antiquarian bookseller presides over a smoke-filled secondhand shop he regards as a shrine to reading, offering personalized book prescriptions rather than conventional advertising. A young advertising copywriter arrives, sparking conversations about promotion, the therapeutic power of literature, and readers' hidden needs; he accepts the proprietor's hospitality and learns the shop's ways. The narrative uses the shop and its noticeboard of recommendations to stage debates about taste, postwar moral disquiet, and reading as cure, while comic and romantic threads involving other visitors gradually entwine with the bookseller's devotion to good books.

 彼らが走って角を曲がると、オーブリーがふらふらしながら彼らのほうに歩いてきた。ロジャーの心のなかを大きな安堵感が駆け抜けた。

 「きみ。たいへん申し訳ないことをした——大丈夫かね?」

 オーブリーは真っ青な顔で彼をにらんだが、気が動転して話すこともできなかった。うなり声を上げ、他の二人がそれぞれ両側から彼を支えた。レアリーの店員は店のなかに飛び込み、裏にある貨物用エレベータのドアを開けた。こうしてぶらぶら本を見ている数人の客に見られただけで、オーブリーは古本の包みのように店内に運び込まれた。

 ミスタ・ウォーナーが店の裏で彼らを迎えた。いくぶん驚いていたようだが、物静かな態度は変わらなかった。

 「どうしたんですか?」

 「ああ、『トゥックのパンテオン』を奪い合っていたんだ」ロジャーがいった。

 彼らはオーブリーを店の奥の小さな専用事務室に連れて行った。そこで椅子に座らせ、血の出ている頭を冷たい水で洗った。どんなときでも手はずのいいフィリップ・ウォーナーは外科用の絆創膏を持ってきた。ロジャーは医者に電話をしようとした。

 「やめてください」オーブリーは落ち着きを取りもどしていった。「いいですか、ミスタ・ミフリン、この頭の傷はあなたがつけたなんていい気になって思わないでくださいよ。この前の晩、あなたのいまいましい店を出てからブルックリン橋の上でやられたんです。しばらく二人だけになれるなら、話したいことがあります」

第十四章 「クロムウェル伝」最後の登場

 「大馬鹿者め」半時間後、ロジャーがいった。「どうしてもっと早くに話してくれなかったんだ? なんてことだろう、とんでもないことが起きているぞ!」

 「あなたがなにも知らないなんて、どうしてわたしにわかるというんです?」オーブリーはいらいらといった。「なにもかもあなたに不利なことばかりじゃないですか。あの男が自分の鍵で店のなかに入っていくのを見たら、あなたが彼とぐるになっていると思わずにいられませんよ。まったく、古本にかまけてまわりでなにが起きているのかもわからないんですか?」

 「それはいつのことだって?」ロジャーがぶっきらぼうに訊いた。

 「日曜の午前一時ですよ」

 ロジャーはちょっと考えていた。「そうだ、わたしはボックと地下室にいた。ボックが吠えたので、ねずみかと思ったんだ。あの男は鍵型をとって自分で鍵を作ったにちがいない。何百回も店に出入りしていたから、そんなことは朝飯前だろう。『クロムウェル伝』が消えたこともそれで説明がつく。しかしなぜだろう? なんでそんなことをするのだろう?」

 「お願いですから、急いでブルックリンに帰りましょう。なにが起きているかわかったものじゃない。女だけ残してこんなところに来るなんて、ぼくもなんてとんまなんだろう。底抜けのばかだ!」

 「きみ」とロジャーがいった。「わたしこそ偽の電話にまんまとつられたとんまだよ。きみの話から察するに、ワイントラウブが一枚かんでいるのはまちがいない」

 オーブリーは時計を見た。「三時をすこし過ぎてます」

 「四時までは汽車がない。ということは、ギッシング通りにもどれるのはだいたい七時ごろだ」

 「電話で呼び出してください」オーブリーがいった。

 彼らはまだレアリー書店の裏にある専用事務室のなかだった。この店と顔なじみのロジャーは遠慮なく電話を使った。彼は受話器をあげた。

 「長距離をお願いする。もしもし。ブルックリンのワーズワース1617—Wにつないでくれ」

 彼らは電話がつながるのを二十五分間苦々しく待った。ロジャーはウォーナーと話をしに外に出、そのあいだオーブリーは裏の事務室でいら立っていた。じっと座っていることができず、じれったそうにそわそわと小部屋を行ったり来たりして、数分ごとにポケットから時計をむしり取るようにして見た。漠然とした恐怖に心が乱れ、ものを考えることができなかった。頭のなかでぼそぼそとしゃべる悪意にみちた電話の声が繰り返された——「ギッシング通りは危ないぜ」橋の上での取っ組み合い、路地のささやき声、調剤台に立つ薬屋の忌まわしい顔が思い出された。一連の出来事は途方もない夢にすぎないように思われたけれども、しかし彼は不安におののいていた。「ぼくがブルックリンにいれば」と彼はうめいた。「まだしもましなのだが。彼女の身に危険が迫っているかも知れないというときに、何百マイルも離れた、これまた呪われた本屋のなかにいるのだから——くそっ! 今回の事件がうまく片づいたら、あとは死ぬまで本屋の仕事には手を出さないぞ!」

 電話が鳴り、オーブリーは外で話をしているロジャーを半狂乱になって手招きした。

 「自分で出たまえ、ばかだな! 切れてしまうぞ!」

 「だめなんです。ティタニアはわたしの声を聞いたら、切ってしまうんです。わたしのことを怒っているんです」

 ロジャーが電話のところに走ってきた。「もしもし、もしもし?」彼はぷりぷりしながらいった。「もしもし、そちらはワーズワース——? そうだよ、ブルックリンを呼び出しているんだ——もしもし!」

 ロジャーの肩越しに身を乗り出したオーブリーは、受話器のかちりという音につづいて、信じられないほどはっきりと、か細い、銀をならすような遠くの声を聞いた。それは忘れもしない声だった! まわりの空気がその声に震えるような気がした。彼の耳にはどの言葉もはっきりと聞こえた。熱い汗が額と手のひらに噴き出した。

 「もしもし」とロジャーがいった。「ミフリンの本屋だね?」

 「そうです」とティタニアがいった。「ミスタ・ミフリン、あなたですか? どこにいらっしゃるんです?」

 「フィラデルフィアだよ。なにか不都合は起きてないかい?」

 「順調ですわ。本を売りまくっているんですよ。ミセス・ミフリンは買い物に出かけました」

 オーブリーは鳥のさえずりのような、どこか遠くの星がチリンと鳴っているような、小さい軽やかな声を聞くと身体が震えた。薄暗い本屋の奥で電話口に立つ彼女の姿が目に浮かんだ。まるで望遠鏡を逆さまにのぞいたようにひどくこぢんまりとした、非の打ち所のない姿が見えるようだった。なんて勇敢で気品に満ちているのだろう!

 「いつお帰りになりますか?」彼女はそういっていた。

 「七時くらいだよ」ロジャーがいった。「本当になにも問題はないんだね?」

 「ええ、もちろん。とっても楽しくやっていますわ。たった今、下に行って、すこしだけかまどに石炭をくべてきたんです。ああ、そうだわ。ミスタ・ワイントラウブがついさっきやってきて、本のスーツケースを置いていきました。あなたなら気になさらないだろうっておっしゃってました。友達が今日の午後、それを取りに来るそうです」

 「ちょっと切らずに待ってくれ」ロジャーはそういい、通話口を手で押さえた。「ワイントラウブが本のスーツケースを店に預けて、あとでだれかに取りに来させるそうだ。どう思う?」

 「たいへんですよ。本には手を触れないようにいってください」

 「もしもし」ロジャーがいった。身体を乗り出したオーブリーは小柄な書店主の毛のない脳天にぐるりと水晶のような汗が浮いているのに気がついた。

 「もしもし?」ティタニアの妖精のような声がすぐに返事をした。

 「スーツケースを開けたかね?」

 「いいえ。鍵がかかっているんです。ミスタ・ワイントラウブはお友達にさしあげる古本がたくさん詰まっているんだとおっしゃっていました。すごく重たいんです」

 「よく聞いてくれ」ロジャーがいった。声が鋭く響いた。「重要なことなんだ。そのスーツケースにはけっしてさわってはいけない。そのままにしておいて、絶対さわってはいかん。約束してくれ」

 「わかりましたわ、ミスタ・ミフリン。安全な場所に置いておきますか?」

 「さわってはいかん!」

 「ボックがいまにおいを嗅いでいます」

 「さわってはいけない。ボックにもさわらせてはだめだ。な——なかには貴重な原稿が入っている」

 「気をつけますわ」

 「さわらないと約束だよ。それからもう一つ——だれか取りに来ても、わたしが家に帰るまで持って行かせてはいかん」

 オーブリーはロジャーの前に腕時計をさし出した。ロジャーはうなずいた。

 「わかったかい? ちゃんと聞こえているかい?」

 「ええ、とてもよく聞こえます。すごいんですね! わたし、長距離電話は初めてだから——」

 「鞄にはさわらないこと」ロジャーがしつこくいった。「それからわれわれが——わたしが帰るまでだれにもわたさないこと」

 「お約束しますわ」ティタニアがほがらかにいった。

 「それじゃ、また」ロジャーはそういって受話器を置いた。彼の顔は奇妙に引きつって見え、目の下のくぼみに汗が浮いていた。オーブリーはもどかしげに腕時計を見せた。

 「ぎりぎり間に合うぞ」ロジャーはそう叫び、二人は店を飛び出した。

 それは楽しい旅ではなかった。汽車はいつものようにウエスト・フィラデルフィアからノース・フィラデルフィアへいったん遠まわりして目的地を目指した。二人の旅行者は、郊外からの乗客を、結び目のある鞭でひっぱたくのではなく、のんびりぞろぞろと乗車させる制動手にたいして個人的な憎しみを覚えた。急行がトレントンで停まったとき、オーブリーは罪のないその都市を曲射砲で粉々に粉砕してやりたいと思った。プリンストン・ジャンクションで思いもよらぬ停車をしたときは、とうとう我慢ができなくなった。オーブリーが公務員たる車掌に話しかけるその口ぶりは国家にたいする反逆者のようだった。

 灰色のわびしい冬の夕闇が雪の気配とともにおりてきた。彼らはしばらくのあいだ黙って座っていた。ロジャーはフィラデルフィアの夕刊を開いてヨーロッパに旅立つことを発表する大統領演説に読みふけり、オーブリーは先週の行動を陰鬱に思い返していた。頭はずきずきと痛み、手は不安のために湿っぽく、そのせいでたばこの屑がいやらしいほどくっついてきた。

 「おかしな話ですね」とうとう彼はいった。「先週の今日、わたしははじめてあなたの店を知りました。それが今では地球上でいちばん大切な場所みたいに思えます。夕ご飯をご馳走していただいたのはつい先週の火曜日。それからわたしは二度頭をかち割られ、無法者に自分の寝室で待ち伏せをされ、ギッシング通りを二晩徹夜で見張り、うちの代理店が扱っている最大の顧客を失いそうになったんです。お店に幽霊がいるとおっしゃるのももっともですよ!」

 「それを使ってすてきな宣伝文句ができるんじゃないか?」ロジャーは不機嫌そうにいった。

 「さあ、どうでしょうかね。広告のネタとしてはちょっと暴力的すぎるかな。あなたはなにが起きていると思います?」

 「さっぱりわからない。ワイントラウブは二十年以上もあの薬屋を経営している。わたしが本屋をはじめるずっと前から、あいつの店のことは知っていた。なかなかの読書家で、とりわけ科学の本に関心をもっていた。わたしがギッシング通りに店を出したとき、仲よくなったんだ。顔つきはどうも気に入らないが、しかしおとなしい、気だてのよい男のように思えたがね。きみの話じゃ、違法な薬かドイツ製の焼夷弾を製造しているような感じだな。戦争中はずいぶん火事が起きたじゃないか——ブルックリンの大穀物倉庫とか」

 「わたしは最初、誘拐を企んでいるのかと思いました」オーブリーがいった。「あなたがミス・チャップマンを店におきざりにして、ほかのやつらにこっそり連れ出させるつもりなんだと思っていました」

 「わたしに極悪人という名誉ある烙印を押してくれていたのか」ロジャーはいった。

 オーブリーの唇が興奮していい返したげに震えたが、雄々しく耐えた。

 「なぜクロムウェルの本に興味を持ったんです?」彼は間をおいて尋ねた。

 「ああ、なんで読んだのかな——二、三年前のことだ——あれはウッドロウ・ウィルソンの愛読書の一つだそうだ。それで興味を持って読んでみたのだ」

 「そういえば」オーブリーが勢い込んでいった。「表紙に書かれていた例の数字を見せるのを忘れていました」彼はメモ帳を取りだし、写しを見せた。

 「ふむ、この一つは意味がはっきりしている」ロジャーがいった。「ほら、329ff. cf. W. W.とあるね。これは単に『329ページ以下を見て、ウッドロウ・ウィルソンと比較せよ』ということさ。最近わたしがそれを書きつけたんだ。というのはその一節がウィルソンの考え方と似ていると思ったからだ。とくにおもしろいページの番号は本の裏に書きつけることにしているんだ。ほかのページ番号は本がないとなんのことだかさっぱりわからないな」

 「じゃあ、最初の数字はあなたの字なんですね。でもその下にあるのはワイントラウブの字ですね——ともかくも彼が使っているインクで書かれていた。彼があなたの本に暗号らしきものを書きつけているのを見て、当然ながらあなたと彼は共謀しているんだと思ったんです——」

 「きみはこの表紙を薬局で見つけたそうだな?」

 「ええ」

 ロジャーは眉を寄せた。「どういうことなんだろう。とにかく、むこうに着くまでわれわれにはなにもできない。新聞を見るかね? 今朝議会でウィルソンが行った演説がのっている」

 オーブリーは暗い顔で頭を振り、熱い額を窓ガラスにあてた。二人はマンハッタン乗換駅に着くまで押し黙ったままだった。それからハドソン・ターミナル行きに乗り換えた。

 アトランティック・アヴェニューの地下鉄終着駅から二人が急いで出てきたのは七時だった。じめじめと湿った寒い晩だったが、通りにはすでに夜ごとの光と色があふれ活気づきはじめていた。質屋の黄色い明かりを見て、オーブリーはポケットに小型拳銃をしのばせていることを思い出した。暗い路地を通り抜けながら、彼は脇によって武器に弾を込めた。

 「こういうものを持っていますか?」彼はそれをロジャーに示しながらいった。

 「まさか、とんでもない」と書店主はいった。「わたしをなんだと思っているんだ——映画のヒーローかね?」

 ギッシング通りを進む若者の歩みがあまりにも早足なものだから、ロジャーはついて行くのに駆け足にならざるを得なかった。この小さな通りのおだやかな眺めには心安らぐものがあった。店の窓々からこぼれ出る光が道に縞模様を描いていた。ワイントラウブの薬局では、青白い顔の店員が染みのついた白衣を着て、大コップにココアをそそいでいた。文房具屋では客がクリスマスカードの仕切り棚を眺めていた。オーブリーはミルウォーキー・ランチでのんびりドーナツをコーヒーカップにひたしている体格のいい市民を見、うらやましく思った。

 「なにもかも嘘みたいだな」とロジャーがいった。

 本屋に近づいたときオーブリーの心臓は不安に締めつけられた。正面窓のブラインドがおろされていた。薄明かりが漏れているところを見ると、なかは電灯がともされているのだろう。しかし閉店の時間までまだ三時間もあるのに、なぜブラインドがおりているのだろうか?

 彼らは正面ドアにたどり着いた。オーブリーが取っ手をつかもうとすると、ロジャーが彼を押しとどめた。

 「ちょっと待ってくれ。音を立てないように入ってみよう。なにかおかしなことが起きているのかもしれない」

 オーブリーはそっと取っ手を回した。ドアは鍵がかかっていた。

 ロジャーは鍵を取りだし、音を立てないようにして錠をはずした。それからドアをかすかに——一インチほど押し開けた。

 「きみの方が背が高いな」と彼はささやいた。「手を伸ばしてドアを開けたとき、上の鐘が鳴らないように押さえてくれ」

 オーブリーは三本の指を隙間から突き出し、鐘が打ち鳴らされないようにトリガーを押さえた。ロジャーはドアを大きく開き、彼らは忍び足でなかに入った。

 店にはだれもおらず、一見したところ異常はなかった。彼らはどきどきしながら、つかの間そこに立ちつくした。

 家の奥のほうから、澄んだ、どことなく怯えた声が聞こえた。

 「好きにするがいいわ。でもどこにあるか教えないから。ミスタ・ミフリンの言いつけですもの——」

 椅子が床にたたきつけられ、あわただしく動きまわる音が聞こえた。

 オーブリーはすばやく通路を抜け、ロジャーもドアを閉めるとすぐその後につづいた。彼は店の奥の登り段をこっそりとあがり、食事室をのぞいた。その光景を目にした瞬間、まるで部屋全体が揺れ動いているような気がした。

 夕食用のテーブルクロスが広げられ、つるしランプの下で白く光っていた。むこう端にはティタニアが髭の男につかまれもがいていた。オーブリーは一目で男がシェフだとわかった。テーブルのこちら側には拳銃を彼女にむけて立っているワイントラウブがいた。背中をドアにむけている。オーブリーは薬屋の無愛想な顎がしわくちゃになり、怒りに震えているのを見た。

 二歩踏み込むと部屋のなかだった。彼は拳銃の銃口を脂ぎった頬に突きつけた。「そいつを捨てろ」彼はしわがれた声でいった。「このドイツ野郎!」左手で相手のシャツ・カラーをつかみ、ぐいと首を絞めた。彼は怒りと興奮に震え、奇妙に腕に力が入らなかった。最初に考えたのはこんな豚のような首を絞めることなど、とても無理だということだった。

 一瞬、その場の者は息を詰め、動きを止めた。髭の男はティタニアの肩から手を放さなかった。彼女は顔色こそ真っ青だったが目は輝いており、信じられないといった驚きの表情でオーブリーを見た。ワイントラウブは両手を食事テーブルについて、考えごとをしているかのようにじっと立っていた。彼は頬のくぼみに冷たい金属が押し当てられているのを感じた。ゆっくりと右手を開くと拳銃がリンネルの布の上に落ちた。ロジャーが部屋に飛び込んできた。

 ティタニアは身をよじってシェフから離れた。

 「スーツケースはわたしませんでした!」彼女は叫んだ。

 オーブリーは拳銃をワイントラウブの顔に押しつけつづけた。彼は左手で薬屋の拳銃を取り上げた。ロジャーはテーブルの反対側にぼんやりと立っているシェフにつかみかかろうとした。

 「ほら」とオーブリーがいった。「この銃を使ってください。そいつに狙いをつけるんです。こっちはわたしに任せて。彼には借りがあるんでね」

 シェフは後ろの窓から飛び出そうとしたが、オーブリーが彼に飛びかかった。男の鼻をまともに殴りつけ、拳骨の下で肉がゴムのようにひしゃげると、えもいわれぬ快感が走った。彼は髭もじゃの喉をつかんで指を食い込ませた。相手はテーブルの上のパン切りナイフをつかもうとしたが遅すぎた。彼は床に倒れ、オーブリーは荒々しく喉を締めつけた。

 「このドイツの糞ったれめ」と彼はうなった。「取っ組み合いがしたいなら女の子を相手にするんだな」

 ティタニアは部屋から飛び出し、食器室を駆け抜けていった。

 ロジャーはワイントラウブの銃をドイツ人の顔の前にかまえていた。

 「おい。これはどういうことだ?」

 「誤解だよ」薬屋はおだやかにいった。しかし目は落ち着かなげにきょろきょろしている。「午後早くにここに預けた本を取りに来ただけだよ」

 「拳銃を持ってかね? 答えろ、ヒンデンブルグ(註 第一次大戦中、東部戦線でロシアを破ったドイツ陸軍元帥)、どういうつもりだったんだ?」

 「わたしの拳銃じゃない」とワイントラウブがいった。「メツガーのだよ」

 「スーツケースはどこだ?」とロジャーがいった。「見てみようじゃないか」

 「これはばかばかしい誤解だよ」とワイントラウブがいった。「メツガー宛に古本のスーツケースをここに置いていったんだ。今日の午後は町の外に行く予定だったからね。彼がそれを取りに来たら、きみのところの若い娘さんがわたそうとしないんだ。彼はわたしのところに来て、わたしは彼女にわたしても大丈夫だといいに来たのさ」

 「あいつはメツガーというのか?」ロジャーはオーブリーの手を逃れようとしている髭の男を指さしながらいった。「ギルバート、そいつを窒息させるなよ。説明してもらいたいことがある」

 オーブリーは立ちあがって落ちた拳銃を床から拾い、ついでシェフをつついて起きあがらせた。

 「この豚め。この前の晩、階段を転げ落ちたのは楽しかったか? ヘア・ワイントラウブ、あんたが地下室でいったいなんの薬を調合しているのか教えてほしいね」

 ワイントラウブの顔は電灯の光のなかで沈んで見えた。額には汗がびっしり浮いている。

 「ミスタ・ミフリン」と彼はいった。「こんなくだらないことってありませんよ。わたしがついむきになったばかりに——」

 ティタニアは走って部屋にもどって来た。そのあとから顔を真っ赤にしたヘレンが来た。

 「助かったわ、あなたがもどってきて、ロジャー」彼女はいった。「この野蛮人たちは台所でわたしを縛りあげ、口をタオルでふさいだのよ。スーツケースを出さなかったらティタニアを撃つって脅したのよ」

 ワイントラウブはなにかをいいかけたが、ロジャーは彼の眉間に拳銃を突きつけた。

 「黙っていろ! おまえたちの本とやらを見せてもらおうじゃないか」

 「スーツケースを取ってきます」とティタニアがいった。「隠してあるんです。ミスタ・ワイントラウブが取りに来たとき、最初はわたそうかと思ったんだけど、様子がおかしかったので、なにかよからぬことを企んでると思ったの」

 「さわっちゃだめです」オーブリーはいった。二人ははじめて目を合わせた。「どこにあるのか教えてください。ドイツの友人に運ばせましょう」

 ティタニアの顔がかすかに赤らんだ。「わたしの寝室の押し入れのなかなの」

 彼女は先に立って階段をのぼり、そのあとをメツガーが従った。オーブリーがメツガーの後ろでいつでも撃てるようにピストルをかまえていた。寝室のドアの外でオーブリーは立ち止まった。「スーツケースの場所を教えて、彼に持たせてください。おかしな真似をしたら声をあげるんですよ。わたしが拳銃を撃ちますから」

 ティタニアは押し入れの服の後ろにしまい込んだスーツケースを示した。シェフは反抗する気配も見せない。三人は一階にもどった。

 「ようし」とロジャーがいった。「店舗に移動したほうがよく見えるだろう。もしかしたらシェイクスピアのファースト・フォリオが入っているかもしれない。ヘレン、電話でマクフィー通りの警察署を呼び出してくれ。すぐこっちに警官を二人ほど寄こすように頼むんだ」

 「ミスタ・ミフリン」とワイントラウブがいった。「こんな愚にもつかないことはやめましょうよ。おりおり集めた古本が何冊か入っているだけなんですから」

 「自分の家に押し入られ、妻を物干し綱で縛られ、若い娘を撃つぞと脅されたんだ。愚にもつかないとはとても思えん。はたして警察はどう考えるだろうな、ワイントラウブ。妙なまねはするな。逃げようとしたら脳味噌を吹き飛ばしてやる」

 オーブリーが先に立って店舗のほうへおりて行き、メツガーがスーツケースを運んだ。そのあとにロジャーとワイントラウブが従い、ティタニアがしんがりだった。随筆のアルコーヴの明るい光の下で、鞄をテーブルに置くよう、オーブリーはシェフに命じた。

 「開けろ」彼はぶっきらぼうにいった。

 「ただの古本だ」メツガーがいった。

 「うんと古いものなら価値があるかも知れない」ロジャーがいった。「わたしは古本に興味があってね。さっさとしろ!」

 メツガーはポケットから鍵を引っ張り出し鞄を開けた。オーブリーは彼が蓋を開けるあいだ、頭にピストルを突きつけていた。

 スーツケースには古本がぎっしり詰まっていた。ロジャーはいたって冷静にワイントラウブを見張っていた。

 「なかになにが入っているんだ?」

 「あら、やっぱり本が詰まっているだけなのね」ティタニアが声をあげた。

 「わかっただろう」ワイントラウブがむっつりといった。「怪しいところなんかあるものか。わたしのせいでこんなことになり——」

 「あら、見て!」とティタニアがいった。「クロムウェルの本があるわ!」

 ほんの一刹那ではあったが、ロジャーは注意を奪われた。彼は思わずスーツケースのほうを見、その隙に薬屋は彼を振り切って通路を駆け抜け、ドアの外に飛び出した。ロジャーは跡を追ったが、手遅れだった。オーブリーはメツガーの襟を捕まえ、頭にピストルを当てていた。

 「しまった」と彼はいった。「どうして撃たなかったんです?」

 「わからないよ」ロジャーが狼狽していった。「撃つのが怖かったのだ。気にするな。あとでも捕まえられる」

 「警察がすぐここに来るそうよ」ヘレンが電話口から呼びかけた。「ボックを家に入れるわ。いま裏庭にいるから」

 「二人とも頭が変なのよ」とティタニアがいった。「クロムウェルを棚にもどして、この人も追い返しちゃいましょう」彼女は本に手を伸ばした。

 「待て!」オーブリーが叫んで、彼女の腕をつかんだ。「その本に触れちゃいけない!」

 ティタニアは彼の声に怯えて手を引っ込めた。みんな正気を失ってしまったのかしら?

 「さあ、ミスタ・メツガー」オーブリーがいった。「元通りその本を棚にもどすんだ。逃げようなんて思うな。こっちは拳銃で狙っているんだからな」

 彼とロジャーはシェフの顔に驚いた。もじゃもじゃの髭の上で彼の目がなかば狂気じみた光を放ち、両手が震えていたのだ。

 「いいだろう。どこに置けばいいのか教えてくれ」

 「わたしが教えてあげる」とティタニアがいった。

 オーブリーが彼女の目の前に腕を伸ばして押しとどめた。「あなたはそこにいて」彼は怒ったようにいった。

 「歴史のアルコーヴだよ」ロジャーがいった。「正面のアルコーブで、通路の反対側だ。われわれ二人とも銃をむけているからな」

 スーツケースから本を取り出すかわりに、メツガーは鞄を横にしたまま持ち上げた。彼は指示されたアルコーヴにそれを持って行った。注意ぶかくケースを床に置き、クロムウェルの本を取り出した。

 「どこに置くんだ?」彼は異様な声でいった。「こいつは貴重な本なんだ」

 「五番目の棚だよ」とロジャーがいった。「こっちだ——」

 「いけない、下がってください」オーブリーがいった。「近寄ってはいけません。なんだか様子が変だ」

 「この間抜けども!」メツガーが荒々しく叫んだ。「おまえたちも古本も地獄に堕ちろ」彼は本を投げつけようとするかのように腕を後ろに振りかざした。

 ぱたぱたとすばやい足音がして、ボックがうなりながら通路を走ってきた。同時にオーブリーは訳のわからない衝動に従い、ロジャーを小説のアルコーヴに突き飛ばし、ティタニアを乱暴に抱きかかえると店の奥にむかって駆けだした。

 メツガーの腕があがり、本を投げようとしたとき、ボックが突進してきて、男の足に噛みついた。クロムウェルが手から落ちた。

 地を揺るがす爆発、鈍い轟音がとどろき、オーブリーは一瞬本屋がまるごと巨大な独楽になったのかと思った。床が持ち上がり沈み込んだ。棚の本はあらゆる方向に吹き飛んだ。ティタニアを抱えながら、住居部分に通じる登り段にたどり着いたとき、彼らは横に吹き飛ばされ、ロジャーの机の後ろの角に転がった。空中には本が舞っていた。百科事典の列が肩の上に落ちてきて、あやうくティタニアの頭に当たるところだった。正面の窓は一斉に砕け散った。ドアの近くの机は反対側の回廊まで飛び上がった。歴史のアルコーヴの上の回廊はめりめりと音を立てて崩れ、何百冊という本が床にどうと落ちた。明かりは消え、一瞬すべてがしんと静かになった。

 「大丈夫かい?」オーブリーが慌てて訊いた。彼とティタニアは、書店主の机に身体を押しつけるようにして倒れていた。

 「大丈夫みたい」彼女はかすかな声でいった。「ミスタ・ミフリンはどこ?」

 彼女を助け起こそうと手をさしのべると、床の上に湿ったものを感じた。「大変だ」と彼は思った。「彼女は死にかけているんだ!」彼はもがきながら暗闇のなかに立ちあがった。「聞こえますか、ミスタ・ミフリン」と彼は呼びかけた。「どこにいるんです?」

 答えはなかった。

 一筋の光が店の奥からあふれてきた。落下した残骸のあいだを足場を確かめながら歩いていくと、ミセス・ミフリンが食事室のドアの脇にふらつきながら立っているのを見つけた。家の奥は明かりがついたままだった。

 「蝋燭はありますか?」

 「ロジャーはどこなの?」彼女は哀れな声を出し、台所によろよろと入っていった。

 蝋燭を持ったオーブリーは床の上に座っているティタニアを見つけた。ひどくぼんやりしていたが、怪我はなかった。彼が血だと思ったものはロジャーの机の上にあったクォート瓶入りのインクだった。彼は子供を抱えるように彼女を立たせ、台所に運んだ。「ここにいてください。動かないで」

 その頃までにはすでに群衆が舗道に集まっていた。だれかが手提げランプを持って入ってきた。三人の警官がドア口にあらわれた。

 「お願いします」オーブリーが大きな声を出した。「ここに明かりを持ってきてください。様子がわかるように。ミフリンがこの瓦礫のどこかに埋まっているのです。だれか救急車を呼んでください」

 幽霊書店の正面はめちゃくちゃになっていた。手提げランプの淡い光は悲惨な光景を浮かびあがらせていた。ヘレンが吹き飛ばされた通路を手探りしながらやってきた。

 「彼はどこ?」彼女は取り乱して叫んだ。

 「トロロープ全集のおかげだな」小説のアルコーヴの残骸のなかから声がした。「助かったようだ。本が衝撃を吸収する力はたいしたものだ。怪我した人はいるかい?」

 ロジャーだった。気を失いかけていたが、無事だった。彼は身体の上に倒れてきた棚の下からはい出してきた。

 「そのランプをこっちに持ってきてくれ」オーブリーはそういって、ロジャーの掲示板の破片の下に横たわる黒い固まりを指さした。

 シェフだった。彼は死んでいた。そして彼の足にしがみついていたのはボックのなれの果てだった。

第十五章 ミスタ・チャップマン、魔法の杖を振る

 ギッシング通りは幽霊書店の爆破事件をそう簡単には忘れそうになかった。ワイントラウブの地下室から司法省が四年間捜しあぐねていた情報が見つかり、おとなしそうなドイツ系アメリカ人の薬剤師がじつは何百もの焼夷弾を作った職人で、その爆弾がアメリカおよび連合国の船舶や弾薬工場に仕掛けられていたことが判明、さらにそのワイントラウブが翌日ボストンのブロムフィールド通りで逮捕され自害したことが伝えられると、ギッシング通りは興奮に沸き立った。ミルウォーキー・ランチは本屋の爆破跡を見学に来た野次馬どもでおおいに繁盛した。ジョージ・ワシントン号の船内図の断片がメツガーのポケットから見つかり、オクタゴン・ホテルの厨房係で共犯者でもあった男が、ウッドロウ・ウィルソンの愛読書の一冊に見せかけた爆弾を汽船の大統領特別室に仕掛けるはずだったことを告白すると、人びとは憤慨し、その怒りはとどまるところを知らなかった。ミセス・J・F・スミスはドイツびいきの町などもうまっぴらだと宣言し、ミセス・シラーの下宿を引き払った。おかげでオーブリーは使いたくてたまらなかった浴室がやっと使えるようになった。

 つぎの三日間は司法省の係官の相手で忙しく、彼のほうにも確かめたい懸案事項があったのだがなにもできなかった。しかし金曜日の午後遅く、納得のいくまで話をしようと決意をかため、本屋を訪ねた。

 残骸はきれいに片づけられ、粉々になった建物正面は板でふさがれていた。なかに入るとロジャーが床に座って、まわりに乱雑に積み上げられた本の山を見わたしていた。ミスタ・チャップマンがとある有名な建築会社に口をきいてくれたおかげで、さっそく修復作業ははじまっていたが、それでも商売再開までにはすくなくとも十日はかかるだろうと彼はいった。「今回の宣伝効果を徒花あだばなにしたくないんだけどね」と彼は悲しそうにいった。「古本屋が新聞の第一面を飾るなんて、そうそうあることじゃない」

 「広告は信じてないんだと思ってましたが」とオーブリーはいった。

 「わたしが信じている広告は、金のかからない広告だよ」

 オーブリーは大破した店内を見て微笑んだ。「請求書は相当な額になりそうですね」

 「きみ。これこそわたしに必要だったものだよ。わたしの生活はマンネリ化しつつあったんだ。爆弾はわたしが忘れていた本やら持っていることすら知らなかった本をきれいに吹き飛ばしてくれた。おや、こんなところに『結婚してもしあわせになる方法』がある。出版社はこれを『小説』に分類しているんだな。こっちは『壺葬論』、『書籍狂の恋』、それに『ミスルトウの嘆かわしき事実の書』か。隅から隅まで大掃除する必要がある。今は本気で掃除機とキャッシュ・レジスターを買い入れようと思っているんだ。ティタニアのいっていたことは正しいよ。この店は汚すぎる。あの娘にはいろいろなことを教わった」

 オーブリーは彼女がどこにいるのか知りたかったが、あからさまに訊くのはためらわれた。

 「たしかに」とロジャーはいった。「たまには爆発もいいものだ。新聞記者が根掘り葉掘り質問に来たあと、六つほどいろいろな出版社から本を出さないかという申し出があった。文化会館事務局からは『公共奉仕としての書籍業』という題で講演してくれといわれるし、店を再開するのはいつだと、問い合わせの手紙が五百通も届いた。米国書店協会は来年の春の年次総会で挨拶してくれだとさ。わたしもはじめて人から認められたわけだ。かわいそうなボックのことさえなければ——ついてきなさい。あいつは裏庭に埋めてやったんだ。お墓を見せてあげよう」

 柵の近くの悲しいほど小さな土饅頭の上に大きな黄色い菊の束を差した花瓶が置かれていた。

 「ティタニアがこれを飾ったんだよ。春になったらここにハナミズキドッグウッド・ツリーを植えるつもりだといっていた。小さな墓石をたててやるよ。どんな文字を刻もうかと考えているところだ。『死者を鞭打つ事なかれデ・モルツィス・ニル・ニシ・ボヌム』はどうかと思ったんだが、ちょっと不真面目な感じだな」

 住居部分は爆発の被害をまぬがれていた。ロジャーはオーブリーを居間に連れて行った。「ちょうどいいときに来てくれた。ミスタ・チャップマンが今晩うちに来て、みんなで楽しくおしゃべりをすることになっているんだ。この事件にはまだわからないことがたくさん残っている」

 オーブリーは片目でティタニアの姿を探しつづけていた。ロジャーは彼の落ち着きのない視線に気がついた。

 「ミス・チャップマンは午後から休みなのだ」と彼はいった。「今日初めて給料をもらって、あんまりうれしいものだからニューヨークまで散財に行ったのさ。父親といっしょに出かけている。申し訳ないんだが、夕ご飯の支度でわたしはヘレンを手伝わなければならない」

 オーブリーは暖炉のそばに座り、パイプに火をつけた。彼の心に重くのしかかっていたのはつぎのようなことだった。はじめてティタニアに会ってからちょうど一週間がたつ。その一週間のあいだ、目覚めているときは彼女のことを考えない瞬間はなかった。いったい女の子は恋に陥るのにどのくらいの時間がかかるのだろう。男なら——彼がよく知っているように——五分で充分だ。しかし女の子の場合はどうなのだろう? 同時に彼が考えていたのは、内輪ネタを使ってもいいなら、今回の事件を利用してデインティビッツのためにユニークな広告コピーを作ることができる、ということだった(あらゆる広告マンとおなじく、彼も広告コピーを「書く」というかわりに、常に広告コピーを「作る」といった)。

 後ろに衣擦れの音が聞こえたかと思うと、彼女が立っていた。灰色の毛皮のコートを着て、鮮やかな色の小さな帽子をかぶっていた。頬は冬の空気にさらされ、ほんのり色づいている。オーブリーは立ち上がった。

 「あら、ミスタ・ギルバート! お会いしたかったのに、どこに隠れていらっしゃったの? この前の日曜からお顔も見てないし、お話もしてないわ」

 彼はまともに口もきけなかった。彼女はコートを脱ぎ、話しつづけた。思いに沈むようなまじめな表情をしていたが、それは微笑みよりもずっと彼女に似合っていた。

 「先週あなたがなにをなさったか、ミスタ・ミフリンからくわしくお話を聞きました——通りのむかいにお部屋を借りて、あのにくたらしい男を監視していたのね。わたしたちがぼんやりしているときに、あなたはなにもかも見抜いていらっしゃたのね。わたし、日曜日の朝に、あなたにむかってとんでもないことをいっちゃったけど、それを謝りたいんです。許してくれる?」

 オーブリーはそのときくらい自分を売り込む手腕が衰え果てたことを感じたことはなかった。目が彼を裏切りそうな気がして、言葉にならない恐怖を覚えた。涙で潤んできたのである。

 「そんなことは言わないでください。とにかくわたしにあんなことをする権利はなかったんですから。それにミスタ・ミフリンに関していったことはまちがいでした。あなたが怒ったのは当然です」

 「あなたに感謝できるせっかくの機会なんだから、その喜びを奪わないでちょうだい。あなたがあの晩わたしの——みんなの命を救ってくれたのよ。ボックも助かったかもしれないわね、あなたの話を信じていたら」彼女の目は涙でいっぱいだった。

 「ほめられるべき人がいるとしたら、あなたです。だって、あなたがいなかったら、スーツケースは持って行かれ、たぶんメツガーは爆弾を船に持ち込み、大統領を吹っ飛ばしていたでしょうから——」

 「あなたと議論するつもりはないわ。わたしは、ただ、ありがとうっていいたいの」

 その晩しあわせにあふれた数人の人びとがロジャーの食事室に集った。ヘレンはオーブリーに敬意を表してサミュエル・バトラー風卵を用意し、ミスタ・チャップマンは本屋の成功を祈るためにシャンパンを二本買ってきた。オーブリーはワイントラウブの犯罪歴を調べていた秘密捜査官とどんなことを話したのか、教えてくれと頼まれた。

 「今となってみるとなにもかもとても単純に思えて、どうしてすぐに見抜けなかったのか不思議なくらいです。わたしたちは休戦協定が締結されたら自動的にドイツの陰謀もなくなるものと思いこんでいました。どうやらワイントラウブは、ドイツからわが国に送りこまれた、もっとも危険なスパイのひとりだったようです。わが国の船舶が航海中に起こした火災や爆発のうち、三十件から四十件は彼の仕業だといわれています。ここに住み着いてからずいぶん経つし、市民権証書を取ったものだから、だれも彼を疑いませんでした。しかし彼が死んでから、手ひどい扱いを受けていた妻が口を割り、彼がどんな活動をしていたか、いろいろ話してくれたんです。それによると大統領が講和会議に行くことを発表すると、ワイントラウブはさっそくジョージ・ワシントン号の大統領特別室に爆弾を仕掛ける決意をしたのです。ミセス・ワイントラウブはひそかにこの人殺しの計画に反対していたので、やめるように説得したのですが、彼はじゃまをしたら殺すぞと彼女を脅しました。彼女は命の危険を感じながら生活していたんです。わたしは夫ににらまれたときの彼女の顔を覚えていますから、その話は信用できると思います。

 ワイントラウブにとって爆弾を作ることなどもちろん造作もありません。彼の家の地下室には悪魔のようになんでもそろった実験室があり、そこで何百もの爆弾を作ったんです。問題はどうすれば怪しまれないような爆弾ができるか、そしてどうすれば大統領の個室にそれを持ち込めるか、です。彼は爆弾を、本の表紙に隠すことを思いつきました。ただ、どうしてあの本を選んだのかはわかりませんが」

 「たぶんわたしがなにも知らずにヒントを与えてしまったのだろう」とロジャーがいった。「あいつはこの店に入り浸っていたのだが、ある日ミスタ・ウィルソンは本好きだろうかと訊かれたことがある。わたしはそうだと思うといって、『クロムウェル伝』のことを話した。ウィルソンの愛読書の一つだと聞いていたのでね。ワイントラウブは非常に興味を示して、いつかその本を読まなければならないといっていた。そういえば、あのアルコーヴのなかでしばらく本を探していたな」

 「きっと彼は運が味方してくれていると思ったでしょうね。メツガーという男はもう何年もオクタゴンでアシスタント・シェフをしていたのですが、ジョージ・ワシントン号に乗ってホテルのコックの一団とともに大統領の食事を作る役に選ばれたのです。ワイントラウブはこうした情報をドイツのスパイ組織の上層部から手に入れました。メツガーはホテルではメシエとも呼ばれていたらしく、非常に頭の切れるシェフで、スイス市民としての偽造パスポートを持っていました。彼も組織の手先でした。元々の計画ではワイントラウブとメツガーのあいだで直接的なやりとりは行われないはずだったのですが、仲介役が別件で司法省にあげられて、アトランタ刑務所に入れられてしまったのです。

 ワイントラウブは疑われることなくメツガーと連絡を取るいちばんいい方法は、古本屋の本を利用することだと考えたらしい——それも買う人がないような本をです。メツガーはどの本かは知らされていたけれども——たぶん仲介役が急にいなくなってしまったために——どの店にそれがあるのかわからなかったのでしょう。だから最近あちこちの本屋にクロムウエルの本の問い合わせがあったのです。

 ワイントラウブは当然メツガーと直接会おうとはしませんでした。あの調剤師はわが身を大切にしていましたからね。シェフはようやく目的の本がある本屋の場所を知り、急いでここにやって来ました。ワイントラウブがこの店を選んだのは、まさかこんなところでスパイの暗号がやりとりされるとはだれも思わないと考えたからですが、また同時にあなたに信用されていて足繁くやってきても全然不思議じゃないからです。メツガーがはじめてここに来たのは、覚えていらっしゃるでしょうが、たまたまわたしがあなたといっしょに夕ご飯をいただいた晩でした」

 ロジャーはうなずいた。「彼は例の本がほしいといったのだが、驚いたことにみつからなかった」

 「そうです。ワイントラウブが数日前に取っていって、悪魔の仕掛けをなかに組み込むために寸法を測り、また装丁し直していたんですから、当然です。彼は爆弾の入れ物として原物の表紙が必要でした。つぎの日の晩、あなたが教えてくれたように、本はもどってきました。正面ドアの合い鍵を作り、自分で返しに来たのです」

 「木曜日の晩、ここでコーンパイプ・クラブの集まりがあったとき、またなくなっていたね」ミスタ・チャップマンがいった。

 「ええ、あのときはメツガーが取っていったのです」とオーブリーがいった。「彼は指示を誤解して、本を盗むものだと思っていました。仲介役がいなくなって、行きちがいが生じはじめていたんですね。わたしが思うに、メツガーは情報を得たら、あとは本をその場に置いておかなければならなかったのです。とにかく彼は混乱し、つぎの日のタイムズ朝刊に広告を出しました——例の『なくしもの』の広告です。あれで本屋の場所はわかったが、つぎになにをすればいいのかわからないということを伝えたかったのでしょう。それから広告にでていた十二月三日火曜日深夜という日付は、まだその正体を知らないワイントラウブにいつ自分が船に乗るかを伝えるためのものでした。ワイントラウブはあらかじめスパイ組織から『なくしもの』の広告欄に注意するよう指示を受けていました」

 「なんてことかしら!」ティタニアが声をあげた。

 オーブリーはつづけた。「以上の推測が百パーセント正しいとはいえないかも知れませんが、いろいろ考え合わせると、そういうことになります。ワイントラウブはじつに慎重な男でしたが、今度ばかりはメツガーと直接コンタクトを取る必要があると考えました。彼は金曜日に本を持って会いに来いと伝えました。一方、メツガーはホテルのエレベータでわたしに話しかけられ、ひどく怯えていました。彼はミセス・ミフリンが覚えていらっしゃるように、あの晩本を店に返しに来ました。わたしが家に帰る途中で薬屋に立ち寄ったとき、彼はワイントラウブといっしょにいたにちがいありません。わたしは薬局の本棚に『クロムウェル伝』の表紙を見つけました——どうして彼が不注意にも表紙をそんなところにほったらかしにしていたのかわかりません——そして彼らはわたしがなにかを知っているとただちに感づいたんです。それで橋の上までわたしを追いかけ、殺そうとしました。ワイントラウブが日曜日のまだ暗いうちに店に押し入ったのは、金曜日の晩にわたしが表紙を持って行ってしまったからです。爆弾を組み込む本の表紙が必要だったのです」

 オーブリーはみんながじっと聴き入っていることを気持ちよく意識した。彼はティタニアの視線をとらえ、うっすらと顔を上気させた。

 「お話しすべきことはだいたい以上です。連中が必死になってわたしの命を狙おうとしたので、なにか後ろ暗いことがあるに決まっていると思っていましたよ。つぎの日の土曜日の午後、わたしはブルックリンに来て、通りのむかいに部屋を借りました」

 「それからわたしたち、映画に行ったわね」ティタニアが明るくいった。

 「そのあとのことは皆さんご存じでしょう——その晩メツガーがわたしの下宿を訪ねてきたこと以外は」彼はそのとき起きたことを話した。「彼らはすぐ間近まで迫っていたんです。窓辺のたばこに気がつかなかったら、彼の思うつぼだったでしょう。もちろんわたしが勘ちがいしていたこともご存じですね。わたしはミスタ・ミフリンが彼らとぐるになっていると思ったのですが、それに関してはお詫びしなければなりません。そのせいでわたしはミスタ・ミフリンに叩きのめされてしまったんですよ、フィラデルフィアで」

 オーブリーはラドロー通りまで書店主をつけたこと、喧嘩になって負かされたことをユーモラスに語った。

 「彼らはわたしを遅かれ早かれ殺すつもりでいたと思います」とオーブリーはいった。「そしてミスタ・ミフリンを町からおびき出すために偽の電話をかけました。メツガーにこの本屋までスーツケースを取りに来させたのは、ワイントラウブの周辺で接触するのをできるだけ避けたかったからでしょう。一見したところあれは古本の詰まった鞄に過ぎませんでした。たぶんあの爆弾本はページを開こうとしないかぎり安全だったのです」

 「本当に危ないときに、お二人とももどってこられたのよ」ティタニアが賛嘆するようにいった。「午後はほとんどわたしひとりだったんです。ワイントラウブがスーツケースを置いていったのが二時ごろ。メツガーが取りに来たのが六時ごろでした。わたし、わたすのを断ったんです。あの人、あんまりしつこいんで、ボックをけしかけるわよって脅かさなければならなかったわ。わたしはあのかわいい老犬をおさえるだけで精一杯。メツガーに襲いかかろうとしてやっきになっているんですもの。シェフは帰ったけど、きっとワイントラウブのところに相談に行ったんだと思いました。それでスーツケースをわたしの部屋に隠したの。ミスタ・ミフリンは触るなっていったけど、それがいちばん安全だろうと思ったんです。そしたらミセス・ミフリンがもどってきました。わたしたちはボックを裏庭に放して、夕ご飯の支度をはじめました。ベルが鳴ったので、わたしはお店のほうに行きました。あの二人のドイツ人がブラインドをおろしていました。なにをしているのっていったら、わたしを捕まえて黙れっていうんです。それからメツガーがわたしにピストルを突きつけ、そのあいだもう一人がミセス・ミフリンを縛りあげたの」

 「悪党どもめ!」オーブリーが叫んだ。「やつらは当然の報いを受けたわけだ」

 「さあ、皆さん」とミスタ・チャップマンがいった。「それだけで済んだことを天に感謝しましょう。ミスタ・ギルバート、今回の事件を通して考えたことがあるのですが、それは後でいうことにします。さて、ミスタ・オーブリー・ギルバートの健康を祈って乾杯しましょう! 疑いもなくこの映画のヒーローなんですから」

 彼らは歓声をあげて乾杯し、オーブリーはそうした機会にふさわしく顔を赤らめた。

 「そうだわ、忘れていたわ!」ティタニアが叫んだ。「今日の午後買い物に行ったとき、ブレンターノ書店に立ち寄ったの。運よくほしかったものが置いてあったわ。ミスタ・ギルバートへ、幽霊書店の思い出に」

 彼女は食器棚のほうへ飛んでいき、小さな包みを持ってもどってきた。

 オーブリーはうれしさのあまり動顛しながらそれを開けた。カーライルの「クロムウェル伝」だった。彼はどもりながら礼をいおうとしたが、ティタニアの輝く顔に浮かぶ表情を見て——というより見たような気がして——ふぬけのようになってしまった。

 「おなじ版だね!」とロジャーがいった。「それじゃ、あの謎のページ番号を調べようじゃないか! ギルバート、メモを持っているかね?」

 オーブリーはノートを取り出した。「これですよ。これがワイントラウブが表紙の裏に書いた記号です」

 153 (3) 1, 2.

 ロジャーは記号を眺めた。

 「これなら難しくはないはずだ。この版には三冊の本が一冊にまとめられている。第三巻の153ページ、第一行と第二行を見てみよう」

 オーブリーはそこをめくった。彼は書かれていることを読み、にっこりした。

 「ずばり当たりましたよ」

 「読んでちょうだい!」みんなが叫んだ。

 「護国卿の警備員をたぶらかして、寝室にいる護国卿を爆弾で殺害、およびそのほかの細かい計画を遂行」

 「ここからヒントを得たとしても不思議はない」とロジャーがいった。「わたしがいつもいっているだろう? 本は死物なんかじゃないのさ!」

 「驚いたわ」とティタニアがいった。「本は爆薬だって教えていただいたけど、ほんとうなのね! ミスタ・ギルバートが聞いてなくてよかったわ。さもないときっと疑われていたでしょうから!」

 「これはやられたな」とロジャーがいった。

 「ねえ、みんなで乾杯しましょうよ」とティタニアがいった。「わたしが知っているなかでいちばん愛らしくて、勇ましい犬、ボックの思い出のために!」

 彼らは愛犬の死にふさわしい厳粛な表情で酒を飲み干した。

 「善良な皆さん」ミスタ・チャップマンがいった。「今となってはボックのためにしてやれることはなにもありません。しかし残ったわたしたちのためになら、できることがあります。わたしはティタニアとずっと話し合っていたんです、ミスタ・ミフリン。こんな惨事のあとですから、わたしはまずできるだけ早く娘を本屋の仕事から引き離そうと思いました。彼女には少々刺激が強すぎると考えたのです。静かな生活を送り、頭を冷やすのが目的でここに送り出したのですからね。ところが、娘は帰りたくないというのですよ。もしも一族の者が本屋になるというのなら、それを正当化できるようにわたしも本屋のためになにか貢献したいと思います。あなたは馬車に本を積んで旅をし、文学を田舎に広める計画をお持ちでしたね。そこでもしもあなたとミセス・ミフリンがその計画を進める適当な人材を見つけることができるなら、あなたのいうパルナッソス号を十台買いそろえ、来年の春には活動が開始できるよう準備をさせていただきたいと思います。いかがです?」

 ロジャーとヘレンは顔を見合わせ、それからミスタ・チャップマンを見た。ロジャーはその瞬間にいちばん大切な夢の一つが実現するのだと思った。ティタニアもこれには驚き、椅子から飛びあがると父親のもとに駆け寄りこう叫んだ。「ああ、お父さん、お父さんはほんとうにすてきだわ!」

 ロジャーは厳かに立ちあがり、ミスタ・チャップマンに手をさしのべた。

 「チャップマン社長」と彼はいった。「ミス・ティタニアがおっしゃったとおりです。あなたは人類が誇りとすべき方だ。けっして後悔はさせませんよ。今がわたしの人生で最高にしあわせな瞬間です」

 「では、この件は片がつきました」とミスタ・チャップマンがいった。「詳細はあとで話しましょう。さて、もう一つ気になっていることがあります。もしかしたらこんな場所で仕事の話をするのはよくないのかも知れませんが、しかしこれはいわば家族のパーティーのようなものですから——ミスタ・ギルバート、これはわたしの義務としてお伝えするのですが、グレイ・マター広告代理店に広告業務を委託するのは止めるつもりでいます」オーブリーは肩を落とした。彼は最初からこのような悲惨な結末を恐れていた。万事に手堅いビジネスマンなら、諜報部員のようにスパイを追いかけ、路地で盗み聞きをし、他人をドイツびいき呼ばわりする若い社員がいる会社などに、巨額の利益がかかった仕事を任せるはずがないのだ。オーブリーは思った。ビジネスは信頼の上に築かれる。ふらふらと冒険にでかけるような男にミスタ・チャップマンがどんな信頼を置くことができるのか? それでも彼は自分の行動を恥じてはいなかった。

 「残念です、社長」と彼はいった。「わが社はあなたのお役に立とうと努力しました。事務所にいるときは何時間も心を傾け、あなたの会社の宣伝企画を立てたのです」

 彼は屈辱的な姿を見られ、ティタニアのほうに顔をむけることができなかった。

 「まさにそのことなんだがね」とミスタ・チャップマンがいった。「きみには多大な時間を費やすだけじゃなく、すべての時間を費やしてもらいたい。デインティビッツ株式会社の宣伝部長補佐に就任することを了承してくれ」

 全員が歓声をあげ、オーブリーはその晩三度目であったが、まじめな宣伝マンとして身にあまる栄誉を感じた。彼はなんとかそのうれしさを言葉であらわし、それからこうつけ加えた。

 「今度はわたしが乾杯の音頭を取りましょう。ミフリン夫妻の健康と、幽霊書店、わたしがはじめて——はじめて——」

 彼は思いきっていうことができず、「はじめて文学の意味を知った場所に乾杯」とつづけてしまった。

 「居間に席を移しましょうよ」とヘレンがいった。「楽しいお話が山ほどあるし、ロジャーはきっとお店の改造計画を話したくてうずうずしているから」

 オーブリーはいちばん最後までその部屋に残っていたのだが、そのときティタニアがハンカチを落としたのはただの偶然ではないと考えていいだろう。ほかの人々は廊下をわたって居間に入っていた。

 二人は目を合わせ、オーブリーはじっと注がれる彼女の真剣なまなざしのなかで溺れてしまいそうな気がした。こんなにすぐそばにいて、しかもたった二人きりだという喜びは、かえって拷問のようだった。まるで世界に見捨てられ、ランプの下でテーブルクロスが輝く、光の小島に取り残されてしまったかのようだった。

 彼の手にはあの大切な本が握られていた。頭のなかで千の思いが入り乱れたが、そのうちの一つだけを思い切って口にした。

 「わたしの名前を書いてもらってもいいですか?」

 「喜んで」彼女の声はかすかに震えていた。彼女も心臓が高鳴り不思議と動揺していたのである。

 彼は自分のペンをわたし、彼女はテーブルに座った。彼女はすばやく手を動かした。

 ティタニア・チャップマンから

 オーブリー・ギルバートへ、

 感——

 彼女は手を止めた。

 「困ったわ」彼女はすぐにそういった。「今書かなければなりません?」

 ランプの光に生き生きと輝く顔が彼を見あげた。オーブリーはどういうものか身体が麻痺してしまい、彼女のまつげに輝く小さな金色のきらめきのことしか考えることができなかった。今度は彼女が先に目をそらした。

 「あのね」彼女の声は奇妙に震えた。「言葉づかいを変えたほうがいいかもしれない」そして彼女は部屋から駆け出した。

 居間に入ると、父親が話をしていた。「じつを言うと、わたしは娘が本屋の仕事をつづけたいといったことを喜んでいるんです」ロジャーは彼女を見あげた。

 「うむ」と彼はいった。「きっと本屋が気に入ったのでしょう! こういう場所に住むと本に夢中になってほかのことを考える暇なんかありませんからね。きみも本に出てくる人物のほうが現実の人よりももっと現実的に思えてくるようになるよ」

 ミセス・ミフリンの腕に抱かれたティタニアはほかの人に気づかれないようにヘレンの手を握った。彼らはこっそりと微笑みを交わした。