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Chapter 6: 第三章 ティタニア到着
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About This Book

An eccentric antiquarian bookseller presides over a smoke-filled secondhand shop he regards as a shrine to reading, offering personalized book prescriptions rather than conventional advertising. A young advertising copywriter arrives, sparking conversations about promotion, the therapeutic power of literature, and readers' hidden needs; he accepts the proprietor's hospitality and learns the shop's ways. The narrative uses the shop and its noticeboard of recommendations to stage debates about taste, postwar moral disquiet, and reading as cure, while comic and romantic threads involving other visitors gradually entwine with the bookseller's devotion to good books.

 グラッドフィスト——なかなかいいところを突いている。ここにいるミフリンはわたしのことを物欲にとらわれた皮肉屋と呼んでいるが、ところがどっこい、わたしは彼よりもさらに理想主義者だと思っている。わたしはかわいそうななにも知らない顧客をだまして、自分が買わせたいと思っている本をむりやり押しつける宣伝活動家ではない。ほとんどの客は本屋にふらりと入ってきても、自分がなにを読みたいのか、どの本が買うにあたいするのか、すこしもわからず、お手上げのあわれなありさまなんだが、それを見たら彼らの弱みにつけ込もうなんて、とんでもない話だと思う。彼らは完全に店員のいうがまま。教えられたものならなんでも買うよ。しかし名誉を重んじる高潔の士、つまりわたしは、ただ自分が必読書だと思うからといって、彼らに輝かしい名著を押しつけることはしない。でくの坊にまわりをうろつかせて、つかめるものをつかませるんだ。自然選択がはたらくにまかせるんだ。彼らが頼りなげに手さぐりする様子や、奇妙きてれつな本の決め方を観察するのは興味がつきない。本を買う理由というのが、たいていは、表紙が魅力的だとか、値段が一ドル五十セントじゃなくて一ドル二十五セントだからだとか、書評を見たからというんだ。「書評」といっても、よくきくとたいがい広告のことなんだけど。本を買う人のなかで、千人に一人もその区別のわかる人はいないだろう。

 ミフリン——きみの考え方は無慈悲で、さもしくて、誤っている! 治る病気に苦しんでいる人を見て、その苦痛をやわらげてやろうとしない医者を、きみはどう思う?

 グラッドフィスト——きみがいう苦痛など、インテリしか買わないような本を大量に仕入れてしまったときの、わたしの苦痛にくらべればなんでもない。毎日々々、わたしの店の前を通りすぎ、そこに住む高潔な主を飢え死にさせる、いやしい大衆をきみはどう思う?

 ミフリン——きみの病気は自分をただの商人と考えるところにある。わたしがいっているのは、書店主は公僕なのだということだ。政府から年給をもらうべきだよ。この職業が名誉あるものだからこそ、よい作品を広めるために全力をつくそうという気になるんだ。

 クインシー——きみは新刊を中心にあつかっている本屋がどれだけ出版社のいいなりになっているか、忘れているよ。わたしたちは新刊本を仕入れなければならないが、その大部分は決まって駄本だ。なぜ駄本なんか寄こすのかなあ。ほとんどが売れ残るんだからね。

 ミフリン——ああ、それはたしかに不思議だね! しかしそれなりに理由は考えられる。第一に、良書はみんなに行きわたるほど数が多くない。第二に、出版社が無知で、正直なはなし、良書を見わけることができないところが多い。出版しようとする本の選定がまったくいいかげんなのだ。大きな製薬会社とか有名なジャムの製造業者は、薬効成分の化学的検査や分析、ジャムに煮詰める果物の収集選択に大金をかける。ところが出版業でいちばん大切な部門である原稿収集と品質検査は、いちばんなおざりにされていて、いちばん報酬もすくないのだそうだ。わたしはある出版社の原稿閲読者リーダーと知り合いだったが、彼は大学を出たての世間知らずで、本と男子学生友愛会フラターニティのバッジを区別することもできない。ジャム工場が熟練した化学者を雇うのなら、出版社がなぜ本の目利きのプロを雇わないのだ? そういう連中はいることはいるんだ。たとえば『パシフィック・マンスリー』の販売業務を切り盛りしている男だ! 彼はちょいとものを知っているぞ。

 チャップマン——熟練した専門家を過大評価しているんじゃないかな。彼らは得てして口だけの人間であることが多いものだよ。以前、うちの工場にも一人いたんだが、わたしの知るかぎり、赤字を出しているときにかぎって、会社の景気はいいと思っているような男だった。

 ミフリン——わたしが見るところ、世のなかで金儲けくらい簡単なことはない。まっとうな製品、一般の人が必要としているものを送り出せばいいのだ。きみのところにはそれがあり、彼らにはそれが必要だということを宣伝してみろ。彼らはその製品がほしくてたまらなくなり、正面玄関のドアをどんどんたたいて壊してしまうだろう。しかしもしも偽物をわたしはじめたら、もしも正面は総大理石仕上げだが裏手は煉瓦造りといったアパートみたいな本を売りはじめたら、自分で自分の喉をかき切るというか、自分で自分のポケットを切り落とすことになる。

 メレディス——わたしはミフリンの言うことが正しいと思う。みんな、うちの店がどんなところか知っているだろう。正面は板ガラスを張り、大理石の柱が間接照明を受けて満月の夜のかばの木みたいに輝いている典型的な五番街の店だ。うちでは毎日、くだらない本の売り上げが数百ドルにのぼる。それというのもそうしたものへの要求があるからだが、でもね、本心をいえば不本意ながら売っているんだ。うちの店では本を買う一般大衆を軽蔑して、いつもものを知らない木偶の坊などと呼んだりするんだが、しかし彼らは本当は良書を求めているんだ——ところがかわいそうなことに、どうやってそれを手に入れるのかが、わからない。でも、ジェリーのいうことにも一抹の真実があることは認めるよ。ニュートンの「書籍蒐集の愉しみ」を売るほうが、そうだね、ターザンを売るより十倍も満足感がある。しかし自分の個人的な趣味を客に押しつけるのはよくない。せいぜいできることといったら、機を見て如才なく価値のある本をほのめかすくらいなものだ。

 クインシー——そういや、この前、うちの書籍部門でこんなことがあったよ。今時の若い女フラッパーが一人やってきて、タイトルは忘れたけど、僧侶モンクに育てられた若い男の本がほしいっていうんだ。途方に暮れたね。「僧院と炉端」とか「修道院の鐘」とか「修道会の伝説」とか題名を挙げたんだけど、相手はぽかんとしている。そうしたら売り子の女の子がふとわたしたちの会話を耳にして、たちどころにその本をいい当ててしまった。もちろん、「ターザン」さ。(註 ターザンはモンキーに育てられた)

 ミフリン——馬鹿だなあ。マウグリとバンダー・ログを紹介するいい機会だったのに。(註 「ジャングル・ブック」の登場人物)

 クインシー——そうだな。うっかりしていたよ。

 ミフリン——みんなが広告をどう思っているか聞かせてくれないか。この前、ここに広告代理店の若者が来て、新聞に広告を出さないかというんだ。出したらそれに見合う利益はあるのかい?

 フリューリング——利益は必ず出るさ——だれかには。ただ一つの問題は、広告の費用を出した人間に利益が出るかということだ。

 メレディス——どういうことだ?

 フリューリング——わたしは利他的な広告と呼んでいるんだが、そんな問題を考えたことがあるかい? つまり自分よりもライバルにとって好都合な広告ということだ。例をあげよう。六番街にちょっと値がはる、しゃれたデリカテッセンがあるんだ。照明でぴかぴかのショーウインドウに思いつくかぎりの砂糖菓子やオードブルが並んでいる。そのショーウインドウを見たら、思わずよだれが出てくる。なにか食べようという気になる。でもその店で食べるのかというと、とんでもない! 通りをもうすこし先に行ったオートマットとかクリスタル・ランチで食べるんだ。デリカテッセンの主人はあの見事な食べ物の陳列に諸経費を払っているが、その恩恵にあずかっているのはほかの店ということだ。わたしの商売でもおなじことがいえる。わたしがいるところは工場地帯で、そこの人々は最高の本しか買うことができない。メレディスが請合ってくれると思うが、くだらない本を買う余裕があるのは金持ちだけだよ。彼らは新聞雑誌にのっている本の広告を読み、メレディスの店やほかの本屋の広告を見て、それからうちにやってくる。広告は有効だと思うが、その費用は他人に払わせるべきだ。

 ミフリン——それじゃあ、わたしもメレディスの広告に便乗させてもらったほうがいいかな。そんなことは考えたこともなかったよ。しかしいつか新聞のひとつに小さなビラをはさんでみたい。ごく小さな案内状で

 パルナッソスの家

 良書の販売・買取

 当店には幽霊がいます

と書くんだ。どんな反応が返ってくるか楽しみだ。

 クインシー——百貨店の書籍部門はフリューリングのいう利他的広告の恩恵にあずかることはないな。だって、室内装飾の専門家がルイ十八世風の寝室をひきたたせようと、しわ加工した布装のキップリングの海賊版か「内わに足物語」を置くとするね。すると展示スペースの料金はうちの部門に請求されるんだぜ! 今年の夏のことだけど、ポーチ用家具の展示にパンチのきいた仕上げがほしいと、彼から「名前は忘れたが、リングなんとかの本をなにかくれ」って頼まれたんだ。たぶんワグナーの楽劇「ニーベルンゲンの指輪リング」のことだろうと思って、本の山をひっくり返しはじめた。そうしたら彼がいっていたのはリング・ラードナー(註 アメリカの短編作家)のことなのさ。

 グラッドフィスト——そうらね。かねがねいっているが、本の販売は文学愛好家にはむかない仕事さ。本屋が世界の幸福のためになにかまともな貢献をしたことなどあるかね?

 ミフリン——ジョンソン博士の父親は本屋だった。

 グラッドフィスト——そうだ。それで息子のサムの教育費を払えなかった。

 フリューリング——もう一つわたしが関心を抱いているべつのタイプの利他的広告がある。コールズ・フィリップスが描いているある銘柄のシルク・ストッキングの絵を例に取ろう。もちろんその絵はすごい美人のストッキングが強調されるように巧妙に描かれている。でも、かならず絵のなかにべつのもの——自動車とか別荘とかモリス式安楽椅子とかパラソル——があって、そうしたものがストッキングとおなじくらい効果的に宣伝されているんだ。ときどきフィリップスは絵のなかに本を描き込んでいるんだが、そのおかげで五番街の本の売り上げは得をしていると思う。絹の靴下が足首にぴったり合うように、心にしっくりくる本はきっと売れるだろう。

 ミフリン——きみたちはみんな野卑な物質主義者だ。いいかね、本は人間精神の保管場所であり、この世でただ一つ朽ちることのないものなんだ。なんだったかな、シェイクスピアがいったのは——

 王侯の大理石の墓も 金箔を張った記念碑も

 この力ある詩より長くは残らない

ホーエンツォレルン(註 ドイツ帝国の王家)の名にかけて、彼は正しい! ちょっと待ってくれ! カーライルの『クロムウェル伝』になにか書いてあったのを思い出したぞ。

 彼は興奮して部屋を飛び出し、コーンパイプ友愛会のメンバーはたがいに顔を見あわせて笑った。グラッドフィストはパイプから灰を落としてリンゴジュースをかるくそそいだ。「いつものご高説がはじまったぞ」彼はくすくすと笑った。「やつをいじめるのはおもしろくてたまらん」

 「カーライルの『クロムウェル伝』といえば」フリューリングがいった。「あまり注文されることのない本だね。でも先日それを探してうちに来た男がいたよ。残念だが在庫がなかった。その手の本はつねにそろえておくというのが自慢だったんだが。それでブレンターノ書店に電話して一冊手に入らないかと訊いたんだ。するとむこうが持っていた唯一の本がちょうど売れたところだというじゃないか。だれかがトマスの売り上げをあおっているぞ! もしかしたら『ターザン』に引用でも出てくるのかな。そうでなければだれかが映画化権を買ったんだ」

 ミフリンが部屋に入ってきたが、顔には困惑の表情があった。

 「妙なんだよ」と彼はいった。「『クロムウェル伝』が棚にあったのは絶対まちがいないんだ。だって昨日の晩そこにあるのを見たんだから。それがなくなっているんだよ」

 「そんなことか」クインシーがいった。「古本屋に来る連中は気に入った本を見つけても、ちょっと持ち金がたりないなっていうときは、見えないところに隠したり、他人には見つからなくても、お金ができたとき引き出せるよう、べつの棚に移したりするじゃないか。きみの『クロムウェル伝』もおなじ目にあったんだと思うよ」

 「そうかもしれないが、しかしどうかな」ミフリンがいった。「妻の話じゃ、今晩あの本は売ってないらしい。起こして聞いたんだよ。彼女は机に座って編み物をしながらうたた寝していた。旅行の帰りで疲れているんだろう」

 「カーライルの引用が聞けなくて残念だ」ベンソンがいった。「だいたいどういう内容なんだい?」

 「たしかノートに書き留めておいたはずだ」ロジャーはそういって棚を探した。「ああ、ここにあった」彼は読み上げた。

 人間の著作は鳥糞石の山や、胸の悪くなるようなフクロウの糞尿の下に埋められようとも朽ち果てることはないし、朽ち果てることなどあり得ない。人間とその人生のなかに見いだされる勇気ある行動、永遠の光はきめ細かく不変の真実に書き加えられ、森羅万象の新たな神々しい一部分となっていつまでも残るのである。

 「ほら、諸君、本屋は真実を書き足す宇宙的加算機に欠かせない重要な存在の一つなんだ。人間と本の交配を助けるのだからね。本屋が自分の天職に喜びを感じるのにコールズ・フィリップスが描くところの色あざやかな足なんて必要ないのさ」

 「まったく、ロジャー」とグラッドフィストがいった。「きみの純真な情熱はトム・デーリーお得意の小話を思い出させるよ。アイリッシュの牧師さんがウイスキーを飲んだくれる会衆を叱咤する話だ。彼はこういうんだ。『ウイスキーはここに集まる信者にとって災いのもとである。ウイスキー、それがために人は考える力を奪われる。ウイスキー、それがためにあなたがたは地主にむかって銃を撃ち——狙いをそらしてしまうのだ!』まさにこれとおなじだよ、ロジャー、その情熱のためにきみは真実にむかって銃をぶっ放すが、弾はあさってのほうに飛んでいく」

 「ジェリー」ロジャーがいった。「きみはウパスの樹だ。きみの影には毒がある!」

 「さて、みなさん」チャップマン氏がいった。「ミフリン夫人は持ち場をはなれたがっていると思います。早めに散会しようじゃありませんか。みなさんの会話はいつ聞いても愉しいですね。もっとも結論には少々納得できないことがままありますが。わたしの娘は本屋になる予定です。この商売にたいする彼女の意見を聞く日が待ち遠しいですよ」

 来客が店を通って出て行くとき、チャップマン氏はロジャーを脇に引き寄せた。「ティタニアを寄こしても問題はないんだね?」彼は訊いた。

 「もちろんだよ」ロジャーがいった。「彼女はいつ来るつもりだい?」

 「あしたじゃ急かな?」

 「早いほどいい。彼女が使える小部屋が二階に一つ空いている。部屋の備えつけについてはいくつか考えていることがある。明日の午後に来させたらいい」

第三章 ティタニア到着

 朝食後の最初の一服は年季の入った喫煙家にとっていささか重要な儀式である。ロジャーは階段の下にたたずみ、パイプの火皿に火をいれた。強烈な青い煙がもうもうと吹き出され、急いで階段をのぼる彼の背中で渦を巻いた。そのあいだ、彼の頭はもうすぐやってくる雇用人のために小さな空き部屋を準備するという楽しい仕事のことでいっぱいだった。そして階段をのぼりきったとき、彼はパイプの火がすでに消えていることに気がついた。「パイプを詰めたりからにしたり、火をつけたりつけ直したりで、人生の大事な問題にあまり時間をさけないような感じだな。考えてみると、人生というのはどのみち、たばこを吸ったり、お皿を汚して洗ったり、人と話のやりとりをしたりして、その大半が過ぎていく」

 この考え方はなかなかおもしろいと思い、彼はまた一階におりていって、そのことをミフリン夫人に告げた。

 「さっさと部屋の支度をしてしまいなさい」彼女はいった。「こんな朝早くからおかしな説法はやめてちょうだい。朝ご飯が終わったら家庭の主婦は哲学なんかやっている暇はないの」

 ロジャーは新しい助手のために客室を準備するという仕事を存分に楽しんでいた。それは裏に面した二階の小さな寝室で、ドアを開けると狭い通路があり、その通路はべつのドアを隔てて店の回廊部分に繋がっていた。二つある小窓からは、そのあたりのブルックリンのつつましい屋根々々が見えた。その下にはおなじ数だけのたくましい人々と、乳母車と、まずいコーヒーをいれたカップと、チャップマン・プルーンの箱が隠れていた。

 「ところで」彼は一階に呼びかけた。「今晩の夕食にプルーンを用意しておいたほうがいいぞ。ミス・チャップマンに敬意を表して」

 ミフリン夫人はユーモアたっぷりに黙っていた。

 こうしたあたりさわりのない首脳会議のあいだ、ミフリン夫人が手ずから選んでアイロンをかけた、ぱりっとした綿モスリンのカーテンをかけながら、店主はその光る目でニューヨーク湾に浮かぶ巨大なフェリー、スタテン島と文明をつなぐ船の姿をとらえていた。「眺めにほんのすこしロマンがあればいい」と彼は思った。「世間ずれした若い娘に生きることの刺激を思い出させるには、それで充分だろう」

 ヘレン・ミフリンが采配をふるう家だから当然予想されるように、その部屋はどんな住人でも受け入れられるよう万全の用意がととのえられていた。しかしロジャーは間借り人となるべき迷える若者に(彼が考える)好ましい精神的影響を与えることができるよう、みずから一工夫することをかって出たのだ。救いがたい理想主義者である彼は家主として、かつチャップマン氏の令嬢の雇い主として、責任を重く受け止めていた。いかなる部屋のあるオウム貝も、傷つきやすい魂の館を広げるのに、これ以上望ましい機会に恵まれることはないだろう。(註 人間の知性の成長をオウムガイに喩えたオリバー・ウエンデル・ホームズの高名な詩から)

 ベッドの脇には読書灯つきの本棚があった。ロジャーが考え込んでいた問題は、このたった一人の会衆にたいして、どんな本と絵がもっとも優れた説教師になるだろうかということだった。ミセス・ミフリンはひそかにおかしがっていたのだが、彼は以前そこにかけていたサー・ガラハッド(註 アーサー王伝説に出てくる高潔の騎士)の絵をはずしてしまっていた。その絵をかけた理由は(彼がいうには)サー・ガラハッドがいま生きていたなら、本屋になっただろうから、というものだった。「彼女が若いガラハッドにうつつをぬかすようでは困るな」彼は朝食の席でそういった。「その先には早すぎる結婚が待ち受けている。わたしがやりたいのは、彼女の部屋によく撮れた現実の男の写真を一枚か二枚貼ることだ。全盛期には魅力にあふれ、彼女が目にしそうな若者など、どれも生ぬるく欲の皮が張っているようにしか見えなくなる男だ。そうすれば今どきの若者に愛想をつかし、本屋の仕事に本気で打ち込むようになるかもしれない」

 そこで彼は出版社の「宣伝担当」がいつもどさりと置いていく作者の写真と肖像画を入れた蓋つきの大箱をひっくりかえして、しばらく時間を過ごしたのだった。ひとしきり考えたあと、彼はよさそうに思えたハロルド・ベル・ライトとスティーブン・リーコックの銅版画を捨てて、シェリー、アンソニー・トロロープ、ロバート・ルイス・スティーブンソン、そしてロバート・バーンズの写真を選んだ。それからさらに熟慮をかさね、シェリーもバーンズも若い女性の部屋にはいまひとつむいてないと判断し、それらを除外してサミュエル・バトラーの肖像画を採用することにした。このほかに彼がとても気に入って、自分の机の前にかけていた額入りの記事をつけ加えた。以前、ライフ誌から切り抜いたもので、彼はこれを読むとおおいに愉快な気持ちになった。それはこんな内容である。

 友に貸したる

 本のもどりきたりて

 この本が友人の書棚と、そのまた友人の書棚という危地を乗り越え、思った以上によい保存状態で手元にもどってきたことにたいし、わたしは謙虚に心からの感謝を捧げる。

 友人がこの本を幼児のおもちゃにおあつらえむきだと思わなかったことにたいし、あるいは火のついた葉巻の灰皿代わりや、マスチフ犬の輪形おしゃぶりの代わりにしなかったことにたいし、わたしは謙虚に心からの感謝を捧げる。

 この本を貸したとき、わたしはもうなくしたも同然だと思っていた。わたしは長い別れのつらさを受け入れた。そのページを二度と目にすることはないと思った。

 しかしその本がもどってきたのだから、わたしは嬉しくて天にも昇る心持ちだ! やわらかくなめしたモロッコ革を持ってきたまえ。製本しなおし、名誉の棚に飾ってやろう。なぜならこの本は人に貸し出され、ふたたびもどってきたのだから。

 そういうわけだから、わたしが借りた本のうち何冊かはもうじき返してやってもいいだろう。

 「よしよし! これを読めば、書物にたいして守るべきいちばん大事な徳義がわかるはずだ」

 これらの飾りを壁にかけ、彼はベッド脇の書棚に置くべき本を考えた。

 これはごくごく念をいれて検討すべき問題である。ある権威たちは、客室にふさわしい本は苦もなくたちどころに休息へといざなう催眠作用のある本だと考える。この一派が勧めるのは「国富論」、「帝政下のローマ」、「萬国年鑑」、ヘンリー・ジェイムズのある種の小説、そして「ヴィクトリア女王書簡」(全三巻)である。このような本は(夜遅くには)一度に数分しか読むことができず、それでいて有益な知識の断片を与える、というのが彼らのもっともらしい議論である。

 別の一派が勧める就寝前の読み物は短編小説、短い逸話集など、さっと読めて生きがよく、しばらくは目覚めた状態でいさせてくれるが、それだけに最後にはいっそう心地よい眠りをもたらす作品だ。こちらの先生方は幽霊談や痛ましい話さえよかろうと言う。この手の読み物にはオー・ヘンリー、ブレット・ハート、レナード・メリック、アンブローズ・ビアス、W・W・ジェイコブズ、ドーデ、ド・モーパッサン、さらに場合によってはあの鉄道売店の嘆かわしい古典、作者トマス・W・ジャックソン氏が「これは永遠に売れるし、永遠の千年後にも売れるだろう」と語った「アーカンソー横断 普通列車の旅」すらふくまれる。さらにジャックソン氏が人間の知性に攻撃を加えたべつの一冊、「おれの生まれはテキサス 人の指図は受けない」も加えていいだろう。この本は(作者によると)「固ゆで卵みたいなもので、白身と黄身を攪拌しようったって、そうはいかない」というものだそうだ。ジャックソン氏の本はほかにもあって、タイトルは思い出せないが、「これらは悲しみを吹っ飛ばすダイナマイトだ」と彼は話している。ミフリンにとって客がこうした作品を求めてくることくらい腹立たしいことはなかった。彼の義兄で作家のアンドリュー・マギルは以前(単なる嫌がらせから)業界で「鳩色ウーズ」と呼ばれているビロード仕上げの革に金文字をあしらった麗々しい装丁の「アーカンソー横断 普通列車の旅」をクリスマスプレゼントとしてロジャーに贈ったことがある。ロジャーは仕返しにロバート・コルテス・ホリデーが「浮き出し模様のついたヒキガエルの皮」と評する装丁の「偶像破壊主義者ブラン」二巻を(相手のつぎの誕生日に)贈った。しかしこれは物語とは関係のない話だ。

 ロジャーはミス・ティタニアの書棚になにを置こうかと考えながらたのしい朝の時間を過ごした。何度かヘレンが、下におりて店番をしなさいと声をかけたが、彼は床に座ったまま足のしびれも忘れて、最後の間引きのために二階に運びあげた本を眺めまわしていた。「たいへんな特権だよ」と彼はひとりごちた。「若者の心を感化するというのは。妻は、たしかにすばらしい女性だが——わたしが幸運にも彼女に出会ったとき、彼女はどこから見ても分別盛りの年だった。心の成長を適切に監督するなど不可能だった。しかしチャップマンの娘はまったく白紙の状態でうちに来るわけだ。父親の話だと、彼女は上流階級の子女がつどう学校に行っていたらしい。それなら、やわらかい心のまきひげはきっとまだ芽生えていないだろう。ひとつ(彼女に気づかれないように)ここに置く本を使って彼女をためしてみよう。そのどれに反応するかで、今後の方針が立てられる。週に一度は店を閉めて文学について短い話をしてやるのもいいかもしれない。たのしみだな! そう、『トム・ジョーンズ』を手はじめに、イギリス小説の発達に関するミニ講座とか——いや、これはだめだ! しかし、わたしは教師になるのが夢だったし、これはそのいいきっかけになるかもしれない。隣近所に声をかけて週に一度こどもたちを集め、小さな学校をはじめる。実際は『月曜閑談』をするってわけだ! わたしはブルックリンのサント・ブーブと呼ばれるかもしれないぞ」

 新聞記事の一節が彼の頭をよぎった——「この類いまれな文学の徒はその輝かしい才能を古本屋の店主というつつましい外見の下に隠しているが、今や衆目の認めるところ——」

 「ロジャー!」ミセス・ミフリンが階下から呼びかけた。「お店に来てちょうだい! お客さんが『フォウミー・ストーリーズ』のバックナンバーがあるか知りたいんですって」

 邪魔者を追い出してから、ロジャーはまた考え込んだ。「この選定は」と彼は物思いに沈んだ。「もちろん、仮のものでしかない。予備試験的に彼女がどんなものに関心を示すか、調べるためのものだ。まず選ぶべきは、彼女の名前からして当然シェイクスピアとエリザベス朝の文人たちだ。すばらしい名前だな、ティタニア・チャップマンというのは。プルーンには偉大な徳が備わっているにちがいない! 一冊目はクリストファー・マーローにしよう。それからキーツ。若い人はりんとした冬の月夜に『聖アグネス祭前夜』を読んで身震いすべきだ。『ビマートン書店の二階で』も入れなければ。なにしろ本屋の話なんだから。ユージーン・フィールドの『トリビューン初等読本』は彼女のユーモアのセンスをためすのにいい。それからおなじ理由で『アーチー』はぜひ入れなければ。下にいってアーチーのスクラップブックを取ってくるか」

 ロジャーがニューヨーク・イブニング・サンのユーモア作家、ドン・マーキスの熱烈な崇拝者だったことを説明しておくべきだろう。マーキス氏はかつてブルックリンに住んでいたことがあり、店主は彼のことをウォルト・ホイットマン以来、この街に栄誉をもたらしたもっとも傑出した作家であると、倦むことなく語った。アーチーは想像上のゴキブリで、彼を通してマーキス氏はきわめて良質な笑いを表現するのだが、ロジャーはこれをいつも心を躍らせながら読み、アーチーの切り抜きはすべてスクラップブックに保存していた。いまロジャーはこの分厚い本を、とりわけ大切な宝物を保管する机の横の穴から取り出した。彼はそれにぱらぱらと目を通し、ミフリン夫人は彼が甲高い笑い声をあげるのを聞いた。

 「いったいそれはなんなの?」彼女は訊いた。

 「なに、アーチーだよ」彼はそういって、朗読をはじめた。

 都会の下にワイン貯蔵庫があり

 老人ふたりが座って酒を飲んでいる

 服は破れ 髪にも髭にもほこりが混じり

 一人はコートを着ていたが 足は素足にひとしいありさま

 頭の上を電車が走る

 聖誕祭を祝うため 家路を急ぐしあわせな人々を乗せ

 アディロンダックスの山中では猟師たちが鉄砲を撃ち

 半島沖の海を大きな船が航海していた

 小さな女の子がやってきて おじいちゃんにキスをねだった

 まだ小さくてよちよち歩きもままならない

 おじいちゃん キスして ナニーちゃんにキスして

 でもおじいちゃんは彼女の頭にウイスキーの瓶を投げつけた

 外では雪が舞いはじめ

 遙か海上を水夫を乗せた船がゆく

 天使のようなナニーはもう一言もしゃべらない

 祖父は笑ってウイスキーの悪魔に乾杯した

 もう一人の男が口を開いた 彼はやつれてぐったりしていた

 涙が頬をつたっていた 涙のほかはただ青白い顔

 あの子はエリー湖をわたって仕事に通う両親が大好きだった

 兄貴 あの子をぶつのはすこし軽率だったんじゃないかい

 しっかりおめかしして会いに来たんだ

 母親の庭からクリスマス用の花を摘んで

 ハドソン川の下のトンネルをくぐって

 兄貴 血も涙もなくなったのはラム酒のせいかい

 「いったいそれのどこがおもしろいっていうの?」ミセス・ミフリンがいった。「なんてかわいそうな女の子でしょう。そんなのひどいわよ」

 「先があるんだ」ロジャーはそういって朗読をつづけようとした。

 「ありがたいけど、もうたくさん」ヘレンがいった。「『谷間の恋』の韻律をそんなふうに使うなんて罰金ものだわ。わたしは市場に行ってくるから、ベルが鳴ったら出てちょうだい」

 ロジャーはアーチーのスクラップブックをミス・ティタニアの書棚に加え、集めてきた本の吟味をつづけた。

 「『ナーシサス号の黒人』を入れておこう」彼はつぶやいた。「物語は読まないとしても、序文は読むかもしれない。後世に残るという点では、これこそ王侯の大理石の墓や記念碑をしのぐものだ。ディケンズの『クリスマス・ストーリーズ』は下宿のおかみさんのなかのおかみさん、リリパー夫人を紹介するために。出版社の連中は、ストランド街のノーフォーク通りというと、そこに事務所をかまえる著作権代理業者で有名だと思っているが、あそこがリリパー夫人の不滅の下宿があったところだと、どのくらいの人が知っているだろう? サミュエル・バトラーの『ノートブックス』は彼女の知性にほんのちょっぴり刺激を与えるために。『箱ちがい』は英語で書かれた最高のファルスだから。『旅は騾馬をつれて』を読めば、名文とはどういうものかがわかるだろう。『黙示録の四騎士』は人間の悲哀にたいする憐れみの気持ちを教えるはずだ——いや、待てよ。若い女性には分厚すぎるかな。これははずしておいて、ほかのを見よう。モシャー氏の出版カタログ。これがいい! ある愛書家が「書物の喜び」と呼んでいるものの本当の意味がわかるだろう。『杖の随筆集』——そう、今でも優れたエッセイストは活躍している。合本製本した『パブリッシャーズ・ウイークリー』で業界の内情をすこし知ってもらおうか。『ジョーの少年たち』はかるい気ばらしが必要なときのため。『古代ローマ詩』と『オースチン・ドブソン詩集』は名詩に目を開かせるため。いま学校では『古代ローマ詩』を読ませているのかな? サラミスの海戦と一七七六年の残忍な英国軍兵士レッド・コートの話で子供たちを育てているような悪い予感がする(註 米国が独立を宣言したそのすぐあとに、この小説の舞台であるブルックリンでアメリカ軍とイギリス軍が激突している)。さて、おつぎはさりげなくロバート・チェンバーズ(註 スコットランドの著述家)を入れて彼女の気に入るかどうか様子を見てみよう」

 彼は誇らしげに書棚を眺めた。「悪くないぞ」彼はひとり言をいった。「彼女を笑わせるためにレナード・メリックの『女に関する噂』だけつけ加えておこう。題を見たらきっとなんだと思うだろうな。ヘレンは聖書も入れるべきだというだろうが、彼女が読みたがるかどうか、わざと入れずにおこう」

 彼は男性らしい好奇心から整理ダンスの引き出しをあけ、妻がどんな準備をしたのか確かめた。どの引き出しをあけてもラヴェンダーを入れた小さな綿モスリンの袋がほのかな香りを放っているのを見て彼は満足した。「申し分なし」彼は感想をいった。「まったく申し分なし! 足りないものといえば灰皿くらいだ。ミス・ティタニアがときどき見かけるような現代風の女なら、まっさきに要求してくるだろう。それとたぶんエズラ・パウンドの詩集だな。ヘレンがいうようなボルシェビキの雌狐じゃなければいいが」

 その日の午後早く、ギッシング通りとスインバーン通りの角に止まったかがやくリムジンにボルシェビキじみたところはかけらもなかった。緑の制服を着た運転手がドアをあけ、美しい茶色の革のスーツケースを取り出し、藤色の座席の奥からあらわれた見目麗しい乙女にうやうやしく手をさしのべた。

 「鞄はどこにお運びしましょうか、お嬢さま?」

 「つらいけどお別れよ」とミス・ティタニアは答えた。「わたしの居場所を、あなたに知られたくないの、エドワーズ。頭のおかしなわたしの友達が、あなたから聞き出すかも知れないもの。こんなところにまで来て邪魔されたくないわ。わたしは文学でとっても忙しいんだから。あとは歩いていく」

 エドワーズはにこりと笑ってお辞儀をし——彼はこのユニークな若い女相続人を崇拝していた——運転席にもどった。

 「ひとつだけお願いがあるの。お父さんに電話して、わたしが仕事についたって、言っておいて」

 「かしこまりました、お嬢さま」彼女の命令であれば、リムジンを政府の貨物自動車にだって追突させる気のエドワーズがいった。

 ミス・チャップマンは手袋をはめた小さな手を、ハンドバッグのなかに差し込んだ。このちょっと変わったハンドバッグはきらきら光る細い鎖で手首につながれていた。彼女は五セント白銅貨を取り出し——それは彼女に似つかわしい、ピカピカした愛想のいい五セント白銅貨だった——彼女の運転手におごそかに手わたした。おなじようにおごそかに彼はお辞儀をかえした。車は何度か堂々たる弧を描いたあと、たちまちサッカレー大通りをすべるように走り去った。

 ティタニアはエドワーズが見えなくなったことを確かめ、注意深くあたりを見まわしながら、しとやかな足取りでギッシング通りを進んだ。小さな男の子が「ねえ、鞄を持とうか」と叫び、彼女は危うくうなずきかけたが、今や週給二十ドルの身であることを思いだし、手を振って彼を追い払った。わたしがこの若い女性の容貌を説明しなかったら、もちろん読者は不満を覚えるだろう。そこで彼女がギッシング通りにそって数ブロック歩くあいだを、この目的のためにあてようと思う。

 彼女をうしろから観察する者があれば、クレメンス・プレイスに着くまでに、暖かいツイード服が彼女の身体にぴったり合うよう仕立てられていることや、小さな茶色のブーツがペンシルベニア鉄道のプルマンポーターのような淡褐色のスパッツに覆われていることや、からだつきはほっそりしているが元気をみなぎらせていることや、業界用語で「ヌートリア」と呼ばれる、オパールのように白濁した色の高価な襟巻きをしていることに気がつくはずだ。うしろを歩く観察者は思わずチンチラという言葉を思い浮かべるだろう。もしも彼が父親なら、小切手帳に残されたたくさんのサイン入りの控えを思い浮かべるかも知れないけれど。観察者がクレメンス・プレイスで横道にそれていたなら、彼が得た印象は「金がかかっているが、それだけのことはある」という大ざっぱなものにとどまるにちがいない。

 しかしこの驚くべき女性の観察者は、おそらくギッシング通りをさらにすすんでハズリット通りと交わるつぎの交差点まで彼女を追って行くはずだ。そこでうまく舗道の彼女に並び、こっそり横目を使う。抜け目のない男なら、かしいだボンネットが視界をさえぎらない右側を通るだろう。彼は(文句のつけようのない)かわいらしい頬とあご、どんなに曇った日でも一日じゅう太陽の光をたたえている髪の毛を目にするだろう。心おどる境涯にあってやや進みがちなのもいたしかたないプラチナの小型腕時計も、ちらりと垣間見れるかもしれない。灰色がかった毛皮のなかには、野暮な春にはけっして咲かず、十一月と五番街のショーウィンドウのなかにしか見られないスミレの花束を認めるだろう。

 この観察者は自分の用事などにはおかまいなく、ギッシング通りをさらに数間歩きつづける。そして何気ないふうを装いつつ、半ブロック先の、道がワーズワース・アヴェニュー高架鉄道駅へ折れるところで立ち止まり、まるでなにかを思い出し、いかにもどうしようかと迷ったふりをしてうしろを振り返ったはずだ。一見なにも見ていないようだが、彼はこの光り輝く歩行者を一瞥し、彼女の深い青い目につよい衝撃を受けることになる。決意を秘めた小作りな顔は快活なようでいて、青春の熱気がもつ不思議な哀しさをおびていた。頬は興奮と身が引き締まるような空気のなかを急ぎ足で歩いたせいで照り輝いて見えただろう。観察者はきっと野生のヌートリアの毛皮と、むき出しになったなめらかなV字型の喉元の優美な対照に気がついたはずだ。そのとき彼は、この魅力的な女性が立ち止まってあたりを確認し、驚いたことに、どことなく陰気な感じのする古本屋へと踏み段を駆けおりるのを目撃する。観察者はブルックリンが神の格別のご加護のもとにあるのだという驚くべき確信をあらたに抱いて自分の用事を片づけにその場を去るだろう。

 ロジャーはリッツ・カールトン・ホテルのロビーとセントラル・パーク乗馬学校で育ったひねくれ者を予想していたので、この若い娘のさわやかな飾り気のなさに目を見張った。

 「ミスタ・ミフリンですか?」煙がたちこめる部屋の隅からいそいそと出てきた彼にむかって彼女はいった。

 「ミス・チャップマンだね?」彼は鞄を受け取って答えた。「ヘレン! ミス・ティタニアがお出でだ」

 彼女は店の薄暗いアルコーブを見わたした。「雇っていただいて、ほんとうにありがとうございます。父から噂はよく聞いています。父はわたしのことを手に負えない娘だっていうんですよ。これが父のいう文学なんですね。いっぱい勉強したいわ」

 「あら、ボックね!」と彼女は叫んだ。「父が世界で最高の犬だっていっています。ボティチェリかだれかから名前をとったんですってね。わたし、彼にプレゼントを持ってきました。鞄に入れてあるの。いい子ねえ、ボッキー!」

 スパッツに慣れていないボックは彼なりのやり方でそれを調べていた。

 「まあ、お嬢さん」とミセス・ミフリンがいった。「お会いできてうれしいわ。うちが気に入ってくれたらいいけれど、でもどうかしらねえ。ミスタ・ミフリンは気むずかしいから」

 「あら、もちろんですわ!」とティタニアがいった。「いえ、その、きっとここが大好きになります! 父のいうことは一言も信じちゃいけません。わたしは本に目がないんですから。売っちゃうなんて、もったいないわ。このスミレはあなたのために持ってきたんです、ミセス・ミフリン」

 「なんてご親切なこと」すでに彼女の虜になっていたヘレンはいった。「いらっしゃい。さっそく水にさしておきましょう。部屋に案内するわ」

 ロジャーは二人が二階で動きまわる音を聞いた。彼は急に自分の店が、若い娘をおくには、いささか陰気な場所ではないかと思えてきた。「レジの器械を入れておくべきだったな」と彼はぼんやりと考えた。「どうも商売人らしくないと思われそうだ」

 「それじゃ」ティタニアとふたたび下におりてきたときミセス・ミフリンがいった。「わたしはケーキを焼くから、あなたは雇い主におかえしするわね。彼がお店のなかを案内して、本がどこにあるか教えてくれるわ」

 「そのまえに」とティタニアがいった。「ボックにプレゼントをわたすわ」彼女は大きな薄葉紙の包みを見せ、幾層にもなった被いをといて、やっと一本の頑丈な骨を取り出した。「シェリーでお昼を食べたんです。そのとき、ボーイ長に頼んでこれをもらったの。大笑いされちゃったけど」

 「台所に来てあげてちょうだい」とヘレンがいった。「彼はあなたの生涯の友になるでしょう」

 「すてきな犬小屋!」荷箱を改造してつくったボックのねぐらを見たとき、ティタニアが叫んだ。店主の器用な大工仕事の結果、荷箱はカーネギー図書館の模型に変じていた。ドアの上には「閲覧室」と書かれたプレートがかかり、内部には本棚の絵が描きこまれている。

 「しばらくしたらあなたもミスタ・ミフリンに慣れるでしょう」ヘレンが愉快そうにいった。「自分が気に入るまで、まるまる一冬、あの犬小屋に手をかけていたのよ。ボックのかわりに自分が住む気なのかと思ったくらい。なかに描かれている本はみんな犬が出てくる本なの。彼が作ったタイトルもたくさんあるわ」

 ティタニアはぜひなかをのぞきたいといった。ボックはすいと自分のすみかに入ってきた新しい彗星のような女性にこんなふうに注目され、おおいに気をよくした。

 「まあ、すごいわ!」彼女はいった。「『オマル・ケイナインのルバイヤート』ですって。うまいものねえ!」

 「あら、まだまだあるのよ」ヘレンがいった。「『ボーナー・ロー著作集』とか『ボーンの古典選集』とか『教理問答とドグマ』とか、よくまあ思いつくわね。(註 いずれも犬や骨にかけた言葉を織り交ぜている)ロジャーがそんな冗談を考える精力の半分でも仕事にむけてくれたら、わたしたちは今ごろお金持ちになっていたのに。さあ、お店を見ていらっしゃい」

 ティタニアは机に座っている書店主を見つけた。「もどりました、ミスタ・ミフリン」と彼女はいった。「ほら、わたし、売上伝票の記載用にとがった鉛筆を買ってきました。練習したから、いまじゃ髪に挿すのもうまくできるんです。カーボン紙とかいろいろ入った大きな赤い帳簿、あれがあるといいんですけど。ロード・アンド・テイラーズ百貨店で、売り子たちが帳簿に記載しているのを見て、すてきだなって思いました。それからエレベーターの動かし方も教えてください。わたし、エレベーターに興味津々なんです」

 「まいったな」とロジャーがいった。「そのうちわかるだろうが、ここはロード・アンド・テイラーズとは大ちがいだよ! エレベータなどないし、売上伝票もレジの器械もない。頼まれないかぎり、接客することもない。お客さんはここに来て店のなかを見てまわり、欲しいものが見つかったらわたしがいる机までもどってきて金を払うんだ。値段はどの本にも赤い鉛筆で記されている。お金はこの棚の箱のなか。この小さなフックにかかっているのが鍵だ。売り上げは全部この台帳に書き込む。本を売ったら、ここに書き込むんだよ。受取金額といっしょに」

 「でもつけで買う場合はどうします?」

 「つけは認めない。すべて現金払いだ。だれか本を売りに来たら、わたしのところに来るようにいいなさい。ここで何時間も本を読む人を見ても驚いてはいけないよ。この店を一種のクラブみたいに考えている人がたくさんいるんだ。たばこのにおいがいやじゃなければいいがね。というのは、ここに来る人はほとんどみんな店内でたばこを吸うんだ。見てごらん、そのための灰皿が置いてあるだろう」

 「たばこのにおいは大好きです」ティタニアがいった。「うちの父の書斎はこんなにおいがします。でもこれほど強いにおいじゃないけど。それからわたし、虫が見たいわ。ほら、本の虫。父はあなたのところにたくさんいるっていっていました」

 「ちゃんと見られるさ」ロジャーは笑いながらいった。「ここに出たり入ったりしているよ。あしたは仕入れた本がどう配列されているか教えよう。慣れるのにしばらく時間がかかると思う。それまであちこち、なにがあるか見て、暗闇のなかでも特定の本が探せるくらいに棚を覚えなさい。妻とわたしはこのゲームをしてよく遊んだものだ。夜、電気をみんな消して、わたしが本のタイトルをいい、彼女がどれくらいその近くの本を取れるかためすんだ。それからわたしの番。目指す本から六インチ以上離れていたら罰金を払わなければならない。なかなかおもしろいものだよ」

 「すごく楽しそう。油断のならないお店なのね!」

 「これはわたしがおもしろいと思った本の紹介をのせる掲示板だ。これはいまちょうど書いていたカードだよ」

 ロジャーはポケットから四角い厚紙を取り出し、画鋲で掲示板に留めた。ティタニアがそれを読んだ。