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Chapter 7: 第四章 消える本
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About This Book

An eccentric antiquarian bookseller presides over a smoke-filled secondhand shop he regards as a shrine to reading, offering personalized book prescriptions rather than conventional advertising. A young advertising copywriter arrives, sparking conversations about promotion, the therapeutic power of literature, and readers' hidden needs; he accepts the proprietor's hospitality and learns the shop's ways. The narrative uses the shop and its noticeboard of recommendations to stage debates about taste, postwar moral disquiet, and reading as cure, while comic and romantic threads involving other visitors gradually entwine with the bookseller's devotion to good books.

 戦争を食い止めたはずの一冊

 戦いが終わった今こそトマス・ハーディーの「覇者たち」を読むべきである。わたしはこの本を売りたいとは思わない。なぜならわたしの最高の宝物の一つだからである。しかし全三巻を熟読玩味すると約束してくれる人には喜んでお貸ししよう。

 思慮あるドイツ人が大勢「覇者たち」を読んでいたら、一九一四年七月からの戦争は起こらなかっただろう。

 講和会議に先だって代表全員にこの本を読ませてやれば、戦争は二度と起きないはずだ。

R・ミフリン   

 「すごいわ」ティタニアがいった。「そんなにいい本なんですか? わたしも読んでみようかしら」

 「あんまり良すぎて、できることならフランスにむかう船のなかで、ミスタ・ウィルソンに読ませたいくらいだ。船に持ち込むことができればいいんだがね。まったくすばらしい本だよ! これを読むと憐れみと恐ろしさで胸がつぶれそうになる。ときどきわたしは夜中に目をさまし、窓の外を見て、ハーディーの笑い声をきいたような気持ちになるんだ。どうも彼と神様がごっちゃになりかけているようだ。しかしハーディーはあなたが読むにはすこしむずかしすぎるだろう」

 ティタニアはわけがわからず、なにもいわなかった。しかし心のなかではいそがしくメモを取っていた。ハーディ、むずしい、胸がつぶれる、ためしに読んでみよう。

 「わたしがあなたの部屋に置いた本をどう思ったかね?」ロジャーがいった。彼は彼女が自発的に感想を述べるまで待とうとみずからに誓っていたのだが、我慢ができなかったのだ。

 「わたしの部屋にですか? あら、ごめんなさい。気がつかなかったわ!」

第四章 消える本

 「なあ、おまえ」その日の晩の食事のあとでロジャーはいった。「ミス・ティタニアにうちの朗読の習慣をご披露したほうがいいと思うんだが」

 「退屈じゃないかしら?」とヘレンがいった。「みんながみんな本を読んでもらうのが好きなわけじゃないから」

 「あら、わたしは大好きです!」とティタニアが叫んだ。「本を読んでもらえるなんて思ってもみなかったわ。子供の時いらいです」

 「あなたに店番を頼んで」ヘレンはロジャーをからかいたい気分になっていった。「わたしはティタニアを連れて映画に行くわ。まだ『ターザン』を上映していると思うの」

 ミス・チャップマンが心中どうしたいと思ったかはともかく、ターザンを見に行けば書店主をがっかりさせることはそのしおれた顔つきからわかった。そこでこの傑作映画への興味をすばやく打ち消した。

 「せっかくですけど、『ターザン』って、ジョン・バローズ(註 米国の自然史家、文筆家。ティタニアはエドガー・ライス・バローズと勘違いしている)の自然の話じゃありません? ミセス・ミフリン、あれはすごくつまらないと思います。ミスタ・ミフリンに本を読んでもらいましょうよ。わたし、編み物かごを持ってきます」

 「邪魔がはいっても気にしないでね」とヘレンがいった。「だれかがベルを鳴らしたら、ロジャーは急いで店に出なければならないから」

 「わたしに行かせてくださいな」ティタニアがいった。「その、お給料を稼ぎたいんです」

 「わかったわ。ロジャー、ミス・チャップマンを居間にお連れして、わたしたちがお皿を洗うあいだ、本でも見ててもらいましょう」

 しかしロジャーは朗読をはじめたくてうずうずしていた。「皿洗いはあとまわしにしよう。せっかくの機会なんだから」

 「お手伝いさせてください」ティタニアがいいはった。「皿洗いってすごくおもしろそう」

 「だめ、だめ。うちで過ごす最初の晩なのに」ヘレンがいった。「ミスタ・ミフリンとわたしがあっという間にかたづけてしまうから」

 そういうわけでロジャーは居間の石炭の火をかき回し、椅子をととのえ、読み物用にティタニアに「衣服哲学」を手わたした。彼が妻と台所に消えると、そちらの方から洗い桶のなかで瀬戸物がかちゃかちゃと鳴るにぎやかな音や、お湯が飛び散る音が聞こえてきた。「皿洗いのいちばんいいところは」ロジャーの話し声が聞こえた。「手がとてもきれいになることだな。古本屋をやっているとなかなか味わえない感覚だ」

 彼女は「衣服哲学」にちらりと「一瞥をくれた」だけで見むきもせず、テーブルの上にまだ読んでいないタイムズの朝刊をみつけ、取り上げた。彼女は

「なくしもの 1アゲートラインにつき50セント」

という見出しのついた欄に視線を落とした。最近、小さな真珠のブローチをなくしたばかりだったので、彼女はその欄にさっと目を通した。こんな投稿を読んで彼女はくすくすと笑った。

 なくしもの——インペリアル・ホテルの化粧室にて入れ歯を紛失。43丁目西134番地スチールまで連絡を請う。無条件にて謝礼進呈。

それからつぎのような投稿を見つけた。

 なくしもの——トマス・カーライルの「オリバー・クロムウェル伝」をギッシング通りとオクタゴン・ホテルのあいだで紛失。見つけられた方は十二月三日火曜日深夜までにオクタゴン・ホテルのアシスタント・シェフまでお返しください。

 「あら」と彼女は声をあげた。「ギッシング通りって——ここのことだわ! それにアシスタント・シェフが読むにしてはへんな本ね。このごろ、あそこのランチの味が落ちたのも当然だわ!」

 ロジャーとヘレンが数分後、居間にもどってきたとき、彼女は書店主にその広告を見せた。彼はひどく興奮した。

 「おかしなことがあるものだ」と彼はいった。「あの本にはなんだか妙なところがある。おまえに話したかな? この前の火曜日——ギルバートという若者がここに来た晩なので覚えているんだが——髭の男があの本を買いに来たんだ。しかし棚にはなかった。つぎの日、水曜日の晩、わたしはずいぶん遅くまで書き物をしているうちに、机の上で居眠りをしてしまった。正面のドアを開けたままにしていたのだろう、すきま風で目を覚まして、ドアを閉めに行ったら、その本がほかの本からすこし突き出た格好で、いつもの場所に収まっているのを見たんだ。それから昨日の晩、コーンパイプ・クラブのメンバーがここにいるとき、その本から引用しようと見に行ったら、またなくなっていた」

 「もしかしてアシスタント・シェフが盗んだのかしら?」ティタニアがいった。

 「しかし、そうだとしたら、なぜそのことを広告にだしたりするのだ?」ロジャーが訊ねた。

 「彼が盗んだのなら」ヘレンがいった。「せいぜい楽しんで読んでほしいわ。あなたがあんまりあの本の話をするから、一度わたしも読もうとしたけど、つまらなくってあくびが出たわ」

 「本当に盗んだのなら」と書店主がいった。「こんなにうれしいことはない。わたしの主張の正しさが証明されたんだからね。つまり人々は本気で良書を求めているんだよ。アシスタント・シェフが盗みをはたらくくらい良書が大好きなら、この世界の民主主義も安泰だ。盗まれやすいのはたいてい愚劣きわまりない本ばかりだ。ダグラス・フェアバンクスの『人生を価値あるものに』とかマザー・シプトンの『神託の書』とか。いい本が盗まれるのなら、本泥棒なんか気にならないね」

 「この商売がどんなにすごい原則に支配されているかわかったでしょう」ヘレンがティタニアにいった。彼らは火のそばに座って、本が棚にもどってきてはいないかと、店主が確認しに行っているあいだ、編み物をしていた。

 「あった?」もどってきたときヘレンはいった。

 「いいや」ロジャーはそういって、もう一度広告を取り上げた。「どうして火曜日の真夜中までに取りもどしたいのかな?」

 「寝床で読みたいからじゃないかしら」とヘレンがいった。「不眠症に悩んでいるのかもね」

 「読むまえになくしてしまうとはなんとも残念な話だ。彼に感想を聞いてみたい。ぜひとも訪ねていきたいものだ」

 「損益勘定につけて忘れなさいな」ヘレンがいった。「ほらほら、朗読はどうするの?」

 ロジャーは個人蔵書の棚に目を走らせ、手あかのついた一冊を引っ張り出した。

 「感謝祭は過ぎたから、気分はもうクリスマスだ。そしてクリスマスといえばチャールズ・ディケンズだな。おまえ、いつもの『クリスマス・ストーリーズ』じゃ、うんざりかい?」

 ミセス・ミフリンは両手をさしあげ落胆の仕草をした。「彼はこの時期になると毎年あの本を読むの」彼女はティタニアにいった。「でも、それだけの価値はあるわね。気さくなミセス・リリパーとはおおかたの友達よりお付き合いが深いんですもの」

 「それ、なんですか?『クリスマス・キャロル』?」とティタニアがいった。「それなら学校で読まされたけど」

 「いいや」とロジャーがいった。「べつの話で、それよりはるかに出来がいいものだよ。みんな『キャロル』はいやというほど聞かされるけど、ほかの話はこのごろ読まないようだね。わたしとしては、毎年この話を読まないとクリスマスが来た気がしない。これを読むと古きよき時代の本物の宿屋や、本物のビーフステーキ、そして白目のマグにそそがれた本物のエールが恋しくてたまらなくなる。お二人さん、わたしはディケンズを読んでいると、ときどき血のしたたるサーロインを思い浮かべる。ほかほかに茹でたじゃがいもに、わさび大根のおろしたやつをたっぷり添え、下にはぴかぴかのテーブルクロスを敷き、そばには真っ赤に燃えるイギリス製の石炭ストーブ——」

 「どうしよもない夢想家ね」とミフリン夫人がいった。「彼の話を聞いていると、ディケンズが死んでからこのかた、だれもまともな食事をしていないみたいに思えてきちゃう。下宿のおかみさんもリリパー夫人とともに死に絶えたんじゃないかと思えてくるわ」

 「それはひどすぎます」とティタニアがいった。「わたしがブルックリンで食べたじゃがいもくらいおいしいじゃがいもはきっとないでしょうし、ここで会ったおかみさんくらい優しいおかみさんはいないと思うわ」

 「そうだね」とロジャーがいった。「もちろん、そのとおりだ。しかしそれでもヴィクトリア朝のイギリスが消えたとき、なにかが世界からなくなったんだよ。二度ともどってこないなにかがね。たとえば乗合馬車の御者だ。じつにはつらつとした、人間味のある連中だった! 彼らに比較できるような人間が今いるだろうか? 地下鉄のドアの開閉係? タクシーの運転手? 深夜営業の軽食堂をいろいろうろついて運転手たちの話に耳を傾けてきたが、彼らはあまりにもせわしなく動きまわるため、ディケンズが類型化したようには彼らの姿をとらえることはできない。ほら、そうしたものはスナップ写真では写し撮ることができないんだ。タイム露出による写真でなければならない。でも軽食堂の食べ物が非常にうまいことは請け合うよ。最高の食事にありつける場所は、例外なく運転手がたむろする店のカウンター席だ。彼らは寒いなかを運転してものすごく腹を空かせているから、食事のときはあったかくてうまい物をほしがる。ブロードウエイ七十七番街の近くにフランクスという小さな店があるが、そこのハムエッグとフレンチフライはピックウイック氏が食べたのに負けないくらいおいしいよ」

 「わたし、ぜったいエドワードにそこに連れて行ってもらいます」とティタニアがいった。「エドワードはうちの運転手なんです。アンソニアにお茶を飲みに行ったことがあるの。あそこから近いわね」

 「やめたほうがいいわ」とヘレンがいった。「ロジャーがそういう店に行って帰ってくると、タマネギのにおいがぷんぷんして涙が出るくらい」

 「アシスタント・シェフの話をしていたんだったな」とロジャーがいった。「それなら『だれかの手荷物』を読むとしよう。これは給仕長の話だからね。わたしは、いまどきそんな給仕長が実際にいるのかどうか知りたくて、よく給仕か給仕の手伝いになりたいと思ったものさ。人間の本質にたいする知識をひろげ、人生が文学にあらわれているのとおなじくらいいいものかどうか調べるためにも、ありとあらゆる職業についてみたいのだ。ウエイターにもなりたいし、床屋、売り場監督——」

 「ロジャーったら。朗読をはじめたら?」

 ロジャーはパイプの灰を落として、ボックを椅子から追い払い、腰をおろすと、かぎりない喜びを味わいながら、居酒屋好きならだれもが愛する給仕長、クリストファーの印象深い人物描写を読み出した。「『このつたない書き物は給仕の手になるものであり』」彼ははじめた。編み棒はせっせと動き、炉格子のそばの犬は寝そべって、仲のよい友達に囲まれた犬のみが知る、贅沢な忘我の境地にひたっていた。ロジャーはことのほか上機嫌で、とりわけ聞き手がもらす小さな笑い声に気をよくしていたのだが、第一章をあと十ページもすすめば、興趣尽きないあの喫茶室の請求項目に至るというとき——最近のホテルの請求書がこのように書かれていないのはなんとも残念なことだ——店のベルがからんと鳴った。パイプとマッチ箱を取り上げ、「いつもこうなんだ」とぼやくと、彼は急いで部屋を出た。

 訪問者が例の宣伝マン、オーブリー・ギルバートであることを知って、彼はうれしい驚きを味わった。

 「やあ、きみか!」と彼はいった。「きみのためにとっておいたものがある。ジョゼフ・コンラッドの引用でね、宣伝に関するものだ」

 「おもしろそうですね」とオーブリーがいった。「わたしも持ってきたものがあります。この前の晩、ご馳走していただいたので、勝手ではあるんですが、たばこをお持ちしました。ほら、ブルー・アイド混合たばこの缶です。わたしの大好きなやつで、気に入っていただけるといいんですが」

 「こいつはいい。こんなに親切にしていただいたからには、コンラッドの引用は免除してさしあげるべきだろうな」

 「ちっともかまいませんよ。どうやら広告を酷評しているみたいですね。聞かせてください!」書店主は机に引き返すと、散らかったなかから、ようやく彼が書いた紙片を見つけた。

しかし私とても、人類同胞に対する愛情がないわけではないので、現代の宣伝方式をいささか嘆きたくなることがある。たしかに現代の宣伝方式は、個人個人の経営の才、創意工夫、厚かましさ、敏腕などの特質を遺憾なく証明しているのかも知れないが、私の眼には、人間精神の堕落の一形式である騙されやすさガリビリティが、広く蔓延している証拠としか思えない。

ジョゼフ・コンラッド   

 「どう思うかね?」とロジャーがいった。「これは『無政府主義者』という話に出てくるんだが」

 「わたしはなんとも思いませんよ」とオーブリーがいった。「あなたのお友達、ドン・マーキスが先日、夕刊でいっていたように、思想を信じる人がなにをしようと、かならずしも思想それじたいにその責めがあるわけじゃないですからね。コンラッド氏はいかがわしい広告をいくつかご覧になったんでしょう。それだけのことです。いんちきな広告があるからといって、宣伝の原則が悪いとはいえません。でもそんなことより、わたしがここに来たほんとうの理由はこれを見せたかったからなんです。今朝のタイムズに出ていました」

 彼はポケットから「なくしもの」の欄の切り抜きを取り出したが、それはすでにロジャーが注目したものだった。

 「ああ、それはちょうど見たところだ」とロジャーはいった。「棚からその本がなくなっていたが、きっとだれかが盗んだのだろう」

 「そのことでお話ししたいことがあるんです」とオーブリーがいった。「今晩、わたしはオクタゴン・ホテルでチャップマン氏と夕食をともにしました」

 「そうだったのかい? 知ってるだろうが、お嬢さんが今ここに来ているよ」

 「そうおっしゃってました。なんだかおもしろい巡り合わせですね。先日、ミス・チャップマンがお宅で働くことになっていると聞いて、アイデアが浮かんだんです。それなら彼女のお父さんはブルックリンに格別の興味を抱いているだろうから、ここブルックリンでデインティビッツ製品の展示キャンペーンをはるのはどうだろうと思ったんです。あの会社の販売促進キャンペーンはうちが一手に引き受けているんです。もちろん、お嬢さんがここに来ることになっていることなど、わたしは知らないふりをしてましたが、でも話の最中にご自分でそのことをもらしたんです。さて、ここからが本題です。わたしたちは十四階のチェコスロバキア・グリルで夕食を取ることになっていたのですが、エレベーターであがっていくとき、シェフの制服を着た男が本を持っているのを見たんです。わたしはなんの本だろうと思って彼の肩越しにのぞきました。当然、料理の本だろうと思っていました。そうしたら『オリバー・クロムウェル伝』だったんです」

 「すると彼は本を取りもどしたんだね? 彼と話をしに行かなければならないな。カーライルのファンなら、お見知りおき願いたいものだ」

 「待ってください。わたしは今朝の新聞で『なくしもの』の広告を見ていました。あの欄はいつも目を通すんです。宣伝企画のヒントをつかむことがしばしばありますから。人が心から取りもどしたいと思うものを調べれば、彼らがほんとうに大切にしているものがわかります。大切にしているものがわかれば、どんな製品の宣伝をもっと拡大すべきか、情報をつかむことができます。なくしもの欄に本が出てきたのはわたしの知るかぎりはじめてでした。だからわたしは『書籍業が浮上してきたぞ』と思いました。それで例の本を手にしたシェフを見たとき、わたしは冗談のように『本が見つかったんだね』といったんです。彼は外国人のような風貌の髭もじゃの男でした。シェフにしては変わっていますね。スープに浸かってしまいそうですもの。彼はまるでわたしが肉切りナイフを突き立てようとしているみたいに見返してきました。その様子はこっちが怖くなるくらいでした。『うん、そうなんだ』と彼はいい、本を脇の下にはさんで見えなくしてしまいました。なかば怒ったような、なかばおびえたような感じでした。それで、もしかしたら客用のエレベーターには乗ってはいけないことになっていて、支配人に言いつけられるのを恐れているのではないかと思いました。ちょうど十四階に着こうとしたとき、わたしは彼に小声でいってやりました。『大丈夫、だれにも言いやしないよ』って。そのときの彼のおびえかたといったらありませんでしたよ。真っ青になったんです。わたしは十四階でおり、そのあとから彼もおりてきました。話しかけてくるのかなと思ったんですけど、チャップマン氏がロビーにいて、その機会がありませんでした。でも彼はわたしが最後の救いのチャンスででもあるかのように、グリルに入るのを見ていたんです」

 「可哀想にその男は本を盗んだかどで警察に訴えられると震えてたんじゃないかな。なに、気にしなくてもいい、本は彼にやるさ」

 「彼が盗んだんですか?」

 「わからない。しかしだれかが盗んだんだろう。ここから消えたんだから」

 「いやいや、待ってください。ここからおかしなことになるんです。わたしは、新聞の広告を見たあと、彼に会うなんて妙な偶然だなと思っただけで、そのことは忘れてしまいました。チャップマン氏と長いこと話をし、プルーンとポテトチップスのキャンペーン・プランを議論しました。わたしが参考までに用意したキャッチコピーも見せたんです。それからお嬢さんのことをお話になって、わたしはあなたと知り合いであることを打ち明けました。わたしはオクタゴンを八時ごろ出ました。そして地下鉄でここにかけつけ、あなたになくしものの広告を見せ、たばこをわたそうと思ったんです。そしたらアトランティック・アヴェニューで地下鉄をおりたとき、なんと、あのシェフをまた見かけたんです。おなじ列車をおりたんですよ。そのときはもちろん私服を着ていたんですが、白い制服とパンケーキ・ベレーを脱いだその姿を見たら、すぐある男のことを思い出しました。だれを思い出したと思います?」

 「想像もつかない」ロジャーはすっかり話しに引き込まれていた。

 「ほら、わたしがここに来た最初の晩、あの本を探しに来た教授みたいな格好の男ですよ」

 「ほう! そいつはきっとカーライルに夢中なんだ。あの晩、本があるかと聞かれてわたしが見つけられなかったとき、ひどく失望していたからね。かならずあるはずだといい張るので、わたしは変なところに置かれていないかと歴史の棚をしらみつぶしに探したことを覚えている。彼は友達からここにあるのを見たと聞いて、わざわざ買いにきたのだそうだ。市立図書館に行けばきっと一冊手にはいるといったんだが、それじゃだめだというんだ」

 「あいつは頭がおかしいですよ。だって地下鉄を出てから通りをずっとつけてきたんですよ。絶対まちがいない。マッチを買おうと角の薬局に立ち寄ったんですが、そこを出たとき、彼は街灯の下に立っていたんです」

 「カーライルじゃなくて現代の作家だったら、世間の注目をひこうと出版社がうしろで糸を引いているとも考えられる。あの連中は作者の名前を印刷物に載せるためならどんなことでもやるからね。しかしカーライルの著作権はとっくに切れているから、そんなことをしても意味がないんだがな」

 「サミュエル・バトラー風卵のレシピを盗もうとして監視しているんじゃないでしょうか」そうオーブリーはいい、二人は声をあげて笑った。

 「なかに入って妻とミス・チャップマンに会っていきなさい」ロジャーはいった。若者は弱々しく遠慮したのだが、書店主には彼がミス・チャップマンと知り合いになれる機会を、胸を高鳴らせて待っているのが手に取るようにわかった。

 「こちらはわたしの友人だよ」ロジャーがオーブリーを小部屋に案内すると、ヘレンとティタニアはあいかわらず暖炉のそばに座っていた。「おまえ、オーブリー・ギルバートさんだよ。ミス・チャップマン、こちらはギルバートさん」

 オーブリーの意識には本の列や、燃えさかる石炭や、ふくよかな女主人、そして人なつこいテリヤがぼんやりと映っていた。しかし聡明な若者の心はひたすら一点に焦点を合わせ、こうしたものはすべてにこやかな見習い店員の添え物に過ぎなかった。若者の感覚はどれほどすばやく真に重要なデータをかき集め吸収してしまうことか! そちらの方に視線をむけた様子もないのに、彼は人間に可能なもっとも驚くべき電光石火の計算をやってのけたのだった。彼は知り合いの若い女性をすべて足し算し、その総計が目の前の娘に及ばないことを知った。太陽系と広告商売を含めて、自分が知る宇宙からこの新しい驚異を引き算すると、残りがマイナスの数字になることに彼は気がついた。自分の知性の内容に、いつまでも変わることがないと彼が勝手に決めつけた、ティタニアの美という定数を乗じると(わたしの思い違いでなければ、教師はこのことを「掛け合わす」といっていた)、そこから玉のような赤ちゃんが生まれてきたので一驚した。そして自分の経歴を、左手の肘掛け椅子のなかの存在で割ってみると、まったく商が立たないのだった。ロジャーが椅子をもう一つ持ち出すあいだに、彼はこうした計算をすべてやってのけたのだ。

 育ちのよい若者が持つべき礼儀正しさで、オーブリーがまず本能的に考えたことは、女主人との挨拶をきちんとすませなければならない、ということだった。彼は青い眼、絹のシャツウエスト、そしてすてきな形のあごを断固として心の目から追い出した。

 「お招きいただいてありがとうございます」彼はミセス・ミフリンにいった。「先だっての晩にこちらにお邪魔しまして、ミスタ・ミフリンに夕食をご馳走していただきました」

 「お会いできてうれしいわ」ヘレンがいった。「あなたのことはロジャーから伺ってます。夫の変な料理で食中毒なんか起こさなかったでしょうね。ハロルド・ベル・ライト風桃のブランデー漬けを見たらびっくりすると思うわ」

 オーブリーは愛想よく大丈夫でしたといいながらも、視線をあるべき場所(と彼が感じていたところ)から必死になってそらそうとしていた。

 「ミスタ・ギルバートはついさっきおかしな体験をしてね」とロジャーがいった。「その話をしてくれないか」

 オーブリーははなはだむこう見ずにも、好奇心に満ちた青い稲妻にわざと身を投げ出し、その直撃を受けて身体の自由がきかなくなってしまった。「オクタゴンであなたのお父さんと夕食をごいっしょしていたんです」

 その青く輝く高圧電流は「楽しき我が家オーム・スイート・オーム」(註 電気抵抗の単位オームとホームをかけて)のように感じられたが、いっぺんに当たりすぎるのは、さすがにヒューズが飛ぶのではないかと心配になって、彼はあわててミセス・ミフリンのほうにむきなおった。「じつはですね」彼は説明した。「わたしはミスタ・チャップマンの広告をたくさん作っていて、仕事の相談をするため会う約束をしたんです。いまプルーンの一大キャンペーンを計画しているところなんです」

 「お父さんは働き過ぎだわ。そう思いません?」ティタニアがいった。

 オーブリーはミス・チャップマンの家庭事情という庭園にいたる好都合な話題だと思って歓迎したのだが、ロジャーはシェフとクロムウェル伝の話をしてくれと強くうながした。

 「その人、ここまであなたをつけてきたの?」ティタニアが大声を出した。「なんておもしろいんでしょう! 本のお仕事がこんなに刺激的だなんて知らなかったわ」

 「今晩はドアに鍵をかけたほうがいいわ、ロジャー」とミセス・ミフリンがいった。「さもないと『大英百科事典』を丸ごと持って行かれるかもしれない」

 「なにをいっているんだ、おまえ」とロジャーがいった。「わたしはすばらしいニュースだと思う。つつましい職業の男がよい本ほしさのあまり本屋を見張って本をくすねる機会をうかがっている。これほど心強いことは聞いたことがない。『パブリシャーズ・ウイークリー』に投稿しなければならん」

 「あのう」とオーブリーがいった。「みなさんのささやかなパーティのお邪魔になるでしょうから、わたしはこれで」

 「邪魔なんかしておらんよ」とロジャーがいった。「わたしたちは朗読をしていただけだ。ディケンズの『クリスマス・ストーリーズ』は知っているかね?」

 「残念ながら」

 「朗読をつづけようか?」

 「お願いします」

 「ええ、ぜひ」とティタニアがいった。「ミスタ・ミフリンはロンドンの焼き肉レストランに勤めるすてきなボーイ長の話を読んでいたのよ」

 オーブリーはパイプを吸う許可を請い、ロジャーは本を取り上げた。「しかし喫茶室の勘定書を読み上げるまえに、軽く飲み物でもいただいたほうがいいだろう。この一節はなにかやりながらでないと読むことができない。おまえ、みなさんにシェリーを一杯さしあげるのはどうだい?」

 「お恥ずかしい話なんですけど」とミセス・ミフリンがティタニアにいった。「夫はなにか飲みながらでないとディケンズが読めないの。禁酒法が施行されたらディケンズの売れ行きはがくんと落ちるんじゃないかしら」

 「わたしは一度ディケンズの作品のなかでどのくらい酒が飲まれているか一覧表を作ったことがある」ロジャーがいった。「その総計たるや驚くべきものだよ。たしか大樽で七千個分なんだ。そういう計算はじつに楽しい。わたしはロバート・ルイス・スティーブンソンの物語に出てくる暴風雨について短い随筆を書こうといつも思っている。ほら、R・L・Sはスコットランド人だから雨にくわしいんだよ。ちょっと失礼して地下室から瓶を取ってくる」

 ロジャーは部屋を出、残りの者は地下室へおりていく彼の足音を聞いていた。ボックは犬の習性にしたがって彼のあとについて行った。地下室のにおいは犬にとってはすばらしいご馳走である。独特の風味を持つ古いブルックリンの地下室はとりわけそうだった。かまどから暖かい光がさし、ロジャーが焚きつけ用に使っている、荷箱を割って作った薪がうずたかく積まれた幽霊書店の地下室は、ボックにとってはうっとりするような場所だった。ざくざくと石炭をすくうシャベルの音と、その石炭のかたまりを鉄のシャベルから火のなかへ放り込むしゅっという心地よい音が下から聞こえてきた。ちょうどその時、店のベルが鳴った。

 「わたしに行かせて」ティタニアが飛び上がっていった。

 「わたしが行きましょうか?」とオーブリーがいった。

 「とんでもない!」ミセス・ミフリンは編み物を下に置きながらいった。「二人とも在庫のことはなにも知らないでしょう。座って楽になさってて。すぐもどりますから」

 オーブリーとティタニアはもじもじしながらたがいを見つめた。

 「お父様から、よ……よろしく伝えてくれとのことでした」とオーブリーがいった。それは彼がいおうとしていたことではなかったのだが、しかしどういうわけか彼にはその言葉を発することができなかった。「いっぺんに全部の本を読もうとしてはいけないよ、といっていました」

 ティタニアが笑った。「ここにいらっしゃるまえに父に会うなんておかしな偶然ね。お父さんてかわいいところがあると思わない?」

 「じつはビジネス上のおつきあいしかなくて。でも確かにすばらしい方です。広告の力も信じていらっしゃる」

 「あなたは本がお好き?」

 「いえいえ、本とはあまり縁がありませんでした。きっとものを知らない人間だとお思いになるんじゃないかな——」

 「そんなことない。わたしはうれしいわ、世のなかにある本をみんな読んでないことが罪じゃないと思える人に会えて」

 「ここは変わったお店ですね」

 「そうね。幽霊書店なんて名前もおかしいわ。どういう意味なのかしら」

 「ミスタ・ミフリンがいうには、偉大な文学の霊にとりつかれているっていうことらしいです。連中があなたに迷惑をかけなければいいんですが。トマス・カーライルの霊はとても活動的なようですね」

 「幽霊なんて怖くないわ」ティタニアがいった。

 オーブリーは火を見つめた。彼は、自分も事情があってこの店にちょいととりつこうと思っている、といいたかったのだが、どうすれば警戒されずに打ち明けられるかが、わからなかった。そのとき、ロジャーがシェリー酒の瓶を持って地下室からもどってきた。彼がコルクを抜いているとき、店のドアの閉まる音が聞こえ、それからミセス・ミフリンが部屋に入ってきた。

 「あのね、ロジャー」と彼女はいった。「クロムウェルがそんなに大事なら、この部屋にしまっておいたほうがいいわよ。ほら、見て」彼女はその本をテーブルに置いた。

 「これは驚いた!」ロジャーが叫んだ。「だれがこれをもどしてくれたんだ?」

 「あなたのお友達のアシスタント・シェフだと思うわ。ともかく彼はクリスマス・ツリーみたいな髭を生やしていた。とても礼儀正しかったわ。自分はとてもうかつだった、先日、ここで本を見ていたんだけど、うっかりこいつを持って店を出てしまったっていうの。迷惑をかけた分、お金を払うといったんだけど、もちろんわたしは断ったわ。あなたを呼んできましょうかって訊いたんだけど、急いでいるからって」

 「それはなんだかがっかりだな。わたしは本物の愛書家を見つけたと思ったんだが。さて、それではミスタ・トマス・カーライルの健康に乾杯しよう」

 みんなは乾杯をし、椅子に座った。

 「それからあたらしい従業員にも乾杯」とヘレンがいった。これもあっという間に杯が乾された。オーブリーは勢いよくグラスをからにし、ミス・チャップマンの明敏な目はそれを見逃さなかった。ロジャーはディケンズに手を伸ばしかけた。しかしまず最初に彼の愛すべきクロムウェルを取り上げた。彼は注意ぶかくそれを眺めていたが、ふと本を明かりの近くにかざした。

 「謎はまだ解明されたわけじゃないぞ。これは製本しなおしてある。もともとの装丁じゃない」

 「まちがいない?」とヘレンは驚いていった。「おなじに見えるけど」

 「装丁はうまく似せてあるが、わたしはだまされないよ。だいいち、上の角がすり切れていて、見返しにインクの染みがあったんだ」

 「染みならまだついてますよ」オーブリーは肩越しにのぞき込んでいった。

 「ああ、しかしおなじ染みじゃない。長いこと手元にあったからすっかり覚えているんだ。いったいあの変人はなんのために製本しなおしたんだ?」

 「まったくもう」とヘレンはいった。「さっさとしまって忘れてしまいなさい。用心しないとみんなの夢のなかにまでカーライルが出てくるわ」

第五章 オーブリーは途中まで歩き——残りは車で家に帰る

 その晩、ミスタ・オーブリー・ギルバートが幽霊書店を辞し、歩いて家路についたとき、夜の空気は冷たく冴えわたっていた。とくに理由があったわけではないが、地下鉄の轟音に黙想をさまたげられるよりは歩いてマンハッタンに帰ったほうが、なんとなくいいような気がした。

 書店主が朗読した「だれかの手荷物」について試験されていたらオーブリーはひどい落第点を取っていただろう。彼の心は、堰を抜かれ、嬉々として斜面を流れ落ちる急流のように乱れた。オー・ヘンリーがそのもっともみごとな短編の一つで書いているように、「見かけはしゃんとしてまともだったが、中身はもう尋常ではなくなって、なにをやらかすやらわかったもんじゃなかった」。彼がミス・チャップマンのことを考えていたといえば、彼にはずば抜けた論理的思考能力と抽象的緻密さのあることを意味するだろう。彼は考えていたのではない。考えられていたのである。彼の心はあまく誘いかける月の引力に否応なく引っ張られ、いつも通る知性の道筋から潮が引くように撤退した。彼の意志は迷えるはだかの泳ぎ手となって、衝動という名のきらきら光る河口を必死にさかのぼろうとするのだが、はるか風下に押し流され、海に吐き出されるのもやむなしという、絶望的な状況におちいっていた。

 彼はギッシング通りとワーズワース・アヴェニューの交差点の角にあるワイントラウブの薬局にしばらく立ち寄り、かき乱れる胸に慰安をもたらす特効薬、たばこを買った。

 それはブルックリンのそのあたりではよく見かける古いたたずまいの薬屋だった。赤や緑や青の液体をいれた背の高いガラスの容器がウインドウに飾られ、舗道に色つきの光を投げかけていた。ウインドウには白いチャイナグラフで「H・ワイ トラウブ、ド ツ 薬局」と記されている。なかに入ると、ラベルつきの広口瓶や葉巻入りのガラスケース、医薬品、化粧道具が並んだおなじみの棚があり、店の片隅にははるか昔タバード・イン・ライブラリー(註 会員制の図書貸し出しシステムで、薬局などに回転書棚が設置され、毎週本が取り替えられた)が置いていった古い回転式の書棚があった。店にはだれもいなかったが、彼がドアをあけると呼び鈴がするどく鳴った。奥の部屋から声が聞こえた。薬屋があらわれるのをのんびりと待ちながら、オーブリーは回転書棚に収まる埃まみれの本をゆっくりと眺めた。例によってハロルド・マグラスの「御者台の男」や「リンバロストの乙女」、それに「三途の川の屋形船」があった。手あかのついた「神の火」がジョー・チャプルの「ときめき」に寄りかかっていた。僻地の薬局で見かけるタバード・インの書棚にくわしい人は、もう何年も商品が交換されていないことを知っている。それよりもオーブリーが驚いたのは、書棚をまわすうちに、本文がはぎ取られた空の表紙が見つかったことだった。背表紙の文字を見るとこう書いてある。

 カーライル著「オリバー・クロムウェル伝——その手紙と演説」

 ふと衝動にかられて、彼は上着のポケットにその表紙をすべりこませた。

 ミスタ・ワイントラウブが店のなかに入ってきた。がっしりしたドイツ人で、目の下のたるみは染みで変色し、その顔は禁酒法を支持する有力な論拠を提示していた。しかし彼は腰を低くし、客のご機嫌を取ろうと一生懸命だった。オーブリーは自分が望むたばこの銘柄をいった。彼自身がその広告用キャッチフレーズをひねり出したので——「味はマイルド、気分は爽快」——一種の忠誠心をもって、いつもこの銘柄を吸うことにしていた。薬屋はたばこの箱をさし出し、オーブリーはその指が濃い黄色に染まっていることに気がついた。

 「きみもたばこを吸うんだね」オーブリーは快活にそういうと、箱を開け、カウンターに置いてある青いガラスのアルコールランプで紙巻きたばこに火をつけた。

 「わたしですか? わたしはたばこはやりません」ミスタ・ワイントラウブは無愛想な顔にどことなく似合わないほほえみを浮かべていった。「この商売には落ち着きが必要です。たばこを吸う薬剤師は、処方がいい加減になります」

 「それじゃあ、その手の染みはどうしたんだい?」

 ミスタ・ワイントラウブはカウンターから手を引っ込めた。

 「薬品ですよ」彼はうなるようにいった。「薬の処方とか——そんなもののせいです」

 「まあ、喫煙はよくない習慣だね。ぼくも吸い過ぎなんだけど」彼はだれかが彼らの話に聞き耳を立てているような気がしてしかたがなかった。店の奥に通じる入り口には数珠と竹の細い節に糸をとおした仕切りカーテンがかかっていた。彼は一瞬それが横に引っ張られたかのように、かちゃかちゃと鳴る音を聞いた。店を出ようとドアを開けながら振り返ったとき、その竹のカーテンが揺れているのが見えた。

 「じゃ、おやすみ」彼はそういって通りに足を踏み出した。

 ワーズワース・アヴェニューに沿って、高架鉄道の雷鳴の下を抜け、明かりの灯る軽食堂やらカキ料理店やら質屋の前を通るうちに、彼の頭はふたたびミス・チャップマンに占領されてしまった。彼の心はその晩の経験をめぐってすばらしい勢いでぐるぐると旋回した。本でいっぱいのミフリン夫妻の小さな居間、火の粉を散らす暖炉、朗読する書店主の陽気な声——そして馬の毛の詰め物がはみ出しかけた、古い安楽椅子に座る青い目の気どらない娘! 幸運にも彼の座った位置からは気づかれることなく彼女をじっくり観察することができた。暖炉の火影が踊る彼女のくるぶしの形は、コールズ・フィリップスをも恥じ入らせる、と彼は断言できた。こういう乙女がその耐えがたいまでの美しさでどれほどわれわれを悩ますことだろう! 黒ずんだ本の装丁を背景に、彼女の頭は黄金色のやわらかなもやを帯びて光った。純粋で、しゃくにさわるくらい独立心を感じさせる彼女の顔には、魅惑という余計なものまで備わっていて、それが彼にはいまいましかった。説明のできない情熱の嵐が、彼に凍てついた通りを足早に進ませた。「ちくしょう」彼は叫んだ。「いったいなんの権利があってあんなに可愛らしいんだろう? ああ、しゃくにさわる、おしおきしてやりたいくらいだ!」彼はそうつぶやき、自分でも驚いてしまった。「いったいどんな権利があってあんなに無邪気ですてきな顔をしているんだ?」

 道をわたるときはかろうじて身の安全をはかる程度にしか目や耳を使わず、ワーズワース・アヴェニューをぐんぐん進みながら、怒りと崇拝のあいだを逡巡する哀れなオーブリーのあとをつけるのは趣味がよいとはいえないだろう。吸いかけのまま捨てられたたばこが彼の通ったあとに点々と光った。そのたくましい胸の内では支離滅裂な言葉がこだました。ブルックリン橋につながるフルトン通りのいっそう暗い道筋で彼は荒々しく叫んだ。「くそっ、この世界もそう悪いものじゃないな」風が吹き抜ける大きな坂をあがりながら、燦めく星空に黒いこびとのような姿を浮かべ、彼は広告の仕事で大手柄を立てることはできないものかと真剣に思案した。それができればデインティビッツ株式会社社長にむかって、いかなる美の生みの親もまさか聞くとは思ってなかった質問を発しても、笑いものになることはないだろうと考えたのである。

校正中のメモ この言い回しは無意識のうちにロバート・ルイス・スティーブンソンから借用したものに相違ない。しかしもとの表現はどこに出てくるのだろうか? C.D.M.

 橋のちょうどまんなかまでくると、気持ちが落ち着いてきた。立ち止まって、欄干にもたれ、壮麗な景色に目をむけた。夜は更けていたが——もうじき真夜中になろうとしていた——マンハッタンの高くて黒い絶壁のような建築群のあちらこちらに光が輝き、その奇妙で不規則な模様は——「ミルクで育てた七面鳥を当ててみませんか」——といいながら東インドのエレベーター・ボーイがハロウィンのころアパートの住人にさし出す、まばらにくじ券の抜けたラッフルくじのボードのようだった。黄金色の明かりのもやが、山の手のにぎわいを覆うように渦巻いていた。メトロポリタン・タワーの赤い信号灯が三方にむかって合図を放っているのが見えた。広々とした橋桁の下をタグボートが煙を噴き上げながら通った。左舷と右舷のランプの光が潮路に赤と緑の糸を引いた。スタテンアイランド船隊の一隻である大型船が、ぎらぎらと輝く電飾に目をしばたたかせる劇場帰りの疲れてはてた乗客を乗せ、やわらかな光のローブをまとう自由の女神のそばを通り、セント・ジョージの方向にしずしずと進んでいった。見あげると夜空は、すみ切った寒気に星を散らした壮麗な天蓋だった。路面電車が橋の上をがたがたと走るとき、青い火花が架線にからみつくように飛び散った。

 オーブリーはこのすばらしい光景を見るともなく見つめていた。彼は冷静に考えるたちで、ミス・ティタニアの圧倒的なあでやかさにうろたえてしまった自分を、こんなふうに慰めようとしていた。つまり、彼女も結局は彼が崇拝するわざ——広告——の所産であり成果ではないか、と。彼女が発する香気、まなざしが持つやわらかな強制力、心惑わす手首のひだ飾りすら、彼がほれこんだわざの功績に帰せられるのではないか? グレイー・マター社のオフィスの一角で人知れず「視線を釘づけにする」コピー、レイアウト、活字の字面に思いをめぐらしていた彼は、この無自覚な受益者の勝ち誇ったような華やかさとしとやかさの形成に一役買っていたのではないか? 愛らしいイメージではげしく彼を苦しめる彼女は、まさしく広告という神秘的でとらえがたい力の象徴のように思えた。ここまで彼女を作り上げたもの——はにかみ屋で、おどけた小男、ミスタ・チャップマンが娘に文明の粋をまとわせることを可能にしたもの——地上を照らす明けの明星となるまでに、彼女を大切に育て上げることを可能にしたもの——それこそまさに広告だったのだ! 広告が彼女の身をつつみ、広告が彼女を養い、しつけ、屋根を与え、守ってきたのだ。ある意味で彼女は父親の経歴を宣伝する最上の広告であり、その無邪気な完璧さはタイムズスクエアの群衆の頭上に輝く「チャップマン・プルーンズ」という電飾文字とおなじように彼の心をもてあそんだ。自分自身の良心的な仕事が、この娘を近づくこともできないような位置に押しあげたのだと思うと、彼はうめき声をあげた。

 もしも彼が強い思いにかられ、知らず知らず橋の欄干をぐいと怒ったようにつかまなかったら、どんな口実をもってしても彼女に二度と近づくことはできなかっただろう。というのは、その瞬間、後ろから彼の頭に麻袋がかぶせられ、何者かが乱暴に足を抱えて、あきらかに彼を欄干から突き落とそうとしたのである。はからずも手すりに手をかけていた彼は、かろうじてこの襲撃に抵抗することができた。いきり立つ暴漢に足をすくわれたが、欄干に身体を押しあてて横に倒れ、幸運にも敵の足をつかむことができた。袋をかぶせられていたので、大声を出してもむだだった。しかし彼はつかんだ足に必死になってしがみつき、彼と暴漢は歩道をいっしょに転がった。オーブリーも腕っ節は強かったから、虚をつかれたとはいえ、相手をねじ伏せることはできたかも知れない。ところが死にものぐるいで争い、袋を脱ごうとしているとき、彼は頭にすさまじい一撃をくらい、なかば気絶状態に陥ってしまったのである。一瞬、彼はのびてしまって、抵抗することもできなかった。しかし意識はまだ残っていて、少々奇妙なことだが、これから空中に放り出されて、凍てつくようなイーストリバーに落ちていく、目のくらむような感覚を期待して待っていた。腕が伸びて彼をつかんだ——そのとき無抵抗な彼は、叫び声やら、厚板の上を駆ける足音やら、全速力で逃げていく別の足音を聞いた。とたんに袋が頭から取りのけられ、親切そうな通りがかりの男が彼のそばに膝をついた。

 「おい、大丈夫か?」その男が心配そうに言った。「まったく危ないところだったな」

 オーブリーは気が遠くなりそうでしばらく口をきくこともできなかった。頭はしびれ、きっと数インチはへこんだにちがいないと思った。弱々しく手をあげてみると、驚いたことに頭蓋骨の輪郭はいつもとまったく変わらなかった。見知らぬ男は膝に彼の身体をもたれさせ、したたり落ちる血をハンカチでぬぐった。

 「きみ、おだぶつじゃないかと思ったぜ」彼は思いやりのこもった声でいった。「あいつらがきみに飛びかかるのを見たんだ。残念だが逃げられたな。ほんとうに汚いことをしやがる」

 オーブリーは夜の空気を大きく吸い込み、上体を起こした。橋が彼の足下で揺れていた。星降る夜空に浮かび上がるウールワース百貨店の輪郭は、大風にあおられるポプラのように折れ曲がりふらついていた。彼はひどい吐き気がした。

 「とても助かりました」彼はどもりながらいった。「こんなのすぐに治りますよ」

 「救急車を呼ぼうか?」彼を助けた男が言った。

 「いや、結構」とオーブリーがいった。「なんでもないです」彼はよろよろと立ち上がって、欄干にしがみつき、気持ちを落ち着かせようとした。頭のなかで一つの文句が忌々しいほど何度も繰り返された——「味はマイルド、気分は爽快!」

 「どこに行くんだい?」彼を支えながら男がいった。

 「マディソン・アヴェニューと三十二丁目の——」

 「タクシーを呼んでやろうか。おおい」彼はべつの市民が近づいてくるのを見て叫んだ。「手を貸してくれ。頭を棍棒で殴られたんだ。おれはタクシーをひろってくる」

 そこにあらわれた男はさっそく厚意の手をさしのべ、オーブリーのハンカチを、大量に出血している頭のまわりに巻いた。しばらくして最初のサマリア人が、ブルックリンから走ってきたほろつき自動車をつかまえた。運転手は気持ちよくオーブリーを家まで送ることに同意し、他の二人は彼が車に乗り込むのを手伝った。彼は頭部をひどく切っていたが、ほかに傷はなかった。

 「夜中にロングアイランドをうろつくなら鉄かぶとが必要だね」運転手がやさしく話しかけた。「この前の晩、ロックヴィルセンターからこっちに走ってくるとき、二人組の男にピストルを突きつけられそうになったよ。もしかしたらあんたを襲ったのもおなじ二人組かも知れない。奴らの顔を見たかい?」

 「いいや」オーブリーがいった。「あの袋があれば手がかりになったかもしれないが、取ってくるのを忘れた」

 「もどろうか?」

 「その必要はないよ」オーブリーはいった。「思い当たるふしがあるんだ」

 「正体を知っている? おいおい、陰謀に巻き込まれているのか?」

 車は暗いバワリー街を飛ぶように走り抜け、四番街から三十二丁目に入り、オーブリーを下宿の前で降ろした。彼は送ってもらったことを心から感謝し、それ以上の手助けを断った。何度か差し込みそこねてようやく表の戸の鍵をあけると、きしむ階段を四つあがり、よろよろしながら部屋のなかに入った。手探りして洗面台を探し、うずく頭を洗い、タオルを巻きつけるとベッドに倒れ込んだ。

第六章 ティタニア、仕事を覚える

 ロジャー・ミフリンは夜更かしするくせがあったが、朝起きるのも早かった。朝寝をぬくぬくと楽しむのは年若い者だけである。五十代に近づく人間は人生のはかなさを敏感に感じ取り、毛布にくるまってそれを浪費する趣味を持たない。

 書店主の朝はいつもきびきびと一定の手順を踏んだ。彼はたいてい七時半ころ、階段下のコイル・バネ仕掛けの鐘に起こされる。この鐘の音は毎朝その日の客の出入りに備えて店内と床の清掃をする、掃除婦のベッキー婆さんが来たことを知らせるものだ。ロジャーは着古した朱色のフランネルの部屋着をはおり、気ぜわしく一階に下りて彼女をなかに入れ、同時にミルク瓶とパン屋が置いていったロールパンの紙袋を取り上げる。ベッキーが正面ドアを開け放ってつっかい棒をし、明かり取りの窓を押しあけ、埃とたばこの煙に戦いを挑みはじめると、ロジャーはミルクとロールパンを台所に運び、ボックに朝の挨拶をした。ボックは文学的な犬小屋から出てくると、愛想よく服従の念をあらわし前足を突き出した。これは礼儀を示すという意味もいくらかあるが、幾分は一晩じゅう丸めていた背中をのばすという意味もあった。それからロジャーは彼を裏庭に連れ出してひと走りさせ、自分自身は台所の上がり段に立って朝の輝かしい新鮮な空気を吸い込んだ。

 その土曜の朝は澄み切った、身の引き締まるような朝だった。ホイッティアー通り沿いの質素な家がその裏側を自由詩の行末のようにでこぼこと並べていたが、ロジャーにはそれがさまざまな愛すべき人間模様をあらわしているように思われた。家々の煙突からほそい煙の糸があがり、パン屋の荷馬車がいつもよりおそく裏通りを走っていった。寝室の張り出し窓にはシーツや枕がもうすでに乾かされている。家族が憩い、朝ご飯をたっぷりいただくすてきなブルックリンの町は、元気よく、にこやかな気持ちで朝の時間を迎えるのだ。ボックは(隅から隅まで知りぬいている)小さな裏庭の土のなかに、まだなにか新しい魅惑的な匂いが隠れているかのように、鼻を鳴らして嗅ぎまわった。ロジャーはそれを見ながらしあわせな犬にたいして人がいつも感じる楽しさと優しさの入り混じった親近感を抱いた——それはドイツの神様がさわがしいホーエンツォレルン家を見まもりながら感じた、寛容な父親的温情とおなじ気分であったかもしれない。

 刺すように冷たい空気が部屋着にしみてくると、ロジャーは小さな生き生きした顔にやる気をみなぎらせ台所にもどった。調理用レンジの通気口をあけ、湯わかし用のやかんを載せてから、かまどの火をよみがえらせるために下におりていった。シャワーを浴びようと上にもどってきたとき、糊のきいた朝のエプロンをつけ、はつらつとして上機嫌のミセス・ミフリンがおりてきた。ロジャーは寝室の床に落ちていたヘアピンをつまみあげ、女が男よりも整頓上手だと考えられているのはなぜだろう、と不思議に思った。

 ティタニアの起床は早かった。彼女はサミュエル・バトラーの謎めいた肖像にほほえみかけ、ベッドの上に並ぶ本の列を見やり、いそいで服を着た。本屋の修行をはじめたくて気がはやっていた彼女は、いきおいよく階段を駆けおりた。初めて幽霊書店を見たとき、あまりのみすぼらしさにあきれてしまったので、ミセス・ミフリンが塩入れをテーブルに置くこと以外、どうしても朝食の支度を手伝わせてくれないことがわかると、彼女はギッシング通りに出て、昨日の午後目にした小さな花屋にむかった。そこですくなくとも一週間分の給金を出して、菊の花と白いヒースの大きな鉢植えを買った。彼女がそれを店のまわりに飾っているとき、ロジャーがあらわれた。

 「いったいどういうことかね!」と彼はいった。「こんなことをして、どうやってお給料で暮らしていくつもりだい? 支払日は今度の金曜日なんだよ!」

 「一回だけ贅沢をさせてください」彼女はほがらかにいった。「お店をちょっぴり明るくするのもたのしいかな、と思ったんです。売り場監督が来たとき、とってもよろこびますわ」

 「いやはや。まさか古本屋に売り場監督がいるなんて本気で思ってはいないだろうね」

 朝食のあと、彼は新米従業員に店の日常業務を手ほどきした。棚の並びを説明しながらあちらこちらを歩きまわり、必要に応じて解説を加えた。

 「もちろん本屋が知っておくべきいろいろな知識はだんだんとしか身につかない。フィロ・ガブとフィリップ・ギブズのちがいとか、ミセス・ウィルソン・ウッドロウとミセス・ウッドロウ・ウィルソンのちがいといった書籍業特有の知識はね。『鐘と翼』とかいう本が鳴り物入りで宣伝されているが、なんのことはない、そんな本を買いに来る客なんてどこにもいやしないのさ。それがミスタ・ギルバートに広告を信じないといった理由の一つなんだ。『最高をつかみとる』の作者はだれかと聞かれたときは、それがルーズヴェルト大佐ではなく、ミスタ・ラルフ・ウォルド・トラインだということは知っておかなければならないよ。本屋のいいところは、文芸評論家になる必要がない点だ。つまり本を楽しみさえすればいいのだ。文芸評論家はワーズワースの『幸福な戦士』が八十五行の詩であり、二十六行と五十六行の二つの文からなると教えてくれるような人間だ。それが偉大な詩でありさえすれば、ワーズワースがウォルト・ホイットマンやミスタ・ウィル・H・ヘイズとおなじくらい長い文を書いたとしてもなんの関係があるだろう? 文芸評論家というのはおかしな連中だよ。たとえばイェールにはフェルプスという教授がいる。彼は一九一八年に『二十世紀における英詩の発展』という本を出版した。わたしが思うに、そんな題の本は二〇一八年まで出版されるべきではないな。それからタイプライターについての詩の本がほしいなどといってくる客がいる。そのうちわかってくるが、じつはスティーブンソンの『下生えアンダーウッド』のことなんだ。(註 アンダーウッドはタイプライターの商標でもある)まさに、ややこしい人生だ。客を説得しようなんて考えちゃいけないよ。ただ彼らが読むべき本を与えるんだ。それが必要だということを彼らが知らないとしてもね」

 二人は正面ドアから外に出て、ロジャーはパイプに火をつけた。窓の前のわずかな空間に架台が並べられ、その上に大きな空き箱が載っていた。「わたしがいつも最初にすることは——」と彼はいいかけた。

 「お二人とも最初にすることは風邪をひいて死ぬことよ」ヘレンが彼の肩越しにいった。「ティタニア、急いで毛皮を取ってらっしゃい。ロジャー、あなたは帽子を取ってきなさい。そんなにはげているんだから、もうすこし気をつけたらどうなの!」

 彼らが正面ドアにもどってきたとき、ティタニアの青い目はやわらかな毛皮の上で燦めいていた。

 「毛皮の趣味がいいね」とロジャーがいった。「まさしくたばこの煙色だ」彼は色が似ていることを証明しようと毛皮にむかって煙を一吹きしてみせた。彼はひどくおしゃべりになっていた。若い娘がティタニアのようにすばらしく聞き上手であるとき、年かさの男はたいがいそんな気分になるものである。

 「こじんまりしたすてきな場所だわ」ティタニアは通りより一段低い、舗装された店の私有地を見まわしていった。「夏になったらここにテーブルを出してお茶をいただくこともできますね」

 「毎朝いちばんにやるのは」とロジャーが話をつづけた。「この箱に入った十セント均一本を外に出すことだ。夜のあいだはこの箱に入れて店のなかに保管するんだ。雨が降るときは、雨よけの庇をかける。これがじつに商売の役に立つ。だれかがかならず雨宿りに来て、本を見ていくからね。本降りの雨はたいてい五十セントか六十セントの価値がある。店頭本は週に一度入れ替える。今週ここに出しているのはほとんど小説ばかりだ。この手のものはいくらでも入ってくる。大多数はくだらないものだが、それなりに役に立つ」

 「なんだか汚れているような気がするんですけど」ほこりが何世代も堆積した青い小型のロロの本(註 ジェイコブ・アボットの児童文学)を見てティタニアはためらうようにいった。「ちり払いしてもかまいません?」

 「古本業では前代未聞といっていいだろうが」とロジャーがいった。「しかし見てくれはよくなるかもしれないな」

 ティタニアは店のなかへ駆け込み、ヘレンからはたきを借りると、汚い箱を掃除しはじめた。そのあいだロジャーは機嫌よくおしゃべりをつづけた。すでに新体制への変化に気がついていたボックは、会話にくわわっているかのように戸口の上がり段にうずくまっていた。朝のギッシング通りを歩く人々は本屋の愛くるしい助手はいったいだれなのだろうといぶかった。「あんなメイドさんがいたらいいわねえ」ブルックリンのある裕福な主婦は市場に行く道すがらそう考えた。「そのうち電話してお給料がいくらなのか聞いてみましょう」

 ロジャーはティタニアがほこりをはたいているあいだに両腕いっぱいの本を持ち出してきた。

 「きみが手伝いに来てくれて非常にありがたい。その理由の一つは外出の機会がふえるからだよ。今までは店に縛りつけられて本探しに出かけたり、蔵書を買いあげたり、競売に出されたコレクションに入札したり、そんなことをするひまがなかった。今在庫がすこし減ってきている。売りに来るのを待っているだけではほんとうにいい本はあまり入らないんだ」

 ティタニアは「故ナル夫人」のほこりをぬぐっていた。「こんなにたくさんの本が読めたらきっとすてきでしょうね。わたしはあんまり本は読まないんだけど、すくなくとも父から良書を大切にすることは教わりました。父は、遊びにきたわたしの友達に、どんな本を読んでいるかと聞いて、『いとしいメイブルへ』しか知らない様子だと、ものすごく怒りだすの」

 ロジャーは静かに笑った。「客がまじめな顔をしてこういったことがある。『イーリアス』も『アーゴジー』もどっちも好きだって。わたしのこともそんなただの知ったかぶりと思わないでくださいよ。わたしが一つだけ我慢できないのは要りもせぬのにわざとバニラの味つけをした文学だ。お菓子の味はじきにうんざりする。それがマルクス・アウレリウスであろうがクレイン博士であろうが関係ない。ときどき不思議に思うんだが、クレイン博士のいうことは、正しさの点でベーコン卿のいうことにこれっぽっちも引けを取らない。なのにどうして博士の文章は一節を読んだだけで眠くなり、卿のエッセイなら一晩じゅう起きていられるのだろう?」

 ティタニアはいずれの哲学者にもなじみがなかったため、自分がくわしく知っている話題に固執するという女性特有の話し方にしたがった。鈍い男はこうした習癖を見て女には筋の通った話ができないといったりするが、それはまちがっている。女性的な知性はバッタのように飛躍するのであり、男性のそれは蟻のようにこつこつと進むのである。

 「新しいメイブルの本が出るんですって。『おれらしいよな、メイブル』っていう題で、オクタゴンの新聞売り場の人は千冊売れるだろうっていっているわ」

 「ふむ、そうしたことにはなにかしら意味があるな」とロジャーがいった。「人は娯楽を求めるし、そのことじたいはけっして非難されるべきではないと思う。わたしは残念ながら『いとしいメイブルへ』を読んだことがないが、ほんとうに愉快なものなら、人々がそれを読むことは喜ばしいことだ。だがあまりたいした本ではないのじゃないかな。フィラデルフィアの女学生が『いとしいビルへ』という返事の手紙を書いて、それが原作に劣らない出来だというからね。フィラデルフィアのフラッパーがベーコンの『随想集』にたいして印象深い姉妹編が書けるとは到底思えないが。しかしそんなことはどうでもいい。作品がおもしろいなら、それなりの価値があるということだ。考えてみれば、罪のない気晴らしを求める人間の欲望というのは悲しいものだ。人生がかくも絶望的で不快なものになったということを示しているのだから。わたしが知るいちばん魅力的なものの一つは、土曜日のマチネーの劇場を包む期待と敬愛に満ちた、息をのむような静けさだよ。劇場内は暗くなり、フットライトが幕の裾を燃え立つように照らし、遅れてきた人たちが座っている人の足をまたいで自分の席にもぐり込む——」